第1話の1
ヴァナルガンド
降り出した雨が、石造りの町を冷たく濡らしている。
「傷だらけだな、坊や」
夕暮れが迫る時刻、厚い雲に覆われた空に太陽の姿はなく、心の底まで重くなる
ような低い灰色の空だけが、その出会いを見下ろしていた。
「大丈夫か?」
泥だらけで蹲る彼に、傘が差しかけられる。
「傷、手当てしようか」
血のような赤い髪に、黄金の瞳。人間離れして整った綺麗な顔立ちが、優しく微
笑んで手を差し伸べてきた。
「ほら、おいで」
命令されたわけでもなく、威圧感があったわけでもない。けれど、彼の前に立つ、
その青年は、何かしら他人を従えさせる雰囲気を持っていて、彼は無意識に血と泥
にまみれて汚れた手を伸ばしていた。大きくて暖かな手が、冷え切って冷たい手を
包みこむ。
「そのままじゃ風邪ひくな」
手を引かれて立ち上がった彼の肩に、青年は自分の上着を脱いで羽織らせる。
「……汚れるよ」
肩にかけられた上着は今まで触れてきたどんな布よりも柔らかく温かい。路上生
活が長い自分にはあまりにも不釣り合いで、慌てて返そうとしたところで、戸惑い
なく伸びてきた腕に抱き上げられた。
「お、お兄さん……! 降ろして……!」
見ず知らずの青年にいきなり抱き上げられ、彼は無意識に身体を緊張させる。生
まれてから今まで、父親はもちろん母親にも満足に抱かれた記憶が無い。ついでに、
大人の男には暴力をふるわれることが多かったせいで、どうしても苦手意識があっ
た。
「何もしない。大丈夫だ」
青年の手が背中を撫でる。不思議と、体の力が抜けた。
「坊や、名前は?」
戸惑いながら青年の首に腕を回せば、髪を撫でられながらそう聞かれた。青年の
服や手を汚してしまう罪悪感を覚えながら、彼は答える。
「……フェンリル」
「フェンリル? 北の狼王か。いい名だな」
「え…?」
その名を聞いて、誰もが真っ先に「不吉」だと口にする。いい名だ、と言われたの
は初めてだった……。
「俺は京吾だ」
*
世界はひとつの巨大な大陸と、それを囲む大海原によって成り立っている。地上に
暮らす人間は誰も知らないが、もしも上空から大陸を見ることができる人間がいたな
らば、自分たちが生きるその陸地は「左を向いて、少しだけ口を開けている魚」に似
ていると言うかもしれない。しかしながら、その陸地の大半はモンスターと呼ばれる
生物が数多く生息する人跡未踏の地、フィールドである。人が田を耕し、家畜を育み、
明日へと命を繋ぐ。そんな人としての営みを繰り広げる世界は、広大な大陸の僅か一
部分でしかない。言わば、人の世とはフィールドに開いた穴のようなものだ。
ところで、人の世と言えば争いが常である。空から見れば巨大な魚に付いた汚れの
ようにしか見えない人間の世界だが、そうとは知らない人間はいつの時代も互いの血
を血で洗うような戦いを繰り広げてきた。神話に語られる、人の誕生から三千と余年。
気の遠くなるような長い時間が過ぎてなお、人間は血を流し合うことでしか、歴史を
築いてはいけないらしい。だが、もちろん例外は存在する。
左を向いて、少しだけ口を開けた魚、に例えられる大陸の、その少しだけ開いた口
の位置に当たるのが、シエンナ内海と名付けられた海である。紺碧の澄んだ海水を湛
え、多くの生命を宿すこのシエンナ内海の北側、やや東寄りにアルテリア王国がある。
戦火の絶えない人の世の中、アルテリア王国は治世300年の歴史を誇る大国だ。
彼がアルテリアにやってきたのは、今から5年ほど前のことだ。東に乱立する小国
の戦に巻き込まれ、父親と一緒にこの国へ逃れて来た。しばらくは平穏な日々が続い
ていたのだが、ある日の夜、彼はひとつの決心をした。
