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らしく。
作:五十崎由記



29.舞子と啓二



椎名舞子はコンパクトミラーを覗き込んでいた。
 
荒れのない口唇に引いた鮮やかなピンクは、かつて4年間つき合った彼が買ってくれた色だ。
 
8月も盆に入った今日、舞子は以前から決められていた見合いに、朝から松山市まで出向いていた。
 
舞子の家は3代続く地方政治家の家系で、父の健三は現職の県議会議員だ。
 
その父の知人が持ってきた見合いの相手は、地元ではそこそこ名の知れた某建設会社の若社長で。道後の老舗ホテルで、両親も同伴の顔合わせがあったのだ。
 
見合いとは名目上のことで、談合にまつわる利権の話が主だ。見合いの件は顔を合わせる前から、特別な理由なしでは双方断らないと話がついていた。
 
しかし舞子は、その7つ年上の男と席を同じくする時間が長ければ長いほど、2ヶ月前に別れを告げた元恋人に会いたい気持ちがつのって。予定時間が終了した途端、はやる気持ちを抑えて八幡浜まで戻ってきたのだ。
 
 
舞子は、親から押し付けられた見合い相手に会って初めて後悔していた。
 
いくらその人の身なりが立派だったとしても、知らない男と結婚の約束をするのが、これほどむなしいとは思いもよらなかったのだ。
 
いまの微妙な気持ちの揺らぎを、啓二に聞いてほしい。そして出来ることなら、なかったことにしたい。
 
浅はかだとは重々承知しているが、この気持ちを受け止めて欲しい人は、啓二以外に思いつかなかった。

 
元恋人――、啓二との交際は、随分前から両親に反対されていた。それにはいくつか理由があって。
 
彼の複雑な家庭環境や、原子力発電所勤務というリスクの高すぎる職業。そんな彼の身を置く背景が、両親の気に入るところではなかったからだ。
 
そして舞子自身も、それらに対して満足しているわけではなかった。
 
家庭環境は仕方がない。しかし職業の方は、それこそ口が酸っぱくなるほど反対してきた。
 
啓二と別れた直接の原因は両親の反対だったが、彼の職業に対して舞子自身が不満に思っていた点も大きいのだ。
 
けれど。
 
いま思えばそれは軽率だった――と、舞子はコンパクトをバッグにしまった。
 
誰しも、簡単に職を辞せるはずがないのだ。それよりも、もっと建設的な話し合いをするべきだった。
 
もし、いまからでも間に合うのであれば、啓二と前向きな話し合いをしたい。そして、願わくばやり直したい。
 
舞子は化粧室の丸い鏡に映る自分の姿を丹念に眺めた。
 
見合いのために朝から美容室でセットした髪は、まだ美しさを保ったままだ。
 
淡いピンク色のスーツは、オーダーで仕立てた麻の夏らしい装い。ピンクは啓二の好きな色でもある。
 
舞子はもう一度正面から、そして横からの姿をチェックし、薄暗い店内へと戻った。

 
その店はかつてふたりが通ったジャズ喫茶で、別れた場所でもあった。もっぱらジャズを好むのは舞子の方で、啓二はつき合いで来ているようなものだったが。
 
舞子は店の奥――、ふたりが指定席のように座っていたテーブルへと足を運んだ。
 
厚みのあるガラステーブルには、一輪挿しに赤いホウズキが首を垂れている。
 
カウンターから漂うコーヒー豆の香りや、壁に留められた古いレコードのジャケットが、以前と何ら変わらない様子で。
 
それを見るにつけ、舞子はふたりの関係を修復できるような気がしていた。もっと言えば、最初から別れてなどいないような気さえするのだ。

 
2ヶ月前までの啓二は、舞子を深く思ってくれていた。
 
結婚しようと、約束していたくらいだ。別れを切り出したときは大きく目を見開いて、何が起きたのかわからないという風だったのだから。
 
あれから、まだ2ヶ月。啓二の気持ちはまだ残っているはずだ――と、舞子は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。

