引きしまり、細くくびれた腰。藍色の長い髪を結いあげ露わになった白いうなじ。白い湯気の中にぼんやりと浮かび上がる雪のように白い肌は上気して桜色になる。隠しきれない両方の豊かな乳房。どれをとっても葵上は完璧な造形の女性だった。湯につかってくつろぎ、長い四肢を悩ましげに組んで、口を半開きに夜空の星を見上げる姿はまるで女神だ。いや、葵上の場合、本当に女神だけど。
それにしても、神域には天然の温泉があるのか……。夜空を見上げて入る温泉なんて、贅沢なことだ。葵上に誘われて、私は湯船にゆっくりつかって、夜の闇に浮かんだ白い雪を眺めながら思った。
葵上の身体を隅々まで観察している私の視線に気付いたのか、葵上は苦笑を浮かべて私を見つめ返した。
「痛むか?」
「ああ、これですか? 大丈夫です。ただちょっと動きにくかったけど……」
私は手首に付けられた赤い痕を見て苦笑した。今はもう、鎖をつけられることはなかったけれど、鎖付きの時は何かと鎖が絡まり合っていて、鈴の音のような音を立てていた。
「その鎖のこともそうじゃがな……」
葵上は、妙に意味深に口の端を釣り上げ、私の首筋に視線をくぎ付けにしてきた。
「……私の首に、何かついてますか?」
「ああ、はっきりな。悪い虫にでも食われたのか?」
わかった。何が言いたいのか。私は途端に恥ずかしくなり、熱くてのぼせそうになった。
「わ、悪い虫って……だから、その……っ。違いますこれは!」
慌てて赤く痕のついたところを手で隠したが、私は変な焦りを感じていた。慌てて自分の身体を見おろし、他に同じような痕がないか確かめてみるが白く立ち込める湯気でよくわからない。どうしてよりにもよって葵上に見られてしまったのだろう。しかもこんな場所で。気まずいにもほどがある。そんな慌てふためく私の様子を見た葵上は意地悪そうに笑った。
「何だ、あいつはまだ姫に手を出していないのか、これは変なことを言ってしまったかの?」
「いや、そういうわけじゃなくて……っ」
「ふふふ……姫は本当に可愛らしいな。薫が姫に夢中なのもわかる気がする」
「可愛くなんてありません! 薫に夢中なのは私です!」
私なんて、いつも薫にいいように弄ばれて……というか一方的に振り回されている。
「しかし、鎖をつけたことは本当にすまないと思っているよ。何しろ、姫の力は声だった。鎖など何の意味もなかったな……ただ薫を喜ばせただけということか……。つまらぬ」
葵上は唇を尖らせ、私の肌をつついてきた。
「そうそう。薫を喜ばせただけ……え? 何言ってるんですか?」
「ほら、いろんな遊びができるではないか?」
「女神がそんな発言してはいけません!」
私は顔を真っ赤にして、湯の中にもぐりこんだ。
そんなことを言われると、全部思い出してしまう。
――動きを鎖で制限され、私の身体は冷たい岩の壁に押し付けられ、あとでみると赤く跡がつくくらい、強く手首を掴む。嫌だと抵抗しているのに、笑って聞き流し、白銀色の髪の奥の赤い瞳がじっと私の背中を見つめ、そっと口づけをしてくる。半分強引、だけどふとした瞬間に我に返って、バツの悪そうな顔で私の髪を優しく撫でて謝る。例えば私が涙を流した時。例えば私が、本気で怒った時。
それでも離れていく瞬間が何故かとても切ないのは、きっと繋がっているときが、幸せだと感じているからだと思う。
――指と指を絡ませて、お互いの名前を呼ぶと、とても近く感じた。その腕が、声が、背中が、私を包み込むと、眩暈がした。傍にいると思うだけで、嬉しいと思った。
私の名前を呼ぶ時のその声が、私はとても好きだった。
私、何を考えているのだろう。急に身体の奥が熱くなって、恥ずかしくなってきた。
私の顔を見てにやにする葵上のことを恨めしく思う。私はこんなに恥ずかしい思いをしているというのに、葵上の弱みを私は知らない。知っていたら絶対やり返すのに。
「葵上って、私のこういう反応をみて楽しんでませんか?」
燈火も、同じように私のことをからかって遊んでいた。葵上には燈火のそれに限りなく近い何かを感じる。
「何じゃ、今更気付いたのか? 姫君は本当に可愛いな。だってな、あの薫が最近姫のことばっかり話すからな……どんな姫なのか、わしも興味があった。わしだけではない。実は皆、姫に興味津津だ」