「もう、二度と帰って来ない」
アルテリアを記録的な災害が襲った年、彼は両親に太刀を向け、そう言い放った。
彼自身では幼いなりにも様々な葛藤があったのだが、両親にしてみれば彼の「突然」
の行動。とても信じられないと言う顔をしている二人を冷たく一瞥し、彼は北東の都、
龍都のミナガルデ地方の村にあった家を飛び出した。
「お前、血に飢えた狼みたいな顔してるぜ?」
その後、北の都、氷都のシュレイド地方へとやってきた彼は、徒党を組んで通行人
から金銭を盗んだり、物乞いをしたりする「家なし子」のグループに出会った。その
リーダーを務めていた少年、ジェイドが、彼の顔を見るなりそう言ったのだ。
「まるでフェンリルだな」
きっかけはそれで充分だった。彼は両親から貰った名を捨て、北の地に伝わる伝説
の狼王の名、フェンリルと名乗るようになった。アルテリア名物のハンターに密かに
憧れを抱きながら、フェンリルは家なし子の集団と共に、孤児としての生活をそれな
りに充実させていた。
ただ、その日ばかりは事情が違ったのだ。いつものように「仕事」を終えてねぐら
に戻る途中、フェンリルのグループと対立している、アストという少年が率いる大人
数のグループと鉢合わせてしまい、ケンカになった。相手は10人、こちらは1人。
多数に無勢だが、なぜかケンカだけは強かったフェンリルは怯むことなくアストたち
と戦った。しかしケンカの途中、アストが投げたガラスの空きビンの破片を思いきり
踏んでしまい、ハダシの足をザックリと切るケガをしてしまったのだ。それを機に、
戦況は一変した。急に動きが鈍ったフェンリルは一方的に殴られ蹴られ、ただアスト
たちの気が済むのを待つだけになった。
ちょうどそこが花屋の裏路地だったせいで、傍に置いてあった土を最後のオマケと
ばかりに頭からかけられ、泥だらけにされた。本日の収穫を巻き上げられたうえに、
負ってしまった思わぬケガ。おまけに雨まで降って来て、さんざんな一日だった。そ
んなふうに思いながら、フェンリルは足の裏に深く刺さったガラスの破片を引き抜き、
石畳を汚していく血をボンヤリと眺めていた。その時、フェンリルは「彼」と出会っ
たのだ……。
*
そこは北の氷都、シュレイド地方のスノーレイと呼ばれる町だ。普通、どこの町で
も、中央から離れるに従って寂びれていくものだが、北の都だけは違う。アルテリア
は北の国境を、フラヒヤ山脈と呼ばれる雪と氷の大山脈に接する。このフラヒヤ山脈
からは膨大な量の温泉が流れ出し、それが健康に良いということが知れて以来、北の
都、特にシュレイド地方は温泉を目当てに集まってくる観光客により、多大なる賑わ
いを見せている。
スノーレイの町は、アルテリアでは珍しいことだが町の最南端に役所がある。そこ
からしばらくは呉服屋だの飲食店だのが立ち並ぶ通りが続くのだが、フラヒヤ山脈の
麓へ近づくにつれて、温泉宿の看板をあげた店ばかりが目立つようになる。陽が落ち
ても、通りは煌々と灯された松明と店から漏れる明かりのおかげで昼間のように明る
い。酒に酔った通行人、道端で行商をしている旅人、客引きをする下働き。通りは、
降りしきる雨さえ蒸発させる熱気を孕んで一日を通して眠ることを知らない。季節の
境目を祝う祭りが近いこともあって、町のいたるところに人の顔にデコレーションさ
れたカボチャが、ロウソクを灯されて笑っている。フェンリルにとって、見慣れたス
ノーレイの町の景色が今夜もまた繰り広げられていた。
どういう風の吹きまわしかは知らないが、フェンリルは京吾と名乗った青年に抱か
れたままスノーレイの町を進んでいた。道行く通行人、特に若い女たちがやたら自分
