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ふりかえる

作者:栖坂月
夏のホラー2009参加作品です。
刺客その二れっつごー
 彼が『それ』に気付いたのは、高校に入学して間もなくのことだった。
「お、今季初の入道雲」
 いつもと同じ手すりに肘を付いて、乾いた風を浴びる。つい一週間ほど前までは重く感じられた風も、まるで遅い衣替えを終えたように軽快だ。すでに見上げることすら面倒に思える日差しを受けて、色気のないコンクリートの足元から熱気が立ち昇ってくる。
 梅雨明けの宣言がニュースの端に聞こえたのが昨日のことだ。空も風も、それを待ちわびたように自らの夏に対する意気込みを示している。暑いのが苦手であったなら、早々に退散したくなる喧騒だった。
「青いなー……」
 彼は空が好きだった。眺めていると吸い込まれそうになる奥深さが好きだった。自分をちっぽけに見せてくれる広大さが好きだった。もしも手すりがなかったなら、何度この屋上から転落していたかわからない。
 その日の昼休みも時間と場所を忘れて空を眺めていた彼の耳に、聞き慣れたチャイムの音が入ってくる。
「何だよ、もう終わりか」
 ボヤきながらも素直に視線を下ろし、鉄製の重いドアを開けて校内へと入る。さほど暑いという自覚はなかったのだが、日陰に入るや否や冷気に包まれ、外皮を落ち着かせた。彼自身、いつの間にか噴き出していた汗に気付き、短い袖で頬を拭う。
 階段を下り、踊り場で反転して、更に階段を下りる。
 四階へと下り立つ、その最後の一段を残して立ち止まった。
 首を巡らせることなく、視線だけを少し左側に動かして、いつもそこに居る『それ』を確認する。
 カエルは、やはりその日も背中を向けていた。
「何だかなぁ」
 壁を向いて拗ねているように見えるカエルを、左手で反転させる。鮮やかな黄緑色に浮かぶ大きな目と口が、愛想良く微笑んでいた。デザイン的には薬屋のマスコットに似てなくもなかったが、より目と口がデフォルメされたような印象だ。
 そのカエルは、彼が気付いた時からここに居た。
 僅かに表面の剥げた壁に突き立ったネジに、いつもぶら下がっていた。おそらくはストラップであろうことは予想できたが、誰かが取りに来る様子は今のところない。四階から屋上へ向かう階段の入り口という、いささか目立たない場所ではあるものの、三ヶ月経ってもそのままというのは、現在も探しているとはとても考えられない。
「捨てられたのか? お前」
 だから見る度に背中を向けているのかと、彼は勝手に納得する。
「おい竹中たけなか、また屋上に行ってたのか?」
「ん?」
 声に気付いて振り向くと、階下から上がってきたばかりのクラスメートが彼を見ていた。特に周りから浮いているというワケでもないが、彼が屋上へ頻繁に出入りしていることを知っているクラスメートは少なくない。
「この暑いのに、よく外へ出る気になるよな」
「日差しは強いけど、風があるからね。そんなに暑くもないよ」
 若干の強がりはご愛嬌だ。
「ボーッとして、うっかり落ちたりするなよ?」
「んなワケあるか」
「いやいや、ホント気を付けた方がいいぞ?」
「手すりだってあるし、簡単に落ちたりしねーって」
 熱射病にならなるかもしれないが、と言いかけて、迂闊な発言を喉元で抑える。中学の頃から屋上に入り浸っていた彼にとって、夏の屋上がどんな場所であるのかは誰よりも知っているつもりだった。
 事実、鉄板焼きの肉はこんな気分なのだろうかと、シャレにならない連想を抱いたこともある。
「でもお前、立入禁止の理由は知らないだろ?」
「理由?」
 高校生になって三ヶ月、高校の屋上が立入禁止なのは常識であろうという程度の認識しかなかった彼にとって、その発言は奇怪にも聞こえた。
