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フェアリーテイル・クロニクル ~空気読まない異世界ライフ~ 作者:埴輪星人

ファーレーン編

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第5話

「ただいま」

「おかえり~」

 蜘蛛の群生地から帰ってきて三日目。まだ目を覚まさぬ三人の面倒を見るため、宏と春菜は交替で仕事をしていた。亡くなった五人については、個人でどうにかできる問題ではないので、冒険者協会に預けてどうにかしてもらうことにした。運び出す時も、ランディ達をはじめとした知り合いの冒険者の手を借り、事情も全て正直に話してある。さすがに、服代を浮かせるためにわざわざ蜘蛛の群生地まで行った挙句の果てに、碌な防具も着けずにピアラノークとどつきあいをして生還した、という内容には、関係者一同、驚くより先に呆れていたが。

 屋台については宏が早く帰って来た時か、春菜が仕事に出た時だけ開店している。言うまでもなく、宏に店番が出来ない事が主な理由だが、二人同時に出歩けない事による仕入れの不安定さも原因の一つだ。

 助けた三人は寝室を占拠している。二人が借りたアパートは小さなものではあるが、それでも一応2DKの間取りはある。同じ部屋で一緒に眠る事を宏が拒否したのは言うまでもなく、かといって流石に毎日ダイニングで眠る、などという疲れが取れそうもない行動を春菜が許容できるはずもなく、議論の結果、キッチンとダイニング以外に二部屋以上の部屋のある、必要最小限のスペースを持った一番安い部屋、という条件で物件を探し、辛うじて見つけたのが今の住居だ。トイレは各階で共同だが、二人が住んでいる階には他に住民が二人しかいないため、それほどかちあうこともない。風呂は毎日公衆浴場である。

 辛うじてダイニングキッチンも合わせて三つに部屋が分かれているだけなので、ダイニング以外のそれぞれの部屋は四畳半もなく、ベッドを置けばぎりぎりでしかないが、それでも女性の方は、無理をすれば一部屋で二人眠れなくはない。春菜はダイニングのテーブルをどけて、宏特製の折り畳み式簡易ベッドで眠っており、宏はベランダで寝袋だ。おっさんと添い寝などしたくない、というのもあるが、それ以前に、おっさんのガタイが良すぎて、部屋の寝床がぎりぎりなのだ。台所は調味料やら処理済みの薬草類やらに占拠されていて、とても人が眠れるような環境ではないし、それがなくともダイニングと直結しているため、宏が眠るには酷な場所だ。

 正直なところ、いろんな意味で宏一人が割を食っている感じがして申し訳ないのだが、野営の時はいつも春菜だけテントに入れて、本人は雨ざらしで寝袋だ。そういう意味では、結局それほど変わらないのかもしれない。同じテントに入りたくない、というそれだけの理由で、わざわざ触媒を調合して、雨天防御とかいうマイナーなエンチャントを寝袋に施していた宏の姿に、何とも言えずほろ苦いものを感じたのは記憶に新しい。

「そんで、あの人らは?」

「呼吸とかはしっかりしてるけど、まだ目を覚まさないよ。そっちの調子は?」

「仕事の方は大して問題あらへん。食材はまあ、仕事であっちこっち回ったついでにいろいろ仕入れてきたから、ちょっと楽しみにしてて」

「了解」

 テーブルの上を片づけながらそう答える春菜。待機中は暇なので、とりあえず食材が許す範囲で新メニューの仕込みをしたり、製薬や錬金術の練習で素材の下処理をしていたのだ。たかが三日、うち一日は仕事に出ていたとはいえ、前々からつかみかけていたコツを確かなものにする程度には、練習量は稼げたらしい。初級の段階では扱いが難しいものも、いくつか処理が済んでいる。

「それで、今日は何かあった?」

「その前に、ちょっとあの人らの様子見てくるわ。感じからいうて、そろそろ起きてくるはずやし」

「ん、分かった」

 宏の言葉に頷くと、とりあえずお茶を入れる用意をしておく。お茶受けに、スイートポテトもどき(というよりはいもきんとん、と表現した方が近いだろう)を出すことに決め、宏特製の魔力ポットでほうじ茶に丁度いい温度のお湯を沸かす。地球の電気ポットと同じく、設定した温度のお湯を沸かし終えたら勝手に保温してくれる上に、魔力ポットゆえに空焚きの心配がないと言う優れものだ。

