「………工藤君、これはどういう状況なのかしら」
「……しっ!黙ってろ!」
薄暗い世界の中、両腕で彼女を抱き込み、耳元で囁く。
密着する二つの身体。
高まる熱と鼓動。
どうしようもなく熱い、吐息。
新一は彼女の頬にかかる髪を優しく払い除け、微かに笑いながら其の柔らかな耳元に指先を伸ばした──────
◇◇◇
その人気のない入り組んだ裏通りでは、複数の男達が集まり不穏な空気を釀し出していた。
やがて一人の青年が封筒を取り出し、相手グループのリーダー格とみられる長身の男に差し出す。その男は中身を確認すると薄く嘲笑い、背後にいる仲間の男達に合図を送る。男達が手渡してきた包みをリーダーは相手に差し出す。奪う様に受け取った青年は何処か壊れかけた笑みを浮かべ、男達に軽く手を上げて去って行った。
時間にしてほんの1〜2分の出来事。男達は緊張が緩んだのか相好を崩し、彼らが歩いて来た道を戻り出す。
最初の角を曲がった途端、人影に気付いた。
一瞬彼らの身体が緊張でこわばるが、やがて男達の口から、舌打ちや嘲笑、からかい混じりの口笛が発せられる。目の前で繰り広げられている熱い抱擁に当てられたらしい。
嫌らしい笑いを浮かべジロジロ見ながらその若い男女の傍を通り過ぎ、男達はそのまま去って行こうとする。裏道の半ばまで進んだところで一人の男がぴたりと立ち止まり、呟く。
「………雨」
『んだぁ?雨がどうしたんだよ』『もう止んじまっただろ?ヒデェ夕立ちだったぜ全身濡れ鼠ったぁこの事だ』『早く着替えて飯食いに行こうぜぇあんな熱いモン見ちまったらやってられんねぇよ』『そりゃそうだ』笑いさざめきながら口々に訴える男達を無視する形で、その長身の男はゆっくりと振り返る。
視線の先には熱く抱擁を続ける若い男女。
背を向けている黒髪の男の表情は見えない。その男の腕の中に包まれている女の白い肌は紅潮し、耳元に息を吹きかけられて熱い吐息と共に身をよじる。堪えきれなくなったのか片手を男の首にまわし柔らかく濡れた黒髪をかき乱す。男のジャケットの背を辿っていた残る片手は気が急いたのか一旦離され、白い指先が若い男のジャケット内に潜り込み、その手がシャツの上からせわしなく身体の上を這っているのがわかる。
長身の男は無言でその男女に歩み寄る。
「どこ行くんだ?」
「よせよリーダーまさか参加するのかよ?」
下卑た笑いと共に男達は声をかける。
リーダーと呼ばれた男は、ますます激しく抱擁を続ける若い男女の手前で足を止める。静かな動作で右手を動かし──────
「お……おい!」
内ポケットから抜かれた右手には鈍く光る銃────ベレッタM92FSが握られていた。
「ば…っ!何してんだ!とっととずらかるんじゃなかったのかよ!」
「今更オセェだろーよ銃見せちまいやがって!チッ!余計な仕事増やすなんてリーダー一体何の真似だ!?」
男達が見るからに焦り、周囲を気にする。苛立たしささえ込めて、彼らのリーダーを問い詰める。
「………このヒデェ雨は俺達が此処に来る寸前の出来事だ。突然降り出して、突然止んだ。時間にして3分程度だったか……勿論傘なんて誰も持ってねぇ。そン時に外にいた奴らは皆、俺達と同じ濡れ鼠だ。」
リーダーの男は頬を歪めて笑う。銃口は若い男にピタリと向いている。
「俺達が真っ直ぐこの目的地にやって来た時には、この裏道には誰一人いなかった────ここら辺一帯はアーケード街だ。どう間違っても濡れる訳がねぇ。お熱いシーンを続けていたお二人さんよぉ、お前等が俺達と同じ全身濡れた姿で此処にいる訳を聞かせてもらおうか」
「…………何の事ですか?オレ達も急な雨に打たれてね。気分が盛り上がって我慢できなかったんで裏道に入っただけですよ」
若い男は、顔は正面に向けたまま、斜め後ろに立つ長身の男に視線だけを遣り、怯んだ様子も無く話す。腕に抱かれたままの女は、脅えているのか、若い男のジャケット内に手をまわしたまま更に身体を寄せしがみつく。
「濡れた足跡は俺達と同じ方向から続いているな。そして其の先の角で止まり、今のお前達の場所まで戻ってやがる。それにしては俺達は、後から人の付いてくる気配なんぞ感じなかった。上手い具合に気配を消しやがったな」
「お…おいじゃあこいつら……!」
「くそっ!早く始末して行くぞ!」
慌てふためく男達に、若い男は目を伏せ雨に濡れた黒髪を揺らしながら軽く笑う。
「残念ながら、手遅れですよ」
「どういう意味─────」
『そこまでだ!銃を捨てて両手を挙げろ!抵抗するな!!』
周囲がバッと明るくなり、男達は眩しげに目をかばう。
投光器の光に照らされ、銃を突きつけていた長身の男が『まさか─────』と呟く。先程まで人気の無かったはずの裏道は完全に囲まれていた。
「警察を呼ばせて頂きました。抵抗しない方が身の為ですよ」
「ば……馬鹿ないつの間に!」
「リーダー!」
男達が前後を塞がれている事に気付きうろたえる。リーダーの男はギリッと音が聞こえる程に歯を食いしばる。逃げ場がない事は明白だった。
目の前の若い男が、未だ女を抱えた体勢を崩さないまま、唇を上げて笑った。
「くっそおおぉぉぉお━━━━━━!!!!」
キィン!
