10.予感
花火大会の始まりを告げる一発目の轟音が鼓膜を震わせてから、そろそろ10分が経とうとしていた。
今日子は狭いブースの中、時折空を見上げてはため息をついていた。
何せ、今年は運が悪い。
与えられたブースの場所は丁度出店通りの中間地点で、両脇も真正面も同じ作りの屋台がひしめいている。
隙間無く埋め尽くされたビニール製の屋根が今日子の視界を遮って、空は小さく切り取られた黒い切れ端のようだった。
その切れ端に運良く花火が上がることもなければ、火薬の匂いが漂ってくることもない。
もしかすると匂いは流されてきているのかもしれないが、何しろ両サイドを焼き鳥屋と焼きとうもろこし屋に挟まれているのだ。
現状としてはただ、打ち上げられた音が耳をつんざくのみ、だった。
それでもつい空を見上げてしまうのは、もしかしたら、という期待が捨てきれないからだろう。
今日子はまたひとつ大きなため息をつき、指先でタライの中の缶ビールを転がした。
全部で4つ。
売れ残った缶ビールは砕いた氷の浮かぶ水の中に、横たわっている。
恒例になった夏祭りのアルバイトだが、今日子に回されるブースはほぼ毎年ビール売りだった。
定価350円のビールを1本600円で売りさばき、その内今日子の取り分が100円と決まっている。
今夜は立っているだけで汗が吹き出る熱帯夜で、ビール売りとしての出だしは最高だった。
まだ西日の残るうちから立て続けに売れ、ノルマ100本の内60本があっという間に無くなったのだ。
このペースを維持できれば、花火の上がる頃には完売するかもしれない。と、期待していたのだが。
「はあ」
指で弾いた缶ビールがごろんと重たげに向きをかえ、黒いラベルを揺れる水面に現した。
いくらため息をついても、4本ある缶が減るわけではない。
この売れ残りを消化しないことには、今日子は持ち場を離れられないのだ。
「今年の花火大会も、音を聞くだけのイベント、か」
今日子は不貞腐れ、誰に聞かせるわけでもない独り言を呟いた。
ブースの内側から身を乗り出して通りの左右を窺うと、小さな子供と母親らしき女性の二人連れが見える。
どうやら金魚すくいをしているらしいその二人以外には、通りを歩いてくる影も見当たらなかった。
考えてみれば当たり前だ。
せっかくの花火大会。
誰だって見晴らしの良い所へ移りたいのだから。
今日子は売れそうにないビールに目を落とし、口唇を尖らせた。
そして水ばかりが目立つようになったタライに、氷を追加しようとクーラーボックスに手を伸ばした。
――と、その時、ポケットの中で携帯が震えはじめた。
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ディスプレイに浮かびあがる見慣れた名前は、ある意味今日子の予想通りともいえる相手だった。
――メール着信 1件 横山 泰
今日子はその名前をじっと見つめ、本文を読むべくボタンを押した。
――『バイト、頑張ってる? こっちは家のベランダから花火を見上げてるよ。出来れば一緒に見たかったなあ。来年こそは一緒に見ようね。予約!』
普段は絵文字だらけのことが多い泰からのメールは、今回に限ってそのどこにも軽さが感じられなくて。今日子は文字を目で辿ると、ふうっと息をついた。
「うーん」
それは、遠まわしな告白なのだろう。
返事次第では、ふたりの関係が変わってしまうに違いないのだから。
今日子は携帯を閉じることも返信を送ることもしないまま、胸の内で『想ってくれる人に応えてあげるほうが幸せになれるんだよ』という里美の言葉を反芻していた。
それで言えば、泰とつき合えば幸せになれる、ということになるのだが。
正直なところ、泰に対して特別な感情は何もない。
単に、一番接しやすい男子。ただそれだけの存在。
でも、彼とつき合うことに不快感があるわけでもない。
高校2年にもなってカレシすらいない現状が淋しくもあり、今日子の中では次第に、『試しにつき合ってみれば?』という思いが強くなっていたのだ。
「ようし、つき合ってみようかな」
今日子は迷いを振り切り、早速返信を送るつもりでメールフォームを出した。
ディスプレイがやたらチカチカして見づらいのは、屋根から下がった裸電球のせいかもしれない。
今日子は打ち込んだ文字が読めなくて、身をよじって灯りを避けようとしていた。
――と、その時だ。
「あれえ? お前久しぶりだなあ。こんな派遣の仕事もあるんだ?」
急に携帯を握る手元に陰が落ちて。
「い、いらっしゃいませ」
今日子は慌てて携帯を閉じると、ブース越しに立つ客に向かって笑顔を振りまいた。
けれど。
「よお! やっぱりお前か」
そこに立っている男は、その声も、姿も覚えのある男だ。
無造作にはねた髪は、変色していない黒髪。
リスみたいな、少年っぽい眼差しは笑いを含んでいて。
口の端を片側だけ上げた口元は、イタズラ好きのガキ大将がそのまま大人になったみたいだ。
「――おっ、おっ、オ、カダ」
今日子の手元に影を落とす客は、どこからどう見てもオカダその人だった。
「何だよー。感動しちゃった?」
