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らしく。
作:五十崎由記



14.雨


雨が降っていた。

霧のように細かい粒子の雨は優しく外の世界を濡らしている。
 
天気の良い日なら眩しいほど白い隣のチャペルも、今日はやや明るいグレーへとトーンを落としていた。
 
街並みは、人も物もスローテンポに見えた。

いつもは急かされるように早く流れていく時間が、今日はやたらゆっくりと感じられた。

 
夏休みに突入してはじめての里美からの誘いは、予告どおり花火大会明けだった。
 
突然電話で呼び出され、今日子はいま、駅前にある観光ホテルのケーキバイキングに来ている。
 
生憎の天気で日曜の昼下がりだというのに客足はまばらだ。

そして客の年齢層もふたりよりははるかに上で、同年代の姿は見当たらない。
 
店内はクラシックが流れ、ふたりのような騒がしい女子高生でさえ行儀よくさせる上品なムードが漂っていた。

 
久々に顔をあわせたふたりは、互いに少し背伸びした装いで待ち合わせた。
 
楽しいはずのバイキング。

しかし里美はどこかストレスを溜め込んでいるようで、表情は暗い。

その鬱々とした様子は、どうやら里美の恋がうまくいっていないらしいことを今日子に予感させた。
 
聞けばエロメガネとはとっくに破局……というか、そもそも始まってさえいなかったのだが、奴にはカノジョがいたらしい。

「詐欺だよね? カノジョいるなら合コン来んなっての。ホント腹立つ」
 
そう呟き、里美は大きく息を吐いた。

まるで体内の悪玉菌をすべて吐き出すような、長いため息だ。
 
エロメガネにカノジョがいる。
 
それは恋愛至上主義者の里美にとって、この夏休みの計画が頓挫したに等しい。
 
楽しくなるはずだった派遣の仕事も、恋のターゲットが居なくなればただの労働へと変わり、残り日数は惰性で通うしかないのだろう。

 
里美はうっぷんをケーキにぶつけているのか、手元のイチゴショートはフォークによって細かく分断され続けている。

すでに原型はなく、スポンジと生クリームの残骸に成り果てていた。
 
それにさあ? と里美は続けた。

「新垣っていたでしょ? 覚えてる? ちょっと格好良い人」

「覚えてるよ」
 
酔っ払った今日子を強引に持ち帰ろうとした男だ。

そして趣味がスキューバで出身が沖縄。

何故か、そんなどうでもいいことだけなら、今日子は詳しく覚えているのだ。

「あいつなんて嫁も子供もいるってさ。ひどい話だよねえ?」
 
里美は口唇を突き出して、「やってらんないよ」とぼやいた。

「マジでー? なんていうか、合コンって騙しあいなの!? 嘘ついてるのうちらだけじゃなかったんだ……」
 
全く聞いて呆れる――と、今日子はおしぼりで手を拭った。
 
あの場にいた8人。

残りの4人は知らないにしても、半数は各々秘密を抱えて参加していたことになる。
 
既婚者であることをおくびにも出さず参加していた新垣を思えば、今日子たちが歳を3つ誤魔化していることなど、他愛もない嘘に思えた。
 
大人は平気な顔をして人を騙せるんだ、と眉をひそめた今日子の胸に、また別の男の顔が浮かんだ。
 
――『実はオカダにも彼女がいたりして』
 
不意にそんな憶測がよぎり、今日子は無意識に顔の前を手で払った。
 
まったく、いい加減にすればいいのに。

相手はこちらの名前さえ覚えていなかったというのに、今日子は未だに気にかかっているのだ。
 
おまけに、先ほどからチラチラと時計を気にしてもいて。

それがまた今日子の自己嫌悪を上塗りしているのだった。

 
今日子はティーカップの中に映った自分の顔をじっと眺めた。
 
赤い紅茶の中をゆらゆらと漂う表情は、冴えない胸の内を代弁しているように見える。
 
――『行かない! あんたなんか大嫌い』
 
そう叫んだのは他でもない今日子自身だ。

なのに、オカダの告げた時間が近づくにつれて落ち着かない気分になっている。

それが今日子には恥ずかしく、情けなかった。
 
そしてそんな今日子の気持ちを知っているかのような声が聞こえ、今日子の心臓はどくんと大きく鼓動を打った。

「新垣と言えば、オカダさんっていたでしょ?」
 
今日子はフォークに手を伸ばし、モンブランの頂上に立つ大きな栗の実をすくった。

「……いたね」

「このふたりが仲良くてさ、喧嘩みたいな言い合いしてても漫才みたいに聞こえて、面白いの」

「ふうん」
 
今日子は意識して無機質な相槌をうった。

そんなひと、どうでもいいと思っている風を装って。
 
けれどその相槌は、突如鳴り響いた携帯の着信音によってかき消された。

「やっべ。マナーモードにするの忘れてた! ちょっとごめんね」
 
里美は携帯を耳に押し当て、いそいそとレジの向こうに消えていった。

そしてテーブルにひとり取り残された今日子は、携帯のディスプレイに浮かぶ時間をチラッと眺め、大きなため息をもらした。

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昨夜、オカダによって大いにプライドを傷つけられた今日子は、家に戻ってからも当分の間立ち直れなかった。
 
