らしく。(25/36)縦書き表示RDF


らしく。
作:五十崎由記



25.夜の公園



居酒屋の通路で派手な痴話喧嘩を披露したふたりは、じきにやってきた店員に苦情を申し立てられることとなった。
 
取り囲んでいたはずのギャラリーたちは、気を利かせたのか、それともバカバカしくなったのか、いつの間にやら消え失せている。
 
完全に取り残されたらしい居酒屋を出ると、啓二は今日子の手を引いて、合コンの夜に通りがかった公園へと足を踏み入れた。
 
ペンキの剥げたジャングルジムがひっそりと佇む夜の公園は、寂れた印象で人気もない。
 
顔を上げると、夜空に浮かぶ丸い月が目に入った。その脇の水銀灯には夏の虫たちが吸い寄せられ、飛び交っている。
 
昨日の雨に洗われた木々の葉は、月と水銀灯の光を受けて、夜なのにくっきりとした緑色の輪郭を浮かび上がらせていた。


「ここに座ってて」

丸太を組んだようなベンチに今日子を座らせると、啓二は砂場の傍にボウっと立つコーラの自販機へ、ひとり向かった。
 
けれど。
 
小銭を投入したあとになって、指が止まった。よく考えてみると、今日子のことを自分は何も知らないのだ。
 
彼女は何が好きで、何が嫌いなのだろう。たったそれだけのことですら、わからない。
 
なのに、大勢の見ている前であんな大喧嘩をするなんて――と、啓二には先ほどまでの自分が可笑しく思えてきた。
 
悩んだ挙句、無難にオレンジジュースのボタンを押す。
 
鈍い音と共に落ちてきた缶を拾いあげ、啓二はベンチの今日子を振り返った。

 
彼女は、月を見上げているようだった。
 
小さな頭。そして長い髪をまとめているせいか、今日は首の細さが目立つ。
 
水銀灯の仄かな灯りに照らされた彼女は、顔も、喉も、むき出しになった肩のラインも、そのすべてが不健康なほどに白く見えた。
 
啓二は、今日子の顔から胸元へと視線をずらした。
 
細いストラップに吊るされたキャミソールは、鎖骨の下まで広くあいている。前屈みになれば、きっと胸の谷間まで見えてしまうだろう。
 
ぴったりと身体の線に沿って張り付いた生地は、胸の下あたりで皺を作り、その上にある膨らみの重さを物語っている。

 
そんな様子を見るにつけ、啓二はまた怒りがこみあげてきた。
 
何故、今日子の服装にまで腹が立つのか。答えはいたってシンプルで。
 
啓二はその気持ちの理由に、とっくに気付いている。
 
今日子のことを、好きになってしまったからだ。好きだから、あのような薄着で知らない男とシートに座る姿を目にしたときは、不愉快極まりなかった。
 
それにしても、この厄介な感情はいつからなのか――と、啓二は記憶の糸を手繰り寄せた。
 
他の男と電話で話す今日子を見たときからか。
 
それとも、ボート小屋で彼女が泣き出したときか。
 
花火大会や、合コンの帰り道はどうだったか。

 
やがて、ベンチで待つ今日子がこちらに視線を移したのをきっかけに、啓二は考えるのをやめた。
 
考えても仕方のないことだ、いまとなっては。
 
確かなことは、もう引き返せないところまで、気持ちが高まっているということだけなのだから。


「ほら、飲めよ」
 
