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クライマーズ

作者:加藤さとし
 どうやら道に迷ってしまったようだった。
 鬱蒼と生い茂る樹木の間をガイドを先頭にひたすら歩く。
 本来なら二時間ほどで目的地の山小屋に到着するはずなのに、いっこうにそのような建物は姿を現してはくれず、かれこれ五時間近くは歩き続けていた。
 考えたくもないが、頭の片隅に遭難と言う文字が浮かび上がって踊りだす。
 私は、なれない登山シューズのためか踵を靴擦れさせてしまい、歩を進めるたびに痛さに襲われていた。
 木々の合い間から洩れる日の光も見れなくなって、まもなく夕闇が近づいてきてくれる事を察知させてくれるのにはそれほど時間はかからないであろう。そんな中でも。私以外のパーティーメンバーはガイドに文句一つも言わずに黙々と汗すらかかずに歩を進めているのであった。
 疲労困憊の体を引きずるように歩く中、どうしてこのようないきさつになったのか、私は思い巡らした。

 ちょうど、半年ぐらい前に入会した登山クラブ。
 それまでの私は、山登りなどに、全く興味がなかったのだが、偶然のきっかけによって入ることになったのである。いや、何か見えない力による必然だったのかもしれない。
 実は、入会するまでの私の心は荒んでいた。
 結婚を考えていた彼女との関係を相手の両親に反対され自暴自棄に陥っていたと言っていいだろう。反対されていると彼女から聞かされてから、それまで順風満帆だった人生の歯車が大きく狂い出したのだ。彼女とは逢う度に喧嘩するようになり、気がつけば暴力を振るってしまった事もある。そういった事から、彼女の心も次第に私のもとから離れていき始めた。それは、毎日のように逢っていた回数が減ったことや、他人にとてもじゃないが見せられないメールが無くなり、代わりに悲観めいたメールが届くようになったことから窺い知れるものだった。内容から二人の関係が終わりに近づいていることを知るには充分すぎるものである。
 その寂しさを紛らわすかのように、毎晩浴びるように酒にも浸ってしまったのだ。それまで、彼女との新生活にと貯めていた物にも、ギャンブルという形で手を出すようになり、瞬く間に、彼女の私に対する気持ちと同じように、儚く消えてなくなってしまった。気がつくと会社の方に信販系の取立て屋から、嫌がらせの電話が頻繁にかかってくるようになり、上司や同僚から白い目で陰口を叩かれる始末であった。ほどなくして、そのような環境に辟易としたので、会社は辞めてしまうことにした。それと彼女との愛の巣であった住み慣れたワンルームマンションも、取立て屋がしょっちゅう訪ねてくるので、住みずらくなり、会社を辞めた時にもらった年収ほどの退職金だけを持ち出して退去することにした。本当のところは、彼女のことを早く忘れてしまいたいという思いがあったことがマンションを立ち退いた最大の理由だったのだと思う。
 傷ついた心を癒すためにも、彼女から忘れた頃に来るメールを見ないようにし、以前住んでいた所よりも遥かに東の位置に構えた新しい居も彼女には知らせなかった。新しい住まいは、金目のものしか持ち出さなかった事もあったので、家具家電付きのタイプにして、週単位で家賃が払えるものにした。新居は以前住んでいたところよりも間取りは狭いものの、独り身の私にとっては困るほどの狭さではなく、案外快適なものであった。住み始めた当初は、早く仕事を見つけて、ここで一から人生をやり直そうと考えたものだった。しかし、現実はそれほど甘くはなく、部屋に備えついてるネットで求人を探してもことごとく採用は断られてしまった。そんな事が何度も繰り返されてるうちに、前向きだった心も徐々に悪い方に傾いていき、こちらに越してきてから断っていたアルコールに朝から手をだすことになってしまっていた。
 酒が入ると、つい彼女との思い出が頭によぎってしまう。少しでもいいから声が聞きたくなって携帯に幾度か手を伸ばしてしまいそうになってしまうのだ。また、彼女から送られてきた未読のメールにも目を通したくなってしまう。しかし、メールを見たり、電話をかけたところで結果は分かっていて、惨めな自分を見せてしまうのも億劫なので自重せざるしかないのだった。
