第1話の2
アシュリーの言葉通り、しっかり風呂を堪能させてもらった後、フェンリルは
脱衣所で控えていた彼女に体を拭いてもらい、真っ白な夜着を着せられた。夜着
は、ちょうど彼の身長と同じくらいの長さで、前合わせになっている服を紐で止
めるという、珍しい服だった。
「左を上にしたら、死人に着せる服になるから、気を付けるニャ」
「ふ~ん」
何とも柔らかい生地に包まれ、まさしく夢見心地で風呂を終えたフェンリルは
アシュリーに続いてダイニングへ向かう。そこにはタバコをふかしている京吾が
いて、湯上がりの彼の満足そうな顔を見て、その端正な顔立ちに笑みを乗せた。
「楽しかったか?」
「おかげさまで~! いやあ、俺さあ~生まれてからずっと天下一流の貧乏人だ
ったから、あんなお風呂、初めてだったよ!」
言いながら、彼は勧められるまでもなく京吾の向かいのイスに腰掛ける。
「ものはついでと言うことで! ねえ、京吾さん。なんか食べさせてよ。俺、お
なかすいた」
「分かった、分かった。好きなだけ食え」
「やったね!」
好きなだけ腹いっぱい食べられる。それは家なし子にとって、これ以上ない贅
沢に他ならない。
「アシュリー。坊やが喜びそうなものを適当に」
「かしこまりましたニャ。旦那さまはいかがなさいますかニャ?」
「酒のつまみ程度でいい。それから、せっかくだから菓子も持ってきてくれ」
「喜んで」
深く一礼するアシュリーに、京吾は硬貨を投げる。それを受け取った彼女はニ
ッコリと微笑んで再び一礼した。
「ねえ、それ、なに? かし? 聞いたことないよ、俺」
「食えば分かる」
何だかよく分からないが、食べられるものならば歓迎だ。そう思ったところで、
アシュリーは部屋を出ていき、煙草を灰皿に押し付けた京吾が立ち上がって部屋
に備え付けのカウンターへ向かう。
「坊やはミルクでいいな?」
「他に何かあんの?」
再び好奇心に駆られ、フェンリルはイスから降りてカウンターへ向かう。
「コーヒーは飲めないだろ?」
「なに、それ」
「ミルクにしとけ」
「は~い……」
キラキラと輝くグラスがとても綺麗だ。カウンターの中に立った京吾は、慣れた
手つきで棚に並ぶ酒をグラスに注ぎ、フェンリルのために温かいミルクを用意して
くれた。ちなみに、コーヒーとはタンポポの根やチコリの実を煎じてドリップした
ものを指す。豆から挽いたものよりも苦味は少ないが、子供向けではない。
「今、なんか入れた?」
「ただのハチミツだ」
「ただのって……」
ハチミツ10gで50zが相場。金銭感覚が違い過ぎて、頭がクラクラする。
「甘い……」
差し出されたミルクのカップを両手で包むようにして口を付ける。ミルクにハチ
ミツを入れるとこんなに甘いものなのか、と感激したところで、彼がテーブルの方
へ移動したので、なんとなく付いて行った。
「お前、年はいくつだ?」
元通り、彼と向かい合うように席についたところで、グラスに注がれた琥珀色の酒
を口元に運びながら、京吾がそんなことを聞いてきた。
「年? 今年で9歳」
「まだ本当に子供だな。こういう暮らしをして、長いのか?」
「ん~…長いと言えば長いかな。一年、経つか経たないか、それくらい。俺、もとも
と八朔の出身でさ、5年くらい前にアルテリアに来たんだ」
「八朔? トルヤーナの?」
「うん、よく分かんないけど、たぶんそう」
今はもう無い八朔という東の国。もともと八朔はトルヤーナという強国の領地から独立
した国だったのだが、国としてまともに機能を始めるまでもなく、僅か5年で、再び領土
は併合されることとなった。現在では、トルヤーナの「いち」地方として、八朔の名さえ
残されていない。
「で、いろいろあって家出して来た」
「八朔が出身なら、龍都のミナガルデが近いだろ? 何でこんな遠くにいるんだ」
京吾がそう言った瞬間、フェンリルは顔を輝かせる。
「よくぞ聞いてくれました! 実は俺、ハンターになりたいんだ!」
