26.風鈴 1
見上げる空は目が痛くなるほど青く、吹き付けてくる海風はドライヤーの熱風のごとく生ぬるい。
ジリジリと焼け付く太陽が焦がしたアスファルトの先には蜃気楼が立ちのぼり、日傘をさした女性の足元を歪ませている。
居酒屋で大喧嘩をしたあの夜から、4日目。今日子はいま、啓二との約束の場所へ向かっているところだ。
啓二の長い盆休みも手伝って、 この数日の間にふたりは急速に距離を縮めていた。
少年のような瞳をキラキラと輝かせながら、啓二は連日、海へ行こう、釣りをしよう、と計画を立てる。そんな計画につき合わされているうちに、彼の好みや口癖、ちょっとした仕草が今日子にもわかるようになっていた。
ビールはアサヒのスーパードライじゃないと飲まないとか、タバコはマルボロのメンソールだとか。
粒タイプのガムが好きで、味がなくなればそこに新しいのを追加して、古いのを吐き出さないとか。
仕事の話をするときはひどく真面目な顔つきになって、自分のことを ワタシ と呼ぶこととか。
他人にとってはどうでもいいことなのだが、今日子にとってはそんな一つ一つがとても大切で。彼女は新たな発見をするたびにうれしくて、それを指でなぞるようにして覚えていった。
そんな幸せな日常の中でも、ふとした瞬間に思い出しては苦い気持ちになる火種が、今日子の胸の内にはくすぶっていた。
泰のことだ。
廊下で、教室で、いつも携帯片手に今日子を待っていた立ち姿。
近寄ればニッと笑って、「今日子ちゃーん」と呼ぶ声。
居酒屋で待ち合わせたあの日。今日子が泣き止んだときには、泰の姿はどこにも見られなくなっていた。
悪気はなかったにしても、さんざん気を持たせていたのは事実なのだ。おまけに、もっとも最低な形で振ることになって。
気持ちには応えられないけれど、謝りたい。
けれど今更、こちらから連絡をとるのも気が引ける。
日が経てば経つほど連絡をとりづらくなるのはわかっているのだが、ああでもないこうでもないと足踏みを続けているのが今日子の実情だった。
「おーい、今日子ー!」
鬱々とした気分で歩いているうちに、どうやら約束の場所は目前にさしかかっていたらしい。今日子は自分を呼ぶ大好きな声に気付いて顔をあげた。
海岸沿いの道。その防波堤脇に停めた車の前で、啓二が手を挙げている。
彼は両腕を広げ『ホラ、来いっ!』というポーズで、走り寄ることを遠まわしに催促していた。
啓二は、いつもこうだ。
彼の好きな映画の中に、男が主人公の胴を持ち上げて、くるっと一回転するシーンがある。
彼はそのシーンを再現するのが好きで、人目を憚らず今日子に要求してくるのだった。
今日子は自分にしか聞こえない声でしようがないなあと呟き、そこから助走をつけ、スタンバイOKな彼の腕目掛けて飛び込んだ。
瞬間、ぐっと持ち上げられた身体がふわりと舞った。
今日子は啓二の肩に両手をつき、眩しそうな瞳でこちらを見上げる彼に笑いかけた。
「よしっ、着地ー!」
童顔の彼は、Tシャツとデニム姿になればまるっきり若返ってしまう。それは本人の最も気にしているところらしいので、口にはしないけれど。今日子は車体に映ったふたりの姿を眺めては、その違和感のなさにホッと胸を撫で下ろしていた。
啓二は知らないけれど、今日子の年齢は17歳。その嘘を、今日子は夏休みの間だけつき通すつもりでいるのだ。
他人の都合で嘘をつかなくてはならないのも骨なのだが、それもこれも、派遣のバイトに勤しんでいる里美のため。
多少は良心が咎めるし、意地悪な啓二にガキ扱いをされる度に本当のことを口走りそうにもなるのだが。
けれど、隠し通すことを里美から頼まれているし、啓二の人間性の問題もある。
仕事に対して真面目な啓二の言動を見るにつけ、とりあえず8月中はカミングアウトを避けたほうが無難だと、今日子も思うようになっていた。
それに、たかが年齢だ。17歳だろうが、20歳だろうが、ふたりが恋人同士な事実は変わらないのだから。
「今日子? 乗ってー」
