16.恋のはじまり 2
向き合ったふたりの間には重い沈黙が横たわっている。雨模様のせいで薄暗い視界が、余計にその色を濃くしているのかもしれない。息苦しいほどの無言状態が、長く続いていた。
啓二はじっと今日子の目を見つめ、今日子も目を逸らせないのか、こちらを見上げていた。
啓二が放った問いかけが、相当に彼女を苦しめているのだろう。今日子は「だって」と呟いたまま黙り込み、その先が続かないようだった。
言いよどむその様子を見ながら啓二は、『絶対来い、と。来るまで待ってると言ったのはそっちじゃないか』と言われるだろうな、と予想していた。
そしてそれと同時に、本当はそんな理由じゃないはずだ、とも思っている。
無視しようと思えば出来た約束を、何だかんだ言いながらも来てしまったのは、きっとそんなお人好しな理由だけではないはずだ。
けれど、気位の高そうな彼女のこと。まさか本音を語るはずがない。
そんなわけで啓二は、予想している言い訳を今日子が口にするのを待っていたのだ。
どのくらい経った頃だろうか。ふたりの間に漂う空気が揺れた。
今日子はすっと視線を落とし、啓二の足元に大きく広がった水溜りを睨んでいるようだった。苛立っているのは、その目元を見ただけでわかる。悔しそうな、それでいて思いつめたような色を浮かばせていた。
けれど。
「あたし帰る」
突如、彼女はそう言って。
え? と啓二が頬を強張らせた時には、肝心の彼女は背を向けようとしていた。
今日子はくるりと背中を見せると、外に向けてジャンプ傘をポンと広げていた。遅まきに――彼女の髪の匂いだろうか、甘い香りが流れてきた。
彼女が帰ろうとしている。それは啓二にとって、最も都合の悪い展開だった。
なにしろ連絡先さえわからないのだ。こんな形で帰らせると、きっと二度と会う機会はない。
「ちょっと待てよッ!」
帰ろうとする今日子に、慌てて啓二は駆け寄った。そして傘を持つ腕を掴み、強引にこちらに引き寄せた。
瞬間、ピンク色の傘がくるりと回転してその手を離れて。灰色がかったセメント床で、傘は数回大きく弾み、やがては震えながら止まった。
思いがけず掴まれた腕に、今日子は面食らっているようだ。大きな瞳はますます大きく見開かれ、落ちた傘と啓二の顔を順番に眺めている。
反射的に今日子を引き止めた啓二は、彼の胸の中に芽生えている恋の予感を確かに感じ取っていた。けれど、このまま突き進んでいいのか、と、つぎのステップへ踏み出すことを躊躇っていた。
今日子にこのまま会えなくなるのは、いやなのだ。それは間違いのない気持ちで。
けれど、啓二の中にはいまも微かに、元カノへの未練が残っているのだ。
啓二は、はあっと長い息をついた。もちろんそれは、思い切りの悪い自分に呆れてのため息だ。
まったく、どうかしている――と、啓二は掴んだままの今日子の腕を離した。
心より、身体のほうが正直者なのだろう。咄嗟に彼女を引き戻したことが、すべての答えであるのに。
「もういいよ、何も言わなくて」
啓二はぶっきらぼうにそう言うと、ホースの水を今日子の足元に流した。
さっきサンダルを脱いで歩いたために、彼女の両足は足首まで砂まみれになっていた。
白く、華奢な素足は青い血管が透けている。その足元から視線を上に辿り、啓二はこちらを見上げる今日子の視線を絡め取った。
名前を覚えていないことに腹を立てて泣きそうな表情を見せた彼女は、来ないと言いながらもやって来た。それは、互いに似た感情を持っていると考えていいだろう。
啓二は新しい一歩を踏み出す覚悟を決め、腹に力を入れた。過去はここで終わり、未来はここから始まるのだ。
「もう一度言うけど」
今日子の長いまつ毛が瞬いている。その内側の大きな瞳が、怪訝そうに細められた。
「3時って言ったら、3時には準備出来てて当たり前なわけ。わかる? つぎに遅れてきたらホントに怒るよ?」
一瞬、彼女の目つきが険しいものになった。そのしつこいとでも言いたげな眼差しに、啓二は、遠まわしに言いすぎたかなと後悔した。
けれど、その数秒後には大きく見開かれて。言葉を失っているその様子から、どうやら啓二の言わんとすることが、今日子に伝わったらしいことがわかった。
啓二はホッと胸を撫で下ろし、彼女の反応を待った。
もちろん、いい答えが戻ってくるに違いないし、それについては何の心配もしていなかったのだが。
