暴力的な表現があります。苦手な方はご注意ください。
理不尽だ、そんな言葉を思い浮かべなくなったのはいつからだろう。
ぶたれても、叩かれても、それが当たり前のように思えるようになってしまったのは、いつからだろう。
誰かの言葉を聞いても、それを素直に受け止められなくなってしまったのはいつからだろう。
浅葱は虚ろに目を開いて、哀れな男を見上げて笑った。
強い者にすり寄らないと生きられない、寄生虫のような男を。
「何だ……その目は……っ!」
華奢ないやな感じの男が、力いっぱい浅葱の白い背中を鞭打つ。無数の赤い筋から少しずつ血がにじみ出るが、すぐに肉芽が形成され傷口がふさがっていく。それでも皮膚に感じる痛みが消えるわけではなく、鞭が空を切って唸るたびに鋭い痛みが駆け抜けた。その間浅葱は決して泣き叫ばず、じっとこの作業が終わるのを、歯を食いしばって耐えていた。そんな浅葱のささやかな抵抗。泣き叫べば余計に男を付けあがらせるだけ。
背後から、男の荒い息づかいが聞こえる。
「奴婢の分際で……っ。この、肉欲の権化がっ! 思い知ったか? ああ?」
浅葱は、憐れみと侮辱を込めた目で男を見上げた。
「……気は済みましたか?」
首飾りが揺れ、涼しげな音が響く。
「このっ……」
頭に鈍い衝撃が走る。目の前の景色が歪み、軽い吐き気とめまいがした。大人の男が全力で、浅葱の頭髪を掴み、汚くて堅い岩の壁に頭を打ちつけたのだ。
それでもこの男の前で倒れたくなくて、浅葱はかたかたと震える両膝で身体を支えようとしていた。こんな嫌悪感の塊のような、虫みたいな男に屈したくはなかった。しかしそんな浅葱の意思に反してあっさりとその場に倒れこむ。
男は、憎悪の籠った目で浅葱を睨みつけてくる。
「お館様のお気に入りだからっていい気になんなよっ! その気になればな……お前なんて」
男の手が、浅葱の身体をわずかに隠していた衣に伸ばされる。あちこち蚯蚓腫れになった白い肌が、男の目の前にさらされる。右肩から背中にかけて広がる火傷の痕は今も生々しく残っていた。
男はうつぶせに潰れる浅葱に馬乗りになり、笑う。
「醜い火傷の痕だな……右側といわず、全部焼きいれてやろうか? ああ?」
男の汚い手が浅葱の背中の傷跡に触れる。
その瞬間、浅葱は怒りに打ち震えた。それまでの虚無な瞳に、燃え盛るような激しい光りを灯らせて男を睨みあげ、その手を払いのける。
「……汚い、手で、触れるな」
右側の火傷の痕は、姉が自分をかばいきれずにできたものだ。それは、浅葱にとって何よりも神聖で、何よりも犯しがたいある種の徴。
何故、こんな虫けらのような男に触れさせてやらなければならないのだろう。
男はその態度に我慢ならなかったのだろう、わなわなと唇を震わせ、神経質に鞭を振りあげた。
「なんだと……? この、奴婢の分際で……っ。汚いのはお前の方だ!」
(僕が汚い? 穢したのは、他の誰でもない、お前たちだ……)
「お前さえ来なければ……! お前がお館様をおかしくしたのだ!」
(おかしいのは、お前たちの方だ……)
鞭が唸る。鋭い痛みが走る。傷口が開くがすぐに閉じる。
「お前が、この屋敷の人間全てを狂わせたのだ……!」
(違う……お前たちは元から狂っていた……)
「お前さえ現れなければ、お館様は春京の長殿の意思に反することはなかった……!」
耳元でがなる男の声が不快だった。
こんなことが、一体いつまで続くのだろうか。
浅葱はそんなことを考えながら身体を硬直させ、決して声を上げず、痛みにじっと耐えていた。
ここで粋がって逆らっても、誰も浅葱に加勢するものはない。逆によってたかって滅多打ちにされ、見世物にされるだけなのだ。
いつか――……この屋敷の人間を黙らせるくらいの力を持った時、『お館様』とこの男だけは原型がとどまらないくらいぼこぼこにしてやろう……それまで覚えていろ、浅葱はそんなことを心の中で密かに誓った。
与えた痛みを覚えていろ。必ず……必ず――。
◆
『お館様』が、また新しい奴婢をどこかで買ってきたのは、大雪が降った翌日のことだった。