 それでも、酒を飲んでる時は、まだ寂しさからは逃避することが出来た。でも、酔いが醒めると……。
 言いようもない寂しさ、虚しさ、焦燥感が襲ってきてしまう。それを消す為にまた酒を飲む。全く悪循環であった。自分でも、こんなことをしていたらダメになる。もうダメになってしまっているかも知れないが、これ以上は苦しみたくないともがくのだが、どんどんとポジティブな気持ちは影を落とし、寂しさからネガティブな思考に包みこまれていくのである。
 このままでは……。と思った私は、近くのクリニックに救いを求めに行った。しかし、そこでも魂の救済にはならなかった。ただ、睡眠を激しく伴う薬を貰えただけで、何の解決にも至らなかったのだ。それよりも前にも増して、薬が切れた時の孤独感は激しくなるばかりであった。
 そんな状況だったので、いつしかネットの検索は仕事のワードから、死や自殺といったものに変化するにはそれほど時間がかからずに移行していったのである。
 検索されたワードからは、おおよそ常人なら関りたくない欝の世界が広がっていた。いや、すぐに暗黒のゾーンに行けたわけではない。問題のあるワードだけを検索しても、最近のネット事情から自身の求めてる情報には、すぐに飛べなく規制されていた。しかし、関連ワードなどを辿っていくと、そこには硫化水素や練炭などの物騒だが欲する情報が目に飛び込んでくる。さらに、リンクなどで奥に進んでいくと興味本位で足を踏み入れてはならない闇サイトがぽっかりと口を開けて出迎えてくれるのだった。
 そのサイトに足をどっぷりと入れた私は、そこで求める情報を頭に詰め込んでいく。ここは闇、決して日の光が当たることがない死に対する情報を見ているうちに、感覚が麻痺してくる。それは、まるで、自ら命を絶つという罪悪感を吹き飛ばすように理路整然と書かれていて、自殺というものを賛美しているかのように錯覚させてくれるものばかりであった。
 そして、私は取り憑かれたように読み漁り、死に対する恐怖感を取る事に専念するのに努めるのであった。 常人にはおよそ理解し難い内容のものばかりだが、何故だか闇サイトにいると心は安堵することが出来た。 そういったワケで、私は闇サイトに触れた日を境に、ここの住人に成り下がってしまうことになる。それは暇さえあれば、この場所に立ち寄り、危険な情報を目にして心に安らぎを求めようとするのだった。すっかり、闇サイトの虜になった私にとって、あとは自殺を決行する日時を決めるまでになったある日の事である。
 死を躊躇させる出来事が起こったのであった。
 それは、暗黒の世界に一筋の光を見たような気分にさせるものである。つまり、救いになるものを闇サイト内で発見したのだった。
 救いになるものは、集団自殺サイトのリンク内に埋まっていた。
 そのサイトのトップには「死にたいと思う前に一度チャレンジして見ませんか? きっと……」となにやら、病んだ私をひきつけるような明るいフォントで書かれていて意味深な文言が興味をそそらせる。トップ画像には美しい北アルプスの雪化粧を纏った雄姿が映しだされていて、およそ、闇サイトのリンク先には似つかわしくないものであるように思えた。さらに画面を下にスライドさせると、クリックと字が点滅している。私は躊躇なくマウスをそこに合わせて押してしまっていた。
 押したバナーの先には“友愛登山愛好会”という名のホームページが広がっていたのだった。
 会の発足者のあいさつが載っていて、私は目を通した。
