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第1話の9
 フェンリルたちを乗せた馬車はひたすら北を目指して進んでいた。舗装され

た石畳の道路から、うっすらと雪を被った野原へ。そして急勾配の砂利道を登

り始めて間もなく、馬車は急に停車した。

「休憩だ。降りろ」

 前方の幌が開き、御者を務めていたフレイヤ館の男が顔を覗かせる。

「スキを見て逃げるぞ。いいな?」

 降りて行く浮浪者や家なし子たちを見送りながら立ち上がった時、隣にいた

ジェイドが抑えた声でそう告げてきた。

「それ、いつもの予言?」

 聞き返せば、ジェイドは苦笑いを向ける。

「そういうことだ。お前、ペーターとローズマリーを頼む。俺はアイリスとプリ

ムラを守るから」

「分かった」

 頷きつつ、何でもない顔をして馬車を降りる。月明かりの下、一切の生命を拒

む厳しい表情で、フラヒヤ山脈が間近に迫っていた。気温の低さのせいで、吐く

息が白い。身ぶるいしながら、フェンリルは両手をこすり合わせた。

「おい、ハンターがいるぞ」

 横からジェイドに突かれて振り向くと、砂利道の傍に建てられた木造の粗末な

小屋の前に、一目でそれだと分かる姿の男が四人、フレイヤ館の職員と何事か話

し合っていた。月の淡い光の元、松明の灯りに照らされながら、ひっそりと佇ん

でいた小屋の傍には三頭のポポが縄に繋がれている。そして、職員たちが荷車か

ら馬を外し、代わりにポポを馬車に繋ぎ始めた。

「なんか、ハンターって思ってたのとイメージが違う」

「現実はそんなモンだ。そんなことより、俺が合図するから遅れるなよ」

「うん。分かってる」

 ハンターたちは全身を重そうな防具に包み、背にはそれぞれ不思議な形をした

剣を背負っていた。フェンリルは知らなかったが、彼らが纏っている防具はそれ

ぞれクシャルダオラ、ドドブランゴ、フルフル、ティガレックスと言った雪山に

生息が可能なモンスターの素材で作られたもので、逆に武器として背負っている

のは、レウス、レイア、フルフルに、ショウグンギザミといった炎あるいは雷の

属性を持つモンスターの素材で作られたものだ。

 自己主張の固まりのようなハンターたちは、それぞれ防具を思い思いに加工し

たり、塗装したりして、自分の強さやセンスをアピールするのが普通なのだが、

ここにいるハンター4人は全員が全員、カタログに乗っている防具のデザインそ

のままのものを着用していた。どうやら金がないらしい。

「今しかない。フィールドに入ったらお終いだ。いいな? しくじるなよ」

「分かってる」

「ちょっと待って~!!」

 ジェイドが動き出そうとした時、ふいにプリムラが大きな声で待ったをかけ、

さすがのジェイドも面食らった。

「な、何だよ、プリムラ」

「何だじゃないわよ~! イヤよ~! どこ行くつもりなの~!? あたしはイ

ヤ~!!」

 地団駄を踏みながら大声で叫び始めたプリムラのおかげで、周囲の視線が自分

たちに集中する。フェンリルが慌ててプリムラの口を押さえたが、彼女は手足を

振り回してそれに抵抗した。

「あたしはちゃんとしたところがいいの~!! ちゃんとゴハンを食べさせても

らって、キレイなお洋服も着たい~!! また前みたいなのはイヤ~!!」

「何の騒ぎだ?」

 ハンターの一人、ドドブランゴの防具にレイアの大剣「ジークリンデ」を背負

った男が、いぶかしげな顔をしながら近寄って来て、ジェイドとフェンリルは思

わず顔色を変えた。さすがのフェンリルもハンター相手にケンカを売って勝てる

と思うほどバカではない。彼らは、その強固な鎧と強靭な刃で、大型の飛竜種で

さえ倒すような人間だ。

「な、何でもないっす~! お騒がせして、どうもすんませんねえ~」

 これ以上ないほど満面に愛想笑いを乗せたジェイドの横で、フェンリルも真似

してニッコリ笑って見せる。ごまかされてくれ、と祈るような気持ちだったが、

最悪なことにプリムラがまた叫び始めた。

「ジェイドが! ジェイドが新しいお城に行くのイヤだって言ってたんだもん!!