「去年、自殺者が出たらしいぜ。屋上からの飛び降り自殺、部活の先輩から聞いたんだけど、スゲー騒ぎだったらしいぜ」
「へぇ……」
 曖昧な頷きと同時に、僅かに触れていたカエルから指が離れる。
 カラリという乾いた鈴の音が、小さく響く。
 それが人の囁きに聞こえて、彼は壁から飛び退いた。
「どうした?」
「いや……何でもないよ」
 一瞬感じた気味悪さを誤魔化すように、彼は強引に笑顔を浮かべることにする。しかし自分でもわかるほど、その頬は不自然に歪んでいた。それがスルーされたのは、単にそれほど親しい相手ではなかったためだろう。
 屋上から飛び降りての自殺、出来事としては奇異と言えるほどのことではない。ただ、去年というタイミングが近過ぎるだけの話だ。
 彼は不意に視界を広げ、周囲を見回して確認する。
 昼休みが終わろうかという教室前、当然ながら人の姿はある。しかし、彼に向けられる眼差しなどどこにも見当たらない。ただ一つ、壁に掛けられているカエルだけを除いて。


 翌日の昼休み、竹中はいつも通り屋上に来ていた。
 昨日の話を忘れたワケではない。むしろ頭の中は、朝からそのことで一杯だった。いや、より正確に言えばクラスメートから聞いた話そのものに頭を悩ませていたのではない。単純に自殺の現場へ足を運ぶことが問題であったとしたら、屋上に来ることを躊躇ためらっただろう。
 だが、今彼は屋上に居る。屋上で流れの速い雲を見ている。
 その内部で渦巻く中心にあるのは、自殺ではない。
 カエルだった。
 彼自身にもその理由を明確に説明することができないものの、自殺の話を聞いてから、彼の頭にはカエルの姿がこびり付いて離れなかった。何一つ確証などないどころか、関係があると思しき情報の一つすら持っていないというのに、どうしても無関係であると断ずることが出来なかったのだ。
 ただ、これが思い込みであると仮定して、そう思わせる理由には心当たりがあった。
 カエルが常に背中を向けている、という事実だ。
 毎日のように屋上へ通っている彼だが、その度にカエルの姿を確認しているワケではない。ただ、彼の記憶にあるカエルは、一つの例外もなく背中を見せていた。あるいは記憶にない時にはこちらを向いていたのかもしれないと、淡い想像を試みることは出来るものの、その説に深い納得をすることは出来そうもない。
「……わっかんね」
 背中にチャイムの音を聞きながら、視界を正面に落とす。彼方まで広がる町並みが、途切れることなく続いている。それは台風の近付きつつある海のように、大人しくはあるが不穏な波で警告しているようにも見えた。
 明らかに材料が足りていないと判断した彼は、後ろ頭を掻きながら校舎内へと入ることにする。鉄扉を閉じた際の反響を合図に意識を切り替え、彼の過ごす現実へと戻ることにした。
 階段を下り、踊り場で反転する。
 そこで足を止める。彼は慌てた素振りで身を屈め、階段の陰に隠れた。
 見覚えのある人物が、例のカエルに触れていたからだ。
 とはいえ、知り合いというワケではない。単に相手の女生徒が有名人であっただけの話だ。彼女は雨宮という名前で、生徒会長をしていた。
 何をしているのか、その詳細を覗こうと顔を出した彼だったが、すでに彼女の姿は消えていた。急いで階段を下り、カエルの前で足を止めて周囲を見回してみるが、どこにも彼女の姿は見当たらない。
 背後を見ると、そこにはいつもと同じようにカエルのストラップが下がっている。ただ、屋上へと出る前に引っ繰り返したハズのそれは、淋しそうに背中を向けていた。
 彼は手を伸ばすが、触れる寸前で思い止まる。
「……もしかして、会長が背中を向けてた?」
 そんなことをして一体どうなるのか、彼には理由を思い付くことすらできない。そもそも、ここは一年の教室が並ぶ四階である。三年生の彼女が足を踏み入れる理由すら、滅多にない場所だ。むろん生徒会長である彼女だけに、何かしら用事があって訪れることはあるかもしれない。訪れたついでにカエルを見付け、嫌いだから引っ繰り返していたというなら理由は簡潔だ。