名前を覚えられていなかったショックに加え、そのことに傷ついているらしい自分に対してもショックで。
 
早く眠ってしまいたくて、冷蔵庫にあった梅酒を飲んだ。

けれど一向に効果は現れないまま、今日子は何度も寝返りをうつハメになった。
 
しかも。
 
布団に寝転がり、天井の木目を眺めていると、急に涙がこみあげてきて。
 
次から次へとこめかみを伝って落ちる涙が、髪を冷たく濡らして。

今日子はタオルケットを頭からかぶり、声を押し殺して泣いた。
 
階下では母親のスナックが営業中だ。

だから声を殺さなくてもカラオケの音にまぎれるのだけれど、今日子は時折しゃくりあげながら、いまほとばしる涙の理由を手繰り寄せていた。

 
一つ目は、容易に想像がついた。
 
異性からチヤホヤされて当たり前と思っていた自分のプライドが、オカダによって粉々に打ち砕かれたからだ。
 
いつの間にか培われていた傲慢さが、自分は異性から興味を持たれて当たり前なのだと今日子に思わせていた。
 
なのに相手はてんで無関心で。

今日子の方は覚えていた名前を、相手からは覚えられてもいなかったことが悔しかったのだ。
 
そして二つ目は――と、今日子は口唇を噛み締めた。
 
認めたくはない。

本来なら、絶対にありえないことだけれど。
 
他の誰から興味を持たれなくても、無関心でいられても構わなかったのだ。
 
それがオカダでさえなければ。
 
二つ目、それは今日子がオカダに惹かれていたからだった。

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「――って、聞いてる?」

「え? あーごめん、ボーっとしてた。何?」
 
いつの間に戻ってきたのか、里美が怪訝そうな顔をして今日子を覗き込んでいた。

そして小首を傾げ、携帯のディスプレイに目を落としている。

「派遣の子からの電話だったんだけどさ、合コンに来てた女の子の名前を確認したい、って。あんたの事だと思うんだけどね?」

「え?」

「オカダさんが、あんたの名前を知りたがっているらしくて。回りまわってあたしに電話がかかってきたみたい」

 
静かに載せたつもりだったのに、ソーサーにカップを下ろした途端、カシャンと高い音が鳴った。

「ふうん」
 
精一杯気の抜けた返事をする今日子は、それでも心中穏やかでいられるはずがなくて。
 
オカダが、今日子の名前を知りたがっている。

そう思っただけで、そわそわと落ち着かなかった。

「ふーんって! ちょっとォ、あんた何か隠してない?」
 
里美は今日子の微妙な変化を嗅ぎつけたのか、テーブル越しに身を乗り出している。

その瞳は好奇心の三文字をはっきりと浮かび上がらせ、今日子に自白を迫っていた。
 
今日子は里美がにじり寄った分だけ身を引き、椅子の背もたれに背中を押し付けた。

「昨日花火大会の時にオカダさんがビールを買いに来て、ちょっと話した。それだけだよ?」
 
嘘ではない。

嘘ではないが、今日子は大幅に端折って説明した。
 
それはやはり、今日子の内面の問題で。

オカダに対する微妙な気持ちを、いまこの場で洗いざらい告白する気には到底ならないからだ。

 
今日子は、いまならまだ無かったことに出来ると思っていた。
 
深入りしないで引き返せば、いま今日子の胸を刺し続けている感情も、通り雨のように過ぎ去っていくものだと。
 
けれど。

「もしかして惚れられたんじゃ? ――あ、それは無いか」
 