あたしはそっちの方がイヤ~!!」

「……なるほど」

 ハンターの視線がジェイドにひたと据えられる。ドドブランゴの防具は、全体的

に白を基調にしていて、頭にはドドブランゴの毛をあしらった派手な飾り。顔に付

けているのはまさしくドドブランゴの顔を模造した、ヒゲが特徴的な赤い仮面。胸

から腰にかけては、重そうな装飾がジャラジャラと垂れ下り、膝下を覆うブーツに

も細かい襞が飾りつけられている。とりあえず、友達にはなりたくないと思うには

充分な姿だった。

「いやあ、別に逃げようって思ってたワケじゃないんスよ! なんつーか、俺って

ほら、ビビりな性格なんで! フラヒヤ山脈に入るのは怖いなあ~とか、できれば

フレイヤ館に戻りたいな~なんて思って! それでちょっと」

「君らを安全に送り届けるために我々ハンターがいるんだ」

「そうですよねえ! アルテリアのハンターと言えば、諸外国にも名前を轟かせる

勇者の集団ですもんねえ! いやあ、まさか本物のハンターに会えるなんて思って

なかったッスよお! やっぱ雰囲気からしてカッコいいっスね! せっかくお近づ

きになれたってことで、おじさ……あ、いや、お兄さんの名前とか聞いてもいいっ

すか?」

 ペラペラと口車を回転させるジェイドに、次第にハンターの殺気立った気配が薄

らいでいく。こんな時ほど、ジェイドの口八丁に感謝することはない。

「俺の名は、毒剣の海庵かいあんだ」

「へえ~! それって通り名ってヤツっすか?」

「そうだ。俺が毒の大剣ジークリンデを愛用していることが多いから、そう呼ばれ

るようになった」

 どうでもいいことだったが、とりあえずジェイドの真似をしてフェンリルもそれ

らしく相槌を打っておいた。しかしながら、彼の背に背負われている大剣には、ど

うしても視線が向いてしまう。それは、うっすらと緑がかかった色をしていて、素

材となったリオレイアの骨が剥き出しになっている。刀、というよりも、むしろハ

ンマーのように重量で叩き潰すと言った印象が強い大剣をそれとなく眺めながら、

フェンリルは何とも言えない気味の悪さを感じていた。おかしな話だが、まるでそ

こにレイアがいるような、そんな感じがするのだ。姿こそ「大剣」の形をしている

が、今もなお「大地の女王」が生きて呼吸をしているような、そんな無気味さを肌

にひしひしと感じる。フェンリルは、軽く頭を振ってバカげた考えを打ち払った。

そんなことは、あるはずがない。

「なんかスゲ~強そう! お兄さんたちがいてくれるなら、心配は無用みたいっす

ね~!!」

「当然だ」

 本当かよ、という本音は心の中で。余計なことは言うべきではない。どうやら、

自分がおかしなことを考えている間にジェイドがうまく誤魔化してくれたらしい。

胸の中でほっと息をついた時、今度は別の少女が声を上げた。

「ウソよ! 騙されちゃダメ!!」

 はっとして顔を向けると、自分たちと同じ馬車に詰め込まれていた少女が真剣な

顔でフェンリルを指差しながら、海庵に走り寄って来るのが見えた。彼女は、その

腕の中にプリムラくらいの年齢の男の子を抱きかかえている。

「ジェイドはね、ウソつきジェイドって言われるくらいウソつきなんだから! フ

レイヤ館に戻りたいなんてウソ!! だって、その男の子、フレイヤ館から逃げて

来たのよ!? 途中で馬車に乗り込んで来たんだから! 私、見てたの! ウソじ

ゃないわ!」

 海庵の視線がフェンリルに据えられる。仮面そのものが恐ろしい形相をしているこ

とも重なり、妙に迫力があった。

「確かに、お前は少し場違いなようだ」

 言いながら、海庵はいきなりフェンリルの腕を掴んで歩き出す。背後からアイリ

スと先ほどの少女が言い争う声が聞こえてきた。しかし、フェンリルはそれどころ

ではない。

「いてーよ! 放せ!」

 掴まれた腕が本気で痛かった。思わず抵抗して暴れれば、より強い力で掴まれる。

さすがに、重量級の大剣を振り回す男の握力には勝てない。引きずられるようにし

て歩けば、後ろから血相を変えたジェイドが付いてきた。

「俺が言ったんだよ! 逃げだして来いって! フェンリルは何も悪くねえんだ!

