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ノンシュガーデビル
作:広井道雄


         1

 ガラス越しに、チョコとフルーツの甘い香気が漂ってくるようだった。
 洋菓子店「ボッカ・デラ・ヴェリタ」のショーウインドウに、悪魔の目はくぎづけになっていた。
 食いてえなア……。
 大粒の果実とたっぷりの生クリームでデコレートされたショートケーキが、今月の新作メニューとして飾られている。「乙女の宝石」とタイトルがつけられている。
 チョコムース、ミントムースの二層になっており、チョコムースのまわりにはスポンジ生地が巻かれてある。ここにはシロップが豊富に含まれており、舌に触れた瞬間とろとろに溶けていく。最上段の生クリームには、いちご、キウイ、オレンジに巨峰と鮮やかな色のフルーツが置かれている。まるで白いソファーで談笑する貴婦人たちのように見える。
 まずはチョコムースのしっかりついたサイドの生地を削り取ってやろう。それで清潔な生クリームをぐちゃぐちゃに汚してやる。貴婦人たちの顔が歪むのがみえるようだぜ。
 そしてじわりじわりといたぶるようにまわりから食べていく。熟しきった豊満な肢体が、困ったようにお互いに寄り添い合い、泣き出す。俺はつついたり、クリームに押しつけたり、切り刻んだりして、貴婦人たちを弄ぶ。
 やがて狂気に落ちてしまった貴婦人たちは、従順な信者へがらりと変貌する。先程とは逆に、悪魔様と一つになりたいと我先に訴えかけてくる。
 俺はフォークの先でそれぞれの感触を確かめながら、舌なめずりをする。いったい誰から食べてやろうか? 清純ないちごか陽気なオレンジか、はたまた妖艶な巨峰か。キウイのエキゾチックな魅力も捨てがたい。
 考えるだけで、甘いとろけるような感触が口の中いっぱいに広がっていくようだった。
 左右に高い建物がそびえる、狭い裏通りにその店はあった。
 近くには市役所など官公庁の建物が多いから、ふだんはそこから客は来ているのだろう。昼休みには早い時刻で、いまは歩く人々の姿はない。
 蝦ガエルのような不細工な顔の店主だが、すばらしい味覚と技術を持っている。今まで何度となく、彼の作った一品に舌が鼓を打ったものだ。
「パフェザウルス」と名づけられたジャイアントパフェは、バニラとチョコレートの断層の中に、何種類ものフルーツが恐竜の化石のように埋もれていた。アイスの方もベルギー産と思われるホワイトチョコの隠し味が効いて美味であったが、丸ごとのパインや骨太なバナナをその中から発掘するのも、また格別の愉しみであった。
 最近一番のヒット作だったのは、「カラメルシュークリーム」だろうか。その名の通り、カスタードや生クリームの代わりに、プリンの下に敷かれてあるあのカラメルがクリームとなって詰められている。細切れのバナナの果実がさりげなく入っていて、まったり感を増幅させている。初めて食べたとき、悪魔は一ダース以上ものカラメルシューをたいらげてしまったほどだ。
 想像にひたってにやにやしていると、いつのまにやら店の奥にいた店主が近づいてきてこちらを気にしている。
 悪魔はいつも違う人間の体をつかってこの店を訪れていたので、こっちは常連のつもりでも、あちらにしてみれば初めての客である。
 店主は怪訝な顔をしている。小汚い老人がよだれを垂らしながら、長い時間、商品を見つめているのだ。不審に思って当然だろう。
「お買い求めですか?」
 店主はカエル顔を歪めて笑いかけてくる。
「いや、別に」
 悪魔はぶっきらぼうに答えて、早歩きで「ボッカ・デラ・ヴェリタ」をはなれていった。
 一度振り返ると、店主は野良犬でも見るような目つきでまだこちらを見ている。
 いまに見てやがれ。いずれ貴様を地獄に落として、俺様専用の召使としてこき使ってやるからな!
 そう毒づきながらも、悪魔は自分がまだ地獄界では一番下っ端の下級悪魔だということを思い出して、深いため息をこぼした。
「ボッカ・デラ・ヴェリタ」の洋菓子どころか、コンビニで買える板チョコや自販機の缶コーヒーでさえも、ここのところいっさい口にしていない。
 大好きなものを我慢してまで仕事をしなくちゃならないなんて、これじゃまるで修行僧だ。悪魔のやることじゃねえや。
 自らの悪態に一人うなずきながらも、言い訳がきかない現実を思い出して、悪魔は二度目のため息を吐いた。
 最近、仕事がうまくいっていない。自分ではそつなくこなしているつもりだったのだが、ついに地獄を司る大王から大目玉を食らってしまったのだ。
 貴様らのやり方では、地獄を魂で満たすことはできても、地上を制圧することはできんのだ。ただでさえ、天使たちの攻勢で悪魔の数が減ってきているというのに、もっと真剣に仕事をせんと、地獄界のほかの仕事を任せることなんかとうていできんぞ。
 猛々しい牡山羊の角で威嚇しながら、大王は下級悪魔たちを叱咤する。その意気込みようは、まるで人間社会にみる、業績の上がらない中小企業の営業部長のようでもある。
 下級悪魔の仕事とは、人間と契約し、その魂を地獄界に堕とすことである。
 堕ちた魂は、中級、上級の悪魔によって手ひどい拷問を受け、再び人間界に輪廻するのだが、別にそれは人間の更生のために行われているというわけではない。
 火あぶり、串刺し、生き埋め。そのほか筆舌に尽くし難いほどの圧倒的な暴力。
 人間に肉体的精神的を問わず冷酷非道な仕打ちを行うことが、彼ら悪魔にとっては最上の喜びなのであり、人間の泣き声や悲鳴で空が充満し、血、涙、汗、鼻汁、唾液糞尿等、人間のあらゆる体液で大地が潤ってこそ、地獄は地獄たりえるのである。
 拷問を受けると、人間たちはすすり泣いて哀願したり、己れが過ちを悔いたりもする。だが、それらは悪魔の心に届きはしない。彼らはその無様な姿を見て、ただにやにやと嘲笑いを浮かべているだけ。
 大王をはじめとする上級の悪魔たちは、好きなときに人間を殺すことができ、またその血肉を食らうことができた。中級の悪魔たちは、大王の命令によってあらゆる残虐な方法で人間を拷問にかけるができた。
 下級とみなされている悪魔たちに限っては、人間に対して物理的苦痛を与えることが許されていなかった。地獄界においての彼らは、打たれ刻まれ裂かれる人間の姿を、生唾を飲み込んで見守るばかりである。
 人間の魂がひとつでも多く地獄に堕ちれば、その分、中級悪魔の数も必要になってくる。下級悪魔は中級悪魔へと昇格できる。
 したがって下級悪魔たちは、人間を一人でも多く堕落させるために、日夜地上を暗躍しているのである。
 だが、最近それも彼らの最たる敵、神の力によって劣勢の模様であった。世紀末からこっち宗教が盛り返して、悪魔が人間につけこむ隙を少なくしている。登場しただけでもう、聖印を掲げたり祈りを唱えたりやらで、すぐに追っ払おうとするのだ。べつにそんなもの悪魔は屁とも思わないのだが、初めから聞く耳を持たないというのは厄介だ。悪行の魅力を説く暇もない。
 大勢の下級悪魔たちが、なかなか契約をできずに手をこまねいていた。大王によると、中には神側に寝返ってしまう不届きなものまで出る始末だという。昔は天使が堕天使として地獄に堕ちたものだが、まったく末恐ろしい時代になったものだと、かの地の支配者は忌ま忌ましげに愚痴をこぼしていた。
 しかし彼、甘党の悪魔にしてみれば、そこそこコンスタントに契約を結んでいたので、他のものたちと並んで大王から雷を落されるのには不満を感じていた。
 そこで、俺もいけないのですか、と迂闊にも大王に問うてしまったのである。
 まわりの悪魔たちが、さっ、とそばから引いていくのがわかった。自分の勇み足にだいぶ焦って汗がにじんだが、もう引くにも引けない。
 大王は彼のことを確認すると、質の問題だ、と答えた。
 でも俺が今まで契約を結び、地獄へ引き連れてきたやつらは、みな第一級の殺人犯たちです。質に問題はないはずです。
 果敢にも彼は、自分よりもはるかに格上の大王に向かって抗弁した。
 すると大王は、癇にさわったのか、尖った目をぎらぎらと赤く燃やしながら説明した。
 だからいかんのだ。お前は大きな考え違いをしている。殺人犯というのは、放っておいてもいずれは地獄に堕ちるものなのだ。そんなやつが天国に昇る可能性はまずない。悪魔が地上から地獄に堕とすべき魂というのは、逆に天界に昇ることが確実な善良な魂なのだ。善人を悪の道に誘うことができて、初めて悪魔はその仕事をしたといえるのだぞ。
 その点、お前のやっていることはほとんど無意味な行為だ。そのことを全然わかっていないだろう。むしろお前は、劣等悪魔といってよいのだぞ。
 大王は彼を指差しながら、意地悪そうに太い眉をつり上げる。
 よし、ひとつ決め事をつくろう。今後、善人の魂を地獄界に持ち帰ってくるまで、お前に大好きな甘いものを食べることを禁止する。どうもお前は、人間界へ行くと砂糖菓子ばかり食べて、真剣に仕事をしとらんようだからな。今後、我が輩の許可が出るまで、お前は糖分の入ったものを一かけら、一滴たりとも口にしてはならない。もしもこの禁を破ったのなら、悪魔失格、永遠に拷問を受け続ける魂として、地獄界をさまようことになるだろう。
 大王は、この上なく邪悪な笑みを浮かべて、そう命令した。
 恐ろしい宣告に、彼は自分の身の程の知らずを後悔した。拷問を与える役なら喜んで頂戴したいが、その逆なんてまっぴらごめんだ。
 それに、甘いものを食べられないこと、それも一種の拷問といってよかった。人間界に行ったときの楽しみがひとつ減ったというだけではない。彼にとって、チョコレートケーキやアイスクリームを味わうことは、悪魔人生最大の喜びといって過言ではなかった。口の中でとろける甘みが全身を弛緩させる瞬間こそが、何に勝るとも劣らない至福のときなのだ。
 三度目の溜め息がこぼれそうになるのを、悪魔はやっとの思いで食いしばる。
 解決する方法はただひとつ。
 さっさと善良な人間をたぶらかせて、契約を結ぶしかねえ。大王の目尻がすっかりとゆるんで、すぐにでも中級悪魔に昇格させてくれるぐらいの立派な人間から、必ず契約をとってやるさ。そしてそのあと、「乙女の宝石」でも「カラメルシュークリーム」でも、思う存分味わってやればいい。
 空を見上げると、ビルの間には雲ひとつない晴天が広がっていて、悪魔は目を細めた。昼間から仕事をするのは初めてだった。
 悪魔が闇にまぎれてその行為を行おうとするように、人間にしても、夜に活動するものは心に何かしらの暗き部分を持っているものが多い。彼がいままでに契約を結ぶのに成功したのは、全部深夜を過ぎてからのものばかりだ。
 悪魔は自らに言い聞かす。
 いままでといっしょじゃあ、駄目だ。大王の鼻を明かすには、とても地獄とは縁遠い、人徳の優れた、反吐の出るような魂でなければならねえ。
 当てはあった。その前哨戦というべき小さな契約もすでに結んであった。
「あいつは正義感の塊のような男じゃ。悪人たちが我がもの顔で世間にのさばるのを許してはおけない。その一生を、犯罪者の撲滅のために捧げている信念の男だ。いくら悪魔でも、そう簡単に口説き落とすことはできまいて」
 体を借りている老人から聞いた言葉を思い出して、全身に気合が走った。
 思わず目が真っ赤に吊り上り、犬歯が鋭く唇の間からはみ出す。老人の顔から、人ではない恐ろしい形相が一瞬だけ面に垣間出る。
 裏通りから交通の多い国道に出ると、歩道橋を挟んで、目の前に大きな建物がそびえ立つ。
 広い敷地内に、T字型に繋がった棟。
 屋上から、幾つか交通標語の書かれた幕が垂れ下がっている。人間社会の中で、あるときはこの上なく頼りにされ、あるときは親の仇のごとく嫌われ、恐れられる場所。
 N県磐座市、磐座警察署。そこに、悪魔の獲物は勤めている。