若い男の表情に激昂し、せめて道連れにとベレッタの照準を合わせた途端、男の手から銃が飛ぶ。
弾かれた銃は彼らから離れた場所までカラカラと音をたてて滑り、それを合図に警察官達が突入してきた。
「────だから忠告しましたよね『抵抗しない方が身の為です』と」
視界の端に仲間の男達が拘束されていくのが映る。自らの腕も後ろ手にまわされる感覚を覚えながら、呆然と目の前の光景を見つめる。
先程から決して変わらない、自信に満ち溢れた男の端正な横顔。
そして男の肩越しからは、雨に濡れた壮絶に美しい女の醒めた目が覗いていた。
◇◇◇
男達が引き返してくる。新一は焦った。
男達の取引現場を確認し、写真はバッチリ撮影した。
だが男達がこんな短時間で引き返して来るとは思っていなかった。新一は慌てて自分達の来た道を見る。ビルの間にある長い裏道。道幅は広いが横道は無く、次の曲がり角まで距離がある。走っても間に合わない。頭では冷静にそう判断しながらも、身体は志保の手を引きながら道を戻っている。男達の気配が、曲がり角の手前まで近づいている。
(─────駄目だ!)
新一は立ち止まり志保の腕を引く。目を見開く彼女を壁に押し付け、抱き込む。
『………工藤君、これはどういう状況なのかしら』
『……しっ!黙ってろ!』
彼女の体温を感じる。お互いの濡れた衣服が纏わりつき、初めて自分達の状況に気付く。だが躊躇っている場合ではない。コイツを危険には晒せない。ますますきつく抱きしめる。
(どうする?警部達も近くで奴らの足取りを追ってるはずだが……今更連絡する暇もねぇ)
志保の頬に濡れて張り付く柔らかな髪をかきあげると、現れたのは金の光。
新一は思わず目を見開く。次の瞬間小さく笑いながら『オメーはやっぱ最高だよ』と囁き、その耳を飾る塊に指先を伸ばした。
◇◇◇
「あ〜志保に卒業祝いで買ってもらったジャケットが……」
「自業自得でしょ」
志保は呆れた様に新一から身を離す。ジャケットの下から現れた彼女の右手には銃。正確には空気の塊を圧縮して打ち出す、銃の形をした博士の発明品だ。威力は、コナンの時に良く使ったキック力増強シューズで蹴ったサッカーボール並だろう。
新一は見事に穴が開いたジャケットを脱ぎながら『気に入ってたのに…』と溜め息をつく。志保から受け取った銃をシャツの上に装着していたショルダーホルスターに戻しながら、走り寄って来た目暮警部を見て笑いかける。
「警部、助かりました」
「それはこちらの台詞だよ工藤君!怪我はないかね?」
「ええ、大丈夫です。彼女のおかげですけれどね」
新一は目の前で濡れた髪をうっとうしげにかきあげる志保に視線を移して微笑む。ジャケット越しだというのに見事に相手の銃を弾き飛ばす───そんな驚異的な腕前を披露した彼女は、新一の視線など我関せずといった調子で、水気を大いに含んで透けまくっているブラウスを気にしている。
「でも確保出来て良かったですね。警部達が間に合わなかったらどうなる事かと」
「そうね。危うく二人揃って地獄行きだったわね」
「地獄ってオメーなあ……何怒ってんだよ」
「誰でも当然な反応かと思うんだけれど。何の説明も無く呼び出され連れ回され、挙句銃口を向けられた人間の反応としてはね」
「…………工藤君?本当かね?」
「あ…あははは………説明する暇がなくて」
二人から幾分冷たい視線を向けられ、新一は乾いた笑いを浮かべる。
────三ヶ月程前から、裏では新しい麻薬が若い年代を中心に出回っていた。
対策課がずっと元締めを追っていたのだが確たる情報が得られず、ついに先日取引現場とおぼしき場所で殺人事件が起こった。その現場を目暮警部と新一が調べた事がきっかけで、取引方法などが判明してきた。また、死亡した男の自宅からは暗号化されたメモも見つかり、それを解読した新一は今日この近辺で取引がある事を掴み、目暮警部達と共に秘密裏に行動していたのだ。
しかし取引に現れる男の顔も名前も取引場所も分からない。焦燥の色が見え始めた時、新一と偶然すれ違った男達の軽口から、今追ってる奴らはコイツ等だと確信した。取引までまだ時間があるらしい。
新一はこういう相手を尾行するにはカップルの方が怪しまれないと判断し、志保を呼び出した。男達の一人が異様な雰囲気を滲ませていたので、大勢で取り囲むと気配を察して取引を延期する可能性があり、警部には『慎重にアーケード街中心部付近で待機お願いします。また連絡しますので』とだけ伝えていたのだ。