「ようこそ、当サイトへ。まず、最初に自殺に関するサイトからこちらのサイトの来られた方は驚かれたことでしょう。およそ、死にたいと思ってる方にとっては、当サイトは場違いに思えるかもしれません。それと誤解のないように言いますが、こちらは自殺したい方を躊躇させるような趣旨で発足されたものではありませんのでご理解のほど宜しくお願いいたします。当サイトは死にたいと思ってる――同じような境遇なお仲間がたくさん参加されています。参加されたことによって考えを改められた方もたくさん――是非、一度トップ画にある北アルプスの峰を目指してクライマーズ・ハイを体験してみないですか? 体験されると、きっと考えが改めることになることうけ合いですよ。それと、いきなり北アルプス登山ってことはないのでご安心くださいませ。まずは簡単な山から初めてみましょう。入会された方にはベテランガイドが懇切丁寧にご指導いたします。最後にこれはラストチャンス的な救いのサイトではございません。これを読んで興味がわかなかった方は立ち去って本懐を遂げることをお勧めします。尚、興味がある方は下記のフォームから入会手続きを行ってください。 運営者 峰岸」
 あいさつを読み終わった後の私の意志は固まっていた。
 私は、この登山会が気にいってしまった。峰岸なる人物の恐らく慈善事業なのだろうが、おしつけがましくないところに共感を覚えてしまったのだ。また、クライマーズ・ハイなるものにも興味がわいてしまう。最後の「本懐を勧める」など、不謹慎ながら笑いがこみ上げてしまうほどであった。
 だから、私はすぐに入会フォームに指定された項目をキーボードで打ちんでいた。ほどなくして返信のメールが送られてきて“友愛登山愛好会”の入会が許可されたのだった。

 辺りは、登山を開始した時に比べて、すっかりうす暗くなってしまっていた。
 第一目的地である山小屋は相変わらずに姿を見せてくれず、さきほどから登ったり降りたりを繰り返すのみで同じ道を何度も行き来しているような気分にさせてくれる。それでも、ガイドを先頭に、私を含めた四名のパーティーは黙々と歩き続けるしかなかった。完全に日がおちてしまうと身動きがとれなくなってしまうからである。
 それは夏登山ということなので、皆は軽装で参加している為だからだ。無論、キャンプをはれるようなテントなども用意はされていないので、是が非でも日が完全に暮れるまでに山小屋に到着しないといけないのだ。
 本当なら、こういった時こそ、皆で励ましあったりして歩を進めないといけないのだろうが、残念ながらガイド以外は、登山会の性格上といったらいいのか口は重く談笑できるような雰囲気など微塵もなかった。それは自殺サイトのリンク先で知り合った者同士なので、今日初めて顔を合わした者ばかりだったからである。 だから、名前すら知らないのである。分かっているのは外見から見て取れる性別のみであった。ガイドを先頭に男、男、女、私の順で歩いているのである。せっかくの登山なのだから自ずから参加者に声をかけたらいいのにと思われるかも知れないが、会の規約によって参加者同士の会話は極力避けるようにと注意をされていた。なんでも、その理由はプライベートな話などをするとパニック的症状が出る参加者もいるらしいとのことである。過去の登山では、そのことによってパニックを起こした参加者が興奮してしまい、山道で突然走り出し崖から滑落して死亡したという悲惨な事故もあったそうだ。故に会の性格上といったのはこういった観点からなのである。
 しかし、私はこのような状況下で、メンバーが無言で歩く姿にイライラが募りだしてきた。ガイドもガイドである。何か説明があってもいいじゃないか、しかも、いくら早く山小屋に到着しないといけないとしても、少しの休憩ぐらいとってもいいものである。踵の靴擦れも歩くたびに激痛が走る。私はガイドに休憩の要求と文句を言ってやろうと我慢していた重い口を開けようとした時であった。
 どこからともなく、鈴を鳴らすような音が鼓膜に響いたのだった。最初は疲れているので耳鳴りかなのかではないかと思ったのだが、チャリンと鈴を鳴らしたような音は、少しずつ大きく聞こえてくるのである。チャリン、チャリンとはっきりと耳に響くようになってから、ガイドは歩くのをようやく止めその場に立ちすくんだ。皆はその場で音のする方向を探る。立ち止まったおかげで、音のする方向は前方で二手に分かれてるけもの道から聞こえてくるようであった。チャリン、チャリンと音は私達のもとに音色を大きくして近づいてくる。私達は音のする方向のけもの道を黙って注視した。すると、薄暗い中にうっすらと人影が見え始める。私は、その人影を見た瞬間に助かったと思ったのだ。なぜなら、このような場所で出会える人といったら、他の登山者に違いないからだ。うまくいけば山小屋の場所を知っていて教えてくれるかもしれない。前にいる女性も同じ気持ちなのか、うんうんと首を上下にこくりと頷いている姿が目にはいった。