         2

 薄茶のよれよれになったロングコート。染みのついた縦縞のシャツに、ネクタイは悪趣味なグリーンで唐草模様にも似た中途半端な刺繍がほどこされている。
 しかし、なんでこんなセンスのかけらもねえ服しか持ってねえんだ?
 悪魔は、警察署玄関に映った自分の姿を見つめて、あらためて悪態をついた。いくら服装に気を配らなくてもいい事件記者だからといって、これではあまりにだらしがなさすぎる。一歩間違えば、乞食と勘違いされてしまいそうな風貌である。
 そうかといって、黒岩健作のクローゼットの中に、これ以上ましな服があったかといえば、そんなものは一着たりとも存在してはいなかった。あとは穴が開いているか、黴びた臭いが染みついているかで、身にまとう以前の不良品ばかりだったのである。
まあ、しかたがねえか。身なりはそれほど重要ではないさ。
 そうは思いつつも、悪魔は少しでも見栄えがするようにと、コートのしわを引っ張ってから警察署館内へと足を進めていく。
 昼間に活動するにあたって、悪魔はその姿を人目にさらすわけにはいかない。もしも大勢の人間の目に止まり、あげくメディアの注目にでもなってしまったら、人間たちが過剰に警戒してしまう。そうなってしまえば、今後悪魔の活動そのものが危うくなる恐れすらある。
 だから今回、悪魔は黒岩健作という引退間際の事件記者の体を拝借した。
 頬骨が落ち窪み、猿のように背中が丸まった陰鬱な老人だった。
 昨日、その老人が警察署玄関から出てくるのを見たとき、こいつは使えそうだと直感して、悪魔はその後を追ったのだった。
 老人が郊外の古びたアパートに帰りつくと、宵が訪れるのを待って、その六畳半の汚い部屋の中に、影からにじみ出るようにして、漆黒の姿を現した。
 はじめこそ架空の生き物の実在に恐れ戸惑いを隠せずにいたが、やがて悪魔の甘言を受けるにつれ、老人は、己が人生に対する憤りを語り始めた。
 勤めている創世期新報は、大仰な社名を裏切って、部数のなかなか伸びない三流の新聞社だそうである。
 官公庁とのコネも薄く、スクープにはまったく恵まれていないらしい。その日も刑事の実像を主題とした記事の取材をしようとしていたのだが、取材すべき刑事に会うことさえかなわず、翌日のアポを取るのがやっとのことだったそうだ。
 社内で一番の古株とはいえ、この十数年の間、黒岩は大した仕事をしていないと嘆いた。健康状態も芳しくなく、もう引退の迫っている時期なのだが、どうしてもその前に一発スクープをあてたがっていた。身寄りもなく、老い先も長くない黒岩にとって、それが残された人生の唯一の願望といっていいだろう。
 わしは、絶対に一流紙を出し抜いて、世間のやつらが度肝を抜くような記事を書いてみせる。みておれ、わしはまだまだやれるんじゃ。若いやつらのように芸能人の尻を追っかけていればとれるようなものじゃない、社会を底辺から覆すような大事件をスクープしてみせる。みておれ、必ずみておれ……。
 薄暗くなった部屋の中、そう語る老人の目には、暗い妄念がありありと燃えていた。
 話を聞きながら、悪魔は自分がこの老人に目をつけたことが間違いでなかったことを確信した。
 翌日の取材相手こそが、悪魔が狙っている人物だったのである。
 稲垣光志郎。磐座署刑事部捜査一課の刑事課長にして、本庁が猟奇事件に関する特別捜査本部を設置するときは必ず招集される、国内でも指折りの捜査官である。
 悪魔は今まで何人もの殺人犯と契約を交わし地獄に堕してきたが、その彼らが恐れる男としてたびたび口にしたのが、稲垣光志郎の名であった。
 黒岩老人は、稲垣をこう評した。
 稲垣はいつも冷静にしているように見えるが、実のところその内側には燃えたぎるような熱い心を宿しておるんよ。正義感というやつかのう。悪を許さぬ固い意志がある。それには深いわけがあるんじゃ。
 十年ほど前、稲垣がまだまだ刑事になりたての頃じゃ、その頃からあやつは何人もの犯罪者を検挙する敏腕刑事として活躍していた。まあ、現在のように難解な事件ばかりじゃのうて、比較的犯人が分かりやすいものが多かったがのう。
 子宝にこそ恵まれていなかったものの、結婚もしていた。夫の仕事に理解を示す良き妻で、夫婦仲も円満だったようじゃ。
 しかし、あるとき順風満帆のやつの人生を粉々にするような、不幸な事件が起こったんじゃ。
 ……殺されてしまったんじゃなあ、彼の最愛の妻が。
 たまたま稲垣も非番だったらしい。寝過ごしてキッチンへ向かうと、テーブルの花瓶から青白くなった人間の腕が生えてある。眠気も一辺で覚めたろうさ。まだ固まりきっていない血が花瓶の底に溜まり、薬指には自分が贈ったはずの指輪がはめられたままだったんじゃから。
 稲垣は妻の名を叫びながら家中を探し回った。そして、次々と目にしたくはないものを目の当たりにしてしまった。
 ゴミ箱に詰め込まれた血まみれの太股。廊下の壁に押しピンで貼り付けられた二つの乳房。そして、居間のテレビの上に、土産物か何かのように無造作に置かれた妻の首。
 恐ろしいほどに大胆な犯行じゃ。調べたところ、稲垣が発見した時点で死後数時間ほどしか経過していなかったらしい。
 くしくも彼の妻は、稲垣が自分の部屋でぐっすりと眠っている間に、同じ家の中で殺害され、バラバラに切り裂かれたということになるんじゃ。
 残念なことに指紋や毛髪といった慰留物もなく、他にこれといった手掛かりをみつけることもできなかった。まあ、刑事は恨みを買うのも商売のひとつというからな、当然その線で捜査は進められたんじゃ。だけども、結局捕まらなんだのよ、その犯人は。
 二年後、稲垣は犯罪心理学を学びに米国へ渡った。そうして猟奇犯罪のスペシャリストとして、今では本庁の上層部も一目置く存在となっておる。
 稲垣を冷静な捜査官として高めたのは、妻の死が深く関わっておる。おそらく稲垣は、今でも犯人を捕まえることをあきらめておらんのじゃろう。それほど、やつの猟奇犯罪に対する捜査は徹底しておる。
 やつに何を吹き込もうとしているか知らんが、わしのような心の歪んだ老いぼれと違って、固い意志の持ち主じゃ。いくら悪魔といえども、一筋縄ではいかんじゃろうて。
 さて、そんな老人の危惧をよそに、この話を聞いて、悪魔にはひとつの目論みがひらめいた。生物としての、生理的な問題だ。
 十年も一人やもめを続けているのだ。やつは女に飢えているのでないか?
 磐座署の英雄として数々の殊勲を手にし、名誉は手に入れている。金も余るほどもらっているだろう。
 だったら、性欲だ。その点をうまく探りだしてつっつくのだ。変態趣味でも持ち合わせていたらこっちの思うつぼである。うまくやつ好みの女と引き合わせてやればいい。願望や欲望の実現こそが、堕落への第一歩なのだから。
そこで、悪魔は巧妙に老人をそそのかせて、スクープを与えてやる代わりに、翌日その体を使わせてもらうことを約束させたのだった。