 ◇

カランと音が鳴って。ドアに吊るされた鈴が来客を告げていた。薄暗いカウンターの脇から、ひょっこりと懐かしい顔が覗いて。

「啓二!」
 
舞子は飛び上がりそうなほどの嬉しい気持ちに、文字通り立ち上がっていた。
 
啓二は顔なじみのマスターと一言二言交わした後、舞子の待つテーブルへと真っ直ぐに歩み寄ってきた。

「久しぶりだな」
 
そう言ってどっかりと腰を下ろし、タバコを咥えている。そんな動作が妙に懐かしく、舞子は胸を締め付けられるような思いだった。

「なんだよ? お前、立ち上がっちゃって」

「え? ああ、そうね」
 
言葉尻を上げる癖も、軽い言い回しも、何一つ変わらない。2ヶ月前と同じ啓二だ。
 
彼はタバコの煙が沁みたのか、眩しそうに目を細めて舞子を見ていた。

「で? 話って何だよ」
 
啓二の様子がおかしい。最初にそう思ったのはこの時だ。

「随分と急かすのね? 久しぶりに会ったのに、喜んでくれないの?」
 
啓二はアイスコーヒーにシロップを垂らし「人を待たせてるんだ」と言った。その口調も、どこかそっけなくて。
 
舞子は、正面に座る啓二の表情をじっと見守った。
 
啓二は意識的にか、それともたまたまなのか、顔を合わせてから一度も表情を崩していない。共に過ごした4年間が、笑顔の絶えない人だっただけに、いまの硬さが舞子を不安にさせていた。