 徐々にうっすらだった人影は鈴の音のようなものと一緒に大きくなり、数十秒後にははっきりとした輪郭となって姿を現した。そして、私ははっきりと現われた鈴の音を発する者達のいでたちを見て、驚きの声を挙げてしまったのだった。それは、現われた者達が、とてもお仲間であるところの登山者の格好をしていなかったからだ。現われた者達は、女性を先頭にしてその一歩両脇に男性を従えていた。そして女性は神事に使うような白装束を身に纏っている。化粧でもしているのか、その服装に合わせるかのように、顔は血の気のない青白い顔をしている。いや、どちらかというと白いといった方がいいだろう。まるで死人のようで、棺おけから出てきたかのような感じがする。ただ、口には真っ赤な口紅を塗っているために白い顔によく映えて見えた。手には錫杖のようなものを持ち、杖の頭部についてる環には無数の白い布とともに、いくつもの鈴がついていた。
 女性は時折、「ハァァヒィィ」と奇妙な甲高い声を発して御祓いをするかのように杖を斜め前方に振りかざしながら、こちらに近づいてくるのである。どうやら、チャリン、チャリンといった音はこの杖を振りかざす時に発する事がその時分かった次第である。その奇妙ないでたちをした女性同様に、従者のように脇を固める男性二人も異様である。男達は恰幅のいい体型をしていて大男だった。服装は山伏のような格好をしていて、顔には鬼のような形相をした面をかぶっているのだ。どう考えても、登山道にはこのようないでたちをした男女は不釣合いでしかない。見たときは男達のいでたちから修行僧の類じゃないかとも思ったが顔を隠しているのが不自然極まりないのだ。正直言って、この者達の異様さを見て、私はこの場から逃げ出したくなってしまう。それほど、奇妙で薄気味の悪い連中に見えるのだった。そんな、私の思いとは裏腹に連中は見る見ると私達の元に近づいていき、ついにはガイドの正面まで来てしまった。
「あの、こんにちわ」
 ガイドは精一杯の作り笑いをして、呪術師のような女に声をかけた。
 しかし、連中はガイドのあいさつなど、まるで無視して、私のところに歩みよってくる。なんだか、とても嫌な予感がする瞬間であった。そして、予感は的中したのだった。
 連中は、私の前にいる女性の前で立ち止まると、また奇妙な声を挙げて、女性に向って杖を振りかざし出したのだ。私は思わず、呪術師のような女に向って「何をするのですか、止めてくださいよ」と声を出していた。でも、女は私の言ったことなど、さきほどのガイドの時のように無視をした。
 それでも、この無礼極まりない連中の行動に私は、軽い怒りを覚え「やめろと言ってるだろう。失礼じゃないか!」と声を荒げていた。
 すると、女は私に向って眉を吊り上げ、睨んできたのだった。
「なんだよ、やめろと言ってるだけだろ。それに、そんな事をしたら、女性の人がかわいそうだろ!」
 私は、女に睨まれて少々怯んだが引くことが出来ない状況なので、声を振り絞ってそう言った。
 女は、それに対して、私の顔をまじまじと見つめると、今度はニヤっと笑みを浮かべたのだった。その女の笑った口元からこぼれる歯を見て、私は慄いてしまったのだ。なんと女の歯は真っ黒に塗り込んであり白い顔とのコントラストから不気味そのものであったからだ。そのお歯黒を見た瞬間に私の体は固まってしまった。それは、まるで金縛りにあったかのようで、立ったまま身動きがとれないものである。
 お歯黒をした女は、私の顔をまじまじと見つめると、再度してやったりと、ほくそ笑みをしたのだった。そして手に持った錫杖を横に振って従者のような男達に合図を送った。男達は、その女の合図を見て、あろうことか前にいる女性の手を強引に引っ張り、連れていこうとしたのだ。
