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らしく。
作:五十崎由記



31.ゆびきり


どのくらいそうしていただろうか。

わからないけれど、目に見えない何かから啓二は身を守っているようだった。

首をよじり、彼を見詰める。

途端、ボサボサの髪に頬をくすぐられ、今日子はこそばゆさに目を細めた。

ふわりと独特の臭いが鼻をつく。整髪料と汗の混じった、啓二の臭いだ。

啓二が息をしている。

その繰り返される呼吸が、今日子の肩を湿らせている。

圧し掛かった身体はやっぱり重く、今日子は身動きさえ満足にとれないでいた。

けれど。

こんな風に思うのはおかしなことかもしれないが、今日子は、啓二を大きな子供のように捉えていた。

子供をあやしている、そんな気分だった。



「ケージ、何か嫌なことがあった?」

今日子の肩におでこを擦りつけ、啓二は首を横に振った。そして大きく息をつき、

「長くやっていた仕事が終わったんだ」

と言う。

それきりまた黙り込み、身じろぎもしない。

――仕事。

短期アルバイトの経験しかもたない今日子には、啓二が抱え込んだ仕事のストレスなんてまったく想像もつかなかった。

けれど、とにかく啓二は癒しを求めている。

しかも、癒し系的要素などひとつもない、自分に対して。

それはとても甘く、痺れるような感情を今日子の胸に芽生えさせた。

母性本能とでもいうのだろうか。ただ、頼られたことがうれしかった。



止まっていたエアコンのファンが、沈むような音をたてて回り始めた。一瞬だけ、部屋の灯りが薄暗くなる。

覆い被さる啓二のうなじを、蛍光灯の灯りが照らしている。汗が滲んでいるのか、生え際がきらりと光っていた。

今日子は背中にまわしていた手を伸ばして、彼のボサボサの髪を撫でた。

小さな子供をあやすように。或いは、褒め称えるように。

「よく頑張りました。ケージは偉い子」

そう口にした途端、啓二が瞬きをしたのがわかった。首筋を、彼のまつ毛が軽く掠っている。

「今日子、いつになく優しいな」

肩口に、くぐもった声。カットソーの繊維を縫って、啓二の吐息が肌に沁みこんできた。

ふと、圧し掛かっていた重みが和らいで、啓二が重心を移したのがわかった。

密着していた身体が浮いた瞬間、もたげた顔が傾いて口唇を塞いでくる。

ほんの数秒で離れた口唇は、しっとりと濡れて。奥二重の瞳は、いつもより瞼の線がくっきりと刻まれていた。

――失礼な。いつも優しいのに! 