 
舞子は小さくため息をつくと、口角を上げてえくぼを作った。

「そう、ごめんなさいね? 急に呼びつけて」
 
そう口にすると、啓二の瞳を窺った。

 
この台詞は、賭けだ。それはふたりにしかわからない暗黙のルールで。
 
舞子がその台詞を出せば、啓二はいつも『姫のためならたとえ火の中水の中』と答えていたのだ。
 
啓二の答え方次第で、あらかた彼の気持ちが読み取れるはず。つい先ほど感じた違和感など、その一言で吹き飛ぶはずなのだ。
 
――お願い、言って。舞子は膝の上で両手を組み、力を込めた。
 
――お願い、啓二。そして祈るような思いで、次の言葉を待った。
 
けれど。

「いえいえ、どういたしまして」
 
啓二は、細く煙を吐き出しながらそう言った。長い指で、灰皿にタバコを押し付けて。
 
陶器の黒い灰皿から、消え残りの煙が青くのぼっている。その煙の向こうに、じっとこちらを見据える啓二の眼差しがあった。
 
テーブルに腕を載せた途端、啓二の腕時計がカツンと音を鳴らした。
 
その音が、激しい焦燥感をかきたてた。
 
いま、舞子は拒絶されたのだ。きっぱりと、どこにも迷いの感じられない声で。それは思ってもいない躊躇の無さで。
 
撥ねつけられた苦しさと、それを見透かされたくない意地とで、舞子の心は悲鳴をあげていた。
 
こうして平静を装っていられるのは、持ち前のプライドの高さからに他ならないのだ。
 
とにかく何か口にしないといけない。――そんな想いで、舞子は当たり障りのない言葉を手繰り寄せていた。
 
けれど、焦れば焦るほどうまい文句が見付からなくて。

「わたしね、今日お見合いだったのよ? お相手はA建設の若社長だったの。素敵でしょ?」
 
負け犬の遠吠えだとわかっていながら、つぎからつぎへと、心にもない言葉ばかりが口をついて出た。

「いい方でね、『お仕事は貴方の好きにされていいですよ』って言って下さったの」
 
こんなはずではないのに。止めて欲しいのに。留まるところをしらない勢いで溢れ出て。舞子はむなしさに心が打ち震えていた。
 
啓二は適当な相槌を打つばかりで、まるきり世間話の聞き役に徹していた。そんな態度が、余計に舞子を惨めな気分にさせるのだ。

 
舞子は気を落ち着けるべくコーヒーに口を付け、ゆっくりとそれを飲み下した。
 
このままではいけない。こんなことでは、伝えたかったことを何一つ伝えられないままに終わってしまう。
 
舞子は指先が白くなるほど両手を強く握り締め、自分に言い聞かせた。
 
渋る啓二をここまで呼び出したのは、見合い相手の自慢話をするためではなかったはずだ。

それに。
 
啓二が拒絶したのは、本意ではないかもしれない。舞子の遠まわしな揺さぶりに、腹を立てた可能性だってあるのだ。
 
ヨリを戻したい。そう伝えなければ――と、舞子は口を開きかけた。
 
けれど。

「舞子が幸せそうで良かった」
 
ずっと聞き役に回っていた啓二が、この店に来て初めての笑顔を見せた。

「オレも最近やっと運が巡ってきた感じだ。久々に楽しい毎日を送ってるよ」
 
啓二はそう言うと、両腕を高く突き上げ、気だるそうに伸びをした。緩んだままの頬が、強がりではないことを物語っているようで。舞子は声にしかけた一言を飲み込むと、代わりの言葉を口に出した。

「そう……」
 
最初に感じた違和感は、気のせいではなかったのだ。
 
舞子は、否定してくれたらいいと願いながら、胸にわいた疑念を問いかけた。

「彼女できたの?」

「うん」
 
啓二は、拍子抜けするほどあっけなく頷いて。「ガキみたいな子だけどね。でも楽しいんだ」と付け加えた。
 
覚悟はしていたつもりだった。けれど舞子は、頭から血の引いていく感覚に、軽いめまいを覚えた。
 
胸にぽっかり穴が空く――とはよく言ったものだ。舞子の気持ちは、いままさにその状態で。さっきまでめまぐるしく働いていた脳が、急に活動を止めたみたいに、何も考えられなくなってしまった。


「舞子の話は、つまり結婚するってことだよな?」

啓二は事も無げにそう言うと、ガムを口に放り込んでいた。

「ええ」
 
気位の高い舞子には、それ以上の言葉が見当たらなくて。続けて、皮肉を込めて問いかけた。

「啓二は結婚しないの? 結婚願望強かったじゃない」

「うーん」
 
啓二は首の後ろを撫でながら、何か考える素振りを見せていて。

かつて舞子が愛した彼の動作のひとつひとつが、いまは彼女を傷つけていた。
 
彼の中では、舞子のことは完全に終わっているのだ、と。
 
他の女との結婚すら考えているのだ――と、思い知らされるようだった。

「結婚ねえ。まあ憧れるけど、でもカノジョ20歳だからなあ」
 
そして大きなため息をついた啓二は、ふと思い出したように言った。

「そうだ舞子。お前、オレんちのスペアキー持ったままじゃない? あれ持ってたら返して欲しいんだけどさ」
 
舞子は、胸の内で苦虫を噛み潰した。
 
返せばきっと、新しい女に渡すのだ。そう考えると癪に障り、バッグの中に入れたままのスペアキーを、到底返す気になどなれなかった。

「ああ、ごめんなさいね。いま持っていないの」

「じゃあ今度、郵送でいいからよろしく!」
 
そう切り返すと啓二は立ち上がり、真っ直ぐにこちらを見下ろしてきた。
 
舞子の好きだった眼差しで。愛していた微笑を浮かべて。

「舞子、しあわせになれよ」
 
返事をしようとした声は、声にならないまま終わって。舞子が言葉をなくしているうちに、啓二の足音は遠ざかっていった。
 
躊躇わないまま店を出て行くつもりなのか。一度も振り返ってはくれないのか。
 
足音は、舞子の期待に反して乱れることはなくて。やがてドアの鈴が鳴るのと共に、啓二の気配は完全に消え失せた。

 
別れ話をした日から2ヶ月。いまふたりの立場は、まるきり逆だった。
 
飲みかけのアイスコーヒーが、コースターに水溜りを作っている。その冷たさの残滓を睨み、舞子は口唇を噛み締めた。









  





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