神と人の物語。基本、日本の神話を元にしていますが、神話とは異なる内容になっています。というか、ぶっちゃけ完全に別物です。
『――彼が堕ちました』
『ここに?』
『そう。ここに』
『わたくしを、殺しにくるかしら?』
不安げな囁きが虚ろに響く。
『殺す? あなたは、そう表現するの……?』
『ええ、だってそうでしょう? わたくし、今が幸せなのですから……』
白い光りの中で、囁き合う声が飛び交う。
相手の姿は見えない。ただ白いものがゆらゆらゆれて、軽やかに笑った。
『それは、良い傾向です……巫女姫』
『だからあなたも……どうぞ最期まで、ゆっくりとしていってね……』
◆
春京の春は美しい。
どこまでも蒼く蒼く澄んだ空の下、色とりどりの花が咲き乱れて、心地よい風が、山を越え、谷を超え、野原を吹き抜け、春の匂いを運び込む。陽射しは暖かく、子供たちの笑い声が外から聞こえてきて、春の訪れをしんみりと感じる。
春京はその名の通り、春の美しい里だ。
しかし、それに比例するかのように冬の寒さも厳しい。
春京の冬は、まず木枯らしから始まる。それから深々と雪が降り積もり、野山を覆い隠すのだった。雪は、里の音全てを飲み込んで、静寂の中に包み込む。家の窓からもれる明かりが暖かくて、旅人は何故か涙が流れるほど、心が温まる。春の訪れをひっそりと待つ間、人々は家屋の中でひっそり息を潜めて暮らす。
春が来る。暖かくなる。
里は春の柔らかな風と歓喜に包まれる。
その心地よさが無性に懐かしくて、心の奥底が軋むように痛い。
なぜだろう。時々感じる虚しさは、春になるといっそう強まる気がする。
自分の中で、誰かが「帰りたい」と呟いた。
しかし、一体どこに帰るというのだろう。
――どこに……?
何もない。そこには、なんの景色もない。
少年には、何も思い出せなかった。自分は、なぜ生きて、この里にいるのだろう。
――生きていてはいけないよ……。
頭が痛い。何度も何度もこの言葉が自分の内から沸きあがってくる。自分は世界から必要とされていないようで、苦しい。
今更、自分に何を求めるというのだろうか。
産まれてから今までの記憶は忘却のかなたに消えている。
記憶がないことは、薫を不安にさせる時期もあった。しかし、今は記憶がなくても自分がここにいるということを感じるだけで嬉しかった。
春京にたどり着いて八年。
そこまでの記憶は空白でしかなくなぜこの里にたどり着いたのか、自分はどこから来たのか。わからない。
そんな自分を受け入れてくれた、この里の人々。優しく自分を包み込む空気が好きだった。
年は十代後半――おそらく十七、十八くらい。稀有な碧眼の双眸が、池に映る。池に映る自分の容姿は、まだ大人でもなく、子供のあどけなさがあるわけでもない。実年齢がよくわからないものだから、よく周囲のやつらに子分扱いされたりしていた。
この里では、十五歳になれば、一人前として認められる。土地ももらうことができる。
そして去年ようやく、この里に来た日と同じ日に、土地をもらったのだ。
自分の土地を持てることが嬉しかった。土地に家を建てて、畑も作った。些細なことだったが、これからは誰かに依存せずに自立して生きていかれると思うと、それだけで嬉しかった。
それまで、薫はここの里の長の家に預けられていたのだ。長には、六人の子供がいて、全員もう自立して別々の生活を送っている。ただ、末の娘、海鶴だけは、巫女修行のため、まだ親元に残っていたが。
海鶴とは、巫女修行の日に彼女が里を発って以来、もう五年近く会っていない。
今でも瞼の裏に焼きついている。あの日の、あどけなさの抜けない彼女の険しい顔を。ずっと行きたくないとごねていた彼女を、周囲の大人が散々説得して連れて行って……。
寂しさというものを初めて知った。