 しかし、それがもしカエルを引っ繰り返すための訪問であったとしたら、それがどんな理由によるものかなど想像することさえ難しい。
 だが、それを不思議と思いつつ、彼はどこかで確信していた。
 彼女の目的が、あのカエルであることを。


 三日後、彼の確信は更に深まった。
 登校した寝ぼけ眼の彼を出迎えた下駄箱の中に、一通の手紙が届けられていた。差出人は言うまでもなく、生徒会長の雨宮である。飾り気のない純白の便箋には、ハートマークなど当然ながら見られるハズもなく、それがあまりにも印象にある彼女と重なって微笑ましく思えたほどである。
 これが仮に標準的なラブレターであったりしたら、彼はむしろ誰かの悪戯ではないかと、疑っていたところだろう。
「話か……やっぱり、あのカエルのことだろうなー」
 いつものように夏空を眺めながら、白い便箋を陽に透かして呟きをもらす。その文言は暗記するまでもない。放課後七時に屋上で話がしたい、というものだ。受け取りようによっては恋文と思えないこともないが、彼女との接点を考えれば浮かれる道理など微塵もない。
 ただ、彼女が彼を知っているという事実に、それほど不審な点はなかった。実は過去に一度だけ、この屋上という場所で二人は顔を合わせたことがある。入学して間もない頃、彼がここを二度目に訪れた時のことだ。夕陽を眺める先客だった彼女は慌てたようにきびすを返し、二人は言葉もなくすれ違っている。当時は彼女の名前はもちろん、学年も生徒会長だということも知らなかった。後の全校集会で壇上にいる彼女を見て、彼は相当に驚いたものだ。
 しかしそれ以来、彼女との接点はない。いや、ないと思っていた。
 屋上で会うこともなく、有名人である彼女とは違い、彼の名前が彼女の耳に届くこともなかったハズであろう。そもそも彼は、彼女のような人間が興味を惹かれるような男性ではない。それがカエルを通じて間接的な接触を持ち、彼の名前やクラスを調べた上で手紙まで寄越してきたのである。単なる悪戯と考えるには、あまりにも手間が掛かりすぎていた。
 少なくとも、この熱意にだけは応じる必要があると、彼は大して悩むことなく結論付けた。
「とりあえず、会ってみるくらいはいいよな、うん」
 どんな用事であるのか判然としない部分に少しばかり不安はあるものの、断るだけの積極的な理由は思い付かなかった。しかも相手は美人の異性である。それだけでも会う価値はあると言えるだろう。
 彼は口元を緩ませ、流れのない夏空を見上げる。
 どこまでも青い空が、何故か淀んで映った。


 鉄扉を開けると、風が吹いていた。
 西の空に太陽はすでになく、残滓ざんしのようなオレンジが雲の端々に見えるだけだった。東から広がる遅れた闇が、さながらカーペットに溢したワインのように広がっていく。夜と言うにはまだ早く、さりとて夕方と呼ぶには遅すぎる、そんな頃合だ。
 遠くで鳴くヒグラシの声が、風に乗って優しく響く。
 彼はしばらく扉の前で躊躇したものの、意を決して足を踏み出した。緊張していないハズはない。女性に呼び出されるなど初めての経験なのだ。
「あ、あの……」
 手すりに肘を付いて町並みを眺めていた背中に呼び掛ける。
 彼女の様子に硬さはない。むしろ背中から漂う気配は柔らかく、どこまでも穏やかだ。少しだけ生温かい風を浴びてなびく艶やかな黒髪が肩を撫で、軽やかな香りを周囲に振り撒く。
 近付いただけで、彼は頭がクラクラしていた。
「来てくれたのね。相手にされないかもって思ってたけど」
 彼女は振り返らない。
「そんなことあるハズないですよ」
「……そうね。あからさまに無視した方が怪しまれるでしょうし、利口な判断だと思うわ」
「えっと、何の話ですか?」