缶を差し出すと、今日子は大人しくそれを受け取っていた。なのに、啓二が隣に腰を下ろした途端、間をあけるかのごとく隅に身体をずらした。
 
いまは缶を両手で握ったまま、俯き、黙りこんだままだ。ぱっと見た感じでは、起きているのか寝ているのかすらわからない。
 
伏せたまつ毛が時折瞬いているのだから、起きてはいるのだろう。
 
それにしても、つい先ごろまで啓二の胸に縋りつき、泣きじゃくっていたとは思えないほどの他人行儀っぷりである。

 
無言作戦を決め込んだふうの今日子に、啓二はいささか困っていた。
 
啓二の方も、実のところ女扱いに長けているわけではないのだ。
 
しかし、そうも言ってはいられない事情があって。
 
何しろ、昨日は喧嘩別れをしているふたりだ。未だに互いの連絡先すら交換していない間柄なわけで。

今日こそは関係を進展させなければならなかった。

 
啓二は考えあぐねた挙句、今日子の気性を利用してみてはどうか、と閃いた。
 
頑張ったところで、新垣のように上手い口説き文句を出せるわけではないのだ。それならいっそ、今日子を怒らせて、こちらを向かせる方が簡単に思えた。

「――もう一度言うけどな」

啓二はそこで一旦切ると、残りの文句を一気に吐き出すべく、息を吸い込んだ。

「オレは男にだらしない女は大嫌いだ。よーく、覚えとけよ? それと、男に会うときは薄着をするな。それと、お前せっかく生意気に生まれついたんだから、触られたら大声を出してでも反抗しろ。やられっぱなしになってんじゃねーよ。それと」

「……あんた何の権限があってそんなこと言ってんの? 関係ないじゃん」
 
どうやら、啓二の作戦は成功したらしい。
 
先ほどまでのしおらしさはどこへやら。今日子はぐっと顎を持ち上げ、絡みつくような眼差しをこちらに向けてきた。

「関係あるある。言いたいことなら山ほどあるぞ」

「関係ないってば! あたしがどんな服を着ようが、あんたには一切関係ない」
 
夜も更けてきた公園に、ふたりの言い合う声が響いている。その間を掠めるように、電撃殺虫機に飛び込んでは死んでいく、虫の儚い音が鳴っていた。
 
今日子はつり気味の大きな瞳を見開いて、啓二をキッと睨みつけている。

「あんたって呼ぶなと何度も言ってんじゃねえか。大体お前は男の変態率を甘く見すぎてんだよ! 気が強いのも結構な話だけどな、所詮女の気が強いのなんて口ばっかじゃねえか」

「あんただって、ずっとお前って呼んでるじゃん。何が男の変態率よ。確かにあんたはそういう人間かもしれないけど、あたしの周りは健全ですから! 余計なお世話よ」

 
こんなはずではなかったのだが――と、啓二は拳を握り締めた。
 
ほんの少し反応を引き出せば、それで良かったのだ。なのに、相手をしているうちに腹が立ってきて。
 
啓二は予定外の成り行きに危機感を覚えていながら、エスカレートしていく口喧嘩に終止符を打つことが出来ずにいた。

「あたしの事をとやかく言う前に自分自身を振り返ってみたら? いい年して居酒屋でゲーム? しかも同僚と? バカじゃないの? デレデレしてうれしそうにキスまでしちゃってさあ。あんたを見てると、確かに男の変態率は高いのかもと頷けるわ。とにかく、あたしがどんな格好をしていようがあんたには関係ないから! 口出しするのはやめてよね」
 
