25.夜の公園
居酒屋の通路で派手な痴話喧嘩を披露したふたりは、じきにやってきた店員に苦情を申し立てられることとなった。
取り囲んでいたはずのギャラリーたちは、気を利かせたのか、それともバカバカしくなったのか、いつの間にやら消え失せている。
完全に取り残されたらしい居酒屋を出ると、啓二は今日子の手を引いて、合コンの夜に通りがかった公園へと足を踏み入れた。
ペンキの剥げたジャングルジムがひっそりと佇む夜の公園は、寂れた印象で人気もない。
顔を上げると、夜空に浮かぶ丸い月が目に入った。その脇の水銀灯には夏の虫たちが吸い寄せられ、飛び交っている。
昨日の雨に洗われた木々の葉は、月と水銀灯の光を受けて、夜なのにくっきりとした緑色の輪郭を浮かび上がらせていた。
「ここに座ってて」
丸太を組んだようなベンチに今日子を座らせると、啓二は砂場の傍にボウっと立つコーラの自販機へ、ひとり向かった。
けれど。
小銭を投入したあとになって、指が止まった。よく考えてみると、今日子のことを自分は何も知らないのだ。
彼女は何が好きで、何が嫌いなのだろう。たったそれだけのことですら、わからない。
なのに、大勢の見ている前であんな大喧嘩をするなんて――と、啓二には先ほどまでの自分が可笑しく思えてきた。
悩んだ挙句、無難にオレンジジュースのボタンを押す。
鈍い音と共に落ちてきた缶を拾いあげ、啓二はベンチの今日子を振り返った。
彼女は、月を見上げているようだった。
小さな頭。そして長い髪をまとめているせいか、今日は首の細さが目立つ。
水銀灯の仄かな灯りに照らされた彼女は、顔も、喉も、むき出しになった肩のラインも、そのすべてが不健康なほどに白く見えた。
啓二は、今日子の顔から胸元へと視線をずらした。
細いストラップに吊るされたキャミソールは、鎖骨の下まで広くあいている。前屈みになれば、きっと胸の谷間まで見えてしまうだろう。
ぴったりと身体の線に沿って張り付いた生地は、胸の下あたりで皺を作り、その上にある膨らみの重さを物語っている。
そんな様子を見るにつけ、啓二はまた怒りがこみあげてきた。
何故、今日子の服装にまで腹が立つのか。答えはいたってシンプルで。
啓二はその気持ちの理由に、とっくに気付いている。
今日子のことを、好きになってしまったからだ。好きだから、あのような薄着で知らない男とシートに座る姿を目にしたときは、不愉快極まりなかった。
それにしても、この厄介な感情はいつからなのか――と、啓二は記憶の糸を手繰り寄せた。
他の男と電話で話す今日子を見たときからか。
それとも、ボート小屋で彼女が泣き出したときか。
花火大会や、合コンの帰り道はどうだったか。
やがて、ベンチで待つ今日子がこちらに視線を移したのをきっかけに、啓二は考えるのをやめた。
考えても仕方のないことだ、いまとなっては。
確かなことは、もう引き返せないところまで、気持ちが高まっているということだけなのだから。
「ほら、飲めよ」
缶を差し出すと、今日子は大人しくそれを受け取っていた。なのに、啓二が隣に腰を下ろした途端、間をあけるかのごとく隅に身体をずらした。
いまは缶を両手で握ったまま、俯き、黙りこんだままだ。ぱっと見た感じでは、起きているのか寝ているのかすらわからない。
伏せたまつ毛が時折瞬いているのだから、起きてはいるのだろう。
それにしても、つい先ごろまで啓二の胸に縋りつき、泣きじゃくっていたとは思えないほどの他人行儀っぷりである。
無言作戦を決め込んだふうの今日子に、啓二はいささか困っていた。
啓二の方も、実のところ女扱いに長けているわけではないのだ。
しかし、そうも言ってはいられない事情があって。
何しろ、昨日は喧嘩別れをしているふたりだ。未だに互いの連絡先すら交換していない間柄なわけで。
今日こそは関係を進展させなければならなかった。