 ほうじ茶は、醗酵させる前の茶葉を探して買ってきて、自分で用意したものである。この世界の醗酵食品は結構いびつな発達をしており、パンや食品についてはほとんど進歩が無いくせに、酒や茶に関しては十八世紀ごろの地球と大差なかったりする。紅茶については、実のところ薬草酒を作ろうとしていろいろやっているうちに偶然できたものだそうで、地球での成り立ちとは微妙に違う経緯をたどっているようだ。

「どんな感じ?」

「そうやな。少なくとも、このおっさんはなんか切っ掛けがあれば起きると思う。ただ、確実にとは言いきれへんから、ゆすったり魔法で起こそうとしたり、あと殺気ぶつけて反応させたりとか、そういうやり方はやめとこう」

「了解。あっちの二人は?」

「藤堂さん、僕に死ねと?」

「別に、看病のために状態を確認するぐらいなら、文句は言われないと思うけど?」

「甘い、甘いで藤堂さん。その理屈が通じるんは、エロスを感じさせへん種類のイケメンに限るねん。起きた時に僕みたいなきもい不細工なヘタレが目の前におってみ? 絶対に、こんなところに連れ込んで何をするつもりだった!? とか、すごい剣幕で怒鳴り散らすに決まってる」

「そ、それはさすがにないと思うけど……」

 あまりの意見に引きながら、それでもさすがに聞き捨てならない言葉ゆえに反論をする春菜だが、宏は悲しそうに顔を横に振る。どうやらこのヘタレ、余程女性を信用できない人生を歩んできたようだ。初対面の、それも言葉を交わしてすらいない相手に対する評価としては実に失礼だが、それを失礼と思わないほどの経験をしてきたらしいと考えると、いかに春菜といえどもコメントのしようがない。

「世の中にはな。落し物拾って、これ誰のん? って、聞いたら、ただ拾っただけやって言う目撃者がいくらでもおるのに、お前盗んだんか? みたいなこというて、泥棒とか大騒ぎする女が結構ようさんおるねん」

「居ない居ない」

「六回や」

「えっ?」

「目の前で拾ったの見てたはずやのに、そういう騒ぎ起こした揚句に濡れ衣着せられた、もしくは着せられそうになった回数」

 内訳は中学時代に五回、高校に入ってから一回。結果、たとえ落し物が足元に転がってきたとしても、泥棒扱いしないことを周囲に念押ししない限りは、絶対に拾わないようにしているらしい。わざわざ関西から引っ越してきて、中学時代と同じパターンで泥棒にされかけるとは思わなかった、と苦い顔で言う宏に、コメントしようがない春菜。三年生になってからは、基本的に不登校、もしくは保健室登校だったことと、そうなった原因とも言える、学校中を揺るがす不祥事のおかげで、手癖が悪いと言う内申書の誤解自体は解けている。

 因みに、中学時代は二回同じ事を繰り返したところで、落とし物を見つけても見なかった事にしていたのだが、それを担任(三十代及び四十代女性)に注意されて渋々拾った結果、三回濡れ衣を着せられたのだ。担任もグルだったか確信犯だったか、ちゃんと見ていたはずなのに、盗むとはどういう事だ、とか、そういう話になったのは苦い思い出であり、四十代までの女性を基本的に信用しなくなった決定的な理由である。

 高校に入ってからの一件は、それを言い出したクラスメイトの女子が、そう言う事の常習犯だった事が同じ中学出身の人間から周囲に伝わったため、濡れ衣を着せられた揚句に保護者呼び出し、という最悪のパターンは逃れられたが、あわや再び不登校になりかけたのは、本人にとっても学校にとっても思い出したくない話だ。特に学校側は、宏が中学時代、担任にまでそう言う扱いを受けていた事を把握していたため、訴訟沙汰も覚悟していたと言う。正直なところ、クラスメイトが全員フォローに回ってくれた事と、中学時代と違って、最初の段階から言いだした女子の方が袋叩きにあっているような状況だったから助かったようなもので、もし、あの時もう何人かが悪のりしていれば、宏はここで完全に社会からドロップアウトしていただろうし、学校側も致命的なダメージを受けることになっていただろう。