 彼には今一つピンとこない。あるいは人違いなのではないかと、真剣に考えてしまった。
「決まっているでしょう。あの『カエル』の話よ」
「カエルって、あの階段の所に掛かっているヤツですか?」
「アレを戻していたのは、貴方なのよね?」
 彼は確かに、あのカエルを見る度に引っ繰り返していた。それは紛れもない事実だ。
「まぁ、そうですけど」
「それで……」
 彼女が振り返る。中途半端な闇を背景にして、その表情が彼の方へと向けられた。
 彼は息を呑む。そのまま何もかもが止まってしまうのではないかと思えるほどに、全身が動かなくなった。
 いや、彼ばかりではない。風が止み、蝉の声ですら止まっている。刻一刻と変わっていくオレンジの影すら、その瞬間だけは凍り付いたように見えた。それを彼女が引き起こしているなど、誰に告げたところで信じられる話ではないだろう。
 だが、彼はそう信じた。
 信じたいと思いたくなる笑顔だった。
「どこまで知っているの?」
 口の端が吊り上がり、眉間には不敵な皺が寄っている。それはまるで、嫌いな虫を殺虫剤でいたぶり殺しているかのような、あまりに残忍な笑顔だった。何もされていない、触れられるどころか近付いてすらいないというのに、その圧迫感で息が詰まる。
 まさしく彼は、蛇に睨まれたカエルそのものだった。
「え、知っているって……」
 どういう意味なのか、彼には皆目見当もつかない。
「あの子とは、どういう関係なのかって聞いているのよ」
「あの子?」
 誰のことなのかすら、彼にはわからなかった。
「ここまで来てとぼけるんだ。ずいぶんと意地が悪いのね。それとも、私が貴方に疑いを抱いていないとでも思っていたとか?」
「あの、何の話なのか……」
「だから、カエルの話をしてるんだって」
「カエルって、あの『カエル』ですよね?」
 思い当たるカエルは、例のストラップ以外にはない。
「そうよ。私が聞きたいのはね、竹中君。あのカエルを、貴方が、どうして、いつも、元に戻しているのかってことよっ」
 言葉を短く区切り、その一つ一つを吐き出すように彼女は告げる。その声には憎しみと、嫌悪と、そして少しばかりの恐怖が感じられた。
 一方の彼は、親切心を迷惑がられたかのような顔で、佇むしかなかった。彼がカエルを見る度に引っ繰り返していたのは、単なる気紛れと習慣からだ。特に深い想いを抱いての行為ではない。そのことで一人の女性が苦しめられようなどとは、露ほども思ってもいなかった。
「あ、すいません。その……ちょっと気になっただけなんです」
「ちょっと気になった?」
 彼女の表情が一段険しくなる。
「その、可哀想というか、そんな感じで、つい……」
 もっと相応しい言い訳があるのではないかと思いつつ、彼は正直に自分の本音を口にした。
「可哀想……くくくっ、あははははっ」
 彼女は笑い始めた。
「な、何で笑うんです?」
 一瞬呆気に取られた後、その無礼に気付いて表情を引き締める。だが、そんな彼の疑問に応じて向けられた眼差しには、ドス黒く激しく燃え盛る炎が揺らめいていた。
「そりゃこっちの台詞だっての」
 返ってくる声は、意外なほど落ち着いている。それなのに、彼の足は根を張ったように持ち上がらなくなり、指先が痺れたように感覚が遠くなっていく。意識して踏ん張っていないと、今にも腰が砕けてしまいそうだ。
「可哀想なのはこっちよ。アンタの心無い嫌がらせのせいで、私がどれだけ気味の悪い思いをしたのか、知りもしないクセに。まぁ、それもこれで終わりだから、もういいんだけどね」
「い、嫌がらせ?」
 顎も恐怖からかカタカタと震えている。うっかりすると歯が鳴ってしまいそうだった。
「そうとしか言えないでしょ。そうじゃなきゃ、何だって言うワケ?」
「いや、だって、あれくらいのことで……」
 カエルを引っ繰り返しただけで恨まれたのでは、さすがに文句の一つも言いたくはなるだろう。