つぎに聞こえた里美の思わせぶりな一言がひどく気にかかるのも確かで、今日子はコントロールのままならない心の揺れに、自身ですら手を焼いていた。
 
今日子はふと、視線を手元に落とした。
 
気が付けば白いケーキ皿の上のモンブランは細かく分断されていて、すでにモンブランとしての体をなしていない。

それは里美の前にあるイチゴショートの残骸と、まるっきり同じ様相で。

残骸と成り果てたモンブランをフォークですくい、今日子は黙々と口に運んだ。

そして、如何にも平気そうなふりをしている自分自身に、胸の内で悪態をついた。
 
こんなのはフェアじゃない、と。
 
里美のことを一番の友達だと思っていながら、プライドが邪魔をして格好悪い話は口に出来ない。

なんて情けないやつなんだ、と。
 
そのくせ、里美からの情報だけは聞きたいだなんて、都合がいいのにもほどがある――と。
 
そうやってさんざん自分を罵倒している今日子の耳に、気にかかっていた話の続きが飛び込んできた。

「ケイちゃんから聞いた噂話だから本当のところは知らないけどね。オカダさんは長くつき合っていた彼女に振られたばかりで、いまも傷心中らしいよ」

「そう、なんだ」

「うん。で、あの合コンはオカダさんのために企画された飲み会だった、って。ケイちゃんは最初からオカダさん狙いだから、いまも諦めてないみたい」
 
里美はそれ以上オカダの話に執着せず、氷が溶けて色合いがグラデーションに変わったアイスティーを啜りはじめた。

 
今日子はフォークを皿に戻し、窓の外を眺めた。
 
窓の際には観賞用のバナナが植わっている。

その広い葉には、雨粒がびっしりと付着しているのだろう。時折重たげに首を垂れては、雫を跳ね落としていた。
 
どんよりと暗い灰色の雲は、含んだ湿気の重みに耐えきれず、いよいよ大粒の雨を降らせ始めていて。

天井から床まで広く取られた窓にも、ななめに掠るような雨の軌跡が次々と付けられている。
 
それはやがてまとまったひとつの雫になり、窓の表面を滑るように落ちていった。
 
ふと、ガラス窓に映った今日子の頬に雨粒が伝っていって。

それを見た瞬間、今日子の胸の奥底に、オカダの声がフラッシュバックした。

 
――『絶対来いよ』
 
――『3時だぞ? 来るまで待ってるからな』
 
まさか、と今日子は鼻を鳴らした。
 
見てのとおり、こんな悪天候なのだ。

いくら何でも待っているはずがない。

――今日子はそう胸の中で呟き、視線をテーブルへと戻した。
 
けれど。
 
つい、時間が気になって。

よせばいいのに、やっぱり気になって。

「ごめん、里美。今日はこれで帰るわ」

「ええ?」
 
目を丸くしてこっちを見上げる里美に、今日子はもう一度「ごめん!」と手を合わせ、テーブル上の伝票を掴んだ。そして

「あとで電話する。あとで全部話すから」

と言い置き、そのままレジに向けて走り出した。
 
 
携帯のディスプレイには、PM.3:20の数字が表示されていた。

それはとうに約束の時間を回っていて。
 
いまから行っても、居るわけがない、とか。

こんな天気の中で待っているはずがない、とか。

いくつもの制止の声が頭をよぎるけれど、一度走り出した今日子の心は、押しとどめようとするすべての理屈を払いのけていた。
 
ただひたすら前を向いて、約束の場所を目指していた。

それは、オカダに会いたいがゆえに。







  





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