30.途切れた会話
一方その頃、啓二の寮で留守番中の今日子は、携帯を前に心が揺れていた。
ディスプレイに浮かび上がった不在着信の名前。
――不在着信 1件、横山泰
居酒屋で待ち合わせた日以来、はじめてかかってきた泰からの電話。それはマナーモードの壁に阻まれて、さっきまで気付かなかったのだ。
掛け直すべきなのか、指が躊躇う。通話ボタンの上に翳した親指を、僅かに動かした刹那、頭上でちりんと音が鳴った。
カーテンレールには、金魚の風鈴。それがエアコンの風に揺れて、か細い音を響かせている。押してはいけない、と戒めるように。
今日子はため息をひとつ漏らし、ぶら下がった風鈴に目をやった。
胸の奥で、ふたつの意見が激しくせめぎあっている。掛けるべきか、掛けないべきか。謝るべきか、謝らないべきか。
今日子は立ち上がり、金魚の赤い尾ひれに指を添えた。
「掛けてもいい?」
答えてくれるはずはないのだが、それはどこか啓二の化身みたいな気がしたのだ。
今日子の気持ちは、掛ける方に傾いている。それは、今後も泰との縁を繋いでおきたいとか、そういう理由ではなくて。ただ、気をもたせてしまったことだけは、謝っておきたかったのだ。
泰にとっては、今日子と連絡を取らないでいるほうが楽だったろう。
嘘つきだ、と憎むことだって出来たのだから。
その泰が、せっかく歩み寄ってくれたのだ。おまけに、啓二もいない。
いまのうちに掛け直さないと、タイミングを逃せば、二度とムリな気がした。
今日子は携帯を握りなおし、泰のアドレスを画面に出した。そしてえいっと、迷いを振り切るように通話ボタンを押した。
Rrrrrrrr
Rrrrrrrr
Rrrrrrrr
5回だけ。5回鳴らして出なければ切ろう――そう思っていた。
けれど。
『もしもし』
久しぶりに聞く泰の声は、感情の読み取れない抑揚のなさだ。電話の向こう側でどんな表情をしているのか、想像出来ない淡白な声音。
「もしもし……」
繋がりはしたけど、そこから言葉が続かなくて。今日子は棒立ちになったまま、押し黙っていた。
ふと、回線の先で、泰が身じろぎするのがわかった。
『久しぶりだね? 今日子ちゃん』
「うん……」
覚悟を決めて電話を掛けたはずなのに、謝罪の文句ひとつ出てこない。おまけに、泰の方から気をまわされているようだ。
素直に謝って、カレシが出来たと言わなければいけないのに。それだけのことさえ満足に出来ないなんて――と、今日子は自分のふがいなさに顔をしかめた。けれど、一拍呼吸を整えたあと、思い切って口を開いた。
「泰、ゴメンね。本当に」
電波を伝って響くのは、静寂の音だけだ。泰は何も返さないまま、聞いているのかどうかさえわからない。
今日子は携帯を耳に押し当てて、泰の返事を待ち続けていた。ぶん、とエアコンのファンが回る音が響いて、その拍子に、電話の向こう側で泰が深いため息をついた。
そして。
『そのゴメンはさー、合コンの人は何でもないって嘘ついた件についてのゴメンだと受け取っとくよ!』
泰が、やっと怒った。でも、その声は、わざと不機嫌なふりをしているふうにしか聞こえなくて。その声を聞いた途端、今日子は逆に気持ちが楽になるのを感じていた。
「いっぱい謝らなきゃだね、あたし。ホントにゴメン」
不思議なものだ。
一度会話が続くと、その後はいくらでも言葉が出てくるようで。今日子は何度もゴメンと繰り返しては、目の前にいるわけでもない泰に向かって、頭まで下げていた。
『もういいよっ! 俺決めたんだー。今後は今日子ちゃんが早く別れることを祈りながら、つかず離れずの距離をキープしつつ、他の可愛い子を物色すんのー』
そう早口でまくしたてると、泰は小さく笑った。