それにしては、かなり遠巻きに見られていたような気がする。
「どうやって巫女嫌いの月読の心を掴んだのか……。姫の持つ潜在的な力が、月読を引き寄せその虜にしたのか……。皆好き勝手に憶測して、騒いでおるぞ。自分たちも姫の虜にされるのか、姫に殺されるのか、とな」
「私、別に薫を虜になんてしてないと思うけど……」
私はそこらへんにいる巫女よりずっと心が弱くて、強がってばかりで、一人になるのが怖いだけの人間だ。そんな人間に、惹かれるものなのだろうか。自分では、自分が周囲にどう映っているのかはっきりわからない。
「……わかってないな。ま、それが姫のよいところかもしれぬ。そうじゃ、今度はわしとではなく――」
葵上はにやけて言った。
「薫と二人でここに来るがよい」
「来ない!」
その時、夜にも関わらず、鷹の鳴き声がした。鳥が夜飛ぶなんて……聞いたこともない。どういうことだろうか。私は目を凝らして、無数の星が瞬く夜空を見上げた。空中で旋回するものがある。私は葵上の肩を叩いた。
「葵上……あの鷹はどうして夜なのにこの辺りを飛んでいるのですか?」
葵上も闇を見上げて、寂しそうに笑った。
「ああ……あれはな、戻れぬのだ……」
◇
「私よりずっと小さいけれど、私のことをお嬢ちゃんなんて呼ぶのが虎彦でしょ、日焼けして色黒の、筋肉質でちょっとかっこいい人が龍邦、それから……美人なのが葵上。どう? もうみんな覚えたよ」
私は薫と、焔と一緒に今日の夕ご飯を狩りにきていた。もう魚は飽きたから、私が狩りに行ってくると申し出たのだ。薫はああ見えて結構食にうるさくて、まずいものは絶対に食べない。まずいもの出したら、目に見えて不機嫌になるってことがよくわかった。
私が料理するか、薫が自分で料理したものはまだ何とか食べられるらしい。こういう時、意味のわからない修行ばかりだったけど、巫女修行で料理の腕が上がってよかったと思う。
「娘は一体、どういう覚え方をしておるのだ」
焔は鼻を鳴らしてやれやれと首を振った。
「うーん、特徴をよく捉えた覚えかただと思うけど……。あ、あの鷹……」
冬の空を、風に乗って飛ぶ鷹の姿。それは私が最初神域に辿りついた時に見た鷹と同じように見えた。また同じ場所を旋回している。あそこには、何があるのだろう。
「ねえ薫。あの鷹はいつも何をしているの? 前も同じような場所で見たんだけど……」
「鷹峰……まだ探しているのか……」
薫はぼそっと呟いた。
あの鷹には、鷹峰という名前があるのか。あの時撃ち落として食べようとしなくてよかった。そういえば葵上は、あの鷹を見て『戻れない』と言っていた。どういうことなのだろう。
「月読……まさか鷹峰は、我と同じか?」
薫は頷いた。
「ああ、戻れなくなってしまった……。あの時、鷹峰の肉体は滅んだ。鷹峰の魂は鷹に憑依したまま、元に戻れない」
元の身体が死んだのか。そして、戻れないからずっと飛び回って何かを探している……。何故か、あの飛び続ける鷹と、甲高く啼いて飛ぶ姿を見るととても悲しい気持ちになってくる。
「何を探しているの?」
薫は一瞬、泣きそうな表情をして、それから視線をそらして答えた。
「……鷹峰の、子どもたちだ。二の巫女の事件の時、行方不明になったきり見つからない」
焔は元気なさそうに耳と青白い尾をぺたんを垂らして唸った。
「我も、かつては人の形をしていた。少し神域から意識を飛ばして、狼に宿っているうちにいつの間にか巫女に身体を滅ぼされてしまった。娘もいた。今は行方知れずだがな……。もう死んだものと諦めている。鷹峰も、いつかあきらめるときが来るだろう」
薫は肩に力を入れ、爪先が白くなるほど強く拳を握りしめていた。
「ただ、家族を一気に失ったのだ。……今は、好きなようにさせてやればいいさ。そのうち鷹峰も、我と同じように前向きになれる日がくるだろう」
神にも、人と同じような営みがあって、自分の子どもがいて、同じ感情を持っている。これまでは気にも留めなかったけれど、それを知ってしまった今は、あの鷹が哀れに見えてならない。
あの鷹は、一人残されてしまった……。
残す方が辛いのか、残されるほうが辛いのか……。
何故だろう、私は薫と自分のことを重ねてあの鷹を見上げた。
