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キミにとどいてほしい声
作:水瀬愁


 キミにとどいてほしい声

 作:水瀬愁


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 敷島桜が初恋を実らせることはなかった。
 愛しい彼が胸の内に耳を傾けてくれることはなく、結局のところ、彼に振り向いてほしいと思う本人は彼と友人でいられる時間を少し延長させるので精いっぱいだった。
 それからの桜は、エリートの言葉が相応しかろう人生を展開 同じ職で仲を深めた男性と結婚してからも身に鞭打つようにして仕事に励む。
 のし上がることしか考えない生活。桜はそこにどっぷりと浸かることで、前だけを見続けているつもりだった。
 しかしその実は、前すらも見ずにただ視界には何も映さない。虚ろに、苦しみに打ちひしがれながら歩いていただけなのだ。
 そうと彼女が気づけぬはずもなく、寝起き際のようなけだるさを拭えない毎日の最中さなか、心の内で悲鳴をあげる日常の中、
 五年かそこらが経った今、夜の満員電車で、彼女は彼と鉢合わせした。















「三バカのうちの二人とは、まだ悪さやってんの?」
「いや。最近とった連絡といえば、正月の年賀状くらいか。ちなみに、健太からはダンベルも届いた。
袋詰めだったから中身がわからなくてな、なにーって疑問系の悲鳴をあげながら一生懸命リビングに運んでくる美由紀が可愛かったぞ。今でも、それは印象に残ってる」
 久しぶりに大爆笑したからな。飯塚直也が笑う。ウォッカの氷がカランと鳴った。
 知らないバー。彼の行き着けらしいと聞いて、彼の今をひとつ知る。桜は、ひとつ胸の高鳴りをおぼえたのを自分にすらひた隠す。
「お前は……偉く、なったな」
「そうかな」
 言われて、自分の実績を思い返す。彼は、雑誌やテレビでよくインタビューされていることを言っているのだろうか。桜は"偉い"の意味がわからなかった。
 誰よりも秀でて、名声をより集めて、一体何ができただろうか。
 少なくとも、優越感すら得ることはなかったと思う。桜は彼と同じ酒を啜った。
「おいおい。飲みすぎるなよ、仕事に差し支えるぞ?」
「お酒には強くなったのよ」
 接待や計略で飲み合った回数。その数だけあのころから遠く離れてしまった感覚。飲み下したお酒が、喉の奥にぶり返してきた。
 夢見心地な時間だ。まるで、あのころのじぶんがあのころの時間上で見ている夢のよう。覚めてくれていい。しかし、きっと、覚めた後の世界は違うから。だから、桜は夢が続くのを願ってころころと笑う。
「でも、まさか"あの飯塚直也"がまじめに毎日サラリーマンしてるとはね」
「なんだよ。それじゃ、時々は無断欠勤してたほうが俺らしいってのか?」
「よくわかってんじゃない」
「怒るぞ」
 おどけたふうに。桜は直ぐに乾いてしまう自分の笑顔を呪う。笑い方など、忘れてしまったのだ。元々彼の周りでしか心底微笑んでいなかった気がする。今という瞬間までに、美しいと思える作り笑いを貼り付けすぎた。
 久しく味わった安らぎ。頬が緩みっぱなしで、口元も常に声をたてている。苦痛なんて何一つ無く、清々しく快楽的で――病み付きになりそうだった。
 言葉のキャッチボールは、こちら側。すこし静寂が欲しくて、桜は目を瞑る。
 なんとなく目を開けた桜。壁時計、十二時を差している。飲み始めてやっと一時間か。
「ねぇ――」
「ん?」
「ここじゃ、なんか落ち着かないのよね。酔うに酔えないっていうか――だからさ、私の家で飲みなおさない?」
 一瞬の空白の後、返ってくる。
 その答えは、誰が望んで誰が望まぬのか、限り無く端的なイエス。