しかし、目の前の今日子は何を渋っているのか、まったく反応しないままで。まさかここにきて迷われるなどと思ってもいなかった啓二は、徐々にその沈黙の長さに苛立ってきた。
「――おい?」
もどかしい思いに急きたてられて声をかけると、今日子はハッとしたようにびくりと身体を震わせて、瞬きを繰り返した。
その様子は彼女の動揺している胸の内を如実に表していて。迷っているわけではないのがわかりホッとするのも束の間、啓二は駄目押しのつもりでもう一度「わかったか?」と口にしようとしていた。
けれど。
「わかっ――、うわあああっ!!」 「イヤアアアアっ!!」
つい力が入った啓二の指はホースをきつく締め付け、勢いよく飛び出した水が今日子の胸めがけて発射された。
慌てて手を離したホースは、蛇みたいにうねりながら落ちていって。床に落ちたあとも、跳ねて辺りに水を撒き散らしている。
目の前の今日子の髪は濡れた重みで真っ直ぐになり、その先端からボタボタと雫が滴っていた。
ずぶ濡れになった薄手のニットが身体に張り付いて、その立体的なラインを浮かび上がらせている。陰気臭い小屋に光が差し込んだみたいに、その姿は瑞々しく、眩しかった。
しばらく見惚れていた啓二は今日子の叫び声でハッと我に返った。
「あっ、あっ、あんたっ、何すんのよっ!」
今日子は真っ赤になって身をよじり、腕で胸元を覆い隠している。その腕が交差した隙間から、黒い下着が透けて見えて。啓二は堪えきれず、肩を揺すって大笑いした。
「クックック。あー、ウケるっ。エッチな色の着てるんだなあ?」
「たまたまよっ! あんた確信犯でしょ? いまの、絶対わざとだ」
今日子はよほど恥ずかしかったのだろう。耳まで赤く染まっていた。
浅い呼吸を繰り返しているのか、肩が細かく上下しているのがわかる。
「違うってば! ハイハイ、ごめんごめん。でもこれで帰れなくなったじゃん」
啓二はニッと口の端をあげて笑い、頬を紅潮させて怒る今日子の顔を覗きこんだ。
ネコ科の動物のような、どこか反抗的な瞳は目尻が切れ上がっていて、非常に魅惑的だ。
好きか? と聞かれれば、わからない、と答えるより他はない。けれど、やっぱり手放すのは惜しい。
それが啓二の、正直ないまの気持ちだった。
「オレさ、長くつき合ったカノジョがいてね。振られた直後に合コン行ったわけ」
啓二はそこで言葉を切ると、今日子の瞳をじっと見据えた。
好きでもない人に好きだとは言えない啓二の、精一杯の気持ちを、いま目の前にいる今日子に伝えるつもりだった。
「合コンで会った女の名前なんて覚える気もなかったし、どうにかなるつもりもなかったんだよね。未練というか、まあ、そういう気持ちがあって」
今日子は神妙な顔をしていて。真面目に聞きいっているその様子が、啓二に緊張感を与えた。
啓二はぐっと奥歯を噛み締め、唾を飲み下した。そして息を吸い込むと、その後は一気に言い切った。
「でも、篠原今日子サンに、これきり会えなくなるのは嫌なんだ」
言うべきことを言ってしまうと、急に恥ずかしさが駆け上がってきて。啓二は今日子の顔を見ていられなくなって目を逸らした。
けれど。
視界の隅で、彼女が動くのが見えて。恐る恐る振り返ると、気が強く、生意気な口をきくことの多い彼女が、しくしくと泣いていた。
「ええ?」
啓二は顔を覆って泣く今日子を前にして、慌てふためいた。しかし、こういう状況では抱き寄せる他に思いつかなくて。啓二はおずおずと背中に腕を回し、細い身体を引き寄せた。
「そうかそうか、泣くほど好きか? しょうがないなあ」
つい、口を付いて出た一言は、もちろん照れ隠しだ。
それは、急に膨らんできた気持ちゆえに。
何となく惹かれる。――その程度だったはずの啓二の心は、いま確実に今日子のほうへ大きく傾いていたのだ。
啓二は今日子を引き離すと、顔を覆っている手をどかした。そして濡れそぼったその瞳を覗き込み、手を差し伸べた。
「――岡田啓二。お前今後はオカダって呼ぶなよ?」
今日子はきょとんとして、啓二の顔から手へと目線を落としていた。けれど、つぎの瞬間には白くて細い手を重ねてきた。
「うん……」
ふたりの恋は寂れたボート小屋の一角で、こんな具合に始まった。
小雨の降りしきる夏のさなか。8月初めのことだ。
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