豊葦原。この島はそう呼ばれている。この島に住んでいる人は、自分たちが世界のどの辺にいるかとか、世界が広いとか、そんなことは知らない。世界がどういう仕組みで成り立っているのかも、知らなかった。
天にも高天原という世界があること、地には黄泉の国があること。その間に挟まれるこの地上は、中つ国と呼ばれること。それは知っていた。
この島が全て。この島を作った神が全て。地上を照らす、天照大神が全て。それ以外の神の存在は許さない。そこここに宿る八百万神の存在を否定する。
だから、誰がこの国を生んだのかということさえ、今は語り継ぐものが少ない……。
『昔、国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦の芽が萌え上がるように現れたのは、二人の神様――イザナギの神とイザナミの女神のご夫婦の神様です――』
国を作ったイザナギとイザナミ。最初に、暗い場所で子生んだ。
しかし、この子はとても醜くく、骨のないぐにゃぐにゃした子であった。
蛭子と名づけられたその子は、イザナギに子として認められず、葦の船に乗せて流してしまった。
捨てられた子は、海を漂いどこにたどり着くのだろうか。
失敗したものは切り捨てて、また神を生みなおす。
イザナミが火の神を生んだ時、女神は火傷を負った。それから、身を隠すようにして、黄泉の国へ降りていったといわれている。
やがて、蛭子の存在は忘れ去られていく……。
全てが全ての帰途につくように、女神は黄泉で、男神は天つ都で子供たちを見守った。
生から死、死から生は繰り返される。
歪めるものは、許さない。
三種の神器を与えよう。汝ら、子供たち。
神器は、力を与えてくれる。そなたらにない力を。そなたらの望みをかなえる力を。
願え。八つの勾玉に。
祈れ。天照を映した鏡に。真実を見せよう。
殺せ。己に脅威を与えるものを。
人と神。かつては共存していたものたち。神の特異な能力は、人の脅威でもあり、憧れでもあった。神の残したものを巡って争いが起こったこともあった。
地上の神は、その地を育み、土地に豊かさをもたらす。人は彼らを信仰し、社や祠に祭った時もあった。
皇族は、神の力を恐れていた。元々、自分たちより秀でた力の神。脅威以外の何者でもない。
殺そう。
神器は平等にわけられていたもの。
三種の神器を全て手にしたものこそ、この世を支配できる。
それを我が手に。
皇族は、神器に目がくらんだ。生き残るためには神でさえ騙して出し抜いて、これを奪い取った。
神は人を憎み不審に思い、人は神を信じず、恐れた。
巫女は所詮人。神のために存在する彼女らも、情をもった人である。
裏切り。神を殺す。
神は皇族を恨み、皇族は神を恐れた。あれほど、神をあがめてきた人々も、次第に心が離れ、最後には、極僅かの信者が隠れのこった。
神に背きし神狩りの巫女。
非業の最期を遂げるといわれている。
それでも、彼女は神の依り代。思いを伝えるのは、巫女だから、神は巫女を怨みはしないだろう。
◇
私が見た光は、あんなに近くにいた姉にも、薫にも見えていない。
あの時言われた謎の言葉。『見つけた』とはなんだ。誰を見つけたのだろう。
あの場にいた誰か?