今度の奴婢は、終始俯いている男装させられた地味な少女。連れてきた侍女が少女を呼ぶと、少女は弾かれたように顔を上げる。その時垣間見た少女の顔は見た目はお世辞にも目立つとは言えないが、どこか凛としたたたずまいが印象的。
そして浅葱が何より驚いたのは、少女のその目に宿る光だ。
切れ長の黒い瞳は冷え切っていてただ淡々とこの腐った屋敷を見回している。何かを見定めるかのような少女の鋭い視線は、やがて浅葱の前で止まった。
浅葱の大きな黒い瞳と、少女の切れ長の瞳が静かにぶつかり合う。
少女がふと口の端をあげて笑い、浅葱から視線を外した。
浅葱は、その新しい奴婢の少女を食い入るように見つめた。この屋敷にいる侍女や女奴婢とは違う、しなやかな柳のような人……。
それでいて人をくったような態度。どこか強気な雰囲気。彼女はまるで――消えた姉のようだと頭の隅で思った。
「今日からこの娘の面倒をお前が見るのだ、わかったな? 浅葱」
浅葱は桶一杯に汲んだ井戸水をぶら下げ、黙って頷く。
実際は面倒を見るほど、心に余裕があるわけない。それをわかっていながら、侍女は――『お館様』は――浅葱にそう命じてきたのだ。暗に、力仕事や水仕事はさせず、夜伽だけのために浅葱を手元に置いておきたいのだと言われているような気がした。
(それにしても、僕が奴婢の労働力に数えられていないのだとしても、何故この時期に……)
心の中に引っかかるものを抱えながら、あえてそれを口に出すことはなかった。何か言えば、また鞭うたれるか、『お館様』に言いつけられて終わりだったから。
秋の収穫期は既に終わり、春京は厳しい冬を迎えた。もうすぐ里全体が深い雪に閉ざされる。南東に位置しているこの集落も雪に包まれて旅人は春京に立ち入ることはできなくなるだろう。
あとはただじっと、屋敷の中に籠って春を待つだけだ。今年は実りもよかったと、お館様が言っていた。何とか冬は越せそうだ。
神狩りの巫女が春京から誕生したこともあって、春京の人々は土地の神から見放されることを恐れていたのだが、変わらぬ豊作ぶりに春京の長も安堵したようだ。
忙しい農繁期に奴婢を買うのならばわかるが、冬の何もできないような時期に奴婢を買う意味が、浅葱にはわからなかった。今の人員で、腐っているとはいえ十二分に人手は足りている。
横目で奴婢の少女を盗み見る。どちらかと言えば華奢な体型で、とても力仕事ができるようには見えない。
少女はまた最初のように俯いて、侍女が立ち去って姿が見えなくなるを待っているようだった。
浅葱は桶を両手に持ち、雪に埋もれる足を引きずって勝手口へ向かって歩き出した。
台所を預かる女たちがそろそろ苛々してくるころだろう。また、怒られるかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていたその時。
「きみの名は?」
浅葱は最初、自分のことを聞かれていることに気付かなかった。その声は秋の風を彷彿とさせる涼しげな声だった。奴婢の少女は顔を上げて、挑発するように浅葱を見つめていた。
(……今、僕に問いかけたのはこの子?)
浅葱は首を傾げた。
「そう、きみの名前。言葉、わかる?」
「……浅葱」
「きみ、まだ子どもでしょう? いくつ?」
少女は浅葱の目を覗き込んで訊ねる。
浅葱にとっては、少女も自分と大して変わらぬ年のような気がしたのだが、敢えてつっこまずに素直に答えた。
「十二です」
「親は? どうしたの?」
「……死にました」
「きみ、後を追おうとは思わなかったの? 奴婢になって、余計辛い目にあってるんじゃないの? まだ子どもなのに、働かされてるんでしょう?」
「…………」
「……変なことを聞いたね、すまない」
浅葱はぎりっと奥歯をかみしめ、肩を力ませた。
死んだのは、浅葱のせいだと今でも思っている。そして姉を悲しませ、拒絶されたのだと。
帰る場所も帰る方法もなくした。それでも、生きていく。それが母の最期の言葉だったから。姉が命をかけてかばってくれたこの命だから。たとえ今いる場所、今の状況が辛くても、自害するという選択肢は浅葱の中にはなかった。
「……それできみは、ここの貴族に買われたのか」
(あなたは? 違うの?)