ふと顔をあげると、啓二はすでに運転席におり、窓から首を出して今日子を急かしていた。
「ああ、うん」
すっかり今日子専用になった助手席は、車体の高さゆえに乗り込むのも一苦労だ。差し伸べられた手に掴まって引き上げられた途端、啓二は待ちかねたように口唇をあわせてきた。
これも毎度のことになっているのだが、彼は顔をあわせた端からキスをねだる。
お陰でせっかくグロスを塗ってきても、すぐに舐めとられてしまうのが常だ。
啓二は丹念に舌を這わせ、やがて中に入りたそうに今日子の歯をノックした。
「あけて」
隙間から割り込んでくる舌は器用に今日子の舌を絡めとリ、表面を擦り合わせてきて。そして交わる唾液は彼の好きなガムのせいで、やたらと甘い。
「ハイ、おしまい」
「もう、また! あたしの口はゴミ箱じゃないっていつも言ってるじゃん」
口唇を離す間際に、噛み終わったガムを押し込んでくるのもいつものことだ。
「うれしいくせにー?」
「うれしくないってば」
「またまたあ」
啓二は鼻の頭に皺を寄せて笑うと、頭に掛けていたブルーのサングラスを目元に下ろした。
◇
車を走らせながら啓二はカーナビをセットしていた。
市街を抜けて30分あまり。行きかう車の数もまばらな国道を、車はゆっくりと西に進んでいる。
両サイドには青々と伸びた稲が、まだ収穫には早い首を重そうに垂らしている。所々鳥避けの目玉がぶら下がり、風に大きく揺らいでいた。
カーナビが、目的地の近いことを知らせていた。ディスプレイの右端に、赤色で大きく『ガラス工芸館』と表示している。
「……ガラス買いに行くの?」
「まあ、そんなとこー」
横顔だけでそう言った啓二は、「それはそうと」と、違う話題を切り出してきた。
「今日子さー、オレ明日親に会いに行くけどお前どうする?」
思いもよらない話を、当たり前のように口にした啓二の声に、今日子は飲んでいたジュースを吹きだしそうになった。
まるでコントだ。けれど、笑っていられないほど心臓が高鳴っていた。
啓二は、どういうつもりなのだろうか。
どう考えてもそれは、親に会うか、と訊いているような気がして。今日子はそわそわと落ち着かない気持ちで、啓二の横顔を見守っていた。
けれど、ハンドルを握ったままうんともすんとも言わなくて。今日子は堪りかねて口を開いた。
「親に会えってこと? それなら絶対無理だからね。無理無理無理無理急すぎる」
突っぱねる口調になったのは、内心の焦りが隠せなかったせいだ。
「何が急なわけ?」
案の定気分を害したのか、啓二は口元を歪ませ、不満げな様子だ。
どうして、こんな簡単なことがわからないのだろう。啓二は6つも年上なのに――と、今日子はため息をつかずにおれなかった。
1週間後とか1ヵ月後なんて話ではなく、啓二は明日だ、と言う。それでは準備期間が短すぎるために、ボロを取り繕う暇がないのだ。
今日子は、自分が年配の人から気に入られないことを、十分承知していた。
派手な身なりに、明るく染めた髪。言葉遣いだって、丁寧に話したつもりでも、きっと粗相をするに違いない。
好きな人の親に会うのであれば、それなりの準備を整えてからでないと、とても会えそうになんてないのだ。出来ることなら、嫌われたくはないのだから。
今日子は不機嫌そうな啓二に、同じく不機嫌な態度で応えた。
「だからね、あたしだってケージのご両親に会いたくないわけじゃないけど。髪の毛黒くしたりだとか、そういう準備なしではとても会えないの! いまのままじゃ、嫌われるために行くようなもんじゃん」
途端。
「あーウケる。ガキの服装検査みたいだなー」
啓二は大声で笑い始めて。さも可笑しそうに肩を揺すっている。
そのバカにしたような大笑いに、今日子はむっと口を尖らせた。
「何よ! 何がおかしいの!?」
「今日子お前、その場限りのいい子ちゃんを演じるつもりなのかー?」
その通りだ。その通りではあるのだが、それが世間の常識というものだと今日子は信じていた。