いや……違う。あれは、私のことを探していた。根拠はないけれど、私は何故かそういう強い確信めいたものがあった。
あの声のことを思うとぞっとする。暗い闇の淵から湧き上がるような冷たい声。
あの声の主に、見つかりたくなかったのに。どうしてだろう、そう思った。
本当は、表舞台に立ってはいけなかった。私は、どうして姉の言うことを素直に聞いてしまったのだろう。唇を噛みしめざわざわする闇の奥を睨んだ。
まだ少し夜は肌寒い季節。こんな夜、外に出て空を見ているのは、なんとなく気持が落ち着かないから。真上にあった白い月が、徐々に西へ落ちていく。
闇の中から突如として現れたのは、月明かりに照らされた老婆だった。
薫を探していた老婆だ。霞みのように闇の中に揺れている。
これは、宵の見せる幻なのか。目を擦ってみても、老婆が消えることはない。
どこから入り込んできたというのだろう。警戒心を露わに私は身がまえた。
「曲者か!」
「お主……あの時の巫女か」
「だったら何?」
「わしの質問に答えておくれ」
「私が巫女だったら、どうだというの?」
老婆は目を瞬かせた。丸まった背中が少し震える。
「お逃げなさい、巫女」
「何言ってるのか、全然わからないわよ」
「もうすぐ、巫女を迎えに来るもの達が現れるのじゃ」
「私を……迎えに?」
何のことだろう。首をひねる私に、老婆は不安げに瞳を揺らす。
「お前ともう一人の巫女共々、お逃げなさい」
老婆の真摯な瞳は、私の心の中の何かを揺さぶる。それまで静かな湖面のようだった私の胸の内は、今では大きな不安の波でかき乱されている。
これから来るものは、きっと私にとっても、姉にとってもよくないものなのだろう。
粟肌立つ肌を擦り、私は縋るように老婆の目を見つめた。
「けれど、もう見つかってしまったのよ……」
何に?
誰に?
自分の口から紡がれる、わけのわからぬ言葉。
「――もう、逃げられないの」
そして私の瞳の中から、ゆっくりと闇の中に溶け込むように老婆の姿は掻き消えてしまった……。
春という季節は人を感傷的にさせると思う。私は陽だまりの縁側に寝転んでずっと考えていた。
鏡池の祈りから、既に六日経っていた。それなのに鏡池でのことが頭から離れない。
鏡池の祈りの後は、巫女が七日間屋形にとどまっていなければならないという、里の決りであった。七日間だけ、女神の依り代としてここにいる。今日がその七日目――最後の日だった。
できるならば早く我が家へ帰りたい。できのいい兄弟ばかりが集結する実家にいるよりも、ぼろくても、雨漏りしても風が強くても、あの家が一番良かった。
人の気配がした。今日は誰か客人がくる予定でもあっただろうか。それも一人ではなく、複数だ。
なんだか妙な空気に、私は身体を起こした。どうして、こんなに静かなのだろう。いつもならもっとにぎやかな館が。
渡りに、人影が見えた。父と、見知らぬものたち。こちらに向かってくる。
慌てて彼女は中に入った。自分に客、しかもなんか怪しい雰囲気。これはなんだか嫌な予感だ。
……逃げよう。母親の形見の勾玉を握り締めて、私は決心した。
「双葉姫」
「……ふたば?」
父と見知らぬ数人の、身なりの良い者が入ってくる。
「来るべきが来ました」
「はい」
こいつの頭をかち割ってやろうかと思う。この人たちの来るべき時、それは最期の時。そんなことを海鶴が思っているとも知らず、彼らは恭しく頭を下げた。
「吾らは帝の勅命により参上いたしました。貴方を無事都までお運びし、帝の御前までお連れするように、おおせつかって参りました」
「都からの使者……。私でいいんでしょうか」
父を振り返ったら父が無言で頷いた。
とても変だ。私でいいんでしょうか。そう言いたくもなる。
自分は海鶴という名前で、双葉姫ではないし。帝の御前に出て行く必要性も良くわからない。 だけど、ずっと願っていたのは、外へ出て、自由になること。
「どうか、我々と都へご同行願えないでしょうが」
「嫌だといったらどうなるんでしょう?」
「その時は、貴方様の一族は帝へ反旗を翻したと受け取り、正規軍が反逆討伐として里を討伐せざるをおえません」
「そんな……里を焼くと言うのですか? 私たちを脅すのですか?」