浅葱はそこまで出かかった疑問を押しとどめ、黙って雪の上を歩きだす。そのたびに冷たい桶の中の水が揺れ、わずかに雪の上にこぼれる。
「ところで、今年の収穫はどうだったんだ? 不作、と聞いているが……」
「不作?」
今年は例年通り……いや、例年以上に豊作だったと皆が言っている。浅葱は少女の言葉に首をひねった。
「……ううん、やっぱりなんでもない」
少女の黒い目が一瞬細められたのに、浅葱は気付かなかった。
水桶を持って勝手口に入ると、またあの男が仁王立ちになって待ち構えていた。
ことあるごとに浅葱をつけ回し、何か理由をつけて鞭うちたがる男に、浅葱は軽蔑のまなざしを向ける。
「遅かったな……浅葱」
「申し訳ありませんでした……」
浅葱は一切の感情を遮断し、適当に謝罪の言葉を述べた。
「何だその態度は……また罰が必要なようだな?」
男が歪んだ笑みを浮かべ、楽しげに囁く。
胸の奥からせり上がる様な嫌悪感を押し込め、浅葱は虚ろに男を見上げた。
浅葱のその態度が気に入らなかったのか、男は大きく舌打ちし、浅葱の横っ面を殴った。その様子を目の当たりにしても台所の女も、料理人も、誰も止めることはなかった。
わかっている、皆痛いのは嫌なのだから……。
(いつか、覚えていろ――お前と『お館様』だけは許さない……弱者をいたぶるお前など、決して許すものか)
浅葱の胸の奥に、憎しみと怒りの炎が燃え上がる。
男の繰り出す三発目が浅葱のみぞおちに入ろうとしたときだった。
今日来たばかりの女奴婢が飛び出し、男の突きだされた腕を掴んだのだ。何が起こったのか、浅葱にも男にも、すぐには理解できない。
少女は口の端を釣り上げて、怒りで震え、顔を真っ赤にする男をなだめるように囁く。
「そのくらいでもういいでしょう。お館様の右腕ともあろうお方が……」
「貴様は……」
右腕、という言葉に反応した男は、目に見えて上機嫌になった。相変わらず単純な男だ。上から下まで少女のことを舐めまわすように見下ろしたあと、男の顔には賤しい笑みが広がった。
「そうか、今日来たばかりの女奴婢か……。ふ、ふんっ礼儀を知らんのも無理からぬことよ。仕方あるまい……」
「ありがたきことにございます」
少女はその場で平伏し、男の足音が遠のくまで待っていた。
何という慣れた扱いなのだろうと、浅葱は素直に感心した。しかし決して真似しようなどとは思わない。あの男に跪くなど、幼いながらも自尊心が許さないからだ。
ただ、今日あったばかりの少女が、どんな思惑があるにせよ自分のことをかばってくれた、その事実が浅葱の中では衝撃的なことで、根っこまで人間不信に陥っていた浅葱にわずかな変化をもたらしていた。
(この人は、他の奴婢とはやっぱり違う……見ているだけじゃなかった)
「……しかし、奴婢は飼いならされた家畜と一緒……か。見事に誰も逆らわなかったな」
「……」
少女の独白が浅葱の耳に響く。
「そしてきみも。まるで、籠の中の鳥だな」
浅葱は目を瞬かせた。
「僕は、『お館様』の所有物で、ここから出ることはできないってこと?」
「なあ……籠の中の鳥は逃げたいと願うか?」
「……」
少女の問いかけに浅葱は無意識に目を見開く。
浅葱は何も答えられなかった。逃げたいのは当たり前だが、逃げられないからここにいる……。
「きみを逃がしてあげるよ」
(今日やってきたばかりの奴婢が、何を言っているんだろう……)
浅葱はおかしなことを言いながら後ろからついてくる少女を不思議に思っていた。
確実に逃がす自信でもあるのか、少女の言葉はやけに軽く、さも簡単なことのように聞こえる。
「どうする?」
浅葱は少女を振り返った。勝気な笑みを浮かべ、少女は浅葱の返事を待っていた。
「……僕は逃げたいけれど……」
このまま逃げたら、きっとお館様は血眼になって浅葱を探そうとするだろう。
以前そうだったように……また籠の中に逆戻りする……。
それでは何も変わらない。