丸くてふっくらとした輪郭。好奇心の強い光り宿す大きな瞳。きつい言葉を吐くぷりっとした唇。血色の良い日焼けした肌。ぷにっとした身体。
五年も経った今、彼女はどうなったのだろう。
ふと笑みを浮かべ、薫は蕾膨らむ桜の木の下で彼女のことを考える。
そういえば海鶴と初めて会ったのは、春京の屋形の庭。桜の木の下だった。
鏡池と呼ばれる池の近くで。
薫が長に呼ばれて、そこで立ち尽くしていたら、歌が聞こえた。
澄んだ高音の透明感のある声。
聞いたことのない言葉で、聞いたこともないような調べ。
何かに祈りをささげているような、神聖な声。
しばらく、その唄に聞き入っていたら、落ちてきたのだ。……いや、あれは降ってきたというほうが正しいかもしれない。――二人は暫し無言で見つめあった。そして、なんとも言いがたい、気まずい雰囲気が流れた。
先に口を開いたのは彼女だった。
「貴方……誰?」
薫を見上げた彼女の目は、澄んだ目をしていた。一点の濁りもなく、全てを信じている目だった。
「……わからない」
薫はぽつんと答えた。本当にわからなかった。
「馬鹿」
海鶴はそういい捨てて、走っていった。
「なんなんだよ……」
薫の初めの印象としては、なんとも感じの悪い女の子だった。
なぜあの時馬鹿と言われたのか、今になって考えてみても全くわからない。初対面だったのに。
それからは会うたび会うたび、何故か避けられて、目もあわせようとしてくれなかった。あの澄んだ歌声を聞きたいと願っても、薫の前ではもう歌うこともなかった。
嫌われてしまったのか、そう思ったら胸が重く感じた。
薫にとって初めての、切ないと呼べる感覚だった。
海鶴は仮にも姫だという立場であったのだが、そんなものはかけらも感じさせない人物だった。おてんばで明朗快活、誰からも好かれるような、底抜けに前向きで明るかった。周囲を巻き込むような力があるようで彼女の周りには、いつも人がいた。
なんて明るい子なんだろう、薫は遠目で海鶴を見るたびにそう思っていた。
その明るさに惹かれ、羨み、憧れた。
常に野山を駆け巡って、桜の木の下で、昼寝をする。健康的な肌。血色の良い、ふくよかな頬。
小柄な身体からは、生気というか命というか、そういう眩しいものがあふれ出ていた。
生きる、というのは、こういうことを言うのだと知った。
気付いたら彼女に巻き込まれていた。
そう、いつというわけでもなく、薫は海鶴と仲良くなっていた。
薫はもともと、外を走り回るのが好きだったようで、身体を動かし、風を感じるのが好きだった。だからいつの間にか、どちらがいうわけでもなくて一緒に山に行っては木の実や山菜、きのこを採った。川に行っては水遊びをし、魚を手づかみで捕まえた。狐を追いかけて野原を駆けた。疲れたら、一緒に昼寝をした。
山に籠っていた彼女が、今日五年の修行を終えて里に降りてくる。
待っていても落ち着かず、こうして外で風を感じていた。
宮の方から、真っ白な衣に目の覚めるような鮮やかな朱色の喪を履いた少女が、ゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
春の光に透ける、腰まである豊かな漆黒の髪は見るからに柔らかく、光を反射してつやつやと輝いている。身体はまだ少女の域を超えたばかりのようで、折れそうに細いが女性らしいふくらみもあり、見るものが息を潜めるほど美しい。
薫は、光の中から姿を現した少女にしばらくの間目を奪われた。
少女は、薫に気付いたようで、頬を上気させて髪を振り乱し呆然とする薫めがけて走ってきた。
「薫!」
少女は嬉しそうに駆け寄って、抱きついてきた。薫は、少し顔を赤らめてためらいがちに受け止める。
「……えっ?」
「大きくなったね! 久しぶりだね! 私のこと覚えてる? 忘れてない?」