「そうです、焼かれないよう、努力をするために、こうして里長様が双葉姫のもとへ導いてくださったのですから」
男は父を振り返った。気まずそうに、父はそこにいた。
それはそうだろうな。大事な双葉を何処かへやるわけには行かない。なんの目的だか知らないけれど。だから、この人たちの勘違いでもなんでもなくて、姉の身代わりとして差し出されたのだろう。この里のために。娘にこんな仕打ち、あんまりだろう。
そのまま黙っていると、男が囁くように話してきた。
この人、気持悪い。そう思わずにはいられなかった。
「姫は、神狩りというものをご存知でしょうか?」
「神を狩るために存在する巫女ですか? 神に背いたものがなるのでしょう?」
それくらいの知識はあった。大巫女から知識を叩き込まれた5年間は伊達ではなかったわけだ。
「ええ。このごろ、先のようにまた神の動きが活発になっています。神は人を憎み、人は神を恐れる……。かつてのように、三種の神器を奪い合い、殺しあう。そのような世を、想像できますか姫。人は無力です。非力なものです。神と対抗できるものは、神の力を授かったもののみです。帝は恐れているのです。今の世が混乱し、神が人を支配するのを。帝は、かつて人々が行ったように、神狩りをなさろうとしています。既に何人かの巫女は、都でその準備に入っております」
「――……私は、神に背いたことなど一度もありません!!」
私は思わず叫んでいた。巫女にこのままなるのは嫌だった。周囲が勝手に期待して、勝手に自分を巫女に仕立て上げて。だから巫女という人も嫌いだった。巫女である姉も嫌い。
それでも、私は巫女なのだ。いくら巫女の修行の出来が悪くても、いくら口で巫女なんてやめるとか言っていても、力をうまく扱えなくても、神に背いたことだけはない。自分ではそれなりに敬虔であったと思う。それなのに、どうして……。
使者の口調が急に優しくなる。その優しさがとてもうそ臭くて、私は顔を背けた。どいつもこいつも、嘘の塊だ。大人はみんなうそつきだ。
「落ち着いてください。あなたは、神に背いたために選ばれたわけではありません、双葉姫。貴方は、この世でただ一人、御霊鎮めのできる巫女。神狩りの中でも、最高の巫女なのです」
「な……何よそれ」
思わず父を振り返る。そこにはもう父はいなかった。
出て行った。こんな大事な時に。信じられない。開いた口がふさがらなかった。
「共に都へ、双葉姫」
「どうしても拒むとおっしゃるのならば、仕方ありません。無理にでも御身をお連れ致します故、御覚悟を」
口々に勝手なことを言ってくれる。多分、姉は御霊鎮めという技ができるのだろう。それは、この里にとって大事なものであり、だから父は代わりに自分を差し出した。神狩りに、悪用されてはならないものなのだろう、きっと。そう思いたい。ただ、……双葉が大事だから、変わりに娘である自分を差し出すという理由ではないことを願った。
無意識にぎゅっと拳を握り締めた。違う、そのようなこと、父が考えるはずがない。自分に必死に言い聞かせた。そうしなければ、ここで泣きそうだったから。涙をこんな連中に見せることだけは嫌だ。負けたくない。
頭を振る私に、庭から不意に声がした。
「おいおい、それは俗に言う、拉致ってやつですよね?」
一同は一斉に声のするほうを見た。睨みつける視線は、それを刺し殺さんばかりの勢いだった。
「おー怖い」
声の主は両手を小さくあげて見せた。ひょっこり現れたのは浅羽だった。使者の一人が厳しく問い詰める。
「どうしてここに!?」
開かれた瞳孔にへらへら笑う浅羽の姿が映る。私は思わず立ち上がりそうになるのを必死に堪えた。
――どうして、ここに。
彼らの言葉と全く同じことを心の中で浅羽に問うていた。
「いつからいた。……どこまで聞いた?」
使者はもはや容赦ない。声は低く、顔は険しい。彼らから一斉ににらまれた浅羽は口ごもっていた。
「いや、たまたま姫様の庭の手入れをしていたら……」
浅羽はごまかすような笑いを浮かべた。
「どこまでだ?」
使者はピシャッと言った。
「初めから」
使者たちの中から小さなどよめきが起こった。
「ぬかりましたね」
「このようなことは予定外だ」