そう言って今日子を覗き込んでくる不遜な態度は、あの合コンの夜と全く変わらない。
「そーかそーか、言葉も出ないか。運命を感じちゃったりしてんだろー?」
口を開けばいい加減なことばかり飛び出す所も、相変わらずらしい。
今日子はしばらく立ちすくんでいたが、オカダの茶化すような声にハッとなった。
ボーっとしていたら、それはオカダの思う壺。好き放題にバカにされ、からかわれるのは目に見えている。
「ば、バカじゃないの? 何であたしが、あんたなんかに」
今日子は携帯をポケットにねじ込み、ブース越しにオカダを睨みつけた。
しかし。
「うけるっ。急に元気になったと思えば憎まれ口かよ。キスまでした仲なのに!」
忘れたい過ちをいきなり大きな声で暴露されて。
ブースを取り巻く同業者たちがいっせいにこちらを振り返り、好奇の目を向けてくるのが気配からわかった。
「ちょ……! あんた、こんな所で変なこと言わないでよ」
この男には羞恥心がないのか、と今日子は苛立たしさに口唇を噛み締めた。
無意識のうちに握り締めていた手のひらは、内側に爪の痕がくっきりとついているはずだ。震えるほどに強く、拳をにぎっていた。
「だーって、ホントにしたじゃん? それはそうと、ビール売ってよ」
オカダは今日子の都合など気にも留めていないのか、全く意に介せずといった様子で。氷水の中に転がるビールを物色しながら、気の抜けた返事を返す。
そんなオカダの、如何にも大したことではないとでも言いたげな物言いが癇に障り、今日子は思うよりも先に口走っていた。
「あんたなんかに売る物は何もないってばっ! 帰れ」
その声は、やたら甲高く響いて。
今日子は手のひらで口を覆い、居心地の悪さに肩をすくめた。
背を屈めてタライの中を覗き込んでいたオカダは、今日子の怒鳴り声に反応して顔をあげた。
あっけにとられているのか、口をあけてぽかんとしている。
小動物を思わせる奥二重の瞳も、大きく見開かれたまま瞬きすらしない。
謝る筋合いなんてない。
失礼なのはこの男だって同じだ。と、今日子は心の内で声を荒げた自分の正当性を数えあげた。
けれど、それでも時間が経つにつれ、言い過ぎたような気がしてきて。
「あ、あの」
売り子としては不適切な対応だった――と無理矢理自分に言い聞かせ、今日子は100歩譲ってオカダに詫びようとしていた。
なのに。
「油断大敵!」
いきなりタライの中の氷水を浴びせかけられ、今日子は思わず飛びのいた。
「何すんのよー! 心臓がっ、止まるかと思ったじゃないの!」
オカダの不意をつくイタズラのせいで、エプロンは水浸しだ。
今日子は先ほどまでの殊勝な反省もどこへやら。腕で顔をぐいっと拭い、目の前で笑い転げるオカダをキッと睨みつけた。
「もうっ、ムカつく。早く消えてよー!」
いい大人のくせして、なんて子供なんだ。
こんな奴に頭を下げようとしていたなんてどうかしていた。と、今日子は怒りに目をつり上げ、頬を膨らませた。
けれど、オカダは今日子の怒りなどお構いなしといった具合で。タライに横たわる缶ビールを指差し、
「なあ? もしかして、これでラストだったり?」
と、顎を引いた上目遣いで今日子の瞳を覗きこんでくる。
――だから何? あんたに関係ないでしょ?
今日子はそう言いかけて口をつぐんだ。
何せ、意地悪なオカダのことだ。
もしかすると
『あー! ナンパされると思ってんだ? 自意識過剰すぎ』
だなどと、揚げ足を取る魂胆かもしれない。
でも――、この手の問いかけの後、続く言葉は大体いつも同じなのだ。
――『全部買ってあげるよ。だから遊びに行こう』
十中八九そんな台詞が返ってきて、無理に連れ出そうとする。売り子にナンパを仕掛けるセオリーみたいなものだ。
オカダがどういうつもりでそんなことを聞くのか。今日子はその意図を探るつもりで、彼の瞳を窺った。
けれど。
返事を待つオカダは、あの夜空を見上げた時と同じ、ワクワクとした少年のような眼差しを向けていて。
「うん……」
気が付けば、今日子はバカ正直にそう答えていた。
途端、オカダの瞳が眩しそうに細められ形の良い口唇が開かれた。
「じゃあ、オレが4本とも買ってやるよ。一緒に花火見よーぜ」
オカダはブース越しに身を乗り出して、今日子に手を差し伸べてくる。
今日子は、その差し出された手を取ることを躊躇した。
理由なんて、説明がつかない。
ただ耳の奥でこの時確かに、『行かない方がいいよ』という忠告が聴こえたのだ。
なのに。
「ホラ、来いってば」
次の瞬間、今日子の手は強引に引き寄せられていて。一方的に握られた手の先からは、オカダの熱い体温が流れ込んでいた。
オカダは無邪気な笑顔を残したまま背中を見せ、人通りのまばらな出店通りの、トンネルの出口へ向かって走り出した。
手を引かれた今日子は、躍動する広い背中について行くのが精一杯で。いつしか全力で追いかけていた。
視界がひらけた瞬間。
地の底から震えるような轟音が、夜空に大輪の花を咲かせた。
ジリジリと燃え尽きて消える一瞬の閃光が、二人の横顔を照らし出していた。
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