浅葱の葛藤を知らず、少女は笑って頷く。その笑みが、眩しい。
「よかった。しかし逃げるのはもう少し先のことになってしまうかもしれない」
「何故?」
「うん、探しモノがあってね」
「探し物?」
奴婢の少女は一瞬冷たい笑みを浮かべた。浅葱には、ますます少女が普通の奴婢とは程遠い存在のように思えた。
「ねえ、『お館様』が一番大事にしてるって噂の愛玩動物……知らない?」
浅葱の背筋に冷たいものが流れ落ちる。
「愛玩動物……?」
浅葱は震える声でその言葉を復唱してみた。
それが意味するものは、きっと……いや、間違いなく己のことであり、少女はどういうわけなのかそれを探している……。
ここの奴婢になった以上、少女はやがて知るだろう。浅葱が着せ替え人形のように着飾られ、女装をさせられて、『お館様』の食いものにされていることを。汚い欲望を満たすだけのこの屋敷の人間の玩具だと知ったら。
その時、少女はどんな顔をするだろうか。
侮蔑?
嫌われる?
この少女にいずれ嫌われる、蔑まれる……そう思った瞬間、浅葱の大きな瞳に涙が浮かんだ。
少女は驚き狼狽した様子でその場に立ちすくみ、涙にぬれる浅葱の顔をあたふたと覗きこんだ。
「どうして泣いてるんだ……? 何かあったのか?」
「……っわからない」
嫌わないで、見捨てないで。
浅葱の心の奥に沈んでいた感情が少しずつ浮き上がって来ていた。
「そんなもの、いない、いないよ……」
浅葱は泣きじゃくりながら必死に言った。
「? お館様が寵愛して止まないっていう……」
「いないよ!」
浅葱の否定の叫び声に、少女はあっけにとられたようにそれ以上なにも言わなかった。
◆
凍えるような寒さに肌を擦り合わせ、誰も通らぬ真夜中の街道に男が一人、かがり火を頼りに歩いてくる。雪の積もる松の木に差しかかった辺りで、頭上から声がした。
「伍樹さま」
「小鳥か?」
「お待ちしておりました」
猫のようにしなやかな動きで、少女が木の上から下りてきた。
「どうだ?」
「……おそらく、黒かと思われます」
「では、噂は本当だったか?」
「……みなはっきりと口にしませんが……南の暴動の件からも間違いないと思います」
伍樹は人差し指を軽く顎に当ててさすり少しの間黙り込む。
「そこまで愚かな男だったとはな……」
「……『そろそろ料理をお出ししてもよろしいでしょうか』」
「いや、『もう少し温めてから』。くれぐれも『丁重におもてなし』するように」
「御意」
小鳥と呼ばれた少女は恭しく一礼した。
「それから、『籠の中の鳥』を見つけました。どうしますか?」
「姉上の言っていた子どもか?」
小鳥は頷いた。
「おそらく……。あまり多くを語らぬ子なので確証はないのですが、巫女姫様の語る特徴や年にほぼ一致するかと……」
「どちらにしても、しばらく様子を見ることだ」
小鳥は伍樹の言葉に、難色を示した。
「差し出がましいことかもしれませんが……籠の鳥はそろそろ限界を超えそうです。このまま放っておくことはできないと思うのですが……」
「ひとりの奴婢のために、そこまでできぬ。たとえ姉上の言ったことであっても。わかるだろう?」
「……はい」
「愛玩動物はどうなった? 見つけ次第殺すようにと長殿の命令だ」
「……それは」
途端に小鳥は口ごもる。
促すような伍樹のするどい視線を受け、俯き答えた。
「――……どうあっても見つけられそうにありません」
とりあえず、弟→姉って流れにしようかなとか今考えました。同時にやるのは難しい。
闇の戯言
←作者のブログです。小説裏話など微妙に更新中。よろしかったら覗いてみてください。
web拍手を送る
←ぽちっと押していただければ作者のやる気につながります♪
小説家になろう 勝手にランキング
←面白そうだったので登録してみました(笑)
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。