「当たり前じゃん。あのね、どこの世界にチャラチャラした身なりで親に会う人がいるのさ! ケージの方こそガキなんだってば」
絶対に間違えてなどいない。もう一言きつく叱ってやろう――と、今日子が拳をかためたとき。
「へえ? まあ心配いらねえよ。うちの親、ってか父親だけど。もう死んでるから」
淡々と語る啓二の声に、気が付けば今日子は、尖らせていた口をぽかんと開けていた。
「母親はもう再婚して新しい家庭を築いているから、会いには行けない。つまり墓参りだなあ」
正直なところ、啓二の告白は今日子にとって意外だった。
親が離婚した子は、いままで何人か見たことがあるし、今日子自身もそのうちのひとりだ。
特別珍しい話ではないにしても、そういう環境に育った子には、ある一定の雰囲気があって。口には出さなくても、滲み出ている気がする。
けれど、啓二が纏っている空気はひどく明るくて。その性格からは、恵まれた環境に育った者がもつ匂いすら感じ取れるのだ。
「お、お母さんはいつ再婚されたの?」
おずおずと問いかけると、啓二がちらっとこちらを向いた。サングラスの奥の瞳はよく見えないけれど、口元は薄っすらと笑みを含んでいる。
「オレのことを深く知りたくなってきたんだろー?」
「んもう。茶化すならもういい」
「そう怒るなって。――母親が再婚したのはオレが中学3年生のとき。で、新居浜の高専ってわかる?」
わからなくて首を振ると、啓二はその気配を察したのか、前を向いたままで話を進めた。
「5年間行く高校――というか、高校と短大がセットになった学校に進学したわけ。もちろんひとり暮らしでね。だから実質母親とは、中学卒業以来別世帯」
「そうなんだ……」
カーナビが、目的地の到着を告げていた。
行けども行けども水田ばかりが広がっていた国道の脇に、ガラス工芸館の大きな看板が見えていた。
本当はもっと身の上話を聞いていたかったのだが、どうやらこれで切り上げのようだ。車はウインカーを右に出し、がらんとした駐車場に乗り込んでいる。
今日子はひとつ大きな息をつくと、シートベルトを外しにかかった。また、話の続きを聞かせてもらえる日が来るだろう――と、残念な気持ちを飲み込んで。
すると。
「で、どうすんの明日。行く? 行かない?」
急に啓二が、本題を蒸し返してきて。
「え? ああ、どっちでもいいよ。ケージが淋しいなら一緒に行ってあげようかな?」
すっかり墓参りのことを忘れていた今日子は、それにつき合うだけという気安さも手伝って、茶化すような口ぶりで言った。
きっとムキになって反論してくるはず――そう予想して身構えていたのだが、啓二には効果が無かったらしい。
「じゃ、決まりだな。明日は墓参り」
サングラスを上げた啓二はことのほか上機嫌で。鼻歌混じりにドアを開け、車の外へ飛び降りると、気持ち良さそうに伸びをしている。
今日子は少々腑に落ちないながらも、後に続くべく駐車場へと降り立った。
明日は墓参り。
丁度お盆の時期だ。今日子にしてみれば異論などあるはずもなく、地味なデートに行くくらいのつもりでいた。
けれど。
「お線香買わなきゃね」 「一泊だけどなっ!」
タイミングよく、声が重なって。
今日子は鼓膜が拾った不穏な言葉を、即座に訊き直した。
「え?」
蒸すような暑さの駐車場。一歩前を行く啓二が立ち止まり、両手をポケットに突っ込んだままで振り返った。
きらりと、頭の上に掛けたサングラスが午後の日差しをはね返して。
眩しさに目を細めた瞬間に、ちゅっと、音をたてて啓二が口唇を奪っていった。
「その時に」
啓二は口の片側を上げた笑い顔で、けれど、挑むような眼差しを向けていた。
「オレのことは深ーーーっく、教えてやるよ!」
南風が、熱を孕んでいる。
温く、強く、今日子の髪をなびかせて。
けれど今日子には、急上昇していく自分の体温こそが、風を温めているような気がしていた。
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