「おい、君」
 受付で書類に目を通していた婦警に、悪魔は声をかける。
「創世記新報の黒岩というものだが、稲垣刑事はどこかね? 取材の約束をしていたんだ。心配しなくても、ちゃんと広報は通してある」
 少し偉そうな物言いだったか、婦警は審査でもするように、気の強そうな視線で老人を上から下まで眺め回す。慌てて名刺を差し出してみたが、結果は不合格だったようだ。
「残念ですが、稲垣刑事は重要な会議中です。日をあらためてまたお越し下さい」
 それだけ言うと、婦警は再び書類に目を通し始める。
 署内に入った瞬間、殺気だった感情をいくつも感じ取っていた。何かただ事ではない事件が起こったのは確かなのだろう。だが、かといってここで帰るつもりなど毛頭ない。
「昨日も忙しいと言うことで、今日の約束になったじゃないか? 三十分でいいんだ。ちゃんと取材させてくれ」
「申し訳ございません。あいにくですが、今日は本当に無理なんです。今度にして下さい」
 丁重な言葉づかいだが、口調は硬く早口である。
「おいおい、こんな老いぼれをいじめるな。こっちにも締め切りっていうのがあるんだ。ここは天下の警察署だろうが、約束はちゃんと守ってくれよ」
「申し訳ございません」
 婦警は頭こそ下げてはいるが、目はむけてなかった。さっさと帰れといわんばかりだ。
 悪魔はわざと声を荒げてみせた。
「こっちは警察の信用を高めようと思って記事を書こうとしているのに、何だその態度は! そんなんだから、市民から嫌われるんじゃないか?」
 婦警の顔に唾をかけるつもりで大声を出す。まわりの警官たちも、受付の方に目を向けた。
 上司に頼るかと思いきや、婦警は半腰をあげて、睨んでくる。負けじと、括舌のよい大きな声で答える。
「市民の生活の安全を考えての、重要な捜査会議です。三流の新聞社の取材を受ける時間はございません」
 この婦警はいつもこんな調子なのだろう。こちらを気にした警官たちの殺した笑いが聞こえてきた。
 悪魔は本気で腹が立ってきた。
 その婦警にだけ見えるように顔を近づけ、ほんの一瞬だけ、己の本性をさらけ出す
 両目が鬼の角のように吊り上り、光彩に赤みが帯びてくる。唇が、蛇のように割れていく。
 悪魔特有の、アルカイックな微笑を浮かべてみせる。
 婦警の顔はまたたく間に青ざめる。
「なあ、なんとかできるだろう? ほんの十分でいい。いくら重要な会議だといっても休憩ぐらいはあるだろうに」
 婦警は口を開いたが、怯えで悲鳴さえもあげることができないようだった。
 ケケケ。いくら強がったって、しょせんは人間、憐れな下等生物だ。
「どうかしたんですか?」
 後ろから、若い男の声がした。
 顔を元に戻し振り向くと、茶髪が光り輝いた、色白の青年が立っている。
 肩まである長髪だがよく整えられ、しわひとつないスーツとあいあまって清潔感すら漂わせている。
「藤丸刑事」
 婦警の声が、嬉しそうに弾む。恐怖が解かれた安堵からくるものだけではない、妙に色気のある響きだ。
「何をもめてるの?」
「あの、こちらの新聞社の方が、稲垣課長の取材がしたいとおっしゃって……。大事な会議中ですから、無理だと申し上げたんですが」
 婦警は、先程受け取った名刺を差し渡す。
「会議ならさっきすんだよ。課長なら、会議室に一人残って資料をあたってる。そうだな、二十分くらいなら、取材をしてもらってもいいんじゃないかな」
「え、でも……」
「大丈夫でしょ。昨日広報からも話しがあったみたいだし。それに今の課長は根のつめすぎだよ。少し気分を変えたほうがいいんだ」
 藤丸と呼ばれた刑事は、黒岩に目を向ける。
 睫毛も長く、端正な顔立ちである。まるで赤子でもあやしているかのような、至極さわやかなほほ笑みを浮かべている。
「ということで、黒岩さん、稲垣課長なら五階の第三会議室で資料に目を通しているはずです。いまちょうど休憩に入ったところですから、あまり時間はとれないですが、大丈夫だと思いますよ」
「助かります」
 悪魔は軽く会釈を返したが、藤丸はもう老記者に興味を失ったのか、婦警の肩に手を添えて、小声で耳打ちをしていた。
「ねえ、今度時間があったら一緒に映画を見に行かない? 実は先月公開されたタランティーノ監督の新作、まだ見ていないんだよね」
 婦警は、聞いている方が嫌になるほど声を弾ませて、
「もちろん、私で良ければ喜んで」
 などと答えている。さっき俺様が与えた恐怖はどこにいったんだ?
 なんとなくこの男は嫌いなタイプだと思っていたら、唐突に、藤丸は悪魔を振り返った。
「ああ、黒岩さん、後で僕も来ますから。稲垣課長の記事を書くんでしょう? 課に配属されてから、課長にはすごくお世話になっています。ぜひ、お話に参加させてください。おいしいケーキでもお持ちしますよ」
 拒否反応を示したかったが、ケーキという言葉に思わず口が固まってしまった。どうせ食えないんだから持ってこられても苦になるだけだぞと思ったが、思っている間に藤丸は去っていった。
 婦警が去り際に藤丸の耳元に囁いたのを、悪魔の地獄耳は聞き逃さなかった。
藤丸の背中をうっとりと見つめていた婦警を一睨みすると、気づいた彼女は身を縮めるようにうつむいて、もう悪魔の方を見ようとはしなかった。