「キャァー、やめてください。何をするのですか。助けて……」
 女性は悲鳴をあげて、私達に助けを求めた。
 私は、女性の声を聞いて、何とかしてやらないと、とんでもないことになると思ったのだが、体がどうにも動かなく、声すらも発することが出来ない有り様である。
「キャァー誰かぁー」
 女性は激しく叫び、狂乱状態のような声をあげている。
 見かねた女性の一つ前を歩いていた男性が、面を被った男に掴みかかった。
 しかし、面を被った男は意図も簡単に男性を払いのけて、女性の手をぐいぐいと引っ張っていく。
 それでも、男性は再度、つかみかかって制ししようとしたのだが、今度はお歯黒をした女が白装束の脇から何やら白い粉のようなものを取り出し、男性の目に振りかけた。
 途端に男性は「ギャー」と絶叫を上げ、目を押さえながらその場でのたうち回る。
 私は、連れ去られる女性を動けない体のまま目で追った。
 女性は連中が現われたけもの道の方に引きずられて連れていかれている。
 女性の動向を目で追いつつ、こんな時に頼りにならないといけないガイドに目をやった。しかし、ガイドは小刻みに体を震わせて、全く役に立たないように見てとれた。

 完全に女性の姿がけもの道に消え、あの鈴の音が聞こえなくなってから、私の体は自由を取り戻した。勇敢に挑んだ挙句に得体の知れない粉を目にかけられた男性の下に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
 男性はさきほどまでの様に、のたうち回ることはなかったが、必死に両手で目を押さえている。
 ガイドの方もようやくにして男性の所にやってきた。
「あんたね、ガイドなんでしょ。何でぼっと突っ立て見てるだけなんだよ!」
 私は開口一番にガイドに文句を言っていた。ずっと休憩なしで歩き続けさせられ、このような突拍子のない出来事が起こったのに、何の役にもたたないガイドに腹が立つのは至極当然のことである。
「いやぁ、僕こういうの苦手でして……。申し訳ございません」
 全く持ってして、無責任極まりない言い草に胸ぐらでも掴んでやろうかとも思ったが、今はそんなことをしてる時間は無かった。女性が一人何者かに連れ去られ、メンバーの男性も目に怪我を負ってるので、ガイドごときの不甲斐なさを責めても仕方がないのだ。
「ところで、やつらは一体何者なんでしょ?」
 目を押さえながら、男性が聞いてきた。
「大丈夫なんですか?」
 男性の質問の返事より、私は男性の目の具合を心配して聞いていた。いずれにしろ、男性の質問に対する答えなど誰も知りようがないことは分かりきっている。
「さぁ、この水で目を洗うといいですよ」
 ガイドはリュックから水筒を取り出すと、男性にそう勧めた。ようやくガイドらしい一面を見れた気がした。男性はガイドから水筒の水を垂らしてもらい両手で顔を洗うように目を洗った。
「少し、痛さはありますけど、だいぶマシになりました。ありがとうございます」
 そう言って男性は顔を上げたが、目は痛々しく腫れて瞳は真っ赤に充血していた。

「で……これからどうします?」
 私は、二人に聞いてみた。
「どうするってもねぇ、うーん? ――とりあえず、このまま下山して警察に通報するか、それとも連れ去られた女性を追っていくしかないですよね」
 ガイドは他人事のような事をあっさり言ってのけた。
「下山するって言っても、ガイドさん、あなたは道に迷ってるでしょ! それと誰か携帯電話とか持ってないですか?」
 目を真っ赤にした男性が、私達に聞いてきた。
 私は携帯を持ってきてはいたが、誰からもかかってくる相手もいないために充電をしていなくてバッテリーが切れてしまい使い物にならなかった。そういうことなので、私は首を横に振るしかなかったのだ。
「ガイドさんはどうなのよ?」
「実は、道に迷ってしまった時から場所を確認しようと携帯で位置を確認してたのですが、電波が悪い地域みたいで役に立たないのですよ」