啓二は考えあぐねた挙句、今日子の気性を利用してみてはどうか、と閃いた。
頑張ったところで、新垣のように上手い口説き文句を出せるわけではないのだ。それならいっそ、今日子を怒らせて、こちらを向かせる方が簡単に思えた。
「――もう一度言うけどな」
啓二はそこで一旦切ると、残りの文句を一気に吐き出すべく、息を吸い込んだ。
「オレは男にだらしない女は大嫌いだ。よーく、覚えとけよ? それと、男に会うときは薄着をするな。それと、お前せっかく生意気に生まれついたんだから、触られたら大声を出してでも反抗しろ。やられっぱなしになってんじゃねーよ。それと」
「……あんた何の権限があってそんなこと言ってんの? 関係ないじゃん」
どうやら、啓二の作戦は成功したらしい。
先ほどまでのしおらしさはどこへやら。今日子はぐっと顎を持ち上げ、絡みつくような眼差しをこちらに向けてきた。
「関係あるある。言いたいことなら山ほどあるぞ」
「関係ないってば! あたしがどんな服を着ようが、あんたには一切関係ない」
夜も更けてきた公園に、ふたりの言い合う声が響いている。その間を掠めるように、電撃殺虫機に飛び込んでは死んでいく、虫の儚い音が鳴っていた。
今日子はつり気味の大きな瞳を見開いて、啓二をキッと睨みつけている。
「あんたって呼ぶなと何度も言ってんじゃねえか。大体お前は男の変態率を甘く見すぎてんだよ! 気が強いのも結構な話だけどな、所詮女の気が強いのなんて口ばっかじゃねえか」
「あんただって、ずっとお前って呼んでるじゃん。何が男の変態率よ。確かにあんたはそういう人間かもしれないけど、あたしの周りは健全ですから! 余計なお世話よ」
こんなはずではなかったのだが――と、啓二は拳を握り締めた。
ほんの少し反応を引き出せば、それで良かったのだ。なのに、相手をしているうちに腹が立ってきて。
啓二は予定外の成り行きに危機感を覚えていながら、エスカレートしていく口喧嘩に終止符を打つことが出来ずにいた。
「あたしの事をとやかく言う前に自分自身を振り返ってみたら? いい年して居酒屋でゲーム? しかも同僚と? バカじゃないの? デレデレしてうれしそうにキスまでしちゃってさあ。あんたを見てると、確かに男の変態率は高いのかもと頷けるわ。とにかく、あたしがどんな格好をしていようがあんたには関係ないから! 口出しするのはやめてよね」
今日子は早口でまくしたてると、つんとすました顔をしてそっぽを向いた。頬を膨らませ、口唇を尖らせているのが、横顔からはっきりと窺える。
「はああああ? アホか、お前は。人が心配してやってんのに何て言い草だよ」
「そういうのがお節介だ、って言ってんでしょ。まったく、うざいんだから」
「うざい、だと? 人の忠告に少しは耳を傾けたって罰は当たらないんじゃねえのか?」
「うざい、うざい、うざいっ! 関係ないじゃん。なんで口出ししてくんのよっ!」
「うるせー! 好きだからに決まってんじゃねえか」
風が、そよいだ。
遊歩道に点々と植わった木々の葉が、擦れあってサラサラと音をたてている。
電撃殺虫機も、虫の断末魔の音を変わらず響かせていて。
けれど。
ふたりの周囲だけ、何かがすっぽりと抜け落ちたような静寂が広がっていた。
ついさっきまで、さんざん憎まれ口を叩いていた今日子は、電池が切れた人形のように動きを止めている。
ネコ科の動物を思わせる大きな瞳は、焦点がぶれることはなく、くるんと上を向いたまつ毛も、微動だにしないままだ。
「好きだ」
ぷっくりと赤い口唇が、何か言葉を発しようとしたのか、少し開いた。しかしそれは声になる前に、啓二が打ち消してしまった。
ほんの数秒だけ重ねた口唇は、勢いづいての不意打ち行為だったけれど。
啓二は、とりあえず決めるべきところを決めた充実感に満たされていた。
隣の今日子は驚きのあまり声も出せないのか、目をまん丸にして見開いている。そんな彼女の男慣れを感じさせない反応も、啓二の気にいっているところだ。