たちの方を振り向くのは、ひとえに京吾が人並み外れた美貌の持ち主だからに違いな
い。それに、彼の身なりは氷都では滅多に見ない上等なものだ。その上着だけは今、
フェンリルの身体を包んでいるのだが、その身なりからして彼が観光客だと思わせる
には充分だった。なんだかんだ言っても、しょせんは田舎の氷都に暮らす住人に、こ
んな服を着ている者はいない。
「ねえ、お兄さん。京吾さん、だっけ? どこ行くの?」
無言のまま、ただ抱かれていることに居心地の悪さを感じて、フェンリルは今更の
ように聞いてみる。別にどこに連れて行かれようが、実のところどうでも良かったの
だが、会話の糸口として他に思いつかなかったのだから仕方ない。
「不安か?」
「そういうワケじゃないけど……」
会話が途切れた。さて、どうしようと思考を巡らせ始めたところで、京吾が軽く笑
う気配がした。
「なに?」
「いや、10人相手のケンカでも怯まないくせに、随分と弱気だなと思っただけだ」
「見てたの?」
「まあな」
だったらもっと早く助けてくれればいいのに、と思わないでもないが、さすがにそ
れを口に出すのは気が引けた。
「俺が泊まってる宿だ。もうすぐ着く」
「う、うん……」
それ以上、何を言っていいか分からず、フェンリルは無意識に視線を下げる。自然
と京吾の肩口に顔を寄せた彼は、ふと鼻腔を刺激する甘い匂いに気付いた。
「京吾さん、なんかいい匂いがするね」
「ん? ああ、服を作った仕立屋のサービスだ。襟元にラベンダーの香水を付けると
病魔が逃げていくと言って勝手にかけられたんだ。普段はしないんだけどな」
「へえ……」
食べ物の匂い以外に「いい匂い」と感じたのは初めてだったかもしれない。
「香水、か……」
「そんなに珍しいか?」
「まあ、ね。俺ら、食べるだけで精いっぱいだし。ちゃんと家で寝てる人たちだって、
そんな余裕ないよ。特に最近は」
「だろうな。俺には関係ないが」
「そうみたいだね……」
口には出さずに、変な人だと思った時、京吾が一件の宿屋の前で足を止める。ある
程度の予想はしていたが、彼が門を潜った店はスノーレイの宿屋の中でもかなりの金
持ちしか泊まれない一級の宿屋「クレマチス」だった。
「ここ、イヤだな……」
「何が?」
「京吾さんに言っても、分からないと思う……」
クレマチスとは「精神的な美しさ」あるいは「旅人の安らぎ」という花言葉を持
つ花の名である。その言葉通り、高い石の門柱を通り抜けた先に広がっている前庭
には、いたるところに鉢植えされたクレマチスの花が咲いている。その多くは、六
枚の花弁をもつ黄色を帯びた白い花だが、ところどころに赤や紫の花をつけたクレ
マチスがアクセントのように咲いている。庭にも、いたるところにカボチャのラン
タンが飾られ、クレマチスの花を照らしていた。
「堂々としてればいい。気にするな」
クレマチスに飾られた前庭の先に、年期を重ねた木造の建物がある。森林が少ない
アルテリアでは、木の家はとても珍しい。少なくとも、フェンリルが知っている限り
ではこのクレマチスが唯一だった。
「お戻りなさいませ」
石畳の道を通って、入口に向かえば、中から出てきた店員の男が、京吾に向って
深々と頭を下げ、続いて扉を開けて店内へと促した。初めて足を踏み入れたクレマ
チスの内部は、正面にある大きな暖炉によって外の寒さがウソのような暖かさを保
っている。
「ごくろうさん」
言いながら、京吾は片手で器用に紙幣を取り出し、その一枚を男に手渡す。紙幣は
銀細工の留め具のようなもので挟まれており、チラリと見た札の文字は10000z
と書いてあった。米30kgが10zで買える世の中である。100zあれば人並み、