「あんだけのことをしといて、よくもそんな台詞が吐けるものねぇ。あのカエルを、私がどれだけ苦労して捨ててきたと思ってるのよ。最初は近く窓から、それからグラウンドの隅、校舎の裏、果てはワザワザ川原まで出向いて捨ててきたこともあった。なのに、次に見かける時にはいつも元に戻ってた」
「え?」
 二人の間に横たわる温度差の意味に、この時初めて彼は気付いた。
「全部見付けてきたの? そんなハズないか。絶対に取れない場所に捨ててきたこともあったし……そうなると、同じヤツを幾つも用意してたってことよね?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「用意周到もここまで来ると気持ち悪いんじゃないの? それとも、そんなに『あの子』がいなくなったのが悔しかった? 言っとくけど、あの自殺は私のせいじゃない。たったあれしきのことで自殺するだなんて、思ってもみなかったのよ、こっちは!」
 彼の制止は届かない。
「アンタさぁ、あの子の何なの? 彼氏? それとも親戚とか幼馴染み? ううん、違う。もしそんな関係だったら、調べた段階でわかっていたハズだもの」
「調べた?」
「そーよ、竹中君。家族構成から出身中学、成績に身体データ、親の職歴や近所との関係、もしかするとアンタ自身より詳しく知ってるかもね。でも……」
 奥歯が鳴る。
「あの子との接点が見付からなかった。どこにも、何一つ!」
 彼女の叫びは天を突き、周囲を激しく震撼させる。だが、それで満足したのか、一息吐いた彼女の雰囲気は急速に落ち着きを取り戻し、夜に映える白い花のような笑顔を浮かべた。
「けどね、もういいの。もうアレコレ考えるの疲れちゃった」
 嬉しいという感情が素直に伝わってくる笑みから、彼は視線を逸らすことができない。本来なら和みの象徴ですらある美人の笑みが、この時ばかりは金棒を振り上げた鬼のように見えた。
「そろそろいいよ。出てきてちょうだい!」
 屋上に足音が増える。
 動かない首を強引に捻って振り向くと、階段の陰にでも潜んでいたのか、二人の男達が姿を現した。どちらも辛うじて制服を着込んではいるものの、どう見ても楽しい学園生活を過ごしているような輩ではなかった。不良やヤンキーなどという単語で言い表すことすら生易しく思えるほど、リタイア寸前の連中だ。
「ようやく出番か」
 手に持った金属バットがコンクリートを引っ掻き、耳障りな音を立てている。そんな不快さこそが自己の存在する理由であるかのように、彼らは揃って金属バットを引きずっていた。
「で、コイツをぶちのめしたらいいのか?」
 間近で足を止め、髪の毛全てを逆立てたような男が冷たく言い放つ。それは感情を抑えたような声ではない。まるで最初から感情がないかに思えるような声だった。
「おい雨宮、約束は忘れんなよ?」
 もう一方のスキンヘッドは、歪んだ笑みを浮かべている。口調は軽く、真剣な素振りなど微塵も感じられなかったが、大きく見開かれた目だけは、不自然なほど血走っていた。
「えぇ、その男を学校から追い出しさえすれば、好きなだけヤらせてあげるわ」
「へへへ、それじゃあ……」
 男達がバットを持ち上げ、凶悪な一歩を踏み出す。
 彼の腰は何一つ力を加えることなく砕け、膝が折れた。
 三人の男女が高くなり、暗い空が遠く見える。
 もう駄目だと覚悟して、彼は硬く目を閉じた。
 刹那、この状況を見計らっていたかのように風が通り過ぎる。突風は砂塵を伴い、闇に慣れて開き切った目を直撃した。と同時に彼の背を押し、コンクリートに根付いていた足が持ち上がる。それはまさしく、絶妙と称すべきタイミングであったと言えるだろう。