内心ガッツポーズの啓二は、満足げに今日子を覗き込んだ。そして時間が止まったままの彼女に、ニッと微笑みかけた。
その笑みが、魂の抜けたような今日子に、息を吹き返させたのかもしれない。
今日子は、瞬く間に紅潮していった。キャミソールの上に覗く鎖骨のあたりから、首へ、そして頬へと。
やがて完全に赤く染まった今日子は、額に汗まで滲ませている。その様子はまるで桃のように可愛らしく、啓二の目には映った。
なのに。
「あ、あっ、あんた何すんのよ」
今日子は全身の力を振り絞るようにそう言って、手の甲でぐいっと口を拭った。
わなわなと震える口唇は、照れているふうにはとても見えない。むしろ、怒っているかのように見受けられる。
そしてそんな憶測を決定付けさせる一言が、続いて吐き出された。
「汚い」
予想外のきつい言葉に、啓二は思わず反芻していた。
「汚い?」
まさか、そんな言葉が返ってくるとは思いもよらなかったのだ。
互いに好意を持っている。――と、信じていただけに、今日子の反応は啓二に強い衝撃を与えた。
すっくと立ち上がった今日子は、缶を握る手が僅かに震えていた。
呼吸が浅いのは、鼓動の速さのせいだろうか。肩が、小刻みに揺れているのがわかる。
「だって!」
そう言ったきり今日子は黙り込み、瞬きを繰り返していた。
啓二もベンチから立ち上がると、何か言いよどんだままの今日子に向き合った。
「だって、何だよ?」
促すと、今日子は反抗的な目つきで見上げてきて。苦情を言い立てるような口ぶりで、先を続けた。
「だって、あの子とキスしてたでしょー? 染るじゃん」
くだらない、と一笑にふすことは簡単だ。けれど、啓二はそうすることが出来なかった。
誰しも、かつては持っていたもの。大人への階段をのぼる途中で、多くの人が捨て去ってしまう純粋さが、今日子の中には残っているのだ。
啓二は咄嗟に腕を伸ばし、今日子を抱きすくめていた。
「はなしてっ!」
振り解こうともがく力の強さは、本気のわりには力足らずだ。
意固地になっているのだろう。反抗する素振りを見せることで、啓二に怒りをぶつけているのかもしれない。
啓二は、暴れる今日子を抱きとめながら、どうするべきかと思案していた。
謝るか、謝らないか。謝らない場合は、どうするべきなのか。
けれど。
ただ何となくではあるが、口先だけの謝罪が、この状況を好転させるとはとても思えなかった。
「本当に嫌なら放してやるよ。今日子のことも、諦める」
最後の言葉は、ただの強がりだ。
しかし勝算はきっとある――と、啓二は確信していた。
それは、腕の中でもがき続ける今日子の、力の弱さゆえに。
「どうする?」
決断を迫ると、今日子はたちまち萎れた花のようになった。
返事をする気はないのか、うんともすんとも言わないままだ。そのくせ一切の抵抗をやめて、大人しく啓二の胸に額を押し当てている。
しばらくの後、シャツの胸元に湿った感触が伝わってきて、啓二は腕の力を緩めた。
上から見下ろすと、水銀灯の灯りを受けた彼女のまつ毛が、きらりと光っていた。
「今日子、機嫌直せよ?」
啓二は背を屈めて目線を合わせると、今日子の下瞼に盛り上がっている涙に指を伸ばした。
今日子は口を開きはするが、何も声に出さないままで。その思いつめたような眼差しが、彼女の複雑な心境を吐露していた。
啓二はタイミングを計り、つぎに今日子が口唇を開けた瞬間に、強く自分のそれを押し当てた。
腕の中の今日子は、ほんの一瞬身体を強張らせたけれど、その後は抵抗も、逃げる素振りも見せなかった。
少々強引な仲直り策ではあるが、恋に不器用な啓二には、それが精一杯で。
満月には少し足りない月が照らし出す中、ふたりは長いキスを交わしていた。
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