私は家族や、薫を残して春京を旅だった。その時は別に辛いなんて思わなかったが、遠く故郷から離れるたびに、春京のことがたびたび思い出されて辛かった。薫に何も言わずに出てきたことだけが、いつも私の胸の中で引っかかっていた。
そして薫は、私に残されたのが辛くて、自分の正体を知りたくて、私の後を追うように神域に来た。いつか、私を取り戻すことを考えていたと薫は私を抱きながら話してくれた。
どうして、争ったりするのだろうか。巫女がここに来ることがなければ、あの鷹の家族もきっと、離れ離れになることはなかったのだろう。ただ、その家族は巫女と神の争いに巻き込まれて、穏やかだった暮らしを奪われた。薫が巫女を憎んだりするのも、無理はないかもしれない。
私の胸に輝く勾玉は、その争いの原因の一つであることを知った。
皇族が求める神器には、それほどの力があるのか? 神器を集めて……人は何をしたいのだろう。私にはわからないことばかりだ。
何が正義なのか、何が悪なのか……私には、わからない。
――その時、私は小さく叫んだ。鷹が、何かに反応するかのように、ある一点に向かって急降下していく。
「何か、見つけたのかもしれない……。ねえ、あの鷹を追ってみない? どうせこの辺りに獣はいないと思うし……」
「娘がそうしたいのならば、我はついていくまでだ。魚は我も飽きた。そろそろ肉が食いたい」
「よし、行ってみよう」
鷹が舞い降りた場所は、林の真ん中だった。眩しい雪原を渡り、光の遮られた林の中に入ると、何故かとても安心した。最初に来たときは、薄暗い林の中を歩くのは怖いとさえ思っていたのが嘘のようだった。何しろ、今は両脇に焔と薫がいる。今の私に恐れるものなどない。
私たちが追ってきたらしき鷹は、太い枝に止まって私たちを見下ろしていた。
「薫か……珍しいな。あの時以来、お前はこの地に足を踏み入れることなどなかったというのに」
薫は肩を竦めた。
「海鶴が、鷹峰を追いかけたいって言ったからな」
鷹峰は鋭い眼光を私へ向けてきた。ただ見ているだけなのに、私は妙な威圧感に押しつぶされそうになっていた。射すくめられたようで、身動きが取れない。
私の襟元にしまわれたた青い勾玉が、わずかに光を放って反応している。多分、この神はとても深い悲しみを抱いているのだろうと私は悟った。
「ほう、あなたが噂の渦中の姫君か。こうして直に会って話すのは初めてだな。わたしはこの神域に姫が来たときから、遠くで姫のことを見てきた」
鷹峰の声は、とても落ち着いていた。きっと以前はさぞやかっこいい男の人だったのだろうと思う。勝手な想像だけど。
「あなたが急降下していくのが見えたから。何か見つかったのかと思って……」
「ふっ、姫はわたしがカラスのように光ものでも見つけてあさっているとでも思ったのですか。さすが巫女殿のお考えは一味違っていらっしゃる……」
その棘のある言い方に、皮肉の籠った言い方に、私は思わずむっとした。初対面の相手にそれはない。鷹峰は完全に私の事を見下して、馬鹿にしている。私が巫女というだけで……。
こんなところで負けん気を発揮するのもどうかと思うが、やられた分やり返さないと気が済まない。
「それで、何が見つかったんですか? カラス――じゃなかった、鷹峰さま? 光りものは見つかりましたか?」
「貴様……」
「はい、鷹峰の負けね。私のような小娘相手に本気になるなんて、大人げないわ!」
とか言ってるが、やり返す私も相当大人げないと思う。
「薫……何だこの巫女は。お前の新たな巫女なのか?」
鷹峰は苛立たしげに薫に訊ねた。
「可愛いだろ?」
「確かに娘は可愛い」
焔は青白い尻尾を振り、黄色い目を細めて笑った。
「もうどうでもよい……」
鷹峰は木を蹴って薫の肩に舞い降りた。そして、ある一点をじっと見つめていった。
「あれを見ろ」
人影だった。林の中で右往左往している。
「わたしも、大概馬鹿だな……。淡い期待を抱いて、この辺りを飛び続けて……。人影があったから降りてみれば、探していたものではないなど。あれは、元の場所に戻れぬのではないのか?」
元の場所に、戻れない……? 迷い込んだものということなのだろうか。
闇の戯言
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