 悪魔はエレベーターで五階に向かい、目的の会議室を探して廊下をとめどなく歩いていく。すれちがった警官たちに必ず視線を向けられたが、声までかけられることはなかった。いったいどのような事件が起きたのだろうか? それぞれが早歩きで進み、真剣な面持ちで仕事に集中しているようだ。
 さっきの藤丸だけが、署内の空気に不釣合いなほどやけにリラックスしていた。
「昨日の初手柄おめでとう。今度お祝いしますね」
 婦警は、藤丸にそう囁いていた。
 昨日、初手柄とは。おそらく藤丸は、まだ日の浅い、大卒上がりの新米刑事なのだろう。そんな奴の許可ぐらいで、稲垣は取材を快く受けてくれるだろうか。
 第三会議室とプレートのかかった扉を見つけ、悪魔は立ち止った。
 とにかく、稲垣の弱みを握らなくてはならない。日頃、正義感ぶった顔の裏に隠してある、やつの欲望を探りだす。その欲望を満たすとの引き換えに、死後、魂をもらうことを約束させる契約書に血のサインをもらう。それが無事終われば、大手を振って人間界の菓子店巡りができる。   
 悪魔は一呼吸おいてから、少しだけ第三会議室の扉を開け、中をのぞいた。
 部屋はそれほど広くはなかった。会議室らしく長机が囲いを作っていて、奥にはホワイトボードが置かれてある。他には、資料用だろうか、隅のボックスの上にテレビがあるくらいで、壁には張り紙なども少なく、簡潔に統一されていた。
 机の上だけは書籍やらファイルやらが山のように積まれてある。洋書がほとんどだが、快楽殺人、犯罪心理、プロファイリングなどの文字が入った本邦物もあるようだ。
 机に添えられたパイプ椅子に、苦渋に満ちた顔をした男が座っている。部屋の中にいるのは、その男一人だけのようである。
 ちょうど真横の角度で、情けないほどに唇を食いしばり、濃いめの眉を八の字につり下げている。
 あれが稲垣か。何を思い悩んでやがる。今度の事件は、よっぽど難解な事件なのか。
 黒岩老人の言葉で、稲垣光志郎とはどのようなオーラを放つ人物だろうかとひそかに期待していたので、悪魔は少々がっかりした。
 イエスやマホメットとはいかないまでも、聖人特有の雰囲気やカリスマ性を持っていてくれていた方が、地獄に堕とし甲斐もあるってものだ。
「誰だ」
 男の強い口調に、悪魔は愛想笑いを浮かべながら、部屋の中に侵入していく。
 名刺を差し出しながら、すかさず自己紹介をする。
「創世期新報の黒岩というものです。稲垣光志郎刑事ですね?」
 稲垣はすぐに答えは返さずに、差し出された名刺を受け取って、しばらく老人と見比べた。
 その間、悪魔も稲垣を観察する。 
 短髪にうっすらと武将髭の生えた、精悍な顔つきである。鍛練のたまものだろう、痩身で野性味をおびた浅黒い肌は、とても四十間近のものとは思えない。黒い大きな瞳は存在感十分で、並の犯罪者だったらそれだけで観念してしまいそうなほどである。
 が、といってもしょせん、それも人間ならの話だ。悪魔にしてみれば存在としての格が違う。いくら風格があっても人間にとって犬や猫は愛玩動物。それと同じようなものである。
「たしかに私が稲垣ですが、残念ながら取材はお受けできません。お引取り願いたい」
 老人の身元がわかったからか、稲垣は低姿勢な言葉遣いである。受付の婦警と違って、三流新聞社に対しても横柄な態度をとらない。なかなか見上げた奴じゃないか。
「藤丸刑事から、休憩中だから三十分程度ならと、取材の許可をいただいたんじゃ。それに老体に鞭打って五階まで階段を昇ってきたんですぞ。少し座るくらいよいじゃろう?」
 悪魔は、エレベーターのエの字も口にせず、時間のさばを十分加えたうえ、向かいの座席に早々と腰を落ち着ける。
「いやあ、しかしあれですなあ。署内のこのぴりぴりとした雰囲気、なにか大きな事件でもあったんですかなあ?」
 鞄から手帳を取り出しながら、ここぞとばかりに満面の笑みを稲垣に向ける。
 この態度にどう反応するかと思っていたら、藤丸君がそう言ったのなら仕方がないと、稲垣はあっさり取材を受け入れてくれた。
 好都合とばかりに、悪魔は早速、たてまえを口上し始める。
「実は、来月から我が社の文化欄にて、『刑事の群像』というタイトルで連載が始まるんです。近年なにかと不祥事が問題になったりで警察の名誉も形無しです。普段社会の秩序のためにまじめに働いている大多数の警察官たちが、一部の悪徳警官のせいによって多大な迷惑を受けている。まあ、たしかにマスコミもいけないのです。官公庁の汚職となると必要以上にバッシングしますからな。その反省からといっては変ですが、そこで弊社といたしましては、警察官の中でも特にその功績が大きい人物をピックアップいたしまして、ですな……」
「人柄とか、仕事に対する姿勢、信念などをインタビューして記事にする、ですよね。一応、広報から大筋の説明は聞いていました。申し訳ないけれどもあまり時間を取れないんです」
 稲垣は、視線で机の書類の山を追い、このあとに自分がこなさなくてはならない仕事の量を訴えてきた。 
「ではまず……」
 そっちがその気なら、と悪魔は心の中で舌なめずりをする。そして、用意していた質問を、矢継ぎ早に稲垣にたずねていった。
 一通り、私生活の様子を聞いているようにみせかけながら、それとなく酒、煙草、ギャンブルなどに関する嗜好を探ってみた。稲垣の方も、多少質問の意図に不信を抱いたようだったが、悪魔は勢いにまかせて止めどなく言葉をつむいでいく。
 が、これが思った以上に収穫がなかった。期待もあまり持っていなかったが、稲垣は飲酒、喫煙をまったくしないどころか、食べ物にしても好き嫌いがなく、腹に入ればなんでもかまわないのだという。丁重という言葉がぴったりくるほどの礼儀正しい言葉使いで答えを返すのが、また余計に悪魔の気を滅入らせた。
 仕事以外に趣味らしい趣味もなく、非番の日でもたいてい署に通い、資料の整理になど時間をさいているそうだ。
 つまんねえ野郎だ。しょせん、天国に昇る人間なんて、こんなまじめ一筋のつまんねえやつばかりなんだろうな。
 そんな感想を抱きつつも、悪魔は最後の期待を乗せて、頼みの綱でもある性に関する嗜好をぶつけてみることにした。
「下世話な質問をするようですが、あっちの方はどうなってるんですか? 奥さんが亡くなられたからもう十年もたっています。ずっと一人じゃ寂しいでしょう」
「……それも記事にするんですか?」
 妻のことに触れられたからか、一瞬、稲垣の瞳の奥に異様な光が瞬く。
「いや、別にそんなつもりはありませんが……。実は、わしの知り合いに器量は良いのになかなか嫁のもらい手がない女性がいましてな。さしでがましいようですが、どうかと思いまして。年齢的にも釣り合いが取れそうなあんばいなんですよ」
 稲垣は苦そうな笑いを浮かべる。
「せっかくですがご遠慮しますよ。たしかに刑事という職場だとなかなか出会いらしい出会いもないのですが、別にそこまで困ってはいるというわけでもないですから」
 まあたしかにそうかもしれない。年齢収入を無視しても、十分に女にもてそうな容貌ではある。
「それに、私はもともとあっちの方はあんまり好きではないんですよ。淡白というか、別にしないからといって悶々と夜を過ごすようなことになったことがない」
 もしかしたら、妻の異常な殺され方を目の当たりにしたことによって、性に対する衝動が減退したのかもしれない。稲垣は女の裸を見るたびに、血塗れの太腿や壁に貼りつけられた乳房を思い出さずにはいられないのだ。