 彼は低い体勢のまま、四つん這いで鉄扉へと走る。無様な姿だが、今はそんなことを気にしていられる余裕はない。もし追いつかれたら袋叩きは必至、下手をすれば命を落とす可能性だってないとは言い切れないだろう。その恐怖心があるからこそ、彼の手足は辛うじて機能しているというのが実情だ。
「くそっ、開けよっ」
 ガチャガチャとノブを回し、荒い息を吐きながら力一杯押し込み、慌てて引っ張ると内側に滑り込む。すでに何度も出入りしているハズの扉を押すべきなのか引くべきなのかすら、混乱しているようだ。
「ちょっと、何やってんの、アンタ達。さっと追うよ!」
 扉の向こう側から女の声が響く。
 それはもう美人の生徒会長などではなく、彼を殺そうと目論む悪鬼の言葉としか思えなかった。
 彼は休息を欲する両脚に鞭打って踏ん張り、急いで階段を駆け下りる。しかし逸る思いとは対照的に、その動きはあまりに鈍く、ぎこちなかった。精神と肉体が、すでにバランスを失って制御できていないのだ。
 精一杯の全力疾走をしているつもりの背後から、鉄扉の開く音が響き渡る。最初の踊り場にようやく到達したばかりの彼は、激しく慌てた。だが、彼には逃げる以外の選択肢がない。悩むことも迷うことも許されない。手すりを軸に最小限の動きで身体を反転させ、ふらつく足を鼓舞しながら更に階段を駆け下り始めた。
 だが、背後に響いた派手な着地の音が、彼を動揺させる。
 元々大きな差ではなかったにしても、それを一瞬で縮められたことが恐怖を煽った。それまで辛うじて保たれていたバランスは脆くも崩れ去り、踏ん張りの利かなくなった膝は簡単に折れ、彼は前のめりに転がって階段を落ちた。
 闇に浮かぶ輪郭に乏しい景色は反転し、大きく揺れて、グルリと回る。打ち付けた痛みよりも、視界の急速な変動に混乱した頭がついていけなかった。上下を失い、時間を忘れ、現実との繋がりが曖昧になる。それを必死に取り戻そうとして、彼は吐き気をもよおした。
「逃げられると思ってるの?」
 声に気付いて顔を上げると、階段の手すりにもたれかかっている彼女と目が合った。その手には細長い物体が握られており、踊り場の窓から入ってくる月の光を浴びて白い輝きを放つ。
 どこから取り出したのか、彼女の右手にはナイフが握られていた。
 その直接的な、傷付けることだけを目的としているかのような白刃の反射光が、彼の視界に焼き付く。呼吸どころか心音すら止まっているかのように、全身が固まっていた。
「くそっ、ヒデー風だったぜ」
 スキンヘッドが踊り場から階段へと下りてくる。その背後には、ツンツン頭も続いていた。彼の現状を考えれば、一対一であったとしても勝てる気がしないというのに、これで明確な三対一だ。助けを呼ぼうにも、すでに人影のない教室棟は照明を落とされており、気配すら感じられない。
 月明かりを浴びて薄笑いを浮かべる三人だけが、この世界の全てだった。
 彼の恐怖はピークに達し、もう足は動かない。そして転げ落ちた時に捻挫でもしたのか、左手首が大きな針でも打ち込んだような激しい痛みを訴えていた。顎は下がり、まばたきすら意識しないとままならない。
 そんな中、右腕だけが悪あがきをするように動いていた。壁を這い回り、手を掛ける場所を探している。自分だけでも生き残りたいと、必死になって逃げ回っているように見えた。
 カラリ。
 ふと、彼の指先が何かに触れる。音に反応して、その場に居る四人の視線が集中した。
 精一杯伸ばした彼の中指の先には、カエルがいた。軽く触れただけのそれが、まるで自分の存在を主張するかのように反転する。大きな口と目が、虚空を見詰めるように現れた。
「な、んで……つい、さっき……」
 彼女の動揺は、尋常ではなかった。青い月明かりの下でさえ明確にわかるほどに白く、そして蒼く変じている。ガタガタと震える彼女の口からは、もはや呟きとすら思えないほどの小声が、次から次へと溢れていた。彼にも二人の男達にも、その内容までは届かない。しかし同時に、それが彼女自身を追い詰め、狂わせる呪文であろうことは、何となく理解できた。
