15.恋のはじまり 1
「来ないか……」
朝からの雨は次第にその強さを増し、フロントガラスを絶え間なく叩いていた。
計器パネル脇のデジタルクロックはPM.3:15を表示し、5分早く設定している分を差し引いても、すでに約束の時間から10分が経過している。
啓二は車から降り、視界のひらけた海岸沿いの左右を見渡し、通りに人影を探した。けれど、こちらに向かってくるそれらしい影も見えなくて、啓二はため息まじりに呟いた。
「あーあ……、マジかー」
通りから海岸を見下ろすと、昨夜今日子が指差した辺りに掘っているらしい親子連れが見えた。その手前は湿って灰色に染まった砂が、堤防の際まで続いている。
潮が引いて顔を覗かせた浅瀬は、どうやらぬかるんでいるようだ。親子連れはそれぞれ、足元が沈み込んでいるように見えた。
啓二はもう一度通りの先を窺うように首を巡らせ、そこに何もないことを確認すると、後部座席のドアを開けた。
せっかくここまで来たのだ。それに、遅れてひょっこり現れる可能性だって無いとはいえない。
啓二はTシャツを脱ぎ捨てると、デニムの裾を膝までたくし上げた。そしてバケツと熊手を手に砂浜へと降り立った。
本当のところ啓二は、口で言うほど潮干狩りに関心があるわけではなかった。
元々がアウトドア好きなせいもあって、便利がいいように四駆に乗っているが、どうせ海に行くなら泳ぐ方が好きに決まっている。
けれど、あの時波打ち際を指差した彼女の語り口調から、思い出の中の父親はいま居ない人のような気がして。そんな予感が咄嗟に誘い文句となって出ていたのだ。
足の甲まで沈みこむ砂浜は、一歩踏み出すごとに、湿った砂が指の隙間を埋めるみたいにまとわりついた。それは雨日和にも関わらず、太陽の温もりを蓄えていて。やがて砂から粘土へと変わった足元を注意深く踏みしめながら、啓二は潮干狩りをしている親子連れに声をかけた。
「こんにちはー」
傍に立つと、父親らしい中年男がこんにちはと返し、娘らしい小さな女の子がその背中に隠れた。
啓二はやや距離をとって中腰になると、見よう見まねでじゅくじゅくとした粘土層を引っ掻き、指を這わせた。たった一掻きで指に硬い感触があり、摘み上げると黒い二枚貝。――アサリだ。
「おお? なんだあ、結構簡単に掘れるもんですね?」
妙にうれしくて、啓二は思わず隣の男に声をかけていた。
見知らぬ人に対して馴れ馴れしい行為だったかと、口にした途端後悔したが、男は気にしない風で応えてきた。
「えぇ、一つ見つけたらその周りは他にも棲んでいますよ」
「へえー」
男の背中に隠れていた少女がおずおずとした様子で顔を覗かせ、啓二の方を注意深く見守っている。その瞳は好奇心と、僅かな警戒心を浮かばせていた。
啓二は少女にニッと笑いかけた。すると少女は一瞬目を見開いて、慌てたように背中に隠れた。しばらく待つと、再びひょっこりと顔を覗かせ、目が合った途端にまた隠れている。
どうやら、今日は女運が悪いらしい。
啓二は口をすぼめ、肩を落とした。そして再び熊手に目を落とした。
男の言ったとおり、掘った場所の周囲からは立て続けにアサリがとれた。
集団で棲む性質のあるらしいアサリは、硬い殻に覆われながらも付近に仲間がいることを本能で探知しているらしい。
しかし近くに生息していたところで便利な事などあるのだろうか。エサを分け合ったり、共同でエサを捕獲するとも思えない。
そして一匹捕獲されてしまえば芋づる式に害が及ぶ。お互い相容れない存在でありながら、なぜ集団で生息するのだろう。
啓二にはそれが何だか、人間社会と似たものに思えた。
啓二は家族運に恵まれているとはいえない。
それについて不便を感じたのは、以前車を買う際の保証人探しに手間取った時だ。その時は母の再婚相手である男が名乗り出てくれたのだが、有難い話であると同時に言いようのない申し訳なさを感じた。
その一度きりの経験を除けば、ひとりで生きていくことに不便は感じていない。