今日子は早口でまくしたてると、つんとすました顔をしてそっぽを向いた。頬を膨らませ、口唇を尖らせているのが、横顔からはっきりと窺える。

「はああああ? アホか、お前は。人が心配してやってんのに何て言い草だよ」

「そういうのがお節介だ、って言ってんでしょ。まったく、うざいんだから」

「うざい、だと? 人の忠告に少しは耳を傾けたって罰は当たらないんじゃねえのか?」

「うざい、うざい、うざいっ! 関係ないじゃん。なんで口出ししてくんのよっ!」

「うるせー! 好きだからに決まってんじゃねえか」

 
風が、そよいだ。
 
遊歩道に点々と植わった木々の葉が、擦れあってサラサラと音をたてている。
 
電撃殺虫機も、虫の断末魔の音を変わらず響かせていて。
 
けれど。
 
ふたりの周囲だけ、何かがすっぽりと抜け落ちたような静寂が広がっていた。
 
ついさっきまで、さんざん憎まれ口を叩いていた今日子は、電池が切れた人形のように動きを止めている。
 
ネコ科の動物を思わせる大きな瞳は、焦点がぶれることはなく、くるんと上を向いたまつ毛も、微動だにしないままだ。

「好きだ」
 
ぷっくりと赤い口唇が、何か言葉を発しようとしたのか、少し開いた。しかしそれは声になる前に、啓二が打ち消してしまった。
 
ほんの数秒だけ重ねた口唇は、勢いづいての不意打ち行為だったけれど。
 
啓二は、とりあえず決めるべきところを決めた充実感に満たされていた。
 
隣の今日子は驚きのあまり声も出せないのか、目をまん丸にして見開いている。そんな彼女の男慣れを感じさせない反応も、啓二の気にいっているところだ。
 
内心ガッツポーズの啓二は、満足げに今日子を覗き込んだ。そして時間が止まったままの彼女に、ニッと微笑みかけた。
 
その笑みが、魂の抜けたような今日子に、息を吹き返させたのかもしれない。
 
今日子は、瞬く間に紅潮していった。キャミソールの上に覗く鎖骨のあたりから、首へ、そして頬へと。
 
やがて完全に赤く染まった今日子は、額に汗まで滲ませている。その様子はまるで桃のように可愛らしく、啓二の目には映った。

 
なのに。

「あ、あっ、あんた何すんのよ」
 
今日子は全身の力を振り絞るようにそう言って、手の甲でぐいっと口を拭った。
 
わなわなと震える口唇は、照れているふうにはとても見えない。むしろ、怒っているかのように見受けられる。

そしてそんな憶測を決定付けさせる一言が、続いて吐き出された。

「汚い」
 
予想外のきつい言葉に、啓二は思わず反芻していた。

「汚い?」
 
まさか、そんな言葉が返ってくるとは思いもよらなかったのだ。
 
互いに好意を持っている。――と、信じていただけに、今日子の反応は啓二に強い衝撃を与えた。
 
すっくと立ち上がった今日子は、缶を握る手が僅かに震えていた。
 
呼吸が浅いのは、鼓動の速さのせいだろうか。肩が、小刻みに揺れているのがわかる。

「だって!」
 
そう言ったきり今日子は黙り込み、瞬きを繰り返していた。
 
啓二もベンチから立ち上がると、何か言いよどんだままの今日子に向き合った。

「だって、何だよ?」
 
促すと、今日子は反抗的な目つきで見上げてきて。苦情を言い立てるような口ぶりで、先を続けた。

「だって、あの子とキスしてたでしょー? 染るじゃん」

 
くだらない、と一笑にふすことは簡単だ。けれど、啓二はそうすることが出来なかった。
 
誰しも、かつては持っていたもの。大人への階段をのぼる途中で、多くの人が捨て去ってしまう純粋さが、今日子の中には残っているのだ。
 
啓二は咄嗟に腕を伸ばし、今日子を抱きすくめていた。

「はなしてっ!」
 
振り解こうともがく力の強さは、本気のわりには力足らずだ。
 
意固地になっているのだろう。反抗する素振りを見せることで、啓二に怒りをぶつけているのかもしれない。
 
啓二は、暴れる今日子を抱きとめながら、どうするべきかと思案していた。
 
謝るか、謝らないか。謝らない場合は、どうするべきなのか。
 
けれど。
 
ただ何となくではあるが、口先だけの謝罪が、この状況を好転させるとはとても思えなかった。

「本当に嫌なら放してやるよ。今日子のことも、諦める」
 
最後の言葉は、ただの強がりだ。
 
しかし勝算はきっとある――と、啓二は確信していた。
 
それは、腕の中でもがき続ける今日子の、力の弱さゆえに。


「どうする?」
 
決断を迫ると、今日子はたちまち萎れた花のようになった。
 
返事をする気はないのか、うんともすんとも言わないままだ。そのくせ一切の抵抗をやめて、大人しく啓二の胸に額を押し当てている。
 
しばらくの後、シャツの胸元に湿った感触が伝わってきて、啓二は腕の力を緩めた。
 
上から見下ろすと、水銀灯の灯りを受けた彼女のまつ毛が、きらりと光っていた。

「今日子、機嫌直せよ?」
 
啓二は背を屈めて目線を合わせると、今日子の下瞼に盛り上がっている涙に指を伸ばした。
 
今日子は口を開きはするが、何も声に出さないままで。その思いつめたような眼差しが、彼女の複雑な心境を吐露していた。
 
啓二はタイミングを計り、つぎに今日子が口唇を開けた瞬間に、強く自分のそれを押し当てた。
 
腕の中の今日子は、ほんの一瞬身体を強張らせたけれど、その後は抵抗も、逃げる素振りも見せなかった。
 
少々強引な仲直り策ではあるが、恋に不器用な啓二には、それが精一杯で。
 
満月には少し足りない月が照らし出す中、ふたりは長いキスを交わしていた。
 







  





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