少女が息を切らして、薫を見上げて笑う。優しい茶色の瞳が薫の顔を覗き込む。
「……誰?」
「もうっ! 相変わらずね、とぼけないでよ!」
腰に両手を当てて、少女が頬をぷくっと膨らませる。
「お帰りぐらい、いったらどうなの?」
本気で怒っている少女に苦笑して、薫は彼女の肩に両手を置いて、じっと顔を見つめた。
「怒るな、海鶴。……おかえり」
照れたように笑う海鶴が懐かしかった。嬉しそうに薫を抱きしめる。
「ちょ……やめろよっ!」
赤くなりながら、海鶴に抗議した。海鶴は、少し悲しげな声で呟いた。
「どうして? 昔はよくこうやってくっついて遊んだよ。薫は……嬉しくないの?」
「そんなことないけど……」
本当は海鶴が戻ってきて凄く嬉しかった。それと同時に、とても戸惑う自分がいた。なんだか照れくさくて、そんなこと言うことができなかったが。
――いい年した男女が抱き合うなんて。しかも人目をはばからずに。
恥ずかしいとは思わないのだろうか。
「なーんて。冗談冗談。いきなり抱きついてごめんね? もう私も十五だし、薫だって大人だしね」
「な……っ」
からかうような笑みを浮かべ、海鶴は薫からぱっと離れた。
少し残念なような、ほっとしたような……薫は心中複雑だった。
そんな薫の心を読むかのように、海鶴が悪戯っぽく笑って薫を見上げた。
「あーあ。素直じゃないわね。……それじゃあ、女の子にもてないわよ?」
「別にいいよ……」
薫はぶっきらぼうに答えた。その様子に海鶴が軽やかな声を立てて笑う。
海鶴は、五年前よりも綺麗になった。長い漆黒の睫毛。形の良い眉。桜色に上気した頬。ふっくらとした桃色の唇。潤んだ黒い瞳。肌は抜けるように白く、細い身体。
これが、かつて、自分と共に野原を駆け巡っていた、日に焼けた健康的な少女とは思えなかった。五年も経てば、ここまで変わるものなのか。
「いい時期に戻ってこれて、本当に良かったわ」
海鶴は、微笑みながら空を見上げた。
「鏡池の祈りがあるからか?」
「違うよ。ほら」
海鶴は鮮やかに花開いた海石榴の枝を指さした。
「冬が終わったんだよ……」
春京には年に一度、土地神のために祈りがささげられる。それは、里の大巫女が鏡池で祈りを捧げるのだ。
その日はもうすぐそこまで迫っていて、里の空気もどこかふわふわとしていた。
この里では、婚前の若者は、必ずこの祈りに参加する。池の前で巫女から信託を受け、自分の結ばれるべき相手を知る。
かなりの確立で、この信託が当たってしまうため、祈りのための祭りに参加しようと詰め掛けるものが後を絶たない。鏡池には、そのものの運命が映るといわれている。本当かどうかわからないが、面白さと興味で、その前に立とうとするものが沢山いる。
鏡池が映すものは、人の未来だけでなく、過去さえも映した。
池は、薫の過去は映さなかった。常に澄んだその水は、そこを覗くものの全てを、まるで鏡のように映し出す。しかし、薫が覗いた時、その澄んだ水は、瞬時に曇った。不思議なことに、いつも水面が波打って、何も見せてはくれないのだった。まるで、薫を拒絶するかのような小波だった。
「いけない、沙苗の小言を聞かないと……」
沙苗とは、海鶴の乳母だ。彼女が帰ってくる今日を沙苗も心待ちにしている一人であることを薫は知っていた。あれだけいつも姫さま、姫さまと嘆いている彼女だ。海鶴がどれほど変わったことかと多分、期待して待っているのだろう。
「ごめんね薫。そういうわけだから、また今度ね!」
海鶴が、小走りで去っていく。その小さくなっていく背中を見ながら、薫は、自分の心が温かくなったことに気付いた。
冒頭部、その他の部分加筆しました。
完全に蛇足かもしれないですが。
闇の戯言
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