そう言い返すつもりが、言葉は喉に張り付いたまま出てこなかった。

吸い込まれそうな瞳が、鼻先の擦れあう距離にある。曇りのない眼差しに、今日子は声を奪われていた。

距離が、狭まる。

被さってきた口唇は、今度は深く。無理にこじ開けた隙間から、ガム味の舌が侵入してくる。

啓二の舌先が上顎を掠めた瞬間、ぞくりと震えが背筋を走り抜けた。

汗ばんだ啓二の臭い。

粘りの強い、舌。

息つく暇もないキスに翻弄され、今日子の意識は飛ぶぎりぎりのところを彷徨っていた。

それを急に引き戻す感触が、胸に落ちて。

「ちょっ!」

アブナイ気配を感じ取り、今日子は性急に啓二の頭を引き剥がした。

目だけを下に向けると、胸を、大きな手のひらが包み込んでいる。

「なっ、何してんの?」

訊かなくてもわかりきっているのに、気が動転した今日子はとんちんかんな問いかけを発していた。

鼓動が猛スピードで高鳴り、身体中の毛穴から汗が噴き出ている。

身体の中の何かが、熱をあげて巡っている。

今日子はパッと啓二の手を掴みとり、もう片方の手で乱れたカットソーを元に戻した。

気付かないうちに、胸の上までたくし上げられていたのだ。

啓二はきょとんとした様子で、身づくろいする今日子を見下ろしていた。

けれど、今日子の手首を掴みなおしてきて。

「だって、ホラ。大きくなっちゃったし」

あろうことか、今日子の手を股間へと導いていく。

「いやーーーっ! 変なモン触らせないでよっ」

妙な触感に、バッと手を引っ込めたけれど。

全神経がそこに集中したかのごとく、手のひらに硬い感触が残った。

今日子は手のひらをぎゅっと握り締め、こびり付いた感覚を追いやろうとした。

いまのは事故、何かの間違いだ、と胸の中で何度も繰り返して。

なのに、啓二の方はてんで変わらない素振りで。

「ひでぇ反応だなあ。よく見ると可愛いんだぞー? 見る?」

そう言って、デニムのジッパーに指を掛け、いまにも下ろそうとしている。

「いやーーーっ! 変なモン見せないで! バカっ! このセクハラっ」

あたふたと身をよじり、今日子は這うようにして逃げ出した。

ガンガンと鳴り響く鼓動は一向に治まらず、頬が火照っているのが自分にでもわかる。

啓二はジッパーに掛けた手を身体の横に戻し、少年のような瞳を大きく見開いていた。

呆気にとられたみたいに、ぽかんと口を開けて。

瞬きもせず、見詰めて。

そして訝るような声を、今日子に投げかけてきた。

「――もしかして、お前処女?」

「……」

その質問には答えないで、今日子は啓二を見返していた。息を止めて、ぐっと拳を固めたまま。

カチカチと時を刻む音がやけに大きく感じるのは、互いに牽制しているせいだろうか。

耳をすませば、鼓動の音さえ聞こえそうだった。

「マジで?」

先に沈黙を破ったのは啓二の方だ。

何がおかしいのか、両手を叩き合わせて笑い出し、苦しそうに喘いでいる。

「まだ何も答えてないのに……」

強がりから出た言葉は、けれど中途半端に終わった。

どれほど粋がったところで、処女である事実が覆ることはないのだから。

「今日子、お前最高だな。お陰でブルーな気分が吹っ飛んだ」

啓二は何もかもお見通しだと言わんがばかりに寝転んで、笑いをかみ殺している。

その度に震える背中が、無性に小憎らしくて。今日子は口唇を尖らせて、広い背中を睨みつけていた。

「今日子」

不意に、肘を枕にして啓二がこちらを振り返った。生意気そうな笑顔を顔全体に浮かべたままだ。

「オレはいま、運命を感じたよ。そうかー、処女か」

意味のわからない宣言をする啓二は、上気した頬を更に緩めた。綻んだ口元からは、白い歯を覗かせている。

その冗談めかした言い草は、今日子の不快感を煽った。



何しろ、啓二は6つも年上なのだ。

先ほどの手馴れた様子を振り返ると、そういう経験も数多くあるのだろう。

今日子の知らないところで、知らない誰かと。

そんな啓二から見れば、今日子は奥手すぎるように映るのかもしれない。

けれど、だからと言って笑わなくてもいいじゃないか、と今日子は不貞腐れた声を出した。

「どうせバカにしてるんでしょ?」

つんとすまして顔をそむけると、視界の隅に啓二が起き上がるのが映った。

「違う、ってば。まあ聞けよ」

そう言って啓二は胡坐をかき、今日子の頬を両手で挟んだ。そして覗き込むように目線を合わせ、おでこをくっつけてくる。

「これはきっと、本当に新しいスタートなんだ」

「スタート?」

ぷっと吹き出した啓二の息が、頬にかかった。悪巧みを思いついたみたいに、鼻の頭にしわを寄せている。

まだ茶化すつもりか、と今日子は肩を怒らせた。

けれど、その後に続く啓二の声に、虚を衝かれた。

「まあ、それはいいさ。とりあえずオレは腹を決めたから――、お前も覚悟しろ」

「覚悟って……」

今日子は、思わずごくりと唾を飲み込んでいた。

意味不明ながら、何か重大なことを告げられるような気がしたのだ。

啓二の瞳がゆっくりと閉じられて、再び開いたときには強い光が宿っていた。

固い意志が、そこにはあった。

「もちろん、抱かれる覚悟だ」

「……」

いま返事をしたら、声が上擦ってしまいそうで。

今日子は自分を覗き込む真剣な眼差しに、応えることが出来なかった。

けれど。

「明日まで待ってやる。――いいな?」


啓二は曖昧な態度を許さないのか、返答を迫って。真っ直ぐな、澱みのない視線を真正面からぶつけてくる。

「じゃ、じゃあ」

予感通り上擦った声を、今日子は軽く咳払いをして誤魔化した。

本当は、逃げ出したいほど胸が高鳴っていた。

「じゃあ、ケージ。あたしがそれしたら、もう他の人としないって約束する?」

啓二が求めた答えはイエスかノーの二択だったのに、気が付けば今日子は、問いかけに問いかけで答えていた。

わかっている。

それはきっと、啓二の過去への不快感が口走らせたのだ。

バカなことを言っている、とすぐに思い直し、今日子は口唇を噛み締めた。

見えない過去に、ヤキモチを焼く。

そんな独占欲が自分の中にあることを、白日の下にさらしてしまったのが恥ずかしかった。

けれど。

「いいよ。その代わりお前が浮気したら、ロープでぐるぐる巻きにして海に放り込むよ? 言っておくが、オレ様の半端ない独占欲を舐めるなよ?」

彼は今日子の子供じみたヤキモチを笑うでもなく、挑戦的な眼差しを向けてきて。

今日子はふっと胸が軽くなった気がして、ふたりの鼻先に小指を突き出した。

「いいよ? じゃあ約束ね?」

啓二の視線が、白い指先に留まる。直後、日焼けした小指が絡んできて。

――もし赤い糸というのが本当にあるなら、この指と繋がっていたらいい。

そう祈って、今日子はぎゅっと力を込めた。








  





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