「正直にいうとですね、実は今でも性犯罪だけは苦手なんです。犯人の心理が読めない。なぜそんなことを行うのか、どんな欲望、衝動につき動かされて彼らが犯行に及ぶのか、私にはうまく理解ができないんです」
 冗談なのか本気なのか、稲垣は肩をすくめて笑ってみせる。
 妻を殺されてから、性犯罪や猟奇犯罪に対してはあらゆる研究をしたことだろう。しかしそれでも、妻を分解した犯人だけは未だに捕まえられない。稲垣の笑いは、そこからくる自虐的なものだろうか。それにしては、その表情がやけに穏やかなのが悪魔には気になった。
「本当ですか?」
「本当ですよ。嘘など言っても仕方ないでしょう。それに、私はいまでも……」
 稲垣は言いよどんだ。言われずとも、悪魔にはその続きの見当はついた。
 いまでも、いまでも妻のことを愛しているか。
 そうかそうか。そりゃあ、仕方がない。
 といって、こっちもあきらめるわけにはいかねえんだが。
 こうなったら奥の手だ。まだ下調べが済んでいないが、あの件をふっかてみよう。
 悪魔は急に神妙な顔をして、せむしのように体を前に乗り出す。そして小声で刑事に囁いた。
「……稲垣刑事。実は今日、取材とはべつに、あなたにひとつ有力な情報をお持ちしたんです」
「有力な情報?」
 老人の変化に、稲垣の目は瞬時にして警戒の色を示す。
「そうです。あなたが捜査に関わって、いまだに未解決の事件、十年前の、あなたの奥さん稲垣聖子さんが殺された、あの事件に関する情報をね」
「す、すごいですね、それは」
 思い切り意味ありげなトーンでしゃべったつもりだったのに、すぐに稲垣の警戒は解けた。驚き方もわざとらしく、どうやら信じてはなさそうだ。
「ふざけているわけでも、デマを吹き込むつもりもありませんぞ。限りなく真実に近い情報です」
 そう言いながらも、実のところ悪魔はそんな情報などまだひとつも持ってはいなかった。だが、地獄を棲家とする悪魔一族は、悪人の所在なら山のように知っている。その情報網を使えば、そのときの犯人など数時間で探しだせるだろう。そう見越しての言葉だった。
 だが悔しいかな、稲垣の興味を引くほんのわずかな手掛かりさえも、いまこのときはちらつかすことができない。
「ただし、ここではあれですから、仕事が終わりましたら、ぜひわしの家にまで」
「お金でもせびるつもりですか?」
「ち、違います、それは断じて違いますぞ」
「黒岩さん、捜査に協力してくれるのはありがたいんですが、実はですね」
 稲垣はそう言って目を伏せる。
「その事件の解決は、もうめどがついているんです」
 意外すぎる答えだった。
 先走ってしまったか。目が点になるとはこのことである。
「藤丸刑事にヒントをもらったんです。長い、本当に長い回り道でした」
 感慨深げな一言である。話が続くと思いきや、稲垣はそのまま黙り込んでしまった。
 まったく困った。稲垣が最大に執着することだと思っていたことが、解決されようとしているのだ。踏んだり蹴ったりの思いで唇を噛みしめる。
 次の作戦を立てるために、悪魔も沈黙したまま言葉を探していた。
 すると、ドアがノックされ、藤丸がよそ風のような軽やかさで入ってくる。 
 悪魔は目を覆いたくなった。
 若い刑事は手に紙袋を持ち、お待たせしましたと笑顔で言うと、その中から缶コーヒーと「ボッカ・デラ・ヴェリタ」の新作ケーキ、「乙女の宝石」を机の上に並べ始めたのだ。
うわあ、そんなもん持ってくんなよ。混乱してしまうじゃないか。
「署の近くにおいしいケーキ屋さんがありましてね、そこで買ってきたんです。洒落たお店の名前でしてね。ほら、『ローマの休日』に嘘をつくと噛み付くという石像が出てきたの覚えてませんか? 『真実の口』っていうんですけど、スペイン語でその『真実の口』っていうのが店の名前なんですよ」
 藤丸はやけに嬉しそうである。
「あそこの主人、オードリー・ヘップバーンのファンなのかなあ」
 悪魔にとってはオードリー・ヘップバーン以上の魅力を持って、フルーツの貴婦人たちが誘惑してきている。
 私を食べて、と甘い香気を発散させて、悪魔の口の中に唾液の泉を涌きあがらせる。 
「さあさあ、黒岩さん、食べてください」
 藤丸は大口を開けて、「乙女の宝石」を頬張り始めた。
 稲垣も、少しづつフォークで口に運び、食べ始める。
「あ、では。……い、いや、いやその、甘いものは、い、医者に止められていますので」
 視線の方は、柔らかく尖端が曲がった生クリームにくぎづけになりながらも、悪魔はなんとかそう断る。
「そうなんですか。それは失礼しました。それじゃあ、もったいないので僕が」
 と言って、藤丸は目の前で二つ目のケーキを口にしようとした。その腕を、思わず悪魔は掴んでしまった。
「どうかしたんですか? やっぱり、黒岩さんが食べられます?」
「ふ、ふふふ藤丸刑事、けけけケーキにも食べる作法と言うのがあるんですぞ」
「……ほう。どのような?」 
「よいですかな。ケーキとはデザート。デザートとは、楽しんで食べてなくてはならんのです。そのように丸呑みして食べるのは邪道この上ない」
 悪魔は真剣に語り始める。
「菓子職人もただ作っているわけではないんですぞ。ケーキひとつに対してもコンセプトをもって、味や香り、見た目の色彩にまで気を配っているんです。
 そのケーキも『乙女の宝石』というタイトルに示される通り、宝石に見立てられた、厳選されたフルーツたちが主役です。彼女たちを引き立てるために、職人は生クリームを選び、サイドにつけるムースの味付けを考えている。食べる方もそれをくみ取って、どうすればそのデザートを一番美味しく食べられることができるか考えながら、口にしなくてはならんですぞ」
「な、なるほど。じゃあ黒岩さんなら、このケーキをどのように食べるんですか?」
 その言葉を聞いた瞬間、「ボッカ・デラ・ヴェリタ」の店先で膨らませた妄想が、悪魔の目の前に広がった。
「もしも、わしがそれを食べるとするならば……」
 まわりの景色が存在感を失い、霧がかったように霞んでいく。
 生クリームの上に寝そべった原色の乙女たちが、艶美な視線で悪魔を誘っている。
「どうぞ、黒岩さん」
 藤丸の手が伸びてきて、老人にフォークを握らせる。
 半ば呆然としていて、悪魔はそれを拒否することができなかった。
「そんなに大好きなら、今日ぐらい食べても大丈夫でしょう。我慢せずに、どうぞお食べ下さい」
 藤丸が、それこそまるで、悪魔のように囁く。
悪魔は、フォークの先端で生クリームに触れる。久しぶりのあまり、柔らかいホイップの感触に喜びで背筋が震えた。
そのとき、大王の恐ろしい形相が思い浮かんだ。
もしもこの禁を破ったのなら、悪魔失格、永遠に拷問を受け続ける魂として、地獄界をさまようことになるだろう。
 自分の舌先が二股に割れていることを感じて、悪魔は我に返った。
 背筋が寒くなる。刑事たちに気付かれはしなかっただろうか?  
「稲垣課長の実績について、僕からも言わせてください」
 藤丸は、悪魔の懸念などどこ吹く風で、指先に付いたクリームをぺろりとなめながらしゃべり出した。稲垣の方も、悪魔の口元など見てはいなかったようだ。
悪魔は、角と、眼と、牙の状態をそれとなく確認する。大丈夫のようだ。角も生えてなければ、牙も出ていない。老人の姿のままだ。眼の色まではわからぬが、変化したとしても一瞬のことだったろう。
 これを食っちまえば、最期になってしまうからなア……。
悪魔はさりげなくフォークを置き、ケーキを目に付かぬようによけた。