頼むからそんなに引っ張るなよ! 痛がってんじゃねえか!!」

「黙れ」

 一言、掃き捨てるように言った海庵は、フェンリルを仲間のハンターのところへ

と引っ張って行った。

「あれ~?」

 松明の光の下、談笑しながら佇んでいたハンターたちの一人が、問題の種を抱え

てやって来た海庵を認めて振り返る。どこか状況を楽しんでいる雰囲気を滲ませな

がら真っ先に近寄って来たのは、クシャルダオラの防具を着てショウグンギザミの

大剣“カーマインブレイド”を背負った男だった。

「おいおい、海庵。何でこんなのが混じってんだ~?」

 クシャルダオラの防具は全体的に鋼色だ。顔まですっぽり覆う鎧のせいで顔立ち

は分からない。しかし、海庵が背負うレイアの大剣ジークリンデと同じように、そ

の背に担がれたカーマインブレイドからは何とも言えない不気味さを感じた。素材

となるショウグンギザミの体色をそのまま表現したかのようにオレンジと赤が混ざ

りあった炎の大剣。気のせいだ、と思いたかったが、まるでモンスターが自分を見

つめているようで、背筋に寒いものが走った。

「綺麗な顔してんじゃん、坊や」

 フェンリルの内心の動揺など知る由もなく、男はクシャルダオラの防具に覆われ

た手で彼の細い顎を掴んで上向かせる。

「お前、大人になったら男前になるぜ~」

「それは……どうも」

 生理的な嫌悪感を感じて、フェンリルは顎を掴むその腕を振り払う。堅い鎧に腕

が当たり、自分の手の方が痛かった。

「フレイヤ館の連中は?」

「もう行っちまったよ」

「そうか」

 クシャルダオラの防具を着た男は、腕を振り払われたことなど気にも留めない様

子で、今度はフェンリルの髪をグシャグシャと撫で回し始める。正直、痛かった。

「仕方ない。連れて行こう」

「りょーかーい。もったいねえなあ」

「そういうことは言うな、ディック」

「は~いはい」

 腰に手を当て溜め息交じりに、ディックと呼ばれた男は適当な答えを海庵に返す。

そして、いきなりフェンリルを腕に抱き上げて歩き始めた。

「止めろ! 何すんだ! 降ろせ!!」

 ディックの突然すぎる行動に、フェンリルは思わず蒼白になった。大人の男は怖い。

無条件に体が緊張してしまう。一刻も早くその腕を逃れたくて、フェンリルは全身で

ディックを押しのけようと暴れるが、鋼の防具に守られた腕はびくともしなかった。

「元気いいね~! けっこう、けっこう! お兄さん、子供好きだからさ、つい構い

たくなるんだよね~!」

「放せ!! 触るな!! イヤだ!!」

 心臓が早鐘のように脈打つ。冷や汗が浮かぶ。全身が総毛立った。ディックはただ

構いたいだけなのかもしれないが、フェンリルにしてみればこれ以上の苦痛は無かっ

た。とにかく降ろして欲しくて、暴れる腕や足に力を込める。その度に、ディックが

笑いながら「元気がいい」と繰り返していた。

「あ、あのさあ、お兄さん。フェンリルはその……大人の男の人が苦手なんだよ。だ

から、あんまり怖がることしないでやってくれると、助かるんだけど」

 見かねたジェイドが下から助け舟を出してくれた。縋るように彼を見ると、ジェイ

ドにしては珍しく真剣な瞳をしていた。

「お兄さんさあ、子供好きなんだろ? だったらさ、ちょっと気を使ってやってくれ

ない? お兄さんに悪気がないことは、分かってんだけどさ」

「そうなのか、坊や」

 ディックの視線が自分に向いたので、フェンリルは必至で頷いた。すると、小さく

溜め息を落とした彼が、あっさり下に降ろしてくれる。足が地面に着くか着かないか

のうちに、フェンリルはその腕を逃れてジェイドに抱きついた。落ち着かせるように

背中を撫でてくれるジェイドの手が優しい。彼の存在は、本当に心強いと思う。

「悪かったな。知らなかったんだ」

 防具の上から頭をかく仕草をしながら、ディックが膝を曲げてフェンリルと視線の

高さを合わせ、謝って来た。無言のまま、ジェイドの服を掴む手に力を込めれば、彼

が代わりに答えてくれた。

「謝ることないよ、お兄さん。フェンリルはハンターに憧れてんだ。ちょっとビック

リしただけだよ」

 そして、ジェイドはフェンリルの方に視線を落とす。