「ハンター? なんでまた、そんなものに……」
ハンターという言葉を出した途端、京吾が僅かに表情を曇らせたので、フェンリル
は勢い込んで説明する。
「分かってないなあ、京吾さん! アルテリアのハンターと言えば、みんなの憧れの
的なんだぜ!? 稼ぎはいいし、何より大剣とかランスとか振り回して、でっかいモ
ンスターと戦うなんて、カッコいいじゃん!」
「……まあ、表向きはな」
「何それ。あ、もしかして京吾さん、元ハンターだったとか?」
「いや。残念ながら違う。ただ、知ってることが多いだけだ」
「ふ~ん……」
さっぱり分からない、と思ったところで、軽いノックの後に、コックスーツに身
を包んで、気取った顔をしたアイルーが5匹ほどやってきた。その腕には湯気を上
げる料理の皿が重そうに抱えられ、それを見た瞬間、頭の中に浮かんだ疑問は綺麗
さっぱり消し飛んでいた。
「お待たせいたしましたニャ。こちらのお部屋のお食事を担当させていただいてい
るキッチンアイルーの料理長、トモでございますニャ。本日のメニューはシモフリ
トマトのフレッシュサラダにキングターキーのこんがり焼き。黄金ビーンズの煮物
に、メインディッシュはポポのヒレ肉ステーキでございますニャ。デザートには、
ウエハースのクリームがけ。旦那さまには幻獣チーズを用意させていただきました
ニャ」
「すっげ~!! うまそう!!」
目の前に並べられていく見たことも無い豪華な料理に、フェンリルは感嘆の声
を上げる。
「ごゆっくりどうぞニャ」
「いただきま~す!!」
「ああ、しっかり食え」
どれもこれも有り得ないくらい、おいしい。フェンリルはほとんど無心で料理を
口に運び続けた。特に驚いたのが、ウエハースと呼ばれるものだった。ちなみに、
ウエハースは長方形のサクサクした薄い菓子ではない。パンよりも、もっと固い生
地に砂糖を練り込み、大人の指ほどの長さのシガレット状に丸めて、軽く焦げ色が
付く程度に焼いたクッキーのようなものだ。ついでに、その上に甘くて冷たいドー
ム状のクリームが乗せてある。
「ねえ、これ何で冷たいの?」
「氷菓子の一種じゃなかったかな。詳しい作り方は知らないが」
「何でもいいけど、とりあえずかなりウマい!!」
ちなみに、アルテリアでは砂糖は高級品だ。砂糖の原料であるサトウキビは、西
の端にあるゴウトという国でしか栽培されていないうえに、数も少ないので自然、
口にできる者と言えば一部の金持ちに限られてしまう。しかも、アルテリアが表立
って他国と貿易をしていないとなれば、なおさらだ。
「ああ~もう食えない~! 腹いっぱい~」
結局、出された料理はすべていただいた。生まれてから今まで満腹になるほど食
べたことはない。食事を残すなど、もっての他だ。
「ありがとう、京吾さん。あったかいゴハンなんて久しぶりだったよ」
「満足したか?」
「おかげさまで」
背もたれに深くもたれかかったところで、ドアの脇に控えていたアイルーたちが
いそいそと皿を下げ始めた。それを見送りながら、フェンリルは飲みかけだったハ
チミツ入りのミルクに手を伸ばす。すっかり冷めてしまっていたが、特に気になら
ない。
「それでさ、さっきの話の続きなんだけど、ハンターのこと教えてよ。俺、本気で
ハンターになりたいんだ」
「坊やには難しい話だ」
「それを分かりやすく説明するのがオトナの役目なんじゃないの?」
「……」
はっきり言うと、京吾が軽く溜め息を落とす。内心でニヤリとしながら、カラに
なったグラスを持ってカウンターへ立つ彼の背を見送った。
「ハンターがやっていることはフィールドに出てモンスターを狩る。そして倒したモ
ンスターの素材を使って、武器や防具を作り、より強いモンスターを狩ること、だ」
「うん、それは知ってるよ」
その話はもっと小さいころから何度も聞いている。ついでに、フィールドに隣接し
た氷都や、龍都、水都の北部の村にはモンスターの襲撃から村人を守るためにハンタ