「課長のここ十年の仕事ぶりというのは、本当に素晴らしいものです。僕がお世話になったのは半年前からですが、その間にいったい何人の凶悪犯を検挙に導いたことか。僕なんかの口から言うのもなんですが、N県の治安と秩序を守るために行った功績において、稲垣課長にかなう人なんて他にはいないでしょう。実直で指導力もあり、いつも助けてもらっています」
 藤丸は大袈裟な身振りを加えて、似たようなことを、表現を変えながら何度も語った。まるで弱みでも握られているかのように、全部、稲垣を称賛する言葉ばかりだ。
 悪魔は鼻で笑いたくなった。
 まったくありきたりのことしか言いやがらない。そんなことは百も承知だぜ。
「たしかに立派な方のようですな。だが、そればかりでは人間味に欠けた記事になりそうです。そうですな、逆に稲垣刑事の苦手なものとか、弱点みたいなものがあったら教えていただけませんかな」
「ありません」
 藤丸の即答に、一気に血が頭まで上っていくのを感じたが、なんとか自分を抑制する。
「上司の手前ですから、言えんのでしょうな」
 こいつは相手にしない方がいい。そう思って、稲垣の方に視線を向け直す。
「それで稲垣刑事、さっきの話の続きを聞きたいんですが」
「さっきの話とは?」
「十年前の、奥さんが殺された事件のことを聞いてたじゃないですか。藤丸刑事が、いったいどんなヒントをくれたんですかな?」
 瞬間、稲垣と藤丸は視線を合わせた。逃げるように、稲垣の方が先に目をそらす。
 悪魔は違和感を覚えた。コンビを組んだ同僚同士のアイコンタクトとは違う、どこか不自然な仕草だ。
「黒岩さん、その件に関しては極秘扱いになっています。まだマスコミに情報を公開すべき段階ではありません。一報はまずあなたにお願いしますから、記事には絶対取り上げないでください」
 藤丸が、申し訳なさそうに言う。
 どういうことだ?
 黒岩と契約していたスクープが思わぬところで手に入ったので、とりあえずありがとうございますと頭を下げた。
「ですがね、記事にはまだしませんから、内容を教えてもらないですかな? もしスクープなら、わしも久し振りなんでね。どの程度のものかぜひ聞かせてください」
 げすな質問だったが、刑事たちの口は意外にも軽かった。
 藤丸が、稲垣をうかがい見るようにしてつぶやく。
「また起こったんですよ、そのときと同一の犯人によるものと思われる事件が」
「というと、バラバラ殺人事件?」
 稲垣は無言だった。代わりに藤丸がうなずいた。
「そうです。だからまだ慎重に捜査を進めているところなんです。今度は犯人を逃がすわけにはいきませんからね」
 なるほど、この山のような犯罪に関する書籍の山は、そのためのものだったか。妻を殺した犯人にもう一度出会えたのだ。稲垣は心に期するものがあるに違いない。部屋に入ってきたときに見せたあの表情は、きっと妻を思ってのことなのだろう。
 ちらりと横目で稲垣をうかがってから、藤丸は、持ってきた袋にゴミ屑をまとめた。
「それでは、僕はこの辺で。あれ? 黒岩さん食べなかったんですね。もったいないので僕が持って帰りますよ」
 そのまま、席を立って部屋から出ていく。
 稲垣は、じっと部下が出て行った扉を見つめていた。
 その瞳は、ひどく疲れきったように細められている。最初に見せた、苦渋をおびた表情に近い。
「どうかしましたか?」
 悪魔は、稲垣の沈黙に不審を感じてそうたずねた。
 すると、稲垣は、視線だけはやはり藤丸の出て行った扉に向けたままで、こう、答えを返したのだ。
「創世記さん、もう一つスクープを与えられそうですよ。どうやら今度の事件の犯人は、我々警察官の中に潜んでいるようなのです」