1000zあればかなり裕福な暮らしができる。それでも、彼が持っている紙幣には
一桁ほど足りない。だいたい、一般市民は紙幣を持ち歩く必要がないのだ。形と重さ
を整えられた鉱石を、革袋に入れて持ち歩いていれば事足りる。フェンリルが手に取
ったことがあるのは、ユニオン鉱石でできている100z硬貨が一度きりだ。紙幣な
ど、手にしたこともなければ近くで見たのも初めてだった。ちなみに、紙幣の場合は
黄金がその価値を裏付けているらしい。
「いくら渡したの?」
「さあ。見てなかった」
「あっそう……」
ドアの向こう側には、広々とした明るいエントランスがある。左側には受付カウ
ンター、中央には、客がくつろげるようにと、光沢のある丸いテーブルとポポの毛
をあしらったソファが幾つも置かれていた。床には気の遠くなるような細かい刺繍
が入った巨大な絨毯。高い天井にはガラスのシャンデリアが飾りつけられ、キラキ
ラとした光を床に落としている。壁に等間隔で設置された松明を支える装飾は、磨
きこまれ、呆れるほど複雑な細工が施された銀。根気の無さでは並ぶ者がいない自
分には、やれと言われてもとても真似できない。職人の凄さは何も技術力だけでは
ないのだと、その時なぜか実感した。
「お戻りなさいませ、旦那さま」
いつも外側から眺めていたクレマチスの中身はこんな風になっていたのか、と物珍し
さが先立って、フェンリルは思わずあちらこちらを見渡す。そんな彼に構うことなく、
受付カウンターの中にいる店員たちは揃って頭を下げ、型通りの挨拶をした。
「坊やがケガしてるんだ。悪いが、傷薬を分けてもらえるか?」
「あ、はい……。傷薬でございますね。少々お待ちを……」
まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい受付嬢が、あからさまに顔を赤
らめて店の奥へと走って行く。彼女が戻ってくるまでの短い間、深い色をした木のカ
ウンター越しに、店員たちが無関心を装った好奇の眼差しを向けてくるのを肌に感じ、
フェンリルは居心地の悪い思いを味わった。普通に考えれば自分のような身分の子供
が立ち入れる店ではない。教育されているとはいえ、しょせんは人間。店員たちが興
味を持つのも仕方ないとは思うものの、気持ちのいいものではなかった。
「お待たせいたしました」
特に待たされたと感じる間もなく、奥からカウンターへ戻ってきた女性は、何やら
複雑な文字が並んだビンを手に持っていた。
「よろしければ、お医者様をお呼びいたしますが……」
「いや、傷の手当くらい俺でもできる」
「かしこまりました」
彼女からビンを受け取った京吾は、それをそのままフェンリルの手の中に押し付け
る。そして、空いた手で再び紙幣を一枚ほど取り出し、受付嬢に手渡した。深く一礼
して紙幣を受け取った彼女に作り笑いを向け、京吾は勝手知ったる様子で客室がある
と思われるドアの方へ向って歩き出した。
「お戻りなさいませ、旦那さま。今日はボクがお手伝いさせていただきますニャ」
そのドアの前に立っていたのは、海のような青い毛並みをした一匹のアイルーだっ
た。アイルーは一見して、二足歩行をする巨大なネコに見えるが、これでも立派なモ
ンスターである。高級宿で働くアイルーらしく、その身なりは一般の人間が羨むよう
な立派なもので、仕草もいちいち丁寧だ。
「名前はアシュリー。よろしくお願いしますニャ」
そう言って深く一礼したアシュリーは、後ろ脚が震えるほど背伸びしてドアのノ
ブを回すと、先頭に立って歩き始める。その後を、京吾が続いた。
「なんか、別世界って感じ」
