いつだったか、うちの学校に来たネイティブの英語教師が授業中に『日本人は失敗すると笑う癖があるみたいだ』と不思議がっていた。彼の分析によるとそれはどうやら自嘲に近いもので、失敗した自分を客観的に見られる国民性からきているのだという。
それを聞いたときに俺は今一つピンとこなかったのだが、今日になってやっとその心理が理解できた。自分はアメリカ人的ではなかったようだ。
俺の目の前を自分が乗るべき電車が走っていって、俺の口からはどうしようもなくかすれた笑いがこぼれてきた。
俺は飯井頼。昨日二十歳になった極々ノーマルな大学生だ。
俺の名前、全体の八十パーセントが『い』でできているややこしい名前だが、これは恐らく俺の名付け親であるじーちゃん(飯井入、イイイ イル)の腹癒せか何かだろう。冗談だと思うかもしれないが、そのくらいお茶目なじーちゃんなのだ。
で、今日はそのじーちゃんの家、ばーちゃんはとーちゃんが生まれる前に死んでしまっているのでじーちゃん一人で住んでいるそこに、お盆休みを利用して遊びにきていたのだ。
家にいるのはじーちゃん一人とは言ってもそこは田舎町、隣り(徒歩三十秒)の家に誕生日を迎えんとする孫が一人でやって来たとなればやれ山菜の天麩羅を、やれいつだかも知れない昔話を引っ提げて『飯井さん』『いーさん』と人が祝いに来てくれた。
俺はその、最高気温など気にもならないようなのどかできらびやかな空気の中で、食い物と話し相手とおいしい空気にはこれっぽっちも困らない誕生日を過ごしたのだ。
ちなみに俺はそこでじーちゃんに、毎年恒例の質問を投げ掛けた。てゆーかこの名前何だよ付けたのじーちゃんだろ、と。するとじーちゃんは
「ばーかやろう俺とおんなじ目に遭わしてやったんだ、っつってんだろうが」
と、冗談めかして笑った。
で、今日はその帰り。でかい西瓜二つ、椎茸の佃煮のたっぷり入ったタッパー一つ、トウモロコシ数本などなどの入ったビニール袋計四つを引っ提げ、この小汚い無人駅に来たところだ。
走り去った電車の前では、荷物が重くなり、気温が高くなる。次の電車が来るまではあと一時間もあるし、そんなに経てばこの大荷物で帰宅ラッシュに巻き込まれてしまう。
でも不思議と『俺はもう一時間ここにいられる』のだと解釈するだけで、『電車に乗り損ねた』程度の失敗など、失敗のうちに入らないような気分になり、じっとりとかいた汗すら心地よいものになるのだ。もう一時間だけ、都会の喧騒から離れていられる、と。
この駅舎の空気はとてもきらびやかで、光はとても澄み切っている。空は昼間と夕方の間をうつろうような色で、ベンチの背の色褪せたコカコーラの広告を照らす。俺はそのベンチに座り、そこに浴びせられていた空気を受けて目を閉じる。あと一時間、昼寝も乙だ。
寒気がした。
それは背筋を下から上に撫でてから、俺の左腕を冷やした。夢現をから俺を引きずり出すそれは、俺に
「頼ちゃん」
と話しかけた。
俺がそれに答えるように目を覚ますと、俺の左隣りには女が座っていた。歳は俺と同じ十代後半から二十代前半、長めの癖っ毛を後ろで一つにまとめた女だ。
いや、女、というと語弊があるかも知れない。なぜなら彼女には両足がなかったし、なによりも寝ぼけ眼の僕が彼女の目を見ると、その奥にうっすらと向こうの公衆電話が透けて見えるのだから。
彼女があまりにも自然にそこに座っていたせいか、俺は別段恐怖も何も感じなかった。あまつさえ
(そういえばお盆だったな)
だとか
(うわー本物初めて見た)
(ていうか頼ちゃんって何? 俺とはどんな関係?)
などと呑気極まることを考えてさえいた。
「あ、起きた?」
彼女が俺にほほ笑む。
「あ、どーもこんちは」
俺が会釈すると、Tシャツのバックプリントがびりと男を立ててベンチからはがれた。
「そんなに堅苦しくしないで、頼ちゃん」
「いや、ていうか、どちらさんです? 何で俺の名前知ってるんですか?」
すると彼女は何かを考えるように人差し指を唇に当ててから
「まあそんなことどうでもいいじゃない。『頼』って名前、かっこいいし」
と少しずれた答えを返すのだ。
「いや……そもそも名前かっこよくないですし。名前だけならともかく、苗字が『飯井』ですよ? イイイライですよイイイライ」
突っ込むべきはそこじゃないと分かっていても、名前の話には過剰に反応してしまう。幽霊と話をしている実感は、全くない。
彼女が笑った。
俯きがちに乾いた息を吐いて
「やっぱ変かなあ、ごめんね」
と。
その姿はあまりにも美しくて、俺は文字通り息を飲んだ。
「え、あの……」
彼女の『触れてはならない部分』に触れてしまった気がして、俺は口ごもった。理由なんて考える暇もなかった。
「ううん、気にしないで。何か楽しい話、しましょ」
彼女は首を振り、そして俺は何故か罪悪感を覚えた。
それから彼女はまるで、まるで知己の友人であるかのように俺に接した。学校は楽しいか、最近何か面白いことあったか、などなど。
その自然さは『好きな娘出来た?』と聞かれたときについつい名前をばらしてしまいそうになった程で、時折ずれた答えを返されるのと最近のくだけた言葉がわからないこと以外は、友人と話すのと何ら変わりはなかった。
「電車来たよ」
彼女が右を指差す。透き通った指がオレンジ味を増した空気を受けてきらきらとする。
「あ、ありがと」
見ると、いかにも田舎然とした青い電車が、あと数十メートルのところまで来ている。
「じゃ、また来年ね」
「おう、またお盆に」
大袈裟な音をたてて、二両編成のそれがホームに着く。
「またここに来ればいい?」
「ううん、頼ちゃんのいるとこに行くから」
彼女が手を後ろに組む。
俺が手を振り、後ろに歩いて電車に乗り込むと、足下が少し沈んだ。
「あぁ、そうだ! ねえ」
そうだ、俺は大事なことを忘れていた。
「何?」
「あのさ、名前! 何ていうの?」
「名前?」
彼女はまた人差し指を唇に当てて考える。
「早く、ドア閉まっちゃうからさ」
言っている側からドアが閉まりだす。厚い板が俺の目の前わ通り過ぎ、窓が現れた辺りで彼女は
「ジュンっていうの!」
と声を挙げ、その瞬間ドアが完全に閉まった。
巡、俺には聞き覚えがあった。俺のばーちゃんの名前だ。
そういえば、じーちゃんは去年あの、名前についての質問をしたときに
「お前のばーちゃんがよぉ、そうしろっつったんだよ」
と言っていた気がする。俺はそのとき、それをじーちゃんお得意の冗談の一つだと思っていた。でもそれは、実は本当のことだったんじゃないか。丁度俺の生まれた日にやってきたばーちゃんが、じーちゃんの前に現れたのではないか。俺は携帯電話を取り出して開いてから、またしまった。あんまり聞いてやったら、じーちゃんが照れてしまう。
遠くの家々がゆったりと流れて、木々や電柱が目の前を駆けてゆく。重い荷物を隣りに置いて、どかっとシートに座ると、唐突にあることに気付いた。
――そういえば、ばーちゃんに誕生日祝ってもらってないな――
これは来年の話のネタにしよう。俺は少しだけ笑い声を漏らして目を閉じた。 |