おかげで相手に気配を感じさせずに、決定的証拠を撮影でき、銃も押収できた。殺人事件現場から発見されていた弾丸は、9mmパラベラム弾。今回の銃とまず間違いなく弾丸や発射痕も一致するだろう。
「しかし工藤君、傍に犯人グループがいながら、よく通話を切らずにワシと話し続けられたな」
「ああ……それも彼女のおかげですよ」
新一は不思議そうな顔をする目暮を見て悪戯っぽく笑い、志保は軽く肩をすくめる。両手で柔らかな髪をかきあげると、耳元には金の大振りなピアス────彼女の細い指先がソレを左右共外して、新一に差し出す。
「備えあればってトコね」
「ああ、憂いなしってな────オメーがまさかコレつけて来てくれるなんて流石のオレでも思ってなかったぜ」
つややかな光と共に、新一の手の平に金の塊が二つ落ちた。ピアス型携帯電話。犯人グループを囲い込む事により本格的な銃撃戦を事前に防げたのは、これで警部に場所と状況を知らせる事が出来たからだ。
志保を呼び出す時、何の目的も告げず、何時もの口調で『暇なんだろ?たまには出てこいよ』とだけ伝えたはずだ。事件関係を匂わす台詞は一言も言っていない。そもそもこんな大振りなデザインのピアスは、普段装着するのに彼女は好まない。
なのに、この女は。
新一は幸福感にも似た気持ちで、全身ずぶ濡れでありながら変わらず美しい女を見つめた。
「ホント、オメーは最高の相棒だよ」
「………あらいつから私は貴方のワトソンになったのかしら?それにそんな発言聞いたら服部君が泣くわよ?」
「バーロォ、服部は相棒ってより親友でライバルだろ。アイツは大阪、オレはこっちで別々に活動してるしな。相棒なら常に一緒に行動しねーとな。…………よく考えたらオメーも探偵みたいなモンだよな」
「残念ながら探偵を目指した記憶はカケラもないわね」
「コーデリア・グレイで、V・Iウォーショースキーなんだろ?」
「………名前だけじゃないの。しかも昔の」
心底呆れた表情を隠しもせず、志保は新一を見る。
こんな些細な会話でも、お互いに遠慮の必要もなく、一を言えば十を理解してくれる事に、堪らなく新一は幸せを感じる。
本当の『工藤新一』を出せる、対等の、運命を分かち合った、ただ一人の女。
「まぁ何でもいーじゃねーか、オレがオメーを必要としてるんだから。気配が消せて、お互いの考えが読めて、たまにはオレを出し抜けて、オレとは別の視点でモノを考える事が出来て、博識で、冷静で動じなくて、咄嗟の機転がきいて、演技力もあって、なにより信頼できる……なんてとんでもねー女、他に知らねーよ」
『だから大人しく相棒になれよ』と笑う新一を志保はしばらく横目で睨みつけていたが、やがて諦めた様に溜め息をついた。
「………今度からは理由くらい話してから呼び出してちょうだい」
「悪かったよ。でもオメー、何の経緯も状況も話してなかったのに、迫真の演技だったぜ?」
右手に持つ穴の空いたジャケットを掲げながら、その時を思い出し頬を露骨に弛ませてニヤニヤと笑う。
志保が、男達に見せつけるように声を聞かせたり動作を派手にした理由は、耳元のピアス型携帯電話で警部に現在位置や相手グループ人数を伝えていた新一の声が洩れない様に気を配ったのと、新一が隠し持つ空気銃を彼女が抜く動作が不自然に映らない様にと考えた、彼女の咄嗟の演技だ。
「……………あらそう。貴方の期待に添う事が出来て良かったわ」
もっとも貴方の演技も捨てたモノじゃなかったわよ、と新一の横をすれ違いざまに囁き、表通りに向かって歩いて行く。
「お……おい待てよ!」
「事情聴取はよろしくね。工藤探偵」
片手を後ろ手にひらひら振りながら去りかけ────上半身だけで振り返り、新一を見つめて言った。
「それとどうでもいい事だけれど────私だったら、どうせならワトソンよりアイリーンの方がいいわね」
『じゃあね、ごゆっくり目暮警部とデートを楽しんでらっしゃいな』と、艶やかな作り笑いを満面に張り付けた志保が歩き去った方向を見つめながら、新一は呟く。
「…………………どういう意味だよソレ」
アイリーンがホームズを出し抜けたと云われる数少ない人物の一人だからか。
女嫌いと云われたホームズが心を動かされたとされる女性だからか。
どちらにせよ、志保がアイリーンの立場になったとすれば─────
「………志保と別の男との結婚立会人に、オレがなっちまうじゃねーか」
『ゼッテー却下だな』と真顔で頷き、ご機嫌とりに新作ブランドバッグの3つや4つは覚悟した新一は、未だ騒騒しさの残る現場に向かって颯爽と歩いて行った。
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