けれど、普通の人が家族や親類と過ごす正月休暇については、ひとりでいることに慣れている啓二ですら淋しさを覚えた。
テレビをつければ家族を対象にした特番ばかり。かといって出かける場所もない。
そんな経験も多少は影響しているのだろう。啓二は『若者にしては珍しく、結婚願望が強い』と、揶揄されることがよくあった。
そう茶化される度に笑って誤魔化しているのだが、当たらずとも遠からずだ、と啓二自身も思っている。
100円均一で買った小さめのバケツの底が見えなくなった頃、ふと、傍に体温を感じ、顔を向けると少女が隣で泥遊びをしていた。
雨が麦藁帽子のひさしに落ち、飛沫が跳ねている。その下で水着の身体が呼吸をするごとに上下し、一心不乱に何か作っている小さな手は粘土にまみれていた。
啓二が上から覗き込んだせいか、少女の手元が暗くなって。それに気づいたらしい彼女がこちらを見上げてきた。
はにかんだような笑みを浮かべる口元から、前歯が一本欠けているのが見える。その隣――丸いカーブを描いた柔らかそうな頬に、泥が付着していて。啓二はそれを拭ってやろうと手を伸ばした。
けれど。
「――ミキ、こっちに来なさい」
男の呼び声が聞こえて。少女は素直に立ち上がると、男の脇にしゃがみこんだ。
もしかして、怪しい奴だと思われたのだろうか。そう懸念して、男に目を向けると、彼が啓二に目配せをして後ろを指差すのが見えた。
一面灰色に覆われた視界に、ピンク色の傘と白い立ち姿。背中を振り仰いだ啓二の瞳に、傘をさして立つ今日子は、一瞬絵のように映った。
白いニットのノースリーブに、ヒダの多いスカート。ピンク色の傘に半分隠れている顔は、不機嫌そうにそっぽを向いていて。びゅうっと吹いた風に、白いスカートと肩に落ちた長い髪がなびいていた。
啓二は思わずクスっと笑っていた。
どうやら、女運は悪くないようだ。
◇
「遅かったじゃん?」
啓二はホースの水で泥に汚れた身体を洗い流しながら、入り口に立つ今日子に声をかけた。
最初お湯のように温まっていた水は次第に温度が下がり、啓二は前屈みになったまま、それを頭から浴びた。
その間も入り口の今日子は何も答えないままで。聞いているのかいないのか、啓二が頭を上げたあとも顔をそむけ、露骨に機嫌の悪さを強調しているようだった。
ホースの口からは、出しっぱなしの水がジョロジョロと間延びした音をたててあふれ、啓二の足元に小さな川を作っていた。川は若干ななめになったセメントの床を下り、溝へと流れ込んでいる。
「3時って言ったらー」
啓二は身体ごと今日子に向き直り、その横顔に言った。
「3時から始められるようにしてて当たり前なんですー。わかった?」
途端に、彼女が振り返って。説教されて腹が立ったのか、肉食獣の子供を思わせる反抗的な瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。その下にある赤い口唇は不満そうに突き出され、頬もぷうっと膨らんでいた。
「あたし、行かないって言ったじゃんっ!」
言い終わると今日子は眉を寄せ、またそっぽを向いた。
本人には自覚がないのかもしれないが、今日子が怒る時、その表情はパターン化している。
啓二はその、予想通りの反応が楽しくて、今日子が顔をそむけているのをいいことに、口元を綻ばせた。
けれど、次第にいじめたくなって。返答に困るだろうとわかっていながら、今日子の揚げ足を取った。
「行かないって言ったくせに、何故来たの?」
振り返った今日子は、大きな瞳を何回か瞬かせ、ぽかんと口唇を開けていた。
啓二はやっとこちらを向いたその瞳を、縫い付けるつもりで繰り返した。
「何で来たんだよ?」
トタン屋根を雨が叩きつける音が、小屋にやかましく響いていた。
手にしたホースの口からは相変わらず水が垂れ流されている。
けれど、ここで微塵でも動いたらダメだ、と。啓二は今日子の目を見据えたまま、彼女の返答を待ち続けた。
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