ーが一人ずつ派遣されているらしい。
「ただ、ハンターのバックにいるギルドが問題なんだ」
「は? ギルド?」
思いがけないことを言われて、フェンリルは思わず聞き返す。ギルドは、確かハンタ
ーの教育から依頼の仲介、フィールド業務のサポートまで、ハンター関連の仕事をすべ
て手掛ける組合だったはず。
「将兄、と言って分かるか?」
「しょーけい? 誰それ」
グラスに酒を注ぎながら、京吾はいきなり耳慣れない単語を口にする。
「アルテリア軍の頂点にいる将軍のことだ。陸の春軍、海の夏軍、空の秋軍、治安維
持の冬軍。合わせて四つの軍を統括する将軍ということで、四軍統括将軍兄。略して
将兄」
「よーするに、アルテリアで一番強い人ってこと?」
「……まあ、そういうことだな」
「だったらそう言ってよ。ムズカしいこと言われても分かんないし」
「……」
「それで、その将兄って人がハンターとどう関係あんの?」
「ギルド・マスターの別名が、その将兄だ」
「え?」
思いがけないことを教えられ、一瞬だけ頭が混乱した。意外と忘れられがちだが、
本来ギルドとは「商業組合」を意味する。大昔、アルテリアにいた商人たちが、より
安い価格で商品を売るために、モンスターの徘徊するフィールドを越えて荷を運ぼう
と考えた。その際、護衛として雇われていたのが、今現在で言うところのハンターの
始まりだったということになっている。少なくとも、フェンリルはリーダーのジェイ
ドからそう教えてもらった。そのギルドと、アルテリア軍を統べる「将兄」という人
物は、いまいち結びつかない。
「普通のヤツらは知らないことだ。ギルドは商人が作った組合で、昔はキャラバンの
護衛が専門だったが、今では相応の報酬と引き換えに一般人からの依頼をハンターに
仲介している。そしてハンターが倒したモンスターの素材を使って新しい武器や防具
を作り、より強いモンスターを倒せるようにしている。ただ、フィールドに近い北の
村だけは、フラヒヤ山脈から降りてくるモンスターから襲撃されることが多い。だか
ら一流のハンターを北の村に一人ずつ派遣して村人を護衛している。もっともらしい
話だが、すべてウソだ」
「そうなんだ。じゃあ、ギルドって何してんの?」
酒を注いだグラスを手に持った京吾がフェンリルの前に腰掛ける。
「言ったろ? ギルド・マスターの別名が将兄。早い話、アルテリアのハンターズ・
ギルドは軍の秘密組織なんだ」
「……なんで?」
「普通に考えれば分かることだ。モンスターの素材で作られた武器は鉄や銅で作った
武器より、遥かに殺傷能力が高い。そんな兵器を軍が放っておくはずはない」
「さっしょーのうりょくって?」
「人間を傷つける力のことだ」
「ふ~ん……。まあ、そうなんかな~」
アルテリアのハンターが、モンスターの体の一部で作られた武器や防具で武装して
いることは知っていた。しかし、それが鉱物で作った武器に比べて殺傷能力が高いと
言われても、実感が湧かない。
「でも、なんかそれって、おかしくない?」
「何が」
「だって、ハンターって言っても人間だろ? 人間って、人によって差はあるけど、
やっぱりどれも人間じゃん。ちょっとくらい切れ味がいい剣を持ったからって、い
きなり強くなったりできないよ。それに、スゲー性能がいい防具を付けてても、や
っぱレウスとかレイアの火球を食らったら焼け死ぬのが普通なんじゃないの? 防
具は無事かもしれないけど、岩とかまで溶かすくらいの温度だったら、直接、触ら
なくても火傷で死ぬはずだし、山みたいにでっかいモンスターに突撃されたら、防
具が固い分、中の人間はすげーダメージ受けるよ」
「……鋭い坊やだな」
思ったことを口にすると、京吾が僅かながら苦笑を浮かべる。
「仮に飛竜の火球を食らったとしても、現実のハンターは火傷を負うだけだ。防具
の性能と、それまでに受けたダメージにもよるが、致命傷になることは少ない」