         3

 それから稲垣は、すいません時間です、といって、黒岩を部屋から追い出した。
 廊下に出た悪魔は、稲垣の台詞を反芻する。
 今度の犯人は、警察の中に潜んでいる?
 まさか、稲垣は藤丸がその犯人だとでもいうのだろうか? たしかに、どこか装ったような、芝居がかった感じのする男ではある。だが、詐欺師とか知能犯的犯罪者ならありえそうな気がするが、猟奇犯罪というのはどうだろう? それに事件当時の十年前といえば、藤丸はまだ高校も卒業してない子供のはずだ。いや、だからこそそうなのか?
 今世紀なって、ますます猟奇殺人者の低年齢層化に拍車がかかったのも事実だった。
 ……待てよ、藤丸は昨日、窃盗犯を捕まえたとかいっていたな。それなら、まだ署内の留置所にその犯人がいるかもしれねえな。
 どうも、稲垣にとっての藤丸という存在が気になった。ただの上司部下の関係ではないようなけはいがある。まさか同性愛ではあるまいが、そこに稲垣をおとす狙い目があるように感じられた。
 悪魔は署内を歩き回り、留置所へ下る階段を探して、こっそりと降りていった。
 案の定、警備員ように突っ立ている若い制服警官がそこに待ち構えていた。うまく口車に乗せてやろうと、悪魔は陽気な声で先制する。
「昨日、逮捕されたという窃盗犯に会いたいんだが」
「ああ、創世期新報さんですね? 聞いていますよ」
「聞いている? ……って誰に?」
 意外な返り討ちだ。
「藤丸刑事ですよ、取材なんでしょ?」
 藤丸に? どういうことだ?
「藤丸刑事は、俺がここに来ることを知っていたのか?」
「ええ。取材の約束をしたんでしょ。違ったんですか?」
「いや、そうなんだが……。まあいいや。そいつのところに案内してくれ」
 警官は独房の前へと案内してくれた。
 檻の向こう側には、狐顔の男が壁にもたれながら、分厚い背表紙で包まれた本を読んでいる。
 薄い眉にこけた頬。下唇から顎にかけては菱形の傷跡が刻まれ、見た目だけならいかにもチンピラといった風情の男だ。
 しかし、いま男の瞳には、殺気や威圧感といったものはまったくみられない。むしろ勤勉さと謙虚さとがにじみ出ている。
 二人が来たのにも気づかずに、とりつかれたように手に持つ本に熱中している。
 他にも何冊か、男の膝元に積まれていた。離れて置かれてあるのは、もう読み終えた分なのだろう。
「ここにきてから、ずっとああなんですよ。あれらの本は、藤丸刑事からの差し入れです。どういう気まぐれなのか、前科十犯の常習犯が、まさか宗教に目覚めるなんてね」
 悪魔は、口から心臓が飛び出るかと思った。
 離れて置かれた本の中には、新約、旧約両聖典が混ざっており、その他のものもすべて、神やら聖やら光やら、目ざわりな文字が記されたタイトルの本ばかりだったのである。
 牢獄の男が、二人に気づいて顔を上げた。
 不気味なほど顔の造形と不釣り合いな、愛想の良い笑顔を浮かべている。
「……どうやって、藤丸に口説かれた?」
 悪魔は、唸るような声でなんとか質問した。
 すると、囚人は嬉しそうにさらに顔を緩めて、
「藤丸刑事のお知り合いの方ですか! あの方は本当に素晴らしい人です。俺は今までいろいろと悪さをしてきたが、あの人はそれを全部許してくれると言ってくれたんだ。今から罪を償って貧しい人達のために働けば、こんな俺でも必ず天国へ行けるって……」
 こりゃいけねえ!
 最後まで聞かず、悪魔は急いで牢獄の前から離れた。
 怒りと不安で気持ちが昂ぶってくる。
 取材は、とたずねる警官に、急用ができたと荒っぽく答えを返す。
 なんてこった!
 大股で一階への階段を駆け上がると、待ち構えたように、そこには藤丸が立っていた。
「どうしたんですか? そんなに凶悪な面相をされて」
 藤丸は軽やかに微笑む。
「貴様、いったいどういうつもりだ! 俺様の邪魔をすんじゃねえ」
 悪魔は老体に鞭を打つように激しく息巻いて、藤丸であるものを睨みつけた。
「どういうつもりもなにも、僕は刑事としての勤めを……」
「ふざけるのもたいがいにしろよ。俺にはもう貴様の正体はわかっているんだ。貴様は天使だろう。くだらない神の愛とかでこそ泥野郎をだましやがって! これ以上邪魔をすんじゃねえぞ。稲垣は俺の獲物なんだからな」
「とんでもない。稲垣刑事は天界へ昇るべき人です。君こそ、さっさと手を引いて地獄でもどこへでも帰りたまえ。彼にこれ以上の手出しは許さない」
 言っている内容とは裏腹な、とても慈愛に満ちた美しい表情だ。そりゃあ女にもてるわな。
 悪魔は歯ぎしりを立てながら藤丸を睨み続ける。
「なぜ、俺が稲垣を狙うことがわかった?」
「ハハハ、簡単なことさ。稲垣刑事の得意分野でもある、プロファイリングというやつだよ。環境や状況から心理を分析して、行動を予測するという捜査方法だ。悪魔なんて単純な生き物だからねえ。君が何を考え、どんな行動をするかなんて、僕には手に取るように理解できたのさ」
 ふざけんな、なにがプロファイリングだ!
 押し退けるように、悪魔は天使の横を通ってその場を離れた。
 その際、一発天使の顔を殴ってやろうと腕を振り回したが、軽々と避けられてしまう。黒岩と藤丸では、体を借りている人間に差があり過ぎた。
 それがまた悔しい。こんなことなら黒人の大男でもだましておけば良かった。
 背後で、天使のばかにしたような笑い声が聞こえる。
「どこへ行く気だい? 稲垣刑事を地獄へ堕とそうと思っても無理な話だよ。僕らの関係は縦の関係にあるんだ。たしかに悪魔は人間より上の存在だ。でもね、天使はその悪魔のさらに上に位置するんだよ。だから、君にはとうてい、僕の心理なんてよめやしないんだ」
 悪魔は、あえて振り返ることはせずに、受付まで戻って、その前にある長椅子に憤然と腰を下ろした。腹の中は煮えくり返っている。
 受付の婦警がちらと目を向けたので、手帳を開き、何か書き込むふりをする。
 そうしながら、悪魔は心の中で誓う。
 ならば、やってやるさ。貴様の心をよんでやる。天使にできることが悪魔にできないわけがないんだ。
 貴様の仕事を妨害してやる。
 地獄を統べる悪魔一族の名にかけて、そいつを誓う。そして、もちろん稲垣の魂も必ずや地獄へと堕とす。
 悪魔は、手帳の空いたページに大きく、『天使の心理とは?』と、書き込んだ。
 そうしてしばらく頭をひねっていると、平然とした面構えで藤丸が歩いてきた。悪魔には目もくれず、例のさわやかな笑顔を婦警に投げかける。
「午後から暇でしょ? ちょっと出ない?」
「藤丸刑事こそいいんですか? 仕事、残っているんじゃありません?」
「大丈夫大丈夫。もうほとんど終わったようなもんだから。映画見るほどの時間はないけど、ケーキでも食べに行こうよ」
 ああ、行け行け。さっさと行け。ケーキでもなんでも食ってこい。その間に、稲垣の野郎がどうなってもしらねえがな。
 微笑ましい恋人のように二人が出て行くのに、ぺっと唾を吐き捨てると、悪魔は再び手帳に目を落とし、考えに没頭する。
 天使の心理、とは?


