17.恋のはじまり 3
西に傾いた太陽が、ぶ厚い雲に覆われて薄っすらと白く光っていた。
降り続いていた雨は、いまではワイパーなしでも気にならない。日が暮れるにつれて雨脚も弱まっている――そんな感じだった。
今日子は先ほどからずっと、助手席の窓から流れゆく景色を眺めていた。正確に言えば、眺めるふり、をしていた。
とにかく緊張しているのだ。まともに目も合わせられないほどに。
何しろ今日子にとっては初めての、カレシの運転する車で。乗りなれた母の車とはシートの高さも違えば車内の臭いも違う。無造作に転がっているCDも、いかにも若い男の所有するそれだ。
そんなありとあらゆる違いを感じて、とてもリラックスなんて出来ないのだった。
「つーか、お前そんなに大人しいと気持ち悪いじゃねえか」
不意に、背中から啓二の声が聞こえて。「こっち向けってば」と、背中を小突かれた衝撃で、今日子の心臓は一気に跳ね上がった。
「な、何?」
「なに、って」
今日子は肩越しにチラッと振り返り、また窓の外に目を戻した。ほんの一瞬目が合っただけでも息が詰まりそうで。全身で隣の啓二を意識してしまって、にっちもさっちもいかないのだ。
「なあ、お前。まさか緊張してんの?」
後ろから、啓二が覗き込もうとしているのがその気配からわかった。今日子は飛び上がりそうになって、全身を強張らせ、窓枠に両手でしがみついた。
「まさか! 何言ってんだか。普通だよ、全然平気。ただね、ホラ。雨の日のドライブもなかなかいいなーなんて、つい外が気になっちゃうだけなんだから。だから放っておいてくれて大丈夫だからね。こっちはこっちで楽しんでるから! あ、ホラ。信号青に変わったよ」
動揺すれば動揺するほど、マシンガントークになるのは今日子の悪い癖だ。
今日子は思いつくかぎりの言い訳を早口でまくしたて、丁度都合よく青に変わった信号を指差した。
けれど。
「ホントにー?」
啓二は路肩に車を寄せて停めると、後ろから肩を掴んできた。そして啓二の方を向かせようと思っているのか、窓枠にしがみつく今日子を引き剥がしにかかってくる。
「本当だってば」
今日子は根負けして振り返ると、肩を掴む啓二の手を振り払った。
啓二は面白いものを見るような目でじろじろと今日子を眺め回し、「ふーん」と言った。そして、
「なあ、お前さ。本当は『密室だわっ、どきどきしちゃうっ』なんて思ってんだろ?」
と、今日子の真似をしているつもりなのか、気持ち悪い声を出した。
それがやたらとバカにされている気がして。今日子は隣の啓二をキッと睨みつけると、心もち顎を上げた。
「ふーつーうーでーすー! 変な勘ぐりしないでよね」
「だあって、お前」
啓二はそう言うと、急にぷうっと頬を膨らませ、口唇を突き出した。
今日子はそんな表情をする啓二を見るのは初めてで、怒っていることも忘れてじいっと見入った。
なのに。
「言っとくけどあたしは、男には全っ然困ってませんから! ――って、言ってたくせにさあ? 真っ赤になって窓にしがみついてんだもんよ」
啓二は今日子の口真似をしてそう言うと、ハンドルに突っ伏し、肩を震わせて大笑いしている。
「もおおおっ! バカにして。全然似てないんだからね、顔も、声もっ」
クックックと声を殺して笑う啓二に、今日子は猛烈に怒りがこみ上げ、手を振り上げて叩くふりをした。それでも笑うのを止めない啓二に苛ついて、いっそ本当に叩いてやろうか、とそう思った時。
「はいはい、ごめんごめん。ええっと、これから何する?」
啓二は逃げるみたいに頭を腕で庇いながら、急に普通な話題を振ってきた。
けれど、一度火がついた闘争心はそう簡単には収まらなくて。今日子はふんっと顔をそむけると、
「知らない。どうでもいい」
とぶっきらぼうに言い、「あんたの好きにすれば?」と付け加えた。
やがて車が滑り出したあと、
「本当に何でもいいのか?」
と機嫌を取るような声が聞こえたけれど、今日子は振り返らないまま「お好きにどうぞ」と冷たくあしらった。
◇
フェリー乗り場に続く海岸沿いの国道は、時化のせいか、行きかう車の数もまばらだった。アスファルトは雨を吸って黒々と光り、カーブミラーにも大粒の水滴が浮かんでいる。
車内は、啓二のつけたFMが流れるのみで会話はない。
傍から覗かれたなら、きっと誰の目にも恋人同士とは映らないだろう。会話がないだけならまだしも、互いに視線すら合わせようとしないのだ。
こうなってしまったのは全部啓二のせい。と、今日子はそう思っている。
今日子は相変わらず窓枠に肘をつき、車窓の外を眺めていた。そこに何かあるわけではなくても、ただ、眺めていた。
市街と逆の方へ進行方向をとる車は、次第に波止場へと近づいている。
このあたりは古くからの漁村で、あまり開発されていないせいか、ガードレールも錆の浮いたのが目立っている。通り沿いの建物も古い木造住宅が多く、中には戦前の名残なのか、ガラス窓に米印のテープが残る家もあるくらいだ。
今日子はそんな、特別見るほどのものでもない風景をひたすら眺めていた。いくら退屈でも、自分から運転席の啓二に話しかけるのはごめんだ――と意地を張り、そっぽを向いていたのだ。
車は国道をフェリー乗り場の方へと曲がり、そしてそれを素通りした。
向こう側の見えない大きなカーブを曲がった先に、ポツンとお城のような建物が見える。それは数年前にオープンしたラブホテルなのだが。
今日子は、まさか、と肩越しに啓二を振り返った。この先の道は行き止まりで、特に何もないはずなのだ。
「ちょっと、この道は……」
もしかすると啓二はこの辺りの地理を知らなくて、適当に車を走らせているのかもしれない――と一瞬だけはそう思ったけれど、ぷっと吹き出した啓二の横顔を見て、今日子はカッと全身が熱くなった。
「なんて奴! こんな時間からエッチなことを企むなんてっ。――じゃない、夜でもダメだけど! あたしは絶対行かないからね。絶対いや」
今日子は身体ごと啓二に向き直り、一向に車を停める気配のない彼の腕を両手で掴んだ。
「あっはっは! あーホラホラ、危ないだろ? つーか、お前どこでもいいって言ったじゃねーか」
なのに、彼は相変わらず笑うばかりで。おまけに、今日子がぎゅっと力を込めても、ハンドルを握る啓二の腕はビクともしないのだ。
「もうっ。あたし、絶対行かないからね? 行くならひとりで行けばいい。スケベ」
今日子が怒れば怒るほど、啓二は肩を震わせて笑い転げ、これでは何のために怒っているのかわからない。
やがて、車がラブホテルのすぐ傍まで差し掛かり、今日子の目尻に涙が滲んできた頃。
「バカだなー、冗談だってば!」
啓二はそう言って、車を停めた。
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