 やはり、このガイドは道に迷っていたのだった。
 携帯電話が通じれば、警察に連絡して助けを呼ぶことも出来るのだが、電波が届かないのならただの箱でしかない。
「山小屋に行けば、携帯は繋がるのですけど……」
 突然、ガイドが落ち込んで意気消沈していた私達に光の見えるような事を言ってきた。
「本当なのか」
「えぇ、以前に使ったことがあると聞いたことがありまして……」
「あんたは使ったことは無いのか?」
「あ、はい。こんな事態になったことがないものですから、使ったことはないです」
 全く、つくづく使えないガイドである。
「でも、あんたは道に迷ってるのだろ。山小屋まで到着できるのかよ」
 私は、頼りのないガイドが不安で思わず聞いてしまっていた。
「あ、はい。山小屋はもうちょっとで着くと思います。この辺、見覚えありますし……。それと、ちょうど山小屋のある方向は、女性が連れ去られた道の奥にあるのですよ」
「確かなのか?」
 男性と私は声が被ってガイドに聞いていた。
「えぇ、間違いないです。ちょうど、連中が来る前までは、そこのけもの道の中を進んでいこうと思っていましたから」
「でも、どう見たって道なき道といった感じじゃないか」
 私は、ガイドの自信満々の態度が逆に不安になったので、聞いてみた。
「入りしろは、おっしゃる通りの道中ですけど、五分も歩けば道が開けるのですよ。その後は道なりに山を登っていけば山小屋です」
 決まりであった。
 私達はガイドを先頭に再び歩き始めたのだった。

 けもの道に入ると、周りはすっかり闇に包まれていた。
 本当なら、このような状況で山道を歩くのは危険極まりないのだが、現状を考えてみると、そうも言ってられないのだ。日が落ちてから、樹木に覆われた道は急に気温が下がり、汗が乾いた体からは微熱を奪っていく。また、急激な外気温の変化の為か、足元の雑草の生い茂るけもの道からは白っぽい靄が立ち始め、森から聞こえてる、ふくろうの類とからすの鳴き声が重なって不気味な雰囲気をかもし出すには充分な環境であった。
「さぁ、そろそろ道が開けますよ」
 ガイドが口を開けて、まもなく、言った通りにけもの道が終わり視界が広がった。広がったといっても、暗闇の中なので視界は限られてしまうのだが、何にしても木々が体に触れて圧迫感があるけもの道に比べたら幾分も気持ち的にマシな感じがするのだった。
「ちょっと、ここから本格的に山を登ることになりますけど三十分ほど登りきれば山小屋ですので、頑張っていきましょう」
 ガイドが言ったように、開けてはいるものの、急に勾配のついた道を登ることになった。暗闇なので、私達は出来るだけ道の真ん中を歩くようにして登って行く。真ん中を歩くようにしたのは、視界が闇で見えない為、もしかしたら道の端が崖につながっていて足を踏み外して滑落する危険をなくすためである。だから、思った以上に歩みは遅いものになってしまっていた。ただでさえ、ここまで歩き続きで疲労困憊した体には堪えた。そんな中、私達は坂道をゆっくりと登っていく、苦しくて時間がとてつもなく長く感じてしまう瞬間である。もう膝も笑い出してきて、踵の靴擦れも痛さを通りこして、痺れたように麻痺を起こし始めていた。正直、山小屋もさらわれた女性のことなど、どうでもよくなると思えだした時、前を歩く、男の足が止まったのだった。
「降りてきたよ、降りてきた。うー気持ちいい……。エヘヘ、これがクライマーズ・ハイなのか!」
 男性は突然、私の方に踵を返すと、そう叫んでいた。
 男性の顔は、苦しさを緩和する脳内麻薬のためだろうか、完全に逝った表情を見せていた。口からは涎を垂らし、鼻の穴からは鼻血が出ている。
「もう、僕ちゃん、気持ちよくてさぁ。目なんかも全然痛くなくなっちゃたぁ」
 そう言うと、男性は負傷した右目を激しくこすり始めた。
「うぅ、気持ちいいよ」
 男性は激しく右目を擦る。手の摩擦に耐えられなくなった右目からは血が流れ始めだしていた。
「おい、どうしたんだ。やめとけよ!」
 私は、尋常じゃない男性に大声で喚いていた。