「おい雨宮、しっかりしろよっ」
 さすがにこのままでは危ないと察し、スキンヘッドが声を掛ける。肩を叩こうとでもしたのか、階段を一歩下りて近付いた。
「触るなっ!」
 刹那、皿のように見開かれた眼差しと共に、白い輝きが直線を描く。男の手から金属バットが離れ、回転しながら隙間を縫うようにして階下へと転がり落ちていく。高く耳障りな金属音が、一つ下の踊り場から校内中に響き渡った。
「があああぁっ!」
 と同時に、スキンヘッドが右手を押さえてうずくまる。
 彼女は周囲が見えておらず、男の一人は負傷、もう一人は仲間に起きた惨劇に唖然としている。これ以上の逃げる好機はあるまい。
 しかし、彼は動けなかった。
 彼の視線は、少し前方の床に向けられている。そこに貼り付いたまま、動かすことができずにいた。踊り場から差し込む月明かりによって作られた白い舞台の真ん中に、それは輝いていた。
 真紅に染まる、指と爪。
 周囲が、生臭い鉄の匂いに覆われていく。それは彼の力を、あるいは意識を奪うように、彼の中へと入り込んでいった。
「見るな……私を見るな……」
 虚ろな眼差しで闇を眺めつつ、彼女は呟きを漏らす。
 もはや正気でないことは、誰の目から見ても明らかだ。
「おい、大丈夫か?」
 ようやく我に返ったツンツン頭がバットを放り投げ、スキンヘッドに背後から近付く。先程まで感情などないのではないかとすら思われた男の表情には、明確な焦りと恐怖が浮かんでいた。
「何でこんなこと――」
 非難の眼差しを上げた瞬間、言葉が止められる。
 男の顔面に、白刃が突き刺さっていた。左目の真ん中が貫かれ、僅かな痙攣をした後に、その動きを停止する。驚愕の表情が、顔面に張り付いたまま固まっている。
「見んなって言ってんだろーが!」
 そんな罵りと共に、再度刃物を突き立てる鈍い音が響く。両目を抉られて血だらけになった男は、すでに気を失っているのか、糸の切れた操り人形のように力なく崩れ落ちた。
 その、砂袋を投げ捨てたような音に、彼の意識がようやく現実へと戻ってくる。恐怖で神経は麻痺したままだったが、命の危機を告げる警鐘には気付くことができた。
 それは直感でも予感でもない。確信だった。
 このままでは殺されるという、明確な未来予測だ。
 目を合わせたら危険だということは何となく理解し、視線を下に向けたまま立ち上がろうと下半身に力を込める。しかし、やはり動かなかった。それはもう、自分の脚ではないのではないかと疑いたくなるほどに、ピクリとも動かなかった。
「見るな……見るなよ」
 彼女の足が、彼の方へと向けられる。
 一歩、また一歩と近付いてくる。顔を上げずとも、どんな表情をしているのかわかるほど、彼女は闇にまみれていた。やがて立ち止まると、白い舞台に映る彼女の影が、大きく右腕を振り上げる。その先端にある切っ先が、やけに眩しく周囲を照らした。
「見るなっ!」
 覚悟を決める彼の僅か上、何か硬い物を掠るような音を立てて、白刃が壁にめり込んだ。
 カラン。
 月明かりに似合う涼しげな音が、闇に木霊する。
 それはまるで、雪に熱湯を降り注ぐように恐怖を溶かしていった。今まで動かなかった脚が途端に力を取り戻し、遠くに感じられた視界が自分の意識下に返ってくる。
 彼は走り出した。
 背後の状況や彼女の反応が気にならないというワケではない。しかし、とにかく走ることだけに専念した。四階、一年生の教室が並んでいる廊下を走り抜け、とりあえず外に出ることだけを考えて昇降口に向かう。
 だが、廊下を左に折れたところで、彼は止められた。
 大きな音を聞きつけた教師と、ぶつかってしまったからだ。
「竹中じゃないか! 慌ててどうした?」
 見知った体育教師の出現に、全身の力という力が抜けていく。すでに声を出すことすらできなくなっていた彼は、震える指先を彼女のいる階段へと向けるのが精一杯だった。