「だから、それ、おかしいって! それじゃまるでハンターが人間じゃないみたい
に聞こえるじゃん!」
勢い込んで否定するが、京吾は相変わらず人間離れした端正な顔立ちに微笑を乗
せたまま。まるでフェンリルの反応を楽しんでいるように、金色の瞳を彼に注いで
いた。
「いや、ハンターは人間だ。少し武器の扱い方を知ってるというだけで、お前のよ
うな普通の人間と違いはない」
「だったら、どうやって……もしかして、武器とか防具に秘密がある?」
「それは知らない方がいい。ただ、ハンターの寿命は短いということだけは覚えて
おいた方がいいかもしれないな」
ダイニングに飾り付けられたカボチャのランタンの炎が揺れる。床に落ちた影が
揺らいで、まるでカボチャが声を上げて笑ったように見えた。
「……それは、ハンターの仕事が危険だとか危険じゃないとか、そういう意味だけ
じゃなくて?」
「まあ、そういうことだ」
「ふ~ん……」
いまいちよく分からなかったが、それでも現実のハンター業が自分が思い描いて
いたものとは違うということだけは理解できた。
「それでハンターの訓練学校って、18歳以上なら誰でも入学できるんだね」
いろいろな意味で寿命が短いということは、それだけ人の入れ替わりが激しいと
いうことに他ならない。京吾の話が本当だとしたら、ギルドが常に訓練生を募集し
ているのは頷ける。それも、入学金も学費も無料で。
「誰でもってワケじゃない。黄証か朱証を持っていることが条件だ」
「は? 何だって? 何?」
「そんなことも知らないのか」
グラスを傾けながら、京吾が幾度目かの溜め息を落とす。そして胸のポケットか
ら、手の平ほどの大きさの黄色いカードを出して、彼に見せてくれた。表と裏にそ
れぞれ文字が刻んであったが、残念ながらフェンリルには読むことができない。
「いわゆる身分証明書のことだ。もともとアルテリアの国民だったら黄証、外国か
ら来た者なら朱証。イエローカード、レッドカードとも言う。これを見せれば国か
ら最低限の保護が受けられるし、怪我や病気にかかって療風堂(病院)に世話にな
る際にも援助してもらえるから、治療費は安く上がる。ただ、それなりの税金は取
られるが」
「俺、そんなの持ってないよ。どこ行ったらくれんの?」
「役所に決まってるだろ? ただ、坊やみたいに外国から来た人間は仕事をしてる
ことが条件だ」
思わず、フェンリルは腰を浮かせた。
「ええ~! それ、かなり難しいよ~! だって、最近はアルテリアの人たちだっ
て仕事が無くて困ってんだよ!?」
ハンターへの道は厳しい。まずはまともな仕事を見つけるところから始めなくて
はならないとは、夢にも思わなかった。黄証を京吾に返しながら、フェンリルは自
然と溜め息をつく。
「実入りもいいし、俺にぴったりの仕事だと思ったのになあ~」
「残念だったな」
「そう言わないでよ」
そしてフェンリルはふと思い立つ。
「もしかして、だからギルドが軍の組織だってこと、秘密にしてんの?」
「それもあるだろうけどな」
「他にも何か理由あんの?」
「アルテリアの周辺にある国が同盟を結んで攻めてくるのを避けるためらしい。軍
が表立って、そんな武器の開発をしていることが知れれば、東西の小国が軍事同盟
を結ぶきっかけになる。だから表向きは私営の組織ということにして、軍も朝廷も
一切、関わっていないということにし……」
「ごめん、京吾さん。俺、そういう難しい話になると眠くなってくる……」
「お前が聞いてきたんだろ?」
テーブルに突っ伏しそうになるフェンリルに、京吾の呆れた声がかけられた。
「それは京吾さんの実力不足って言うんじゃない? 難しい話を難しく説明した
って眠くなるだけだって。もしかして、人にものを教えるの、苦手?」
「……否定はしない」
「だと思った」
軽く笑い、フェンリルは残っていたミルクを一気に飲み干した。
「でもさあ、結局ハンターはフィールドに出てモンスターを狩ってんでしょ?