 彼らの通っている学校の校風に助けられた形だが、VRシステムを使った現実時間換算三年以上のカウンセリングの成果が、一発で水の泡になるところだったのは間違いない。どうにか今は辛うじて日常生活に支障がないレベルで落ち着いているが、三年前の経過しだいでは宏はこの生活を維持することは出来なかっただろう。

「何にしても、繭から引っ張り出した時はしゃあないとしても、それ以上は余計なリスクは避けたいねん」

「……ごめん。本当にごめん……」

 思わず、女に生まれてごめんなさい、と言いたくなってしまう春菜。そう言う事をする人間は少数派ではあるが、その手の性格破綻者と関わりやすい巡り合わせの人間に言っても、説得力など生じない。何故に同じ事を六回も、という理由も説明されてしまっては、宏がうかつだったなどとは、口が裂けても言えない。違うクラスだった上に、事件そのものは大した騒ぎになる前に鎮静化したため、当時他所のクラスだった春菜はそんな事があったとは全く知らなかったのだ。しかも、一緒に聞かされた他の件も大概だったため、余計に女に生まれた身の上で一緒に行動する羽目になってごめんなさいと言いたくなってしまう。

 ぶっちゃけた話、フォローに回ったクラスメイト達も大した話だと思っていないために基本的に忘れており、宏が落し物を拾う前にわざわざ念押しをした時ぐらいしか蒸し返されることは無い。一年の時に違うクラスで、同じクラスになっても関わりがほとんど無い人間は知らないのが普通である。第一、宏の境遇が特殊だったから大事になりかけただけで、この程度のトラブルは、どこのクラスも何件かは起こっているのだ。

「と、言うわけやから、少なくとも起きてくるまでは、絶対に近くに行く気はあらへん」

「そうだね。考えてみれば、目が覚めてみれば知らない男がいて、しかも鎧を引っぺがされて着替えさせられてる、とか言ったら、どんな誤解されてもおかしくはないよね」

「それが、蜘蛛の糸まみれで、とても布団に寝かせられる状態やなかった、いうてもな」

 彼らの身につけていたものに関しては、すでにきっちり洗濯・修繕を済ませて、枕元につるしてある。残念ながら、お嬢様のドレスの修繕に関しては、とても春菜の手に負える品ではなかったので、鎧などと一緒に宏がすべて済ませている。武器と鎧に至っては、修理のついでに、エンチャントを行わずに済む範囲でいろいろ手を入れてあるため、見た目が同じだけの別物になっていたりする。

「まあ、とりあえず軽くお茶でも飲みながら、協会で言われたことと、調達してきたあれこれについて話すわ」

「ん、了解。スイートポテトというか芋きんとんというか、そう言う感じのおやつを用意してあるから、ちょっと待っててね」

 そう言って台所に立ち、急須にお茶を入れる。この急須は、春菜が道具製造の練習を兼ねて、空き時間に自作したもので、十数個の失敗作を経てようやく満足いくものができた、という代物である。因みに、失敗作に関しては、材料がもったいないからと、宏が錬金術で逆転させて素材まで戻していた。ダイニングをほぼ丸々占拠している折り畳み式の巨大なテーブルをはじめ、この部屋にある家具も、ほとんどは練習のために春菜が作ったものを、宏が手を入れて使っている。

 正直、春菜自身は製造を極めるつもりは全くないのだが、せめて裁縫ぐらいはということで、とりあえずメイキングマスタリーを身につけられるまで、宏にいろいろと教わっているのである。

「まず、協会で言われてきたことやねんけどな」

「うん」

「僕らがピアラノークの巣で見つけた繭玉、数は五個やったことにしてほしいんやと。手伝ってくれた人らにも、とうに口止めは済んどるらしい」

「それって……」

「多分、あの人らが生きてる、って今の段階でばれたらまずい、言う事やろう」

 宏の言葉に一つ頷く春菜。

「とりあえず、この事についてはええことと悪い事がワンセットやな」

「いい事、って言うのは協会は私達を守ろうとしてくれるつもりだ、ってことで、悪い事は、もうあがきようがないぐらい厄介事に巻き込まれてる、ってことかな?」

「そう言うことやな。今更ほってくる訳にもいかんし、緘口令ごときで誤魔化せる時間も知れとるし」

「アドバンテージとしては、転送石でこの部屋に直接戻ってきてるから、その程度の緘口令でもそれなりに時間は稼げる事だよね」

「そうやな。後、僕らは屋台やってることで顔が売れてるから、仕込みとか仕入れを口実にすれば、部屋をもう一つ借りても不自然ではない事」

「この部屋二つ借りる方が、一段広くて部屋数が多い場所を借りるより安くつくもんね」

 春菜の言葉に頷くと、この話は次に進展があってから、ということで切り上げる。

「次はいろいろ嬉しい話や」

「と言うと?」

「わかめと昆布、海苔が手に入ったで」

「え? ええ!?」

 宏の言葉に、驚きの声を上げてしまう春菜。海産物のマーケットに並んでいなかったため、この国にはないものとばかり思っていたのだ。

「ファーレーンでは、海藻、特に昆布の独特の風味があんまり受け入れられへんかったそうで、一部地域を除いて、ほとんど食べられてへんかってん」

「あ~、なるほど」

 宏の説明に、心の底から納得する春菜。実際のところ、日本人でも昆布のダシ汁はともかく、昆布そのものは嫌いだと言う人間はそれほど珍しくない。それに、世界中の複数の地域で存在している食材でも、日本では食べるがヨーロッパでは食べない、だとか、アフリカでは食べているが日本では食べない、だとか言う事は珍しくない。ファーレーンの場合、それが海藻だっただけなのだろう。

「実際のところ、海の幸も山の幸もいくらでも手に入る土地柄やから、わざわざ藻を食べる必要も感じへんかったんやろう」

「凄く納得できるよ」

「その割にはタコとかイカは食べてるんやから、なかなか不思議な食文化、っちゅう気はするなあ」

「別に、ヨーロッパ全土でタコイカを食べなかった訳じゃないんだけどね」

 春菜の突っ込みに苦笑する宏。なお、ファーレーンでは海藻の類は現状単なるごみに近いらしく、美味しい食べ方や利用方法があるのであれば、厄介なごみが宝の山に早変わりするため、期待している漁師は少なくない。船の修理や何やらで仲良くなった宏の頼みもあって、天日干しなどの処理も気前よくやってくれたようだ。

「で、それとは別に、そばを一杯買うて来てん」

「わ、わ、わ」

 そう言って、テーブルの上に今日の戦利品をいろいろ並べて見せる。天ぷらによさそうな新鮮なエビとか、絶対に狙っているとしか思えないラインナップだ。その内容に、春菜が嬉しそうに歓声を上げる。

「東君」

「何?」

「醤油と鰹節は、どんな感じ?」

「まだちょっと若いかも、言う気はするけど、試しに使う分にはいけると思うで」

 春菜に言われるまでもなく、醸造中の調味料の状態ぐらいは把握している。そうでなければ、いくら腐敗防止の鞄に入れておけばいいと言っても、こんなラインナップで食材を買い集めたりはしない。なお、熟成が必要な調味料をちんたら作るつもりはないようで、宏が一番最初に作ったのは熟成加速器だったりする。高レベルの薬には、醗酵作用を起こす必要があるものが少なくないため、数を作るにはこの道具は必須なのである。

「だったら、本番に行く前に、まずはダシをチェックするところからかな?」

「そうやな。まだあかん、とかなったらちょっとさみしいし」

「それで、そば打ちはどっちがやる? なんなら私がやるけど」

「いやいや、藤堂さんはダシの方に専念してくれてええで」

 暗に、自分がやりたいと言う自己主張をする春菜に対し、ここは譲れないとばかりに牽制する宏。結局じゃんけんに負けた宏は、そばの実を挽いてそば粉にした後、片栗粉を作るためにジャガイモのでんぷんを取り出す作業に入ることになるのであった。







 不思議な、だが食欲をそそる芳しい香りが鼻腔をくすぐる。深い眠りについていた少女は、その香りに意識を急浮上させる。

(ここは……?)

 今まで入った事のないような粗末な部屋の、無理すればどうにか人が二人眠れるであろう小さめの、だがこんな部屋に住む人間が使うにしてはやたらと作りのいいベッドに、護衛だったはずの女性騎士と一緒に寝かされている事に気がつく。そろそろ色気づいてくる年頃とはいえ、まだまだ子供の範疇にはいる彼女だからこそ、大人の体格の女性騎士と一緒に寝かされてもそこまで窮屈ではないが、自分達の素性を考えると、実に捨て置けない扱いではある。

 とはいえ、じっくり観察すればすぐに分かる事だが、この部屋は実に狭い。正直なところ、こんな小さなベッドでも、他の家具は机すら置けないほどぎりぎりのスペースしかない。はっきり言って、生活空間というより、ただ眠るためだけの部屋である。

(どうしてこんなところに……?)

 生まれてこのかた、こんな物置以下の部屋には無縁であったため、今の状況が全く理解できていない。傍らで眠っている女騎士を起こさぬように注意しながら身体を起こすと、もう少ししっかり部屋の中を観察する。とはいっても、本当に何もない部屋だ。ベッド以外の家具や調度品と呼べるようなものは、せいぜい窓に置かれた鉢植えと枕元に置かれた魔力ランプぐらい。後は壁のハンガーかけに、自分達が着ていたものと思われる仕立てのいい服がかけられ、部屋の片隅に女騎士の物である装備一式が置かれている程度だ。

 スペースの問題で、どうしても殺風景になってしまう部屋ではあるが、狭いなりに何とか居心地を良くしようとする工夫をしている様子は随所にうかがえる。ただし、ベッドにしろ魔力ランプにしろ、こんな部屋に置くにはやけに物がいい。特にランプの方は、形こそシンプルで凝ったところはまるでないが、品質的には王宮、それも貴族階級が出入りする区画で使われているものと大差ない。少女には金銭的な価値は分からないが、この場に不釣り合いである事だけは分かる。ありとあらゆるものの金銭的価値については疎い少女だが、物の価値そのものが分からないほど世間知らずでもない。

 その彼女から見てこの部屋は、観察すればするほど不思議な印象が強くなる部屋であった。

(少し、記憶を整理しましょう)

 妙な部屋に居ることでパニックを起こしている思考を落ちつけ、目が覚める前の事を思い出そうと頭をフル回転させる。ほどなくして、腹違いの姉に取り入っていた、胡散臭いと思っていた男が日々の務めを終えた自分の前に現れ、自分達八人を大蜘蛛の巣に飛ばしてしまった事を思い出す。護衛を務める騎士たちも強力な捕縛魔法をかけられていたために、森の奥地に住む巨大蜘蛛の前に、なすすべもなく餌として繭に閉じ込められてしまった。身の回りの世話で同行していた侍女と、事務処理のために付き従っていた文官にいたっては、もとから抵抗する能力など持ち合わせてはいない。仮に捕縛魔法が掛かっていなくても、ひとたまりもなく食われていただろう。

 護衛の中で辛うじて、壮年の騎士と今一緒に眠っている女騎士だけは、捕縛魔法に完全にかかってはおらず、どうにか多少の時間稼ぎは出来た。だが、思うように体が動かぬ状況では、稼げる時間などたかが知れている。血筋と立場的に高い魔法抵抗力を持っていた彼女だけが、その場で完全にフリーではあったのだが、文官達と同じく戦闘能力は皆無である。しかも、残念ながら、血統魔法に当たる一部の物を除き、少女の魔法はそれほど高レベルではない。流石に、国中に名が知れ渡るレベルの力量を持つ彼らが抵抗しきれないほどの呪縛魔法となると、とても解除できる自信などない。そのため、最後の悪あがきとして、立場上身につける機会があった、自分達の時間を止めて身を守る魔法をその場の人間全員に発動させたのだ。

 今現在こうして生きているところを見ると、少女の賭けは、命を守るという点に関しては勝ったらしい。だが、この部屋の主がどういう人間か不明な以上、本当に賭けに勝ったと言うにはまだ早い。第一、あの魔法を解除するのは、そう簡単なことではない。その自分がこうして目を覚ましている以上、それを解除できるだけの能力を持っている人間がいる、という事だ。敵だと判断するのは早計だが、命を助けてくれたから味方だと考えるのは、いくらなんでもおめでたすぎる。

(とりあえず、まずはちゃんと体が動くかどうかだけ、確かめましょう)

 どうするにしても、まずは体が動かなければ話にならない。どういう手段で魔法を解いたのかは分からないが、正規の解き方以外だと、体が元に戻ってから、何日も眠っていた可能性すらある。スムーズに体を起こせたところから察するに、それほどのダメージは無かったようだが、油断はできない。

 せっせと自身の状態を確認し、とりあえずそれほど体が衰えていない事を理解すると、出来るだけ音をたてないようにこっそりベッドから降りる。無意識に、並べてあったスリッパに足を突っ込んだのは、育ちの良さかもしれない。部屋の状態から察するに、それほど広い建物ではないだろう。扉を開けた途端に、ここの持ち主とばったり、などという可能性もある。相手が善人か、そこまで行かなくても中立的な立場の人間なら問題はないが、悪人や悪党だとしたら厄介なことになる。

「……やっぱり、まだちょっと若かったなあ」

「まあ、初めてだし、しょうがないよ」

「せやなあ。まあ、そんなに悪くもないし、次が期待できるからええか」

「そうそう」

 扉に耳をつけて聞き耳を立てていると、若い男女のそんな会話が聞こえてくる。なかなかに不穏な会話だ。耳年増な少女の知識に合致する事柄を連想し、思わず青くなる。体に違和感はないが、着替えさせられていることを考えると、ありえない話ではない。

「まあ、何にしても、これやったら次の野望に進んでもええかもなあ」

「次の野望?」

「青のりも鰹節も目途がついたし、タコも普通に売っとる。となると、一つしかあらへんやん」

「……先に、そっちに行くんだ」

「ええやん。米が手に入らへん現状、作れるん言うたら基本、粉モンばっかりやで?」

「いや、そうじゃなくて、いろんなものを差し置いて、先にそっちなんだ、と……」

 意味深な会話を続ける男女に、判断に困る少女。素直に考えれば、タコという単語がある以上、彼らの会話は食べ物のことだろう。だが、そうだとしたら、若いという言葉の意味が分からない。何かの暗号かもしれないが、その割には緊張感のない空気が漂っている。男のしゃべり方に、妙な訛りがあるのが印象的だ。正直なところ、雰囲気的に、自分が想像しているようなことをしでかすようなタイプには見えないが、善人でも罪を犯すときは犯すのだ。

 そんな事を気にしているうちに、ジュワ~、っと言うにぎやかな音とともに、揚げ物と思わしき香ばしい、これまた食欲をそそる香りが漂い始める。立てつけの悪いドアをこっそり開き、隙間から様子をうかがうと、台所で何ぞ作業をしている金髪の女性と、巨大なテーブルの上に広げられたあれこれを片付ける、別段これといって問題があるわけでもない無難な服装なのに、やたらダサく見えるヘタレそうな男の姿が。

「完成~!」

 何ぞ作業をしていた女性が、嬉しそうにボウルをテーブルに並べる。どうやら、先ほどの不思議な香りの何かが入っているらしい。テーブルの中央には、揚げ物らしいものを盛りつけた皿が。そのボウルを手に取り、同じく嬉しそうに二本の棒を中に突っ込む男。どうするのかとまじまじと観察していると、中からやや黒っぽい麺のようなものが出てくる。それを躊躇いもなく口元に運ぶと、二人とも豪快な音を立ててすすり上げる。

「これこれ!」

「若いには若かったけど、十分っちゅうたら十分やなあ」

「うんうん!」

 そんなことを言いながら、最初からボウルの中に盛られていたらしい揚げ物をかじる。そのまま一心不乱に豪快にずるずると音を立ててすすり上げている姿を見ているうちに、少女の空腹感と食欲が限界を迎える。明らかにテーブルマナー的には下品といえる食べ方だというのに、あまりにも美味しそうに食べるものだから、見ているほうがどんどん我慢できなくなってくる。二人がボウルに直接口をつけた当たりでついに、少女の意に反して、お腹が可愛らしい音を立てて空腹を訴える。

「ん?」

「おや?」

 それほど大きな音ではなかったのだが、それでも先ほどまでの麺を豪快にすすり上げる音が途絶えた空間には、妙に響き渡ってしまったようだ。

「おや、起きとる」

 ヘタレそうな男とばっちり目が合ったところで、観念して食堂に移動する。どっちにしても、この部屋の大きさと間取りでは、完全に寝静まったときでもなければ、この二人に見つからずに脱出するのは確実に不可能である。

「……私たちを、どうする気ですか?」

「状況がわからへんから、何も決めてへんよ」

「まあ、まずはご飯、の前に……」

 女のほうが何かをカップに入れて、自分の前に置く。警戒を解くためか、中身を見えるようにスプーンですくい、そのまま口に含んで見せる。即効性の毒物が入っていないことを証明出来る程度の時間をおいて、そのまま話を続ける。

「とりあえず、いきなり固形物を食べて大丈夫か分かんないし、そば粉にアレルギーがあったらまずいから、それをちょっとだけ飲んでみて」

 アレルギー、という言葉の意味はわからないが、世の中には体質的に、特定の食べ物を受け付けない人間が少なからずいる事は知っている。多分、彼らが食べていたものが、そう言う食べ物の中でも、特に拒否反応が激しいものなのだろう。言われた注意事項に一つ頷き、ほんのりこげ茶色に染まった澄んだ液体を、香ばしい香りに誘われるように恐る恐るほんの少し口に含む。口の中にほんのりと広がる豊かな風味に、思わず一気に飲み干しそうになるのを自重し、念のために頭の中で五十ほど数える。特に体の調子がおかしくなることもないため、そのまま少しずつカップの中身を飲み干す。

「……美味しい」

「そらよかった。おなかの調子はどない?」

「痛くなったりとかは大丈夫?」

「……はい」

「だったら、おそばを茹でるから、ちょっと待ってて」

「あ、僕がやるわ」

 どうやらこの男は、初対面の女の子とあまり近い場所には居たくないらしい。再び湯を沸かして麺を茹で、暖めなおしたスープらしきものと一緒にボウルに盛ると、なにやら細かいものをボウルに散らして、スプーンとフォークを添えてテーブルに載せる。

「多分、箸で食べるんは難しいと思うから、それでがんばって食べて。そうそう、言うまでもないけど、熱いから気をつけて。後、天ぷらはおなかの調子が分からへんから、また次の機会に、っちゅうことで」

「お気遣い、感謝します」

「こっちも、少しでも故郷の味を知ってもらいたいから、気にせんといて。使った材料がちょっと若かったから、口に合うとええけど」

 自分からも女性からもかなり距離をとりながら、そんなことを言って来る。やはり、第一印象のとおり、この二人に不埒を働かれた、ということはなさそうだ。というか、この男、明らかに女を避けている。だが、そんな観察より今は、目の前の異文化だ。入っているスープは、先ほど口にした豊かな風味のもの、その原液だろう。あれなら少なくとも、食えぬほど不味い、などということはありえない。期待に躍る胸を押さえ、慎重にフォークをボウルの中に突っ込み、パスタの要領で適量を絡めとる。

 どきどきしながら息を吹きかけて適度に冷まし、期待と不安を胸に恐る恐る口に運ぶ。少女の語彙では表現しきれないほどの衝撃が口の中に広がり、空腹という調味料も手伝って至高の味へと導く。もはや我慢などできない。彼女にできたことは、下品にがっつかないようにどうにか自制することだけであった。







 上品に、だが一生懸命に黙々とそばを食べ続ける少女を見ながら、食後のそば湯をちびちびと飲む宏と春菜。日本に居たころは、塩分の取りすぎとかそう言った事を気にして、ダシを飲み干したりはしなかったものだが、こっちに来てからはいろいろハードで、むしろ塩分が足りなくなることも多々あるため、そう言った事は気にしなくなった。

「もうええ?」

「……はい」

 名残を惜しむようにダシをスプーンで飲んでいた少女が、完全に空になったどんