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Word.55 驕レル神 (4)
「う、うぅ…」
 錨の放った水の塊を容赦なく浴びたイクラは、全身に傷を負い、流し尽くしそうなほどに大量の血を流して、力なく地面に、うつ伏せに倒れ込んでいた。しかめた表情のイクラの口から、苦しげな重々しい声が落とされる。
「イヒヒ、どうだぁ?俺の、“神”の力は」
 倒れたままのイクラへと、錨が得意げに話しかける。その言葉に、イクラは地面へと顔を向けたまま、眉だけをそっとひそめた。
「相手には天罰下しまくりだってのに、自分には一切、害がない。最高だろぉ?」
 錨がさらに、口角を吊り上げる。
「これぞ、全知全能の神に相応しい力。そう思わねぇか?現、以の神さんよぉ」
 微笑んで意見を求める錨に、イクラが少しだけ顔を上げ、錨の方を見つめて、その表情を曇らせる。
詭弁きべんだな…」
「何?」
 イクラのそっと落とした呟きに、錨が眉をひそめる。
「他者を甚振ることが天罰、自身を守ることが全能…それこそが“神”であるというのなら…」
 顔を上げたイクラが、鋭い瞳を錨へと向ける。
「この世界に生きる愚かな人間の、大半が“神”だ」
 はっきりと言い放つイクラのその言葉に、錨の表情が一気に曇る。
「あんまり、神の怒りを買うなよ…」
 少し低くなった錨の声が、重く響き渡る。
「死ぬぜ?」
 冷たく微笑んだ錨が、勢いよく右手を突き上げた。
「“いかずち”!」
「う…うああああ!」
 ろくに動くことも出来ないイクラへと、頭上から激しい雷撃が降り注ぎ、イクラの体を強く焦がした。雷に打たれ、何とか起き上がろうとしていたイクラが、再び地面へと深々と倒れ込む。
「グ…」
「苦しいかぁ?以の神」
 弱々しい声を漏らすイクラに、楽しげに問いかける錨。
「今、神が楽にしてやるよぉ!“いどめ”!」
 錨が高らかと言葉を放つと、大きな波が、四方からイクラへと押し寄せる。イクラは倒れ込んでいた体を何とか起こし、地面に転がっていた言玉を握り直した。
「い、“いさめろ”…!」
 イクラが必死に言葉を発し、四方から押し寄せる波を収めようとする。だが波の勢いは強く、左右と後ろの波は抑えられたものの、前方の波だけは残って、そのままイクラへと攻め込む。
「ク…!“いのれ”!」
 同じ波を相手に、もう一度、抑え込む言葉を使うことは出来ず、イクラが違う言葉を放つ。イクラの後方から現れた巨大な水の女像が、両手を広げながら、波へと向かっていく。最後の波は、水像に包み込まれるようにして、掻き消えた。
「“いそげ”」
「何…?」
 水像が波を砕いた途端、錨が言葉を使い、目にも留まらぬ速さで、勝ち残った水像のもとへと飛び込んでいく。錨のその様子に、戸惑いの表情を見せるイクラ。
「しま…!」
 錨が何をしようとしているのかに気付き、イクラが焦って、水像を消そうとするが、それよりも先に、錨は水像に辿り着き、自ら飛び込むように、水像とぶつかり合った。
「うぅ…!」
 水像と衝突し、自ら全身に傷を負う錨。
「うううぅ!」
 そして次の瞬間、錨の負った傷がイクラの体にも刻まれ、すでに激しく傷を負っていたイクラは、より一層苦しげな声をあげて、今度は仰向けに倒れ込んだ。
「う、うぅぅ…」
「イヒヒ、あぁ~痛い痛い」
 声にならない声を漏らすイクラを見つめながら、傷を負いながらも、楽しげな笑みを浮かべた錨が、自分の右腕から流れ落ちる血を、そっと舐めあげる。
「神に傷をつけるなんて、いけねぇなぁ」
 笑みを浮かべながらも、その瞳を鋭くし、錨が言玉を持った右手を、倒れたままのイクラへと向ける。
「“いどめ”!」
「う、うあああああ!」
 四方から押し寄せる波に呑まれ、イクラがさらに傷だらけとなって倒れ込む。
「ハァ…ハァ…」
 苦しげに息を乱すイクラ。血を流しすぎたためか、見上げる空の景色は、すでに霞み始めていた。少しでも気を抜けば、あっさりと意識を失ってしまいそうである。
「どうだぁ?これでちったぁ、わかったか?俺とお前の力の差が」
 遠ざかろうとしている意識の中、錨の嘲笑うような声が、イクラの耳へと届く。
「ただの無力な人間と、“神”との差だぁ。どっちが本当の“神”か、これで十分にわかっただろぉ?」
 錨が得意げに胸を張り、さらに言葉を続ける。
「“やせ”っと」
 錨が自分へと言葉を向けると、錨の負っていた傷がきれいに塞がる。だが、錨の傷が塞がっても、同じように負ったイクラの傷が塞がることはなかった。
「イヒヒ、どうだぁ?そっちは苦しいままかぁ?」
 大きく口元を緩め、楽しそうに問う錨。
「神に逆らうから、痛い目に遭うんだよぉ」
「……っ」
 錨のその言葉に、空を見上げていたイクラの表情が、かすかに動く。
「無力な人間共はただ、“神”の言う通りにしてりゃあ、いいんだよぉ」
「神の、言う通り…?」
「ああ?」
 聞き返してくるその声に、饒舌に言葉を続けていた錨が、少し戸惑うように首を傾げる。
「ああ。大人しく言うこと聞いてりゃあ、全知全能の神様が、愚かな人間共にも救いってのをくれんのさぁ」
「……救い…」
 まっすぐに空を見上げながら、イクラがまたしても、錨の言葉を繰り返す。

―――祈りを捧げれば、神様が私たちに“救い”を下さるからよ―――
 それが、優しかった先生の教え。
―――イクラくんも神様に祈ってくれる?私が幸せになれますようにって―――
 だから祈った。その言葉の通りに、毎日、必死に。

「だからお前らは、神に逆らおうだなんて思わずにだなぁ」
「そうだ…」
「あ?」
 言葉を遮るその声に、錨が再び眉をひそめる。
「な…!?」
 次の瞬間、錨が大きく目を見開く。その見開かれた瞳は、前方でゆっくりと立ち上がる、全身傷だらけのイクラの姿を捉えていた。
「馬鹿なっ…あの傷で…」
 もう何度も錨の攻撃を受けたイクラは、立ち上がることは愚か、指一本動かす力さえ、もう残っていないはずである。それだというのに、堂々と立ち上がるイクラのその姿に、錨は思わず目を見張った。
「天罰を下す為じゃない…全知全能になる為じゃない…」
 立ち上がらせた両足の膝を伸ばし、背筋を伸ばして、イクラが姿勢をまっすぐにする。
「俺はただ、あの日の神に…」

―――なんで、先生を“幸せ”にしてくれなかったんだよぉ…!!―――
 届くことのなかった、毎日の祈り。降り注ぐことのなかった、ただ一つの救い。

「ただ、俺自身の神に、逆らう為に…」
 イクラが傷だらけの右手で、血が流れ落ちる中、それでも力強く、言玉を握り締める。
「逆らう為だけに、神になった…!」
 力強いその言葉に呼応するように、イクラの手の中の言玉が、一気に強い青色の光を発する。
「ク…!」
 あまりに眩しいその光に、思わず目を細める錨。
「今更、その傷で何を…!」
 しかめた表情を見せ、錨が光に包まれたイクラを、睨みつけるように見る。
「性懲りもなく、まだ神に逆らう気かよ!?ああん!?」
「ああ…」
 強気に問いかける錨に対し、イクラは迷うことなく頷いた。
「神に逆らい続けることだけが…」
 額からまだ、赤い血の流れ落ちる中、イクラがゆっくりと顔を上げる。その表情は落ち着き払っており、だが瞳だけは熱く、強く輝いていた。
「俺が“神”である理由だ」
 堂々と言い放ったイクラが、傷だらけの右手を振り上げ、言玉を持った右手を錨へと突き出す。
「神に逆らうことが、神である理由だぁ…?」
 大きく表情をしかめながら、錨がゆっくりとイクラの言葉を繰り返す。
「訳のわからねぇことばっか、言ってんじゃねぇよ!」
 鋭く右手を掲げる、錨。
「“因果いんが応報おうほう”!」
 錨がもう一度、その特別な言葉を落とすと、周囲に噴き上げていた水柱が、さらに勢いを増した。逆流する滝のように激しく噴き上げる水を、イクラが少し見回す。
「逆らえるもんなら、逆らってみろよ!この空間の中で!」
 挑戦的に、錨が言葉を投げかける。
「俺を傷つければ、お前も傷を負う!けど、俺はお前を傷つけ放題!そんな、全知全能のこの中でなぁ!」
「…………」
 決して逆らえるはずがないと、自信を覗かせた様子で強気に言い放つ錨を、イクラは冷静な表情でまっすぐに見つめた。
「この空間を破ればいいだけの話だ…」