「よかったじゃないか、フェンリル。ハンターに抱っこして貰えたんだぜ? みんな

に自慢できるぞ。な?」

「う、うん……」

 曖昧に頷いて見せると、ディックが軽く笑いながら立ち上がった。

「いい子だな、坊やたちは……」

 最後にジェイドとフェンリルの頭を軽く撫でて、ディックは海奄たちの方へと歩み

去って行った。

「大丈夫か?」

「うん、なんとか……」
 
 震えるフェンリルの背中を、ジェイドは少し強めに何度か叩く。 

「しっかりしろよ。問題はこれからだぜ」

「分かってる……分かってるよ、ジェイド」

 言われなくても分かっている。フェンリルはジェイドにしがみ付きながら、しっ

かりしろ、と自分に言い聞かせ、幾度か大きく呼吸を繰り返した。そこへ、海庵が

やってくる。

「出発だ。悪いがお前らには見張りを付けさせてもらう。最前列の馬車に乗れ」

「はーい。ほら、フェンリル。行くぞ」

 ジェイドに手を引かれながら、彼らは言われた通り、最前列に停まっている馬車

に向って歩いて行く。それに乗り込めば、アイリスたちが難しい顔で出迎えてくれ

た。ローズマリーの腕に抱かれているプリムラは、ジェイドの顔を見るなりあから

さまに視線を逸らす。ジェイドは軽く溜め息を落としただけで、何も言わなかった。

「早く乗ってもらえるか?」

 二人の後に付いて来たのは、ティガレックスの防具にフルフルの太刀を背負った大

柄な男だった。フルフルの太刀は、“鬼哭斬破刀”と言われる、雷の属性を持つ太刀

だ。刀身が剥き出しの大剣と違って太刀には鞘があり、まるで何かを封印するように

文字が書かれた紙が張りつけてあった。

「あ、すみませ~ん。すぐどきます~」

 ティガレックスの体色をそのまま使った無気味な色の防具には顔を覆う部分がない。

おかげで、小さなランタンの明かりの下、傷だらけの厳つい顔がよく見えた。

「頼むから大人しくしておいてくれ。ディックほどじゃないが、俺も子供に手を上げ

るのは好きじゃないんだ」

 深い色をした鳶色の瞳がひたと据えられ、ジェイドは大袈裟に溜め息をついて見せる。

「言われなくても大人しくしてますよ。でもまあ、喋るのは自由だろ? 同乗のよしみ

ってことで、とりあえず自己紹介しない? 俺はジェイド。おじさんは?」

飛翔ひしょうだ」

 短く答えた男は、それ以降むっつりと黙りこみ、ジェイドが何だかんだと話しかけて

も答えようとはしなかった。

                     *

 一夜をかけて地の底を一周してきた太陽が、再び東の果てに姿を現そうとしていた。

黒一色に包まれていた世界は、薄藍を経て元の色彩を取り戻していく。ガラスの嵌め込

まれた窓の向こうには、フラヒヤ山脈の山頂が微かに見え隠れしていた。万年雪に覆わ

れた岩肌に、暁光が差し込んで赤く照らしていく。アイスロードの町が、ゆっくりと目

覚めようとしていた。

「ただいま戻りました」

 一人きりの部屋に、いつの間にか他人の気配が現れる。ふり向けば、いつも通り声楽

が立っていた。

「おかえり」

 振り返って笑いかけると、彼女は羽織っていたコートを脱いで暖炉の前のソファに腰

掛けた。

「帝都の方は?」

「向こうで準備を進めてくれるということになりました。千鶴さんははしゃいでましたけ

どね、京吾さんが9歳の男の子を仲間にするつもりだって話をしたら、陽菜ひなちゃ

んたちは驚いてましたよ」

「だろうな」

嵐灰らんかいくんは、子供を見たら蹴飛ばしたくなると断言していたくせに、頭

でも打ったのかと言ってましたが」

 予想通りの反応に、彼は軽く笑った。

「そっちは任せておいても心配なさそうだな。坊やの方は? そろそろスノーレイを出

たんじゃないのか?」

「そのようです。昨日の夜、スノーレイの町をチラッと見てみた限り、もういないよう

でしたので、今日か明日にはアイスロードに来るんじゃないでしょうか。行ってみます

か? フレイヤ館に」

「そのつもりだ」

 胸ポケットを漁って煙草を取り出すと、箱の中身がすっかり無くなっていた。吸い過

ぎかな、と思う間もなく、声楽が新しいタバコの箱を手渡してくれる。

「行くのはいいですけど、ひとつ問題が」

「問題?」

 火を付けて煙を燻らせながら聞き返すと、声楽がにっこりと笑った。