「心配するなって全然、平気なんだよ。それに、僕はこんなことも出来るんだよ」
 男性はあろうことか、擦っていた右目に中指を突っ込み出し、眼球をえぐり出し始めたのだった。
「やめろぉー」
 私は、目一杯の声を張り上げて、異常な行動をやめさせようとしたのだったが……。
 時すでに遅く、男性は自らの眼球を指で摘出し、まぶたにひっついてる糸をひいたような視神経を指で引きちぎっていた。
「ウヘェへェ、僕ちゃんって凄くない……」
 もう、この男性に何を言っても無駄であった。
 その時である。また、あの鈴の音が聞こえてきた。
 鳴っている場所は、私達が登ろうとしていた山道の上からであった。
 チャリン、チャリン、先ほどと同じように音はどんどんと大きくなり始める。
 突然、その音に向ってガイドは山道を駆け上りはじめた。
「クラマーズ・ハイ。ばんざーい」
 そう、喚きながらガイドは暗闇に消えていった。それから数秒後に石が転がるような音と共に「うわぁー」とガイドの激しい断末魔がしたのだった。
 チャリン、チャリン、ガイドの断末魔の声が木霊する中、鈴の音は益々大きく音色を奏でる。
 そして、山道の上から、錫杖を振りかざした女を先頭に従者達が脇を固めるように下りてくる姿が見えた。
「グヘへぇ、お前らなんか怖くないもんね。僕ちゃんは無敵なんだよ」
 右目がなくなった男性が半狂乱で叫んでいる。
 チャリン、チャリン、チャリン。
 耳を劈く鈴の音が最大限に聞こえた時、白装束を身に纏った、お歯黒の女は右目の無くなった男性の正面に立った。
「いいぞ、いいぞ、おねーちゃん。僕はお前なんか全然怖くないのだから……」
 お歯黒の女は、男性の言うことなど全く無視して錫杖を女性を連れ去った時のように振りかざした。
 待っていたかのように、従者の面を被った男達が男性の腕を取る。
「グヘへ、エヘヘ、僕をどこに連れていくのかな。いい事してくれちゃったりして」
 男性は、もはやダメである。
 それでも、私は、女に向って叫んでいた。
「やめろー、連れていくなぁ」と、そして、まだ動けたので、女に飛び掛ろうとしたのだが、女は余裕で私の行動を察知すると、思いっきり肩に錫杖を振り下ろしたのだ。肩に激痛が走り、意識がなぜだか朦朧とし始めた。その時に女は私の耳元でこう囁いたのだった。
「お前には用がないのだよ」
 用が無いとは一体どういうことなんだ! 私は、男性が連れ去れる様子を見ながら、徐々に目が塞がっていくのだった。

 気がつくと、視界の先には見知らぬ白い天井が広がっていた。
 私は、目をぱちぱちとしていると、突然、満面の笑みを浮かべた女性の顔が飛び出してきた。
「あぁ、よかった。意識が戻られましたよ先生」
 女性の言った言葉の断片から、どうやら、ここは病院のようである。
 すぐに白衣を着た医師が現われた。
「いや、一時はどうなることかと思いましたが――良かった、良かった。今、ご家族の方をお呼びしますね」
 ほどなくして、母親が肩を小刻みに揺すりながら涙を浮かべて私の前に立っていた。
「いったい……俺は?」
「あなた、何も覚えていないのね。あなたはね、自殺しようとしたのよ……。母さんに約束してちょうだい。もう、バカな事はしないって……」
 私は、母親が泣きながら言ってることの意味が分からなかった。
 そもそも自殺って? そんな事をした覚えがない。それに、あの女はどこに行ったのだ。
「母さん、何言ってるんだよ。俺は仲間たちと一緒に北アルプスに山登りに行って……」
「かわいそうに……あなたはね、恋人が亡くなったショックで心が病んでしまって……」
 そう切り出して、母親は言葉を選びながら全てを話してくれた。
