雲ひとつない、遙か遠くまで青く染まった空に向かって伸びた木々。少し湿った木の匂い漂う、緑の木漏れ日差す丁度両手を広げたほどの幅狭い林道を抜けると、少しだけ戸口の傾げた屋敷が目に飛び込んでくる。
そう、それこそがこの里の長の末の落ち女……、姫とかつては讃えられた私に与えられた、愛しい我が住処だ。またここに帰ってきてしまった。その事実が私にとっては大いに厭わしく、付きつけられる現実が容赦なく私を打ちのめす。
こんなの私の思い描いていた道と違う。
十五歳になった。やっと一人前として認められる年齢だ。これで春京を出て、広い世の中を知り自由に暮らしていく――。そんな生活が私の憧れだった。
私の上には、もうひとり姫がいる。春京を支える巫女ならば、姉一人で十分だろう。姉の双葉は私とはちがって優秀だと、大巫女が何度も嘆いていたくらいなのだ。私がいても何の役にも立たないことくらい予想がつく。
ああそうか。それならば、私は遠慮することなく好きなように生きて……巫女なんて辞めてしまおうか。
山に入って山師に弟子入りしようか、それとも農家になろうか、とにかくここから出たい――私は色々考えていた。
姫と呼ばれるのは嫌いだった。身分不相応も甚だしい。客観的に自分を捕らえるたびに、姫であることが恥ずかしくなってくる。
しかもこんな山里の姫なんて。里の女性と変わらないのに、自分だけを特別に扱われるのは嫌だ。
沙苗にも教えてあげよう。もう、自分の世話などしなくてよいことを。
なのに、何でこうなるのだろうか。
浅羽から以前もらった衣を引っ張りだし、その格好で外をうろついていたところ、さっそく小言が飛んできた。
「姫! いけませんよ、そんな汚い格好で!」
「うるさいわね、いいじゃない。こっちの方が動きやすいんだから! 大体、姫って呼ばない約束でしょ?」
「姫は姫です! 一応長殿の末の御子さまなのですよ! 辺境の地に住んでいるとはいえ、その自覚をもってください!」
悲鳴に近い声で、沙苗が叫ぶ。私も負けていない。
「こんなところに住んでいて、自覚も何もないわよ。家はぼろいし、雨漏りするし、風は吹き込んでくるし!」
「なんということを! 長殿や、兄上様方が、海鶴様のためにご用意したお屋敷を!」
屋敷だって。これのどこを見たらそういえるのだろう。
食べ物や着物の原料を調達するにしても、今私の住んでいる場所はすこし通りから離れ、奥まった地にあるためにやや不便ではあった。自給自足の生活には先の巫女修行のおかげで大分慣れているとはいえ、かつては不満を抱いていた。この屋敷に誰が住んでいるのかと見知らぬものに訊ねたら、きっと誰も長の子だとは口が裂けても言わぬだろう。
少し傾いた戸口からは風が容赦なく吹き込んでくる。冬は悲惨だ。ただ気に入っていることがあるとしたら、それは自分の庭に作られた、小さな滝とすべすべした丸い石で囲まれた小さな滝つぼくらいだった。池に睡蓮を浮かべて、それが咲くのを眺めるのが好きだ。
「兄上も父上も、姉上にはもっと立派なお屋敷を与えているじゃない。私のことなんて、きっと山猿と同じくらいにしか思ってないわよ……」
「姫様!」
沙苗が、私を睨みつける。
「あー、悪かったわ。ごめんね。私、巫女をやめるわ。ここから出ていくの。沙苗も自由に生きて頂戴……」
「……姫! 明後日は何の日かご存知でしょう?」
首まで赤くなった沙苗が声高々と叫ぶ。ひらひらと手を振りながら屋敷をあとにする。
「私には、関係ないわよ、あんなお祭り……」
どうせ、自分は落ちこぼれだ。確かに魅力的な儀式だ。認めたくないけど、薫となら一緒に行きたいと思っている。
だがそれだけだ。
巫女の修行で山に篭る前は歌い手として何度も歌った。それが随分昔のことに思えてしまう。今でも私はあの頃と同じ純粋な気持で歌えるのだろうか。多分、無理だ。私の心は山の中で廃れてしまったみたい。
「姫? どちらに行かれるのですか!」
「貴方の息子のところよ」
沙苗の大きなため息と小言が聞こえた。私は聞こえないように両耳をふさいだ。もう小言は沢山だ。
「大人になって帰ってきたと思ったら……。ちっとも変わっていない。もう今年で姫さまも成人だ。将来大丈夫なのだろうか。ばあやは海鶴様が心配です……」
◇
幼馴染の浅羽は、遊び相手で、相談相手で、兄弟同然の仲だった。五年ぶりに会うのだが、もう二十歳になっているはずだ。元気だろうか。懐かしい。あの頃は、まだ成人したばかりで、家からも独立して。嬉々として働いていた気がする。そして、兄上たちに顎で使われて、嘆いていた。今も浅羽は変わらないだろうか。
久しぶりに戻ってきたら、何か変わるのではないかと期待していた。だが、結局皆変わっていない。そう、私も、薫も……。巫女になったら世界が変わると思っていた。自分は全てを手に入れられると思っていた。