「京吾さん、独身でしょう? まあ、一応と言うべきですけど」

「それが?」

「里親になれるのは、きちんと籍を入れている夫婦に限られるそうですよ」

「……」

「あなた一人が行っても、おそらく断られるでしょうね。どうします?」

 どうするもこうするもない。だったら行くだけムダだと言うだけの話だ。だが、は

っきりそう言うのもつまらなかったので、別の答えを口にしてみる。

「なら、俺とお前が一時的に籍を入れて坊やの里親になるのはどうだ? それなら問

題ないはずだろ?」

「この世の果てからお断り申し上げます」

 我ながらいい考えだと思ったのだが、やけに真剣な顔で断られた。

「書類上の話なんだから、そこまで拘らなくてもいいだろ?」

「いいえ。イヤです。絶対にイヤです。それくらいなら京吾さんがフレイヤ館の館長

を口説き落として来ればいいじゃないですか。寒気がするような口説き文句は得意で

しょ?」

 まるで見ていたかのように迷いのない口調で語る彼女に、京吾は思わず苦笑した。

「俺は声ちゃんをそういう意味で口説いたことはないはずだがな……」

「だいたい想像がつきますよ。言っておきますが、あなたが落とせるのは最初からそ

の気がある女に限られます。実際、その気がなかった坊やにはあっさりフラれたじゃ

ないですか」

「そこでその話を持ち出すか?」

「ええ、言える時に言っておくのがイヤミですから」

 返す言葉がない。言われてみればその通りだと思ってしまう。京吾は、黙って煙草

を灰皿に押し付けた。

「分かったよ。たまには俺が働けばいいんだろ?」

「ぜひとも」

 にっこりと笑われて、彼は小さく溜め息を落とした。確かに、最初にフェンリルを

連れて帰った時に、もう少し気の利いた対応をしていれば話はこんなにややこしくな

らなかったのだ。そういう意味では、自分のミスだと認めざるを得ない。

「昨日から帝都とここを何往復したことか……。さすがに疲れましたよ、私」

 大きく伸びをしながら、彼女は手で口元を覆い、小さく欠伸をした。

「少し休ませてください。まあ、フレイヤ館の館長はどこにでもいるようなオバサンで

したから、あなたのようにタネだけで生きている綿毛のような男でも口説けない相手じ

ゃないはずです。坊やの時みたいにあっさりフラれて来るのはナシでお願いしますね」

「……」

 ひどい言われようだと思うが、言い返してもムダだ。口喧嘩では、決して勝てない。

「分かったよ。その前に、声ちゃん」

「はい?」

 京吾は、リビングを出て行こうとする声楽の背を呼びとめる。

「フレイヤ館の様子、ちょっと見せてもらえるか?」

「また面倒なことを……」

 どうやら風呂に入って寝るつもりだったらしい。彼女は軽く顔を顰めながらも窓辺

に立つ京吾の傍へと歩み寄ってくる。

「フレイヤ館の、どこですか?」

「そうだな。問題の館長の様子が知りたい」

「かしこまりました。この時間なら、執務室にいるでしょう」

 声楽の手が窓ガラスに触れる。すると、うっすらと雪が積もった庭の景色が次第に

薄れていき、ぼんやりと見知らぬ人影が映り始めた。最初は水に溶かしたインクのよ

うに朧だった幻影は、やがてはっきりと人の形を成し、まるで窓の向こうにその人物

が実際に立っているかのように、現実味を帯びた映像に変わっていく。

「お取り込み中のようですね。何かあったんでしょうか」

 窓ガラスに映った人影は二つ。やたら顔のパーツが中心に寄った中年の女と、銅像

のように表情に乏しい三十代前後の男だ。女の方は、フレイヤ館の館長、ジゼル。先

ほどから、ジゼルは顔を真っ赤にして目を見開き、発狂したのかと疑いたくなる勢い

男の顔に向って唾を飛ばしていた。

「この女は口説きたくないな……」

「贅沢を言える立場ですか、ヤドロクのくせに」

 窓に映った二人の会話は、水の中から音を聞いているようにはっきりとしない。し

かし、それも次第にはっきりと聞こえるようになる。

“あんたの責任だよ、ラルフ! どうしてくれるんだい! せっかくの上玉を逃がし

ちまって! 統括に話が伝わったらあたしの責任が問われるじゃないか! おまけに

世話係に付けていた男まで逃がしちまって!!”