「ハ!破るだぁ?フザけたこと、言ってんじゃねぇよ!」
 イクラの言葉を、錨がすぐさま笑い飛ばす。
「こいつは“神格”の言葉で創った、特別製!たかだかお前ごときの、ちゃっちい言葉じゃなぁ…!」
「その“神格”というものが、貴様だけに与えられた力だと、本当に思っているのか…?」
「何?」
 遮るイクラの言葉に、錨が途端に眉をひそめる。
「当ったり前だろ!?これは、阿修羅が、俺たち堕神だけに与えた、特別な…!」
「特別かどうかは知らないが、たかが文字を四つ、並べる程度なら…」
 イクラがまたしても、錨の言葉を遮る。
「俺にも言える」
「何…!?」
「い…」
 言玉を構えたイクラが、ゆっくりと自身の文字を口にする。
「“一碧いっぺき万頃ばんけい”…!」
 イクラが四つの文字を声にして、落とした途端、イクラの後方から、“祈れ”の言葉の時よりも遥かに巨大な、女性の水像が形成されていく。水像の頭は、天にまで届きそうなほどで、水像がゆっくりと両手を広げていくと、水がまるで海のように、辺り一面を包み込んだ。
「な…!?」
 地上で広がっていく海に、錨が噴き上がらせていた幾つかの水柱など、赤子の手を捻るよりも簡単に、あっさりと呑み込まれていく。その光景を見つめ、大きく目を見開く錨。
「そ、そんな…馬鹿な…!」
 少し震えた声をあげ、錨がまだ、信じきれないといった表情を見せる。
「俺の、俺の“神格”が…」
 今はもう見る影もない、自分の力を探すように視線を動かし、錨が泣き出しそうな顔となる。
「俺たちに、俺にだけ、与えられた力…俺だけの特別な力、なのに…!」
「“俺だけに”…?」
 戸惑いをそのまま声にする錨のその言葉を、イクラがゆっくりと繰り返す。
「フザけたことを言う…」
 どこか呆れるように、深々と肩を落とすイクラ。
「この程度の力、二十数年も前から使っている神を、俺は知っている」
「え…?」
 イクラの言葉に、錨がさらに驚きの表情を見せる。
「そ、そんな…そんなはずはねぇ!俺は“神”で、神の中でも特別な“神”で、全知全能で…!だから…!」
「“神”など、特別なものではない」
 錨の必死の言葉を、イクラがあっさりと否定する。
「そう思うのであれば、それは貴様のおごりだ」
 イクラの鋭い瞳が、錨へと突き刺さる。
「神を驕る者に、神を名乗る資格はない」
 再び、イクラが言玉を持つ手を振り上げると、その動きに反応するように、イクラの後方の水像が、広げた両手をゆっくりと掲げていく。
「“いだけ”」
 イクラが静かに言葉を発すると、水像が広げた両手で、錨の両側から、まさに言葉の通り、錨の体を抱きしめるように、包みこんでいく。
「う…!」
 自身を覆っていく巨大な水像に、視界を一面奪っていく、どこまでも続く碧に、錨は大きく目を見開き、恐怖に顔を歪ませる。
「うわああああああ…!!」
 町ごと呑み込んでしまいそうなほどの、巨大な海に包まれ、激しい叫び声と共に、錨が水の中へと、その姿を消していく。
「“以の神”は、俺だ…」
 荒れる海を見つめ、イクラがそっと呟いた。