じゃあ、別にいいよ。俺、モンスターと戦えるならそれでいいし。やっぱ将来
はハンターだよ、俺! 問題はどうやってその赤いカードを作ってもらうかだ
よねえ~」
「普通に仕事をするという選択肢はないのか?」
「それ、ムリだって。俺くらいの年で雇ってくれるような店なんて無いよ。アル
テリアは平和だから、子供はみんな村塾? 小塾だっけ? とりあえず、そんな
名前の学校に通ってるのが当たり前なんだし」
しかしながら現実にはフェンリルのような子供がたくさんいる。そのほとんど
が諸外国の戦火から逃げて難民としてこの国にやって来た子供たちだ。道行く人
に金銭を求め、あるいは盗み、その日その日をかろうじて生きている。その人生
の先にあるのは、野垂れ死にか、女であれば運が良くても娼館に雇われるだけ。
どの道、明るい未来ではない。
「……うちに来るか?」
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からず、向かいにいる京吾の顔を間抜けな表情で見つ
めてしまった。
「少なくとも、今よりマトモな生活はさせてやれる。ついでに身分証も貰えるから、
ハンターの夢も諦めずに済む」
「ああ……そういうこと……」
願っても無い申し出だった。経済的に随分と豊かであることは間違いない京吾の
家で働かせてもらえるなら、少なくとも今のように寒空の下で凍えながら眠る夜は
無くなるだろうし、いつ死んでもおかしくないような生活ともおさらばできる。つ
いでに食事まで食べさせてもらえるとしたら、天国に違いない。しかし。
「せっかくだけど、遠慮しとくよ」
小声ではあったが、フェンリルははっきりとそう言った。
「残念だな。一応、理由くらいは聞かせてもらおうか」
「理由っていうか、だって京吾さん、どっからどう見ても悪い人じゃん」
思ったことをそのまま言うと、京吾が小さく吹き出した。
「それは、初めて言われたな」
「そうなの? それに、なんか怖いし」
「怖い? 俺が?」
心底、意外そうな顔をされて、逆にフェンリルの方が驚いてしまう。
「ゴ、ゴメンナサイ。気にしてたなら、謝るよ」
「いや、別に気にしてるわけじゃないが。どちらもあまり言われたことがない」
「へえ~。俺からしてみれば、あからさまなんだけどね。京吾さん、すごくカッコ
いいし、優しいし、いい人っぽく見えるけど、なんか違うっていうか。実は物凄い
悪い人で、それを隠すために、いい人のフリをしてるって言われた方が納得するよ」
「……なるほど」
「それに、京吾さん、強いだろ? 俺も強いから何となく分かるんだ。戦ってもな
いうちから絶対に勝てそうにないって思ったの、初めてかも。だけど一回く……」
一度くらいは戦ってみたい。そう言おうと思った時、リビングに続くドアがノッ
クされる音が二人の会話を途切れさせた。
「ただいま戻りました。あら?」
ダイニングのドアを開け、フェンリルの顔を見て僅かに驚いたような表情を浮か
べたのは、若い女だった。秋らしい薄手の黒いコートを纏い、顔には綺麗に化粧が
施してある。京吾の恋人か、奥さんだろうか。どちらにしろ、フェンリルが京吾に
対して感じていた「悪いイメージ」は、その女を見た瞬間に確信に変わった。
「おかえり」
「随分と遅くなって申し訳ありません。可愛いお客様ですね。こちらは?」
女はコートを脱いでそれを壁にかけながら、フェンリルに優しく笑いかけてきた。
コートの下に着ている服は、落ち着いた色合いで纏められたドレス。化粧はしてい
ても派手な印象はない。丁寧に結いあげられた栗色の髪も、どこか温かさを感じさ
せた。
「道で会ったんだ。名前はフェンリルだったかな」
「まあ、そうですか」
彼女の声は柔らかく、とても優しげな音をしていた。どこからどう見ても悪い人
ではないのだが、それでも彼女の身体から溢れだす「異様な」雰囲気は隠しきれて
いない。例えるなら、笑顔で人間を切り刻む殺人鬼のような、あるいは気が遠くな
るような長い年月、人の血を吸い続けてきた刃物のような、そんな雰囲気がまるで
服のように纏わり付いている。彼女の顔立ちが、死んだ母親に似ていることも拍車
をかけていた。早い話、この女は恐ろしい。フェンリルは直観で、そう思った。
「フェンリル……北の狼王の名前ですね。よくお似合いですよ」
「そうかな~。他のヤツらには不吉だって言われるよ」
フェンリルの心の内を知ってか知らずか、彼と視線を合わせた声楽がふわりと笑
いながら、そう言ってくる。フェンリルは内心の恐怖を悟られないよう、なるべく
明るく答えた。
「私は声楽です。京吾さんに、あなたのような小さなお客様のお相手がちゃんとで
きました?」
「うん。手当てもしてもらったし、お風呂も貸してもらったし、ゴハンも食べさせ
てもらったよ」
「そうですか。それは安心しました」
「うん!」