エントランスから客室へと続く廊下は、天井とそれを支える柱が木製で、左右は巨
大なガラスが嵌められていた。等間隔に立つ柱のすべてには、松明の代わりにランタ
ンがかけられ、ガラス張りの廊下を明るく照らし出している。ガラスの向こうには手
入れの行き届いたクレマチスの庭園。どういう仕組みかは知らないが、暖炉もないの
に廊下は春のような暖かさを保っている。廊下にも、いたるところにカボチャのラン
タンが吊るされていた。
「こちらですニャ」
まるで迷路のように入り組んだガラスの廊下のところどころに、どうやら客室と思
しき建物が幾つか見えた。どうやら、クレマチスの客室は一つ一つの部屋が独立した
タイプであるらしい。アシュリーの案内で、二人は続く廊下を曲がって部屋、という
よりむしろ木造建築の建物の前に立つ。彼女にカギを開けてもらって室内へと足を踏
みこむと、そこはどこかの金持ちの家のリビングのような体裁に整えられていた。暖
炉に、木のテーブルとポポの毛のソファ。先ほどのエントランスと似たような雰囲気
ではあるが、意図的に照明であるランタンの数を減らしているせいか、少し薄暗い。
「ダンナ様、ご用はございますかニャ?」
「ああ、坊やを風呂に案内してやってくれ」
「ええ!?」
さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない、と今更ながら思ったフェンリルは
抗議の声を上げるが、用を言いつけられたアシュリーは淡々と頭を下げる。
「かしこまりましたニャ。では、ぼっちゃまの着替えを用意して参りますニャ」
巨大なネコに「ぼっちゃま」と呼ばれて、フェンリルの背筋を激しく悪寒が駆け抜
ける。しかし、そんな彼の心情には全く無頓着らしい京吾は、ここへ来てようやく彼
をソファの上に降ろしてくれた。
「さてと、坊や。足の傷、見せてみろ」
「あ、ああ…はい……」
慣れないことの連続で、ずっと緊張していた。思わずほっと息をつきながら、フェ
ンリルは、無意識にケガした足を自分の方に引き寄せる。何となく傷の具合が気にな
って視線を向ければ、しもやけで赤くなった足の裏に、思わず目を逸らしたくなるよ
うな深い傷が口を開けていた。
「うげ~! 足の裏に口がある! 気持ちわり~!!」
「自分の足だろ?」
「そんなこと言ったって~」
気持ち悪いものは気持ち悪いのだから仕方ない。一方、顔を顰めるフェンリルとは
対照的に、京吾は実に淡々としていた。彼は床が汚れないよう、フェンリルの足の下
にタオルを当て、そこに先ほどの薬品のひとつをかける。その瞬間、息が詰まるほど
の痛みが全身を駆け抜けるが、情けない声を上げるのだけは必至で堪えた。
「なんでハダシで歩いてたんだ? 靴くらい買えないのか?」
「それはねえ……俺たちの生きる知恵ってヤツなんだけど……京吾さん、痛い~」
「我慢しろ。生きる知恵? どういう意味だ?」
傷口をタオルで拭いた後、塗り薬を付けられる。そこに何だかよく分からない布を
被せられ、上から包帯が巻かれていく。
「だから~、俺たちはクツを買うお金も無いんです。せめて小さい妹にだけでもクツ
を履かせてやりたいので、お金を恵んでください~って言ったら、普通の人はいくら
かくれるんだよ。さすがにもう夜は寒いから履いてる。脱いでるのは仕事中だけ」
「なるほどな。ほら、終わったぞ」
「ありがと」
手際よく包帯を巻き終えた京吾は、そのままフェンリルの隣の腰を下ろし、胸のポ
ケットから煙草を取り出した。
「見た目ほど傷は深くない。ガラスで切ると派手に血が出るからな。二、三日もすれ
ば消えるだろ」
「よかった~。まあ、でも傷があれば仕事のネタにはなるかな」
