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らしく。
作:五十崎由記



19.恋のはじまり 5



これ以上、一秒だってここにいたくない。――そう思っていたはずなのに、今日子はいま、啓二の住む社員寮にきていた。
 
寮とはいえ、会社が借り上げた2DKの賃貸アパートだ。
 
マッチ箱を横に倒したような2階建てで、踏みしめるたびにカンカンと軽快な音のする階段があり、その一番奥にある部屋が彼の住居らしい。

 ◇

つまりは、惚れたが負けだ、ということなのだろうと、今日子は自分のふがいなさに呆れ、はあっと大きなため息をついた。
 
絶対に帰る、と覚悟を決め、悔し涙まで我慢しながら車のドアを開けようとしていたのに。
 
背中から名前を呼びかけられて。たったそれだけのことで、今日子は振り返ってしまったのだ。
 
そしてどういうわけか、『飯作れる?』という彼ののん気な問いかけに、気が付けば頷いていた。
 
そこで一旦はハッと我に返り、じゃあサヨナラと、またドアに手を掛けたのだ。けれど、そのあとがいけなかった。

『ああ、逃げるんだ? まあなー、何も出来そうにねーもんな』
 
まるで、頭ごなしに決め付けるような言い方をされたのだ。しかも、いま今日子が帰ろうとしている理由まで、そのことにこじつけられて。

 
今日子は母子家庭の育ちだ。
 
遅い日は明け方まで母親がスナックを開けているために、小学生の頃から遠足の弁当でさえ自分で作ってきた。
 
そんな今日子にとって飯炊きの類は、学校の勉強よりもよほど得意分野で、唯一の取り柄といってもいいほどなのだ。

『はあ? あんたね、あたしのこと何も知らないくせにわかったような口きかないでよ。あたしがバカそうだから言ってんの? それとも派手だから? あたしはね、頭はよくないけど、家事だけは子供の頃からやってんだから!』
 
つい、ムキになって言い返し、啓二と嫌味の応酬を続けているうちに信号は青に変わり、そしていま――。

 
隣で啓二が、デニムのポケットから束になった鍵を取り出している。その、ジャラリと鍵同士の擦れる音が通路に響いていた。

「入れば?」
 
鈍い音と共にロックが外され、開いたドアの内側から、中にこもっていた熱と匂いが流れ出ていた。
 
今日子は今更ながら、啓二の口車に乗ってしまったことを後悔していた。
 
何せ、1時間前にはラブホテルへ行こうとしていた男だ。家に連れ込んで、これ幸いと手を出してこないとも限らない。
 
今日子は中に入るように促す啓二を全身で警戒しながら、じりじりと玄関に足を踏み入れた。
 
部屋は、玄関から部屋の奥に見える窓まで一直線に抜けていて、ガランとしている。

「お、お邪魔します……」
 
中に入った途端襲われるんじゃないかと、エッチな漫画で見たことのある展開を今日子は想像していたのだが。

「今日子、コレ冷蔵庫に入れてて。バケツ取ってくる」
 
啓二はいたって普通で。寮に来る途中に寄ったスーパーのレジ袋を今日子に手渡し、自らは再び駐車場へと引き返していった。
 
漫画のような展開を期待していたわけではないが、今日子は肩すかしを食らったような気分になり、しばらく呆然と玄関先に突っ立っていた。

けれど、啓二が階段を小走りに下りて行く音が聞こえて。今日子はホッと息をつき、部屋の奥へと足を進めた。

 
玄関から部屋に入るまでの通路はキッチンも兼ねており、目的の冷蔵庫はそこに佇んでいた。今日子は冷蔵庫の前にレジ袋を置き、まずは探検がてら部屋の中を見回した。
 
窓は青いカーテンに閉ざされ、床にその色を落としていた。
 
ぼこぼこした素材の壁紙は、元の色はオフホワイトなのだろう。カーテンの色が邪魔をして少々青みがかっているが、窓を開ければ明るい部屋になりそうだ。
 
もっと雑然とした部屋を想像していたのだが、8畳間のそこはやたらとすっきりしている。それはただ単に家具が少ないだけなのかもしれない。目に付いた家具らしい家具といえば、テレビ台の上に大きなテレビ。その隣にCDラックとコンポがあり、部屋の中心にはテーブルが置かれている。たった、それだけだった。
 
その部屋の脇にもう一部屋あるのか、僅かに開いているドアの隙間から、奥の様子が伺えた。そしてそこをじっくり拝見しようと近寄った時、階段を上ってくる足音が聞こえた。
 
今日子は慌てて冷蔵庫の前に戻ると、レジ袋の中身を移すべく、取っ手を引いた。

「何これ……。ビールしか入ってないじゃん」
 
思わず声に出てしまうほど、そこにはビールしかなくて。缶ビールの黒いラベルがあちこちを向いて連立している。
 
今日子はビールを全部脇に寄せ、空いた隙間に食材を詰めていった。その時ドアがきしむ音をたてて開き、バケツを持った啓二が玄関先に現れた。
 
緊張して思わず背筋を伸ばした今日子の後ろを、啓二はすっと通り過ぎていった。そしてそのまま窓辺に立ち、しゃっといい音をたててカーテンを引いていた。
 
途端に、雨曇りな天気を感じさせない健康的な日差しが部屋に差し込んで。今日子はその眩しさに、思わず目を細めた。


「――今日さー」
 
窓辺に立った啓二が、肩越しに顔だけをこちらに向けていた。今日子はレジ袋を漁る手を休めると、逆光でよく見えない啓二の顔を見上げた。

「オレ、本当は待ち合わせの場所に行く前から決めてたんだー。掘ったアサリを食わせてもらおうと思って!」
 
啓二はそう言うと、身体ごとこちらを振り返った。
 
真っ黒なはずの髪が、日差しを受けて茶色に透けて。黄色いTシャツから伸びた腕の、その輪郭だけが白く浮かびあがっていた。

「え?」
 
今日子は知らず知らずのうちに立ち上がっていた。それはもしかすると、無意識に啓二の表情を見ようとしていたのかもしれない。

「? 何だよ。急に立ち上がっちゃって」
 
啓二は、訝るような声で訊いたけれど。でも今日子はこの時、啓二から受けたすべての意地悪を水に流せるほど、感動していたのだ。
 
その理由に、啓二は気付いていないのかもしれない。

「え? あー、何でも」
 
今日子は再び冷蔵庫の前に屈み、レジ袋に目を落とした。そして何食わぬ顔をして、袋の中身を移し始めた。
 
けれど。
 
彼はいま確かに、家を出る前から今日子と縁を繋ぐつもりでいたことを口にしたのだ。
 
それは啓二がボート小屋で告げた台詞が、その場の勢いや雰囲気に流されて出した言葉ではないことを証明していて。今日子は自然と緩んでくる頬を撫でながら、作業を続けた。










  





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