笑顔で頷きながら、敵意は無さそうだ、と分析する。どうにかするつもりなら、
この女の手を借りなくても京吾が手を下しているだろう。ここは下手に騒いだりせ
ず、大人しくしていた方がいい。経験から、フェンリルはそう判断した。
「それより声ちゃん」
「はい?」
「坊やに靴を買って来てくれないか?」
「靴、ですか」
「ああ。戻ってきたばかりで悪いんだけどな」
「それは構いませんが、この時間ですから既製品になりますよ?」
「別にいいだろ。坊やも拘らないよな?」
「え? それは、まあ……履ければ、何でも」
先ほど、家なし子が靴を履いてないのは金銭を恵んでもらうためだと説明したの
に、どういうつもりだろう。しかし、声楽と名乗った女がこの部屋から出て行って
くれるのは確かに、ありがたい。彼女本人がどうこうではなく、その異様な雰囲気
に息が詰まりそうだ。
「分かりました。では、ちょっと出て参りますね」
「悪いな。よろしく頼む」
「いいえ。いつものことですから」
そして彼女は、戻ってきたばかりにも関わらず、薄手のコートを羽織って再び部屋
を出て行った。無意識に大きく息をつきそうになって、慌てて堪える。
「戻るのに靴がいるだろ?」
「え?」
「ケガをしたままハダシで歩くのは辛いだろ?」
「ああ、まあ……ね。でも、いいの? いろいろ親切にしてもらったけど、俺、何に
も出せないよ?」
「今更だな。とりあえず、今晩は泊まって行けばいい。明日の朝までには声ちゃんも
帰って来るだろ」
「あ、あっそう……」
やはりそういう話になってしまうのか、と心の底で諦めが芽生える。本音を言えば
すぐにでも立ち去りたい。あんな恐ろしい女が帰ってくる場所に長居するなど、冗談
ではない。だが、さんざんおいしい思いをさせてもらった上に、ここへ来て断るのも
不自然で、フェンリルは仕方なく頷いた。大人しくしていれば、特に何もされないだ
ろう。そんな希望的観測を胸に……。
「さて、おいで坊や」
イスから立ち上がった京吾に手を引かれて、先ほどアシュリーから寝室になってい
ると教えてもらった部屋の片方へ案内された。氷のように冷たい手。そんなイメージ
があったのだが、意外にも京吾の手は暖かい。何となく父親を思い出して、フェンリ
ルは気付かれないように、小さく頭を振った。家族だった人たちのことは、すべて忘
れる。そう決めたのだから。
「予想はしてたけど、何これって言いたくなる寝台だね……」
正面にはカーテンがかけられた大きな窓。中央にある大きな寝台には、天井から吊
るされた薄い布が覆い被せられている。ふかふかした絨毯に、小さなテーブルとイス
のセット。照明はランタンが少しだけ。静かで暖かい部屋は、確かに眠るには最適の
ようだ。
「でも、俺がここで寝ちゃったら京吾さん、どうすんの?」
「俺は朝まで寝ないから、気にするな」
寝台を覆う薄い布を開いたそこには、真っ白なシーツで整えられた寝台がある。何
となく気遅れするものを感じながら、フェンリルはそこに登って横になってみた。
「京吾さん、夜行性なんだね」
「そうだな……」
フェンリルの体に柔らかくて軽い布団をかけながら、京吾は小さく苦笑を浮かべる。
「じゃあ、また明日な」
「うん。ありがと。おやすみ」
掛け布団を引っ張り上げ、寝る姿勢に入ったことをそれとなく示しておいた。京吾
が部屋のランタンを消していくと、部屋はゆっくりと暗闇に包まれていく。ドアが閉
じられる音が聞こえた後で、フェンリルはようやく溜めこんでいた息を吐き出すこと
ができた。
(どうしよう……)
真っ先に思い浮かべたのは、京吾と声楽の顔だった。抜け出して自分のねぐらに戻
るべきか。それともここに残っても大丈夫か。
(帰るべきなんだろうけど……)
ただ、体がそれを否定している。普段は石畳の上で座ったまま寝ているのだ。柔ら
かいスプリングの寝台と心地よい布団は、すぐに飛び出してしまうにはあまりにも惜
しかった。
「もうちょっと……。もうちょっとだけ……」
自分に都合のいい言い訳をしつつ、フェンリルは布団を引き寄せる。あの二人はな
にか危険だと、本能はしきりに警告音を出していた。けれど、寝心地の良い寝台に乗
って布団に包まれていると、ここを抜け出して寒い中を歩き、ねぐらに帰ろうという
気力が湧いてこない。
(どうにかするつもりなら最初にしてるよな、きっと……)
敵意は無かった。それに、自分のような家なし子を殺したところで彼らに何の得も
ないはずだ。ついでに言うなら、わざわざ宿に連れて来て怪我の手当などする必要も
ない。そう現実を解釈し、フェンリルは少しだけ、少しだけ、と繰り返しながら、打
ち寄せる眠気の波に呑まれていった。
(そういえば、京吾さん……悪い人っぽかったけど、オトナの人に優しくしてもらっ
たのって、久しぶりだったな……)
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