「あら? 脱走犯が出たようですね」

「みたいだな」

“あんたを見損なったよ! ただ逃げられただけじゃなくて服まで持ち逃げされるな

んて、どうしてくれるんだい!? あの服がどれだけしたのか分かってないわけじゃ

ないんだろ!? どう責任を取るつもりだい!?”

 ひたすら「どうしてくれる」とジゼルに責め立てられていたラルフというらしい男

が、ここへ来てようやく重い口を開いた。

“捜索させております、館長。子供の足ですし、逃げられたのは夕べのことですので、

まだ遠くへは行っていないはずです。動ける職員を総動員して、アイスロードの町を

隅から隅まで探している最中です。念のため、近隣の町や村には通知いたしました”

「大変そうだな。たかが子供一人だろ? そんなに痛手になるのか?」

「さあ、どうなんでしょうね。もしかしたら高価な服でも着せてたんじゃないですか?

それなら、せめて服だけでも返せと言いたくなるかもしれないですし。こういうオバ

サンは総じてガメツいもんなんです」

「なるほど」

 窓ガラスの中で、ラルフが暑いはずもないのに額に浮かんだ汗を拭う仕草をした。

いつからこの調子で捲し立てられているのか知らないが、ご苦労なことだ。

“町に逃げたと言いきれるのかい!? 本当に!? だってあの子は仲間のところ

に返せと言ってたんだよ!? 追いかけてフィールドに出た可能性は!? 無いと

言い切れるんだろうね!?”

“それは……。ですが、万が一、フレイヤ館で引き取るような子供が混じっていた

場合は、引き返すようにハンターたちには伝えてありますから……”

 ひたすら汗を拭いながら苦し紛れに呟くラルフを、ジゼルは鼻で笑って一蹴した。

“信用できるモンかい! ハンターって言ったってね、ヤツらはギルドから除名処

分されるような落ちぶれなんだよ! 金さえもらえりゃあ、何だってする! そん

なヤツらが、仕事を丁寧にこなすはずないだろ!? まったく、大損だよ!!”

「フィールドにはハンターが付き添うのか……」

「そのようですね。除名処分と言ってますから、正式に依頼を受けた者ではないで

しょうが」

“ああ、もう!! 統括に知れたら何て言われることか……!!”

 ジゼルは部屋の中を無意味にウロウロしながら、腰に手を当てラルフを睨みつける。

“あの坊や……フェンリルとかいう変わった名前だったね? あの子に着せた服の代

金、戻って来なかったらあんたの給料から差っ引くからね! そのつもりで探すんだ

よ!! いいね!?”

“承知しております、館長”

 フェンリル、という名前が出た瞬間、京吾と声楽は揃って顔色を変えた。声楽の手

が窓から離れる。同時に、幻影は跡形もなく消え去り、窓には元通り庭の景色が映り

込んだ。

「フェンリル……?」

「確かに、今そう言ってましたね……」

 二人は顔を見合わせる。

「そんな……二日前にはまだスノーレイにいたのに……」

「予想以上にフレイヤ館が立て込んでいるということだな」

「すみません、京吾さん……。油断してました」

 彼女は珍しく真剣な面持ちで、京吾に向って深く頭を下げた。その横で、彼は小

さく息をついた。

「いや。立てこんでいたのはお前も同じだ。それより、フェンリルを探せるか?」

「見つけます。必ず」

 真っ直ぐに見上げてくる声楽に、彼は軽く頷いて見せる。彼ら鬼龍が女神オーデ

ィナに授けられた能力のひとつ、千里眼。しかし、それは「場所」を映すことはで

きても「人」を映すことはできない。言いかえれば、「フレイヤ館の館長の執務室」

を映せば、そこにいる人間の様子を知ることができるということだ。ジゼルを探し

て、直接、彼女の動向を探ることは不可能。つまり、目安になる建物もはっきりと

した地形も曖昧なフィールドで人を探すことは、さすがの声楽でも難しい。アイス

ロードからフラヒヤ山脈への登山口にかけて、それこそ虱潰しに見ていくしかない。

「無事でいてくれるといいが……」

 京吾は、窓の向こうに聳え立つフラヒヤ山脈に、視線を向けた。


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