あっけらかんと言ったところで、部屋のドアがノックされ、腕に夜着と数枚のタオ
ルを抱えたアシュリーが戻ってきた。そう言えば風呂まで恵んでもらえるという話に
なっていた気がする。
「お風呂、よろしいですかニャ?」
「ああ。ほら、坊や。せっかくだから温まって来い。歩けるか?」
「そりゃ歩けるけど……いいの?」
「今更だろ? さっさと行け。ケガした足は濡らさないように気を付けろよ」
「……難しいことを言うね」
「できるだろ? やれ」
この人は親切なんだか意地悪なんだか分からない、と思いながらも、せっかくなの
で好意に甘えさせてもらうことにした。ここで断るのも悪い気がしたというのもある
が、何より「金持ち」の入る風呂というものがいったいどんな姿をしているのか好奇
心が働いたというのが本音だったりする。
「ご案内しますニャ」
「それじゃ、行ってきま~す」
紫煙をくゆらせる京吾に手を振って、フェンリルは踵だけで歩きながらアシュリー
の後ろに続いた。彼女はフェンリルが付いて来ているのを確かめながら、部屋の奥に
あるドアの方へと歩いて行く。
「すげ~」
ドアの先にはもうひとつ部屋があって、中央には十人が楽勝で座れるような大きな
長テーブルとイスが置かれている。その奥にはビンに詰められた酒が、ランタンの灯
りを反射するグラスと一緒に幾つも棚に並べられ、酒場のカウンターのような体裁に
なっていた。その部屋にはドアが三つあり、そのうち二つはフェンリルから見て左手
に、もう一つは向かって正面にある。
「なあ、ここは何?」
その部屋を素通りして正面のドアに向かっていくアシュリーに話しかけると、彼女
は実に面倒くさそうに振り向いた。
「ここはダイニングだニャ。さっきのはリビング。ちなみに、あっちのドアの向こう
は寝室になってるニャ」
「どう違うんだ?」
「食事を取るか、くつろぐかの違いニャ。どっちにしろ、ぼっちゃんには縁のない話
だニャ」
「……まあ、そうなんだけどね」
何となくネコに言われると腹が立つ。しかし事実なので、余計なことは言わずに黙
っておいた。
「このお部屋は、格で言うなら「中の上」と言ったところニャ。お泊りになってる旦
那さまは随分と羽振りがいいお人なのに、なんでもっと上の部屋に泊まらないのか不
思議ニャ。まあ、チップを弾んでくれるから何でもいいけどニャ」
「これで中の上なんだ……」
「そうだニャ。一番いいお部屋には、更にもう二つお風呂が付くニャ」
「へえ……」
そんなに風呂を付けていったいどうするのだろう。その日の気分で入る風呂を変え
るのだろうか。けれど一泊しかしない客もいるはず。いや、そういう場合はもっと格
安の宿に泊まるのだろうか……。考えても仕方ないことを堂々巡りで思い患っていた
ところで、さっさと前を歩いて行くアシュリーが正面のドアを開けた。
「ここは?」
「脱衣所、と言ったら分かるかニャ?」
「ああ……」
ドアの向こうには温泉の匂いが充満していた。クレマチスの傍を通りがかる度に嗅
いでいた何とも言えない匂いである。床と壁は明るい色の板張り。温泉へ続くと思わ
れるドアだけが、焦げ茶色だった。
「何ボケっとしてるニャ。さっさと脱ぐニャ」
「え? もしかして中まで付いて来んの!?」
「子供のくせに意識するんじゃないニャ。心配しなくても、ぼっちゃんのソーセージ
なんてマジマジ見たりしないニャ」
「……」
そちらは気にしなくても、こちらは気にする。子供と言えども、それなりに羞恥心
はあるのだ。しかしアシュリーの雰囲気にはイヤと言いだせない迫力があって、フェ
ンリルはしぶしぶながら着ていた衣服に手をかける。
「最近の子供はマセてるニャね……」