 それによると、私は富士の樹海近くで、男女四名と共にワンボックスカーの中で練炭自殺を図ったのだそうだ。そして私だけが車内の外に出ていた為に助かったのだ。母親が警察から聞いた話によると、ぎりぎりのところで苦しくなった私がドアを開けて逃げ出したのじゃないかと言われたそうである。私が、救いと思っていた“友愛登山愛好会”なるクラブは悪質な業者であって、入会者を集っては自殺に導いていたそうだ。その際に生命保険などの受け取りを登山の保険ですと装わせて保険受け取りの名義を巧みに代表者の名義にすり替えていたのだそうである。代表者は、私が意識を失ってる間に逮捕されて、自供を始めてるとのことであった。正に、自殺者が多く出れば、代表者の懐が温まるシステムだったわけである。それと、私が心を乱すきっかけになった愛する彼女は、私から連絡がないことを悲観して、近くのマンションから飛び降り自殺をしてしまったそうだ。
 母親から、全ての真相を聞いた私は、まだ信じられない気持ちでいっぱいであった。
 しかし、あの山道で起こった出来事はいったい何っだったのだ。それに、あの不気味ないでたちをした女達はいったい……。夢にしては、あきらかに鮮明に残ってる記憶……。分かっているのは、いくら考えても答えなどでるはずもない。
 それと、あれほど、私との関係を断とうとしていた彼女が自殺するなんてにわかに信じられない。
 しかし、母親から、彼女が残した遺書を見たときに私が勝手に彼女の気持ちを誤解して事が判明してしまったのだった。遺書には、両親に反対されても、私と一緒になりたかった事や、何度もメールで連絡しても返事が来ずに、一緒に半同棲生活をしていたマンションを連絡もせずに立ち退いてしまって連絡が取れなくなったことが恨めしく書かれていた。私は、遺書を読んだ後、涙が止まらずに頬を落ちるのを感じた。そうして母親から、警察から返してもらったばかりの携帯電話を借りて、亡くなった彼女から送られてきたメールを確認してみた。そこには「あなたがいなくなって寂しい、寂しい。生きていても楽しくないので……。ごめんなさい」と最後に送られてきたメールにそう書かれていたのであった。
 私は、それを読んで、独りになりたかったので、母親にお願いして部屋から出てもらうことにしてもらった。そうして、誰もいなくなった部屋で枕に顔を押し付けながら嗚咽を漏らしながら激しく泣いたのだった。
 そして、泣きながら心に誓った。
 これからは、亡き彼女の為、母親の為にしっかり前を向いて生きていこう。それこそが一番の亡き彼女に対する供養になるだろうと……。
 そんな事を考えてる時であった。枕に顔を押し付けて泣いてる、私の肩を誰かが軽く揺すったのだった。
 私は、母親が泣いてる私を慰めに来てくれたのだと思い、枕から顔を外すと、擦ってくれた方を向いた。
 すると、そこには、死んだはずの彼女が青白い顔をして突っ立ていたのである。よくよく彼女を見ると、口から血を流していて、体の腕や足が変な方向に曲がっている。立っているのが不思議なぐらいの様子であった。
「お前、死んだのじゃないのか……」
 私は思わず、驚きのため彼女に呟いていた。
 彼女は、私の言ったことに対して、曲がった首をこくりと頷くと「寂しいよ。また一緒にいようよ……」と口から泡のような血を流しながら言ってきた。
「一緒にいようって……。そんなの無理に決まってるじゃないか。だってお前は死んで……」
「大丈夫だから、だって今日はお友達連れてきてるのよ。ほら聞こえるでしょ、鈴の音が……」
 彼女がそう言うと、チャリン、チャリンとあの山道で聞いた音が耳に聞こえてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
「何を今更、言っているのよ。あなたは、私のために死のうとしてたじゃないのよ」
「いや、あれは違うんだ」
 私はロレツが回らずに彼女に叫んでいた。
「もう、ダメよ」
 彼女はそう言うと、後ろを指差した。
 そこには、従者を従えたあの女が錫杖を振りかざしながら、私の元に近づいてきていた。
 そして、正面までくると、あの時のように笑みを浮かべて言ったのだった。
「今宵はお前に用がある」
 口元から、真っ黒な歯を見せて……。

                                     了。

 

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