泰一流の、気遣いから零れる笑い声だった。
その後会話はお互いの近況へと移り、やがて啓二の話になった。
さすがに彼のことについては詳しく話す気にならず、合コンで知り合ったことを除けば、今日子は自分からは口にしないでいた。
『何だ、うまくいってんだ?』『あのうざい野郎と』『ふーん』
泰はそんな調子で、意識的に悪ぶった口調のまま話を続けていた。けれど、その後急に会話のペースが落ちて、何か考えるような間をおきはじめた。
元々が話の語り手になるタチじゃない今日子は、泰が黙ると、自分も黙るしかなくて。何か言いよどんでいる泰の気配に、耳をすましていた。
『あのさー』
泰がやっとつぎの言葉を発したとき、もうひとつ別の音を今日子の鼓膜は拾っていた。
階段を踏みしめる足音が近づいてくる。啓二の気配だ。
『あのさ……俺ちょっと不思議に思ってることがあるんだけど。あいつ、今日子ちゃんの歳知ってるの?』
躊躇うような泰の声は、気が動転した今日子の耳に届きはしなかった。
「ゴメン! もう切らなきゃ。マジでゴメンね、また掛ける」
早く切らないと、また啓二に怒られてしまう。
今日子はすぐそこまで迫った足音に急かされて、上から被せるように告げると、泰の返事も待たないまま通話を切った。そして電源を落としたとき、玄関の鍵が開けられた。
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ドアから姿を現した啓二は、出掛けたときと、どこか様子が違うように見えた。表情には陰が落ち、いつもの陽気な笑顔はどこにも見出せなかった。
「おかえり、ケージ」
玄関先まで出迎えた今日子の脇を素通りして、啓二は部屋へ入っていく。その後ろをついて行きながら、今日子は、泰との電話を勘付かれたのではと不安になった。
先に謝ろうかとも思うが、もし疲れているだけだったら、と思うと踏ん切りがつかず、今日子は啓二の機嫌を伺うようにちらちらと視線を投げかけるだけだ。
けれど、あまりにも無言が続いて。いよいよ今日子は腹をくくり、怒鳴られるのを覚悟で口を開いた。
「ケージ?」
瞬間、啓二は夢から醒めたような顔をしてこちらを振り返った。
呼びかけに応じることなく、こちらに歩み寄ってくる。そして目の前で立ち止まると、その場にがっくりと膝をつき、今日子を掻き抱くように腕を回してきた。
「ちょっ、コラ!」
苦しくてもがいたけれど。啓二は肩に顔を埋めたまま、くぐもった声を出して。
「今日子、しばらくこうしてて」
その頼りなげな声に、すべての動きが封じられた。
「おねがい」
しがみついたまま、そう口にする啓二を、今日子は息を殺して見た。
きつく眉根を寄せて、何かに耐えるような顔。そこには、見慣れた啓二の怖いもの知らずな強さは、微塵も感じられない。
尋常じゃないその様子に、今日子は無意識に啓二を抱き寄せていた。背中に腕を回して、なだめるように擦って。
それが安らぎを与えたのか、啓二は体重を預け、一層無防備に身体を委ねてきた。やがてその体重を今日子が支えきれなくなり、ふたりは床の上に倒れこんだ。
床に転がった後も、啓二は今日子にしがみついたまま、ぴくりとも動かなかった。奥二重の瞼をぎゅっと閉じて、口元を引き結んで。
天井の蛍光灯が、上に乗る啓二を白く照らしている。呼吸のたびに上下する肩や、大きな背中を。
テレビの上の時計が、カチカチと規則正しい音を響かせている。その音と、ふたりの穏やかな息づかいだけが、今日子の耳に届いていた。
ふと、首をよじって頭上を見上げた。青いカーテンのひだの合間に、赤い金魚が泳いでいた。
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