20.不穏な空気 1
夕暮れ時が近づいていた。
ここにきてやっと雲間から顔を覗かせた太陽が、昼間のじめじめとした天気を吹き飛ばすように照らしつけ、啓二の部屋の床を焼いている。
床に転がっていたCDケースの角に、光線が反射して。その跳ね返った光が、壁に一際明るい円を描いていた。
啓二は床に座り込み、その光の円を見ていたが、そこから視線をキッチンに立つ今日子へと移した。先ほどからキッチンに立つ今日子の様子が気になって仕方ないのだ。
信じられないことに、彼女はその場にしっくりと収まっていた。
パッと見、派手な容貌が印象に残るせいもあるのだろう。家事なんて出来るわけがないと高をくくっていた啓二の予想を裏切り、今日子は相当に手馴れている様子で、先ほどから手を動かし続けている。
啓二としては今日子に料理の腕など期待しておらず、一緒に調理をすれば楽しいかな、と思っていただけなのだ。そのつもりで色々と材料を買ってきたのだが。
いまやどう考えても啓二の存在は邪魔で。逆に手伝いを申し出ても、それが足を引っ張ることにしかならない気がして、啓二は部屋に大人しく引きこもり、テレビを見ていた。
まったく、人は見かけによらないものだ、と啓二は首の後ろを掻いた。
元カノは性格が温厚で大人しく、見た感じも家庭的な女だった。けれど、家事全般にわたって何も出来ず、むしろ仕事が楽しくて仕方ないといった按配だったのだ。その元カノと今日子をついつい比べてしまうのは、ふたりが対照的であるからだろう。
それに。
啓二の食生活は、コンビニ弁当と外食が主だ。栄養バランスに気を遣っているつもりではいるが、それでも相当に偏っている自信があった。
しかしこの様子では――と、啓二は今日子の顔から、彼女の手元に視線を移した。この様子では、久々にまともな食事にありつけそうだ。
「なに?」
見られていることに気付いたらしい今日子が、怪訝そうな顔をしてこちらを振り返った。
啓二はぶしつけに彼女を眺めていた自分に慌て、何となく瞬きをした。そして、「鍋とか……足りなきゃ下のキャビネットに、引き出物でもらった鍋があるよ」と、求められてもいないのに、そんな台詞を口にした。
言ったあとになって、変に思われたかと心配したが、今日子は不審に思わなかったようだ。再び手元に視線を落としては、何かを切り刻み始めた。
啓二はホッと息をつき、テレビの画面に目を移した。
テレビでは東シナ海の方で発生した台風が、台湾の方へ時速いくらで進んでいる――と、天気予報のお姉さんがパネルを片手に説明していた。
もちろんそんな情報になど興味はないのだが、見るしかない。啓二は机に頬杖をつき、わざとキッチンの方に背中を向けて、テレビの中の台風情報をじっと見ていた。
しばらくすると、被せた蓋の下でバターとアサリが跳ね返るけたたましい音が、台風情報の邪魔をし始めた。そしていい匂いが漂ってきた頃、啓二の鼓膜はかすかに聴こえる別の音をひろった。
啓二はその音の出所を探して周囲を見回した。
音だけではわからなかったのだが、床に置かれた今日子の携帯が発光していて。どうやら耳を掠めるオルゴールのような音は、そこから流れているらしいことがわかり、啓二はその白い携帯を取り上げた。
「今日子、電話鳴ってるぞ」
手渡してやろう――と、そんな善意から手に取っただけなのに、サブディスプレイに光る名前が見えて。『横山 泰』と読めるその文字を目が捉えた時、啓二の胸にちくりと棘で刺されたような痛みが走った。
「え? ああ、ありがとう」
今日子はタオルで手を拭い、差し出された携帯に手を伸ばしている。その視線は啓二の握る白い携帯に注がれていて。
啓二は何食わぬ顔をしてそれを手渡しながら、今日子がどんな顔をするのかが気になっていた。
受け渡した瞬間、彼女の頬が強張るのがわかって。啓二はその電話の相手が、今日子にとって都合の悪い相手であると同時に、きっと自分にとっても面白くない相手だろうと直感した。
「もしもし」
今日子はキッチンに立ったまま、啓二に背を向けて話し始めた。
若干丸まった背中が、妙にやましそうで。声も、内緒話をするかのように小さくて。啓二はそんな今日子の様子に苛立ちを覚えて、高い音をたて続けるフライパンの火を止めた。
今日子は時折、うん、とか、いまはちょっと、などと、それだけでは話の内容が想像できない相槌をうち、やがて外に出るつもりなのか、玄関へと移動していった。
それが余計に啓二の苛立ちを煽ったのかもしれない。
啓二は、上体を屈めてサンダルに足を通している今日子の腕を引っ手繰るように掴むと、部屋の中へと強引に連れ戻した。
携帯を握っている方の腕を引いたせいか、途中『昨日メール送ったじゃん。その返事を聞こうと思って』と話す男の声が漏れ聞こえて。
電話の相手はメールをやり取りする関係で、何かの返事を求めているらしい。そして今日子はその男との会話を聞かれたくないと思っているのだろう。――と、そんな裏事情が透けて見えて、啓二は猜疑心に眉をひそめた。
今日子は目を合わしたくないのか、足元に視線を落としていた。
携帯を両手で握り、耳に押し当てているのは、相手の声が漏れないように守っているつもりなのかもしれない。
そんな今日子の心の内側を想像するにつれ、啓二はより一層不快な気持ちになった。
その激情が、どこから湧き起こってくるのかはわからない。
ただ、他の男と隠れてこそこそ話をしようとする今日子に、言いようのない怒りを感じていた。
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