「仕方ない、……ここで」
「待ってください!!」
私はとっさに叫んでいた。このままではまずい、それは自分でもわかっていた。
浅羽は関係ないのに、このままでは殺されるかもしれない。
それだけは嫌だ。
そう思ったら、口からでまかせでも弁解でも何でも、すらすらと出ていた。
「行きます、都でも天つ都でも地獄でもどこでも。浅羽も一緒に。それで文句ないですね。はい決りました、もう意見は受け付けません」
その場小さくどよめきが起こり、使者たちが口ごもってお互い顔を見合わせていた。
これでいいんだ。これで……。姉が過酷な道を進んでいくよりも、浅羽が無駄に命を散らすよりも、私のささやかな嘘でそれが回避できるなら、これで……いい。
「ですが……」
一番の使者と思われる男が、その発言を制した。
「いいでしょう。それで貴方が来てくださるのなら」
私は額を押さえて、ため息をついた。
翌朝、私は大巫女に呼び出された。靄がかかり、里はまだ目覚めていなかった。早朝から目覚めているのは、鶏と、私と浅羽くらいだろうか。屋形を出てくるときは、兄弟達と顔もあわせなかった。多分、まだ眠っているのだ。
薫にも会わなかった。
彼も眠っているのだろうか。つい先日やっと会えたばかり……。正直、こんなに早くまた別れることになるなんて思っていなかった。
ずっと一緒にいられると思っていたのに。
もし、薫に自分が神狩りの巫女に選ばれ、巫女としての果てない階段を駆け上がってくと言ったら、どういう顔をするのだろう。薫も、私の巫女としての不出来っぷりを噂で一度くらいは聞いたことがあるのだろうか。そんな私が神狩りだなんて……世の中、何があるかわかったものではない。
こんな時なのに、薫のことを思い浮かべる自分に苦笑した。
しかし大巫女は朝から深刻な顔でまあ。眉間に皺を寄せ、腕を組み仁王立ちして私を待ち構えていた。切れ長の目が私の姿を捕らえると、その場に立ち竦んでしまった。今日はまだ怒られに来たと決ったわけではないのに、いつもの癖で何となく怒られるような気がして、無意識のうちに構えてしまうのだ。
「双葉であったのか、神狩りは。お前か、双葉のどちらかであることはわかっていた。仕方あるまい、この里を守るため、どちらかの姫が身代わりにならなければならない」
私は頷いた。
「大丈夫です、私、春京が好き。この里が好き。私が行くことが、この里を守ることに繋がるなら、私、行きます」
「悲しむな、海鶴。お前には帰る場所がある」
いつになく優しい声で語る大巫女……。
怒られなかった。それに怖くない。でも、悲しくないのに、何か泣きそうになった。
「悲しんでません。むしろ嬉しいくらいです。ずっと里を離れたいと思っていた。自由に生きたいと。自由ではないけれど、私は行きます」
おかしかった。あれほど願っていた自由がこのようなかたちでかなうことが。
「大丈夫だ、無理をするでない」
「落ちこぼれだからですか」
大巫女は頭を振った。
「違う」
(まぁいいや)
大巫女が思い出したように私に訊ねた。
「そういえば、お前浅羽を連れて行くそうだな?」
成り行きとはいえ、すまないことをした。変なことに巻き込んだ。……まぁ、あそこにいた浅羽が悪い。時には開き直ることも肝心である。
「まったくお前らは……馬鹿ほど余計なものに首をつっこみたくなるのかしら」
「さぁ……」
「あやつ、大巫女様に勝る怖いものなどない、帰ってくるまで死ぬつもりはない。……とかぬかしたぞ小童が」
大巫女は笑ってから冷めた表情をした。いや、怖いんですけど。浅羽、何てことをしてくれたんだ。浅羽は大巫女の本当の恐ろしさを知らない。
「帰ってきます、もう一度、ここへ」
大巫女へ背を向けた。息を吸い込む。
「必ず」
私は強い決意を込めて頷いた。朝の光が目に差し込んで眩しい。私を呼ぶ浅羽の声がする。使者と浅羽がもう既に待っていた。
浅羽が弓を黙って渡す。私はそれを受け取って笑った。
「行きましょう」
春の風が吹く。私と、浅羽の背中を押すように。優しいけれど、決して引き止めてくれない風だった。
闇の戯言
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