「わかった。お前は職員室に行ってろ。いいな?」
 そう言い残し、教師は走り去る。
それが合図であったように、彼の意識は闇の底へと沈み始めた。疲労とストレスから、激しい眠気が全身を包む。廊下に大の字に寝そべったところで、ようやく恐怖が過ぎ去ったことを悟って気を失った。
 月明かりすら届かない闇の中で、彼は微かな鈴の音を聞いたような気がした。


 九月初日、すなわち二学期初日、彼は久しぶりに学校の屋上へと足を運んでいた。始業式やホームルームが終わり、ほとんどの生徒達は家路についている頃合だろう。
 あれから、もう二ヶ月近くが過ぎようとしている。
 難を逃れた彼だったが、無関係ではなかったために色々と事情を聞かれ、警察にも何度か出入りした。二人の重傷者を出した事件であることを思えば、むしろ彼の負担は軽く抑えられた印象すらある。
「これも、お前のお陰なのかね」
 右手の人差し指にぶら下げたカエルのストラップを揺らしながら、手すりに肘を付く。そしてストラップを手すりに巻き付け、輪にカエルをくぐらせて固定する。
 大きな目は、ずっと彼方まで広がる人の町並みを見ていた。
 その目の横には、あの時に付けられた傷が、生々しく残っている。端が削れ、地金が露出していた。もしもカエルが居なかったとしたら、彼がその傷を受けていたかもしれない。
「ホント、あの時はヤバかったな……」
 彼女のキレ方は尋常ではなかった。
 いや、キレたというより、イカレたと称する方が正確かもしれない。彼女はあの事件以降、完全に精神を病んでしまった。取調べの際も『捨てたのに、どうして居るんだ』と呟くばかりで、なかなか要領を得られずにいる。現在も精神鑑定が続けられている最中だ。
「もう二ヶ月か」
 彼に実感はない。暦の上では秋に突入する頃合といっても、まだまだ暑さの厳しい季節だ。しかし見上げた空に浮かぶ雲は、少しずつ遠く、細かくなっている。秋の気配は、すぐそこに迫っていた。
 彼は右手を伸ばし、軽く握る。
 天は遠く、高く、吸い込まれそうになるほど深い。
 次いで少しだけ身を乗り出し、地面へと視線を下ろす。
 そこにあるのは虚しい行き止まりと、儚い現実のみだ。
 彼はとても、そんな場所へ飛び込もうななどという気になれない。ここから飛び降りて自殺するなど、どうかしているとしか思えなかった。
「……お前の主人も、空を見てたら良かったのにな」
 去年自殺した女生徒の話は、かなり後になって聞かされた。その女生徒は校内で暴行された後に飛び降りて自殺したらしい。それが今彼の立っているこの屋上からだというのは、もはや偶然ではないだろう。暴行した男子生徒は当然ながら逮捕後に退学となり、処分としてはすでに決している。ただ、それはあくまで偶発的な犯罪として処理され、周囲との関連については調べられなかった。
 彼女が生徒会の役員であったことは、今回の事件を機に注目され始めた事実である。
「さて、そろそろ帰るかな」
 言いながら指先でカエルをつつく。まるで言葉を返すように、涼しげな鈴の音が鳴り響く。その音に満足したような笑みを浮かべると、大きく伸びをしながら踵を返した。
 陽光は厳しく、風は熱く、蝉の声も激しい。
 夏の残り香を一身に浴びる小さなカエルは、今にも干からびてしまいそうだ。
 だが、その眼差しに曇りはない。
 遥か彼方を見詰める大きな眼は、とても誇らしげだった。

 そしてこの日以降、このカエルを見た者は、一人も居ない。
後味の良いホラーがテーマでした。
最後に落とすのがホラーの定石ですから、これは明らかに異端でしょうね。
でも個人的には結構気に入ってます。
怖くなくてもいいぢゃないっ!

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