 アルコールが巡らねば眠れなかった。スキルとしてもあった方が良かったので、酒を嗜むようにしている。嗜む物くらいはいろいろと馬鹿をしてみたい。だから、いろいろな種類に手を出していた。
 冷蔵庫を開けると、第三のビールと言われる類が林立している。カチコチになったその缶を両手にひとつずつ摘んで、肘で冷蔵庫を閉めた。
「行儀悪いぞ」
「あんたって、そんなこと気にするタイプだったっけ?」
 ここまでガサツなのも、おぼえがある。脳裏を掠める人物像がひとつ。今思い出しては気分を害されてしまうと、桜は無言で回想を押し潰す。
 機嫌が良い、素晴らしいと絶賛したくなるほどにだ。その理由である彼はというと、リビングのソファで小さくなっていた。こういうことには、慣れていないようだ。幾分か自分の方が大人な気がして、桜はお姉さん口調で呟く。
「楽にしてくれていいのよ、ウフフ」
「てめぇ……」
 彼が食いついてくるよりはやく、その前に缶を晒す。そして桜は、彼と向かい側のソファに腰を下ろした。
「――ずいぶんと、殺風景だな」
 言われた瞬間は、え? と声をあげてしまう。しかしよく見直せば、当然の感想だろうなと失笑するしかなかった。
 物の片付けられた、と言えば聞こえのいいまるで買い立てのようなリビング。テレビ、それを見るためのソファ二つ、その間にあるガラステーブル、それら以外がまっさらという、ある意味究極な整頓状況。
「仕事仕事で、あまりそういうのにはね」
 そう言って、啜る。発泡酒に似た味。少し上品さに欠けるが、悪くない。
「明日は――いえ、今日は、そっちも仕事?」
 時計を見ると一時をまわっていたので、訂正する。彼はううむと唸った。
「どうだろうな。雨が降っていれば、一日限りの夏休みだ」
「そう。私は、休もうかな」
「相当飲んでるしな。二日酔いで仕事にはいけないだろ?」
「大丈夫よ。二日酔いなんて、気合で吹っ飛ばすから」
「強い女だなお前……」
「あら、いまさら気づいたの?」
 少しずつ、昔の自分が重なっていく。酒の力もあってか、現実の方の自分がぼやけていっていた。
 しかし、無くなることはない。桜はわかっている。無くなってしまうのは、今重なってくれている方。
 消えて欲しくないものばかり、消えていく。
 あの頃の近さも、あの頃の恋愛模様も、何一つ手元には残っていない。時とは総てを盗んでいくものだと、警戒の気など毛頭無かったあの頃の自分に伝えられたらどれだけいいか。いつも考えてしまっている。
「――ごめん。少し、強がっちゃったかも」
「は?」
「私、実は弱いのよ。普段は、気を張ってるだけ。いつだって、そうだった」
 いきなり何を言い出すんだ。彼が言う。桜は彼の瞳を覗き込んで、訴えかけた。
「やっぱり、今もよくわからないの。なんであなたが私に恋してくれなかったのか。なんで私があなたに恋の気持ちを伝えられなかったのか。
でもたぶん、私が弱かったからだとおもうの。」
 弱い自分――ありがとうも言えない、いじっぱりで不器用な、ばかな自分。
「そんな自分、大嫌い」
 だから、あのころじゃない今くらいは――今なら。
 一瞬の空白を置く。テーブルに腰かけるという不作法な姿勢から、彼の側にもっともっと乗り出す。両手を伸ばす。両手で触れる。考えられる内で一番淫らかに、手を這わす。
「ねぇ――」
 自分の口蓋から漏れる吐息が、甘い。瞳が揺れに揺れてしまっているのを感じながら、桜は今一度芽吹いた恋花に突き動かされて囁く。
「えっちなこと、してよ」
 ――キミにとどいてほしい声。
 ――あのころからずっと続けている悲鳴。
 ――彼を呼ぶ声。














 雨が降っていた。駅のプラットホームに、二人きり。彼は去る。桜は見送る。
 見送りは、ぎりぎりまでというわけではない。なぜなら二人は、お互いに愛しいと思い合っている存在というわけではないから。
 しかし、桜は去るに去れぬ。思い残すことがあった。
 そっと彼の背中に片手を添えて、もう片手は自らの胸元でぎゅうっと握りこむ。
「少しだけ――泣かせて」
 誘っても、して来はしないとはわかっていた。願えば、少しだけ泣かせてくれるともわかっていた。
 結局、我侭。意地っ張りだったときも、素直なときも――何も言わずに包み込んでくれる彼の優しさが、嬉しくて、痛かった。
 桜も、それが狙いだ。理屈抜きで彼を欲してしまう自分は、頭で理解できていることに順応していない。痛みに苛まれれば、たとえあまりにも苦しい形であっても、気づく。
 気づけば、きっと、前に行ける。桜は、彼の背中に顔を押し付ける。
「少しだけ泣かせて――」
 自分に言い聞かせるように今一度囁いて、桜はほんとうに少しだけ泣いた。
 涙が出るような浅い悲しみでは、なかった。














 彼の居る場所から背を向けて、桜はちょっとだけ微笑めるようになった。
 ――届いたよ。アンタのおかえし
 つくづくアンタらしくて、もう笑うしかない。嫌な気分では、無かった。
 どこか清々しい気持ちで、星空を仰ぎ見る。桜は思った。
 そろそろ、朝日が滲む。













 キミにとどいてほしい声。
 ――さよならと、頑張るからねと。














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