         4
    
 悪魔は、再び唐突に、第三会議室の扉を開いた。
「なんですか、もう取材は終わったはずでは?」
「やかましい」
 力任せに扉を閉じて、悪魔はずかずかと稲垣の方へ近づく。
 稲垣はまだ資料に目を通していたところのようで、椅子に座ったまま、仁王のごとく目の前に立った老人の姿を見上げた。太陽はもう沈みかけ、窓いっぱいに赤い空が広がっている。
「最初に言っておく。俺は藤丸の正体を知っているぞ。あの坊っちゃん育ちの大卒刑事が、どうして昨日初手がらをあげられたのか、その理由もな」
「いったい何の話を?」
「藤丸には天使がとりついているだろ? 純白の羽に金の髪、優しいほほ笑みに満ちた神の子だよ。善の押し売りセールスマンだ」
 稲垣の表情が凍りついた。
 そして単なる驚愕から、畏怖へとその表情が移り変わっていく。悪魔にはその心の変化が手に取るように理解できた。
 そうそう。俺には、むしろこういう感情の方がよくわかるんだよ。
「なぜ、俺がそれをつき止めることができたかって? いい質問だ。それは俺が創世記新報なんていうとるにたらねえ新聞社の事件記者だからじゃないのよ。それは、俺がな」
 悪魔は、老人の体を脱ぎ捨てた。
「悪魔だからよ」
 老人の矮躯は、つっかえ棒を失ったかのように、哀れにも背中から堅い床の上に倒れ落ちる。
 数々の凶悪犯を相手にしてきた稲垣も、さすがに椅子を後ろに引かざるを得なかった。
 あたかも老人と二重になって最初からそこに存在していたかのように、黒いゼラチン状の肌をした見たこともない生物が、悠然と立ちはだかっているのだから。
 赤い瞳に漆黒の肌、笑うと狼のように鋭い牙がむき出しになる。
 稲垣は目を見開き、口を閉じるのも忘れておののいて.いた。
 何が、冷静な捜査官だ。
 悪魔は、自分の存在に恐怖する稲垣を嘲笑う。
「……あ、悪魔が、私に何のようだ?」
 少しは理性を取り戻したのか、稲垣は震える声を絞り出した。
「へへへ。お前まさか、自分が天国へ行るとでも思ってんのか?」
「あ、ああ。その通りだ。て、天使が、藤丸刑事の体を借りている天使がそれを約束してくれた。今まで私は、人々の平和と安全を守るため働き続けてきた。それを考慮すれば、天国にいくのは当然だと保証してくれたんだ」
「考慮すれば、か。よく言ったもんだ。それは稲垣よ、自分でもそう思っていることなのか? 本当に自分は天国に悠々と昇って行けるような、ご立派な人間だと思っているのか?」
「ど、どういう意味だ?」
「さあて、どういう意味だろうな」
 悪魔は、椅子ごと腰を引く稲垣に歩み寄って、その耳元に口を寄せる。 
「俺はな」
 稲垣が逃げ出さないようにと、その喉元を鋭利な爪の生えた指先で捕らえながら、地響きのような低音の声で囁く。
「最初、天使がお前の近くにいる理由を、俺から守るためかと思ってたが、そうじゃない。俺の邪魔をするためだけに、そんな用意周到にはできねえだろうからな。そうじゃねえ。天使は天使の仕事をしていて、たまたまそこに俺がきたんだ」
 図星だろ、とかまをかけてみたが、稲垣は口を真一文字に結んだままなにも返さない。
「天使の仕事なんてぜんぜんわからなかったが、よおく考えてみたのよ」
 悪魔は、わざと腕組みをして頭をひねり、うーんとうなり声をあげてみせる。
「だが、やっぱり全然わからねえ。天使の仕事は、神の愛の実践。とは思うんだが、それがどういうことか、てんでぴんともきやしない。そこで、考え方を変えたのよ」
 悪魔は勝ち誇ったようにいやらしい笑いを浮かべた。唇からはみ出た長い犬歯が、窓から入ってくる日の光を受けて赤く輝く。
「天使と悪魔ってのは、人間にとって、まさに正反対にある存在だ。だから、天使の仕事ってのも、俺たち悪魔の正反対にあるんじゃないのか、ってよ。
 悪魔の仕事、それなら俺も自分の仕事だから手に取るようにわかる。つまり、人間の魂を堕落させることだ。人間を悪行に導いて地獄に誘う。地獄の住人を増やす。地獄にゃあよ、たくさんの悪魔がすんでいて人間の血肉をすすりたがっている。だが、慢性的人間不足で、むしろ悪魔の方が余っているくらいなんだよ。だから、余った悪魔は、一人でも多くの人間が地獄へ落ちるようにと地上をさまよっているんだ。
 天使はその正反対だ。いや、ある意味では同じことといってもいい。
 天使は人間の魂を浄化させる。人間に善行を、愛を説いて天国へと昇華させる。天国の住人を増やす。天使も人口過多なのかしらねえが、やってることに大差はないのさ。天使のやつは、縦の関係なんてハッタリかましてやがったが、事実は横の関係なんだ。俺たち悪魔と天使は、人間の魂を取り合って対立する存在。
 そこで、俺はふと我が地獄を司る大王様の言葉を思い出したのよ。『悪魔が地上から地獄に堕すべき魂というのは、逆に天界に昇ることが確実な善良な魂なのだ。善人を悪の道に誘うことができて、初めて悪魔はその仕事をしたといえるのだぞ』、ってね。天使の仕事というのはこの正反対だから、天使が天国へ昇華させようとしている人間とは、悪質な、徳のかけらもない人物でなくてはならない。と、俺はそう考えいたったのさ。
 つまりだ、稲垣刑事。お前は本来、天国へ昇るような人物でなどなく、むしろ地獄へ落ちるのがふさわしい人物だということになる。犯罪心理捜査のスペシャリスト、磐座署の英雄。そんな肩書きはすべて上っ面だ。そんなのは、真実の稲垣光志郎の姿じゃねえ。
 はっきり言おうか?
 十年前に妻を殺したのは、稲垣、お前自身なんだろう? いままた起こり始めた殺人事件の犯人も、お前だ。とんだお笑い草だぜ。お前は、快楽殺人の実践者なんだから、猟奇犯罪者の心理なんぞお手のものなのさ。性欲が薄いのも、そっちの方でイっちゃってるからじゃないのか?
 最初この部屋でお前を見たとき、苦渋に満ちた、真剣に悩んだ顔をしていた。それはべつに事件のめどが立たないからでも、妻のことを思い出したからというわけでもなく、直前まで藤丸天使に口説かれていたからだろう? 天国よいとこ、一度はおいで。いまのうちに更生して神の愛に目覚めないと、天国へ行けませんよ、てな具合にな。
 ばかなこと吹き込まれてんじゃねえぜ。天国なんかじゃ、お前は退屈を持て余して死にそうになるのがおちだ。
 そんなとこより、地獄だ。殺人者は地獄に堕ちる。それがこの世の鉄則だ。実際、お前が逮捕して、獄中で死んでいったものたちも、みな地獄で楽しく暮らしているぜ」
 悪魔は稲垣の上着をはいで、その下にあるピストルを探す。
「どうだ? 俺が引導を渡してやってもいいが、この際、自分で決着をつけてみたら」
 稲垣は、あらがうように悪魔の手を上から押さえつける。
「て、天使は言ってくれたんだ。こ、このまま世界の平和のために働き続けていれば、私でも、私でも必ず天国へと昇れる、と……」
 悪魔は顔を正面に移し、鼻先がこすれるほどの距離で稲垣をあざける。稲垣の目は充血し、肌は異様に乾燥してきている。
「お前にできるのかな、それが? 今後、自分の衝動を抑えながら、殺人者たちを捕まえ続けることが。皮肉にもお前は、自分がやりたくてもできなくなったことの、その現場を目の当たりにしながら、働き続けなくてはならないんだぞ」
 痛いところをつかれたのか、稲垣の抵抗力が弱くなった。その隙をついて、悪魔はすばやく銃を抜き取る。そして稲垣の手にそれを握らせ、耳たぶの上に照準を合わせさせる。
「おおっと、言い忘れていたことがひとつある。実はさっきこの老いぼれた新聞記者の体を使って、創世記新報にファックスを送らしてもらったぞ。どこよりも早い特ダネだ。見出しは、『犯罪心理捜査官の正体、磐座署に十年も勤めていた快楽殺人者!』なんてのはどうだ? ハハハ。約束を破ってしまって済まないね、なんせ悪魔なもんで」 
 すでに死人になってしまったかのような蒼白な表情で、稲垣は悪魔の赤い目を見つめ返している。
 一丁、上がりだ。
「心配するな」
 稲垣がまるで救いを求めている仔犬のようだったので、悪魔は満足して最後の人押しをした。
「地獄っていうところはなあ、お前が三度の飯よりも絶世の美女よりも大好きな、殺戮と凌辱がまかり通る世界だ。悔いているなら引金を引け。今なら世間を震撼させた連続猟奇殺人者として、特別な待遇でもてなしてやろう」
 その言葉のあと、磐座署第三会議室の中から、割れるような銃声が響き渡った。署内の人間たち聞かれるのもかまわずに、悪魔はその場で高らかに哄笑した。

「ばかな! まさか、本当に私の心をよんだというのか? そんなはずはない」
 最初に部屋に飛びこんできたのは、藤丸の姿をした天使だった。
 青ざめ、慌てふためいている。
 ざまあみやがれ。
 悪魔は、しなびた稲垣の魂を死体からはぎ取って、窓辺から羽ばたいた。
 こいつが殺人犯なら、契約を結ばずとも死んでくれれば地獄行きは決定ってことだ。
 まあ、天国にいかれるよりはましだからな。完全に信心に目覚める前に、なんとか自殺に追い込んでオッケーってことにするか。
 町には、すでに夕闇が迫っていた。
 黒い、大きな鴉の姿になって、悪魔はその中へまぎれ込んでいく。
 窓辺に走り寄った天使が、悔しそうに顔をしかめている。
 初めは、悪魔も天使の心理をよもうとした。
 だが、いまいちよくわかならい。
 愛というものの概念が曖昧としている。
 人に施す。誰かに献身する。弱きを助ける。
 だからなんなのだろう? そんなことをしても全然ストレスが溜まるだけじゃないのか。
 そう思って、実際その様子を、自分が天使になったつもりでイメージしてみた。
 すると、頭がぼおっとしてきた。心のひだから甘い汁が出てきたように、なぜかここちよくなってきた。
 なにも口にしていないのに、「ボッカ・デラ・ヴェリタ」のカラメルシューでも食べたような気分。
 思い出しただけで、悪魔の口の中には唾液が充満してきている。
 いやいや、そんなことはどうでもいいんだ。
 ようするに俺は、それをやめた。
 天使も言っていたじゃねえか。
 プロファイリングは、環境や状況から心理を分析して、行動を予測するものなんだ。心理自体だけ考えても意味はねえ。
 まだ口の中に甘ったるさが残っているような気がして、口の中をなめ回した。
 くそっ。糖分の禁断症状なんて、俺もやきが回ったかな。
 そうして、悪魔は昨夜こらえた、三度目の溜め息を吐き出す。
 ああ、しかし最初の人間を選択するところで失敗をしてたなんて、この俺としたことがなあ。
 これでまたもや大王様からお目玉だ。人間界で本物のまったりシュークリームを食べるようにするために、次の人間こそ、次の人間こそ、必ずや地獄に連れて帰らねば……。


         5

「……残念だ、また悪魔を更生することができなかった。今度のやつは悪魔としての資質は薄いと聞いていたから期待していたんだが……」
 稲垣の死体を眺めながら、この日初めて、天使は大きく溜め息をついた。
「悪魔が天使の心理をよんだ? そんなはずはない。もし私の心理をちゃんと読み取ることができれば、必ず、必ず神の愛が理解できたはずなんだから。そんなはずは絶対にない」
 ばたばたと、人間たちが廊下を走る音が聞こえてくる。これ以上ここにいては厄介なことになりそうだった。
 天使は刑事の体を脱ぎ捨てて、一羽の美しい白鳥に変化した。
 そうして窓辺からすばやく飛び去ると、夕日に向かって嘆くのだった。
ああ、しかしこれで、またもや天使長様からお目玉だ。人間界で映画観賞をできるようにするために、次の悪魔こそ、次の悪魔こそ、必ずや天界に連れて帰らねば……。








                                    (完)














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