「どこ見てんだよ!?」
アシュリーの手から短いタオルを捥ぎ取り、腰に巻きつけたところで彼女が温泉へ
続くドアを開く。彼女の後ろから温泉を覗き込んで、フェンリルは絶句した。
「なに、これ。池……?」
「驚いたみたいニャね。ウチでは標準サイズのお風呂ニャ」
風呂と聞いたら、まずタライを思い浮かべるフェンリルにとって、それは池だとし
か思えないような代物だった。壁は三方がガラス張りで、例によってクレマチスの庭
が見渡せるようになっている。床は磨きこまれた大理石。タライを部屋に運んで、そ
こに湯を運ぶのが一般家庭の風呂の常識なのだが、この宿の場合は風呂と言うより、
まさしく池のように直接、穴が掘ってあって、そこに大量の湯が注がれていた。しか
も、タライで風呂に入れるのもあくまで「一般家庭」のみ。貧しい家では湯を沸かす
薪を真っ先に節約するから、冬ともなれば水に濡らしたタオルでたまに体を拭くのが
せいぜいだ。
「さあ、とりあえず体を洗うニャ」
「え、あ……うん」
彼女に促され、フェンリルは風呂の端の方へ進む。そこに小さな石のイスとガラス
の桶が置いてあって、とりあえずイスに腰掛けると、いきなり頭から湯をかけられた。
「何すんだよ! びっくりするじゃねーか!」
「はいはい。しっかりビックリするニャ」
続いてアシュリーは床に置いてあるガラスのビンを手に取り、その中身をフェンリ
ルの頭にかけ始めた。
「クレマチスのエッセンス入りの石鹸ニャ。目に入ると痛いから閉じておくニャ」
「もう入った……」
「それは御愁傷様ニャ」
ケガした足に湯がかからないように気を使いつつ、目に入った石鹸の痛みに涙を零
す。ネコに髪を洗われるというのも不思議な感覚だったが、ここまで来たらもう何も
文句は言えない。髪を洗い終わったらしいアシュリーが、やはり何の断りもなく頭に
湯をぶっかけ、続いて別の石鹸で背中を流し始めるのを、ただ耐え忍び続けた。
「一通り、終わったニャ。お待ちかねの温泉へどうぞニャ」
「どうも……」
額の汗を拭う仕草をしたアシュリーが、芝居がかった態度で温泉を示す。四苦八苦
しながら湯に浸かると、何とも言えない心地よさが全身を駆け抜けていく。片足を濡
らすなと言われているため、両足を伸ばせないのが残念と言えば残念だが、肩まで温
かい湯に浸かるのは、今までに味わったことも無い極楽気分と言える。
「すっげ~! 気持ちいい~!!」
フェンリルは思わず感嘆の声を上げていた。温かいお湯に肩まで浸かることが、こ
んなに気持ちがいいものだとは思わなかった。
「ぼっちゃん、実はすごい綺麗な顔してるんだニャ……」
「え?」
温泉に心を奪われていたので、一瞬、言われた意味が分からなかった。
「さっきまでは泥だらけだったから分からなかったニャ。ちょっと驚いたニャ。大人
になったら、きっとあのダンナさんみたいにカッコよくなるニャ」
「どうも……」
ネコに人間の顔立ちの良し悪しが分かるのかという疑問はあったが、とりあえず褒
め言葉は受け取っておいた。それに、京吾のようになる、と言われれば悪い気はしな
い。あの人は、どう見てもかなりカッコいい。
「じゃあ、気がすんだら声をかけるニャ。ボクはそこで待ってるニャ」
アシュリーがクルリと後ろを向いたので、何となくフェンリルは呼びとめていた。
「アシュリーは入らないの?」
「ボクが入ったら毛だらけになるニャ。心配しなくても、ぼっちゃんよりはいい暮ら
しをさせてもらってるニャ」
「……あっそう」
心の中で、やっぱりこいつ嫌いだ、と思った。
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