だが、修行を終えて思い知らされたのは。
私は結局落ちこぼれ。姉上には到底叶わないということ。
「浅羽! 生きてる?」
裏庭には、睡蓮の浮かんだ池があり、今日も涼しげにその大きな葉を浮かべていた。浅羽は縁側に寝転がり、空を見上げていたのだが、私の声に素早く起き上がり、顔をじっと見つめてくる。まじまじ自分の顔を見られると変に緊張するのだが。何か悪いことでもしたような気分になってくるし。それは彼と久しぶりに会うからかもしれない。
「え……? えぇ……海鶴! しばらく見ないうちに、大きくなったなお前!」
浅羽は、笑顔で私を迎え入れてくれた。私もつられて頬が緩む。少し頬を染めてはにかんだように笑うと、浅羽も何故か照れたように笑い返した。久しぶりに会うものだから、なんだかとても歯がゆい。
「ちゃんと修行はしてたのか? 大巫女の修行は厳しいって聞くけど、とてもお前にやり遂げられるとは思ってなかったよ。途中で泣いて逃げてくるかと思った」
「ひどいわね、この通り、ちゃんと生きてますけど?」
私は肩をすくめた。
「確かに厳しかったわ……あれが巫女の修行っていうのかしら。滝に打たれたりとか、山に登ったり、薬草を積んだり、洗濯してご飯作って掃除して、狩をして。おかげで、弓の扱いも包丁裁きも上手くなったし、体力もついた気がするわね。巫女っていうよりも、あれじゃ里のお母さんね」
浅羽が肩を揺らして、笑いを堪えているのがわかる。
「双葉もそんな修行をさせられていたのかな……あんなすました顔してお母さんかよ」
「そうよ。でも、双葉姉さまはもう少し優秀でいらっしゃったみたいだから。私みたいに、宮の雑巾がけをさぼって、夜中ずっと外に出されていたなんてことなかったんじゃないかしら……。それに、山の石榴を勝手に食べることもなかったでしょうし、海石榴の花を手折ることもなかったんじゃない?」
呆れたように、浅羽が私を見つめる。
「海石榴を折ったのか? 本当に、信じられないよなぁ……海鶴は。海石榴は、春京の神の象徴だろ……。そりゃあ、大巫女だって怒るな」
私は生真面目な顔で浅羽を見上げた。
「でもね、浅羽。海石榴が訴えてきたのよ。そろそろだ。時が満ちる。私を手に取りなさいってね……」
浅羽は苦笑した。
どうせ、浅羽のことだから私が冗談で言っているとでも思っているのだろう。声が聞こえたのは本当のことなのに。だから私は、勤めて真剣な顔で話し続けた。
「盛りだったのよ。八分咲きって所かしら。満開じゃないの。満開って、あとは散っていくけれど、八分咲きはこれから咲いていくのよ。それを、とらないでいつとるのよ」
「そうか……さしずめ、お前も今は八分咲きってところだよな……はははっ」
私はわけがわからなくて、首をかしげた。
「何よ一人で笑って……浅羽、変」
私は眉根を寄せて、怪訝な目で浅羽を見つめた。浅羽はそんな私の顔をみて、また笑いだした。
「変か……。そうかもな……」
春の空を見上げて、一人で笑う浅羽を、変だと思わずにはいられなかった。
私はよっこらしょと、縁側に上がりこんだ。浅羽の隣に座ると、一緒に空を眺めた。思えば五年前はこうして浅羽の家で空を見たりするのは当たり前のことだった。
「春だね……空の色が……」
「あぁ……」
風が吹く。温かい風だった。気持いい。ずっとこうして、空を眺めていたかった。空の上にある、天ノ都。高天原。
それがここで見える気がした。
「なぁ、海鶴。お前、鏡池の祈りに出なくていいのか? 巫女だろ、一応」
「もう、なんで皆、そんなこと聞きたがるのかしら……。貴方のお母さんも聞いてきたわ、それ。ま、出ることには出るわ。お遊び程度に顔出して、後は大巫女や双葉姉さまに任せて、私は薫と遊んでるわよ」
浅羽は苦笑いを浮かべた。
「遊んでる……ね。また……三人で遊ぶ日々の始まりかな……」
浅羽が何か呟いたが、私にはよく聞こえなかった。もう一度聞き返そうとしたら、聞きなれた声が飛び込んできた。
「浅羽! ちょっとかくまえ」
来たなと浅羽が笑う。浅羽は何も言わなかったけど、顔にそう書いてあった。長年一緒にいるのだ。見ればわかる。
「そんなに慌てて、どうしたのよ……薫」
「海鶴、どうしてここに……」
浅羽はまた声をたてて笑った。なにがそんなにおかしいのだろう。こんなに私は戸惑っているというのに。
浅羽は呆れたような笑みを浮かべ、私と薫に生温かな視線を送っている。何故だろう、少し……腹立たしい。
「薫、それで、俺にどうして欲しいって?」
「そうだ、助けてくれ浅羽。お前、女を撒くのが上手かったよな。あいつら、まいてくれよ。俺が木の下で居眠りしてて、気がついたら囲まれてたんだ。本当に恐くて、喰われるかと思った……って何笑ってるんだ?」
薫の言葉に私は一瞬固まった。
浅羽は片手を顔にうずめ、私は浅羽の肩に顔をうずめて声を押し殺して、笑うのを必死で耐えていた。震える声を必死に抑えて、浅羽が薫の肩を両手で掴んだ。
「それで、お前は黙って喰われたのか? まさか、本当に喰われると思ったわけじゃないよな。鏡池の祈りに一緒に言って欲しいって誘われて、お前が答えに窮して、修羅場にでもなったんだろどうせ」
薫が、碧眼の双眸でじっと見詰めてくる。恥ずかしくなるくらい真っ直ぐつめてくるものだから、目をそらしたくなる。
薫は自分ではあまり気にしていないようだが、随分と綺麗な顔立ちをしている。里の女たちが放っておかないのも道理というものだ。
「……浅羽。俺、お前を本当に尊敬するよ。なんでわかるんだそんなこと」
浅羽はその場に崩れ落ちた。大丈夫、私も崩れ落ちたいよ――。
駄目だ。本当にわからないんだ薫には。私が薫のことをどう思っているのかなんて、興味ないんだろうなと思う。
「まあな、何でも聞け。お前のわからない女の心理なら、俺は大体わかるからな」
「大体、俺と一緒に祈りに参加してどうなるんだよ。俺が見れないのを知ってて、何でわざわざ俺と行きたがる? 嫌がらせか?」
「よかったわね!」
私が、明らかにむっとした声で言いうと、さすがの薫も少し引いていた。棘さえ感じられるその声音に私が何故か怒っているということだけは、鈍い薫にも感じ取れたらしい。
「……本当に馬鹿ね。そんなわけ、ないじゃない……」
これは好意を持つからこその嫉妬だということを薫は知らない。仕方ないのだと、私は半分あきらめた心境で薫の横顔を眺めた。薫は知らない。好きという気持を。薫には記憶が欠落していたが、一緒に感情の一部も欠落させたようだった。相手の気持がわからない。相手の思いを汲み取れない。それで苦しむのは、薫ではなくて、薫に何かの気持を抱いているもの。
私は口の中で小さく呟いた。
「薫のことが、好きなんじゃない。その子たちだって……」
「薫、あんまり女を泣かせるな。もてるのはいいけど」
「あのなぁ浅羽。俺は別にもててなんかないぞ」
本気でそういっているのだったら凄いと思う。人間鈍くなろうと思えば、どこまでも鈍くなれるものなのだ。感心する。
「信じられない……」
思わず心の言葉が声に出ていた。
私の更に棘を含んだ口調に、薫はたじろいでいた。そういうことに疎いくせに、私の不機嫌な態度に関しては、変に敏感なところがある。面白い。
「さっきから何を怒ってるんだよ……そんなに、俺が勝手に女たちに海鶴と一緒にいくこといったのがまずいのか……?」
「そこじゃないだろ……」
浅羽は、呆れた目で、私たち二人を暖かく見守る。
私も薫も、少なからずお互いを意識していることはなんとなく感付いていた。いや……もしかして私の一方的な意識だけのかもしれない。とはいっても、淡い期待を抱かずにいられないなんて……。私も年頃の少女らしい一面がまだあることに笑えた。
「やれやれ。まだまだ二人とも子どもだな」
「何そんな熟年のおっさんみたいなことを言っているのよ。浅羽なんて私と五つしか年の差ないじゃない。まだ若いわ」
「そりゃどうも。海鶴に言われると、嬉しいんだか悲しいんだか……。それって、海鶴と同程度って言われてるみたいで……」
浅羽は複雑そうな表情で肩を落とした。私はそんな浅羽の肩に手を乗せ、自虐めいた笑みを浮かべた。
「何でそんなに嫌そうなのよ……私を馬鹿にしてるんでしょう浅羽。大正解だと思うわ」
ああ、こうして三人でいるのがこれほど楽しいことだと、今まで忘れていた。
浅羽、薫、そして私。いつも一緒に遊んだ。今こうしていることが幸せだった。
いつか、きっとみんなそれぞれ違う道に進んで、離れていく。大人になって、爺さん、婆さんになって。それがいつかはわからないが、いつか、必ず。
今はまだ、一緒にいたいと思う。家族のない薫にとって、浅羽や私は、家族のようなものだった。
そう考えた。
薫は時々、とてもつらそうな表情を浮かべていた。眉間に深い深い皺を刻んで、何かを思い悩んでいた。
聞こえるのだそうだ。頭の中で自分を否定する誰かの声が。
そのつらさを、幼いながらも少しでもわかってあげたいと思っていた。薫と会ったあの時から。
薫は、自分の過去を知らない。一体どこで何をやっていたのか知らないが今、ここにあることを幸せに思ってほしかった。誰かに囲まれていることを、幸せに。
ここにきて、よかったと思ってほしかった。
だからどうか春京の女神様、このささやかな幸せを壊したりしないで。
闇の戯言
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