「おっしゃあ!」
 突き上げていた噴水を掻き消し、こちらにまで響き渡る水音を立てて、攻め込んだ巨大な水像の様子を見て、礼獣との戦闘を続けていた金八が、思わずガッツポーズを作る。
「やったぜ、シャコぉ!神が勝ったぁ!」
「当たり前、朝飯前、雨男…」
 喜ぶ金八とは正反対に、落ち着き払った様子で呟きを落としているシャコ。だが、隠していてもその表情には、安堵の様子がうかがえた。
「さすさすさすがぁ、我が神ねぇ!」
「こっちも張り切って、頑張っちゃおうよぉ、ニギリちゃん!」
「もちもち勿論よぉ!」
 イクラの勝利にテンションを上げたチラシとニギリは、さらに気合いを入れ、ポーズを決めながら、再び礼獣のもとへと駆け出していく。
「為介さん、南西の光が」
「んん~?」
 雅の指差した方向を、ゆっくりと振り向く為介。天まで突き上げていた、言ノ葉町、南西部にある青い光が、急に勢いを失い、徐々に地上へと落ちて、やがて消えていく。
「イクラが堕神を倒したことで、五母ごぼの光が一つ、消えたな」
「ええぇ」
 横から分析するように言う恵の言葉に、為介がそっと頷く。
「それにしても、“四字熟語ラスト・イディオム”とはな」
 今はもう見えない、巨大な水像のあった方角を見つめ、恵がどこか感心するように呟く。
「数ある五十音士の言葉の中でも、最高位の言葉。神の中でも、選ばれし神しか使えない言葉だが…」
 恵がゆっくりと視線を動かし、為介を見つめる。
「お前が、イクラに教えたのか?為介」
「まっさかぁ~まるで教えてませんよぉ。一回か二回、見せただけで」
 為介が扇子を振りながら、軽い笑みを零す。
「一回か二回、見せただけで使えるようになっちゃうとは…今度から、下手に言葉は見せられないなぁ」
 困ったように頭を掻きながらも、為介はどこか、嬉しそうな笑みを浮かべていた。慕い、慕われる関係ではないとはいえ、教え子の勝利に、多少喜んでいる様子である。
「さて」
 恵が表情を鋭くし、まだ突き上げている光を見回す。
「後四つか…」
 青光を失っても、まだ赤々と輝いている上空で集約した光を見つめ、恵はそっと眉をひそめた。



「ハァ…!ハァ…!ハァ…!」
 一方、言ノ葉町東部で突き上げる、真っ赤な光の柱を目指すアヒル。
「えっと」
 まっすぐの道を突っ切り、曲がり角へと差し掛かると、ひたすら動かしていた足を止め、空を見上げて、光の方角を確認する。
「あっちだから、こっちか!」
 光の位置を確認し、右の道を選んで、アヒルがまた駆け出していく。
「…………」
 アヒルの駆け去っていった曲がり角の、柱の陰からゆっくりと姿を見せたのは、神妙な表情を見せた棗であった。
「……っ」
 まだかすかに見えるアヒルの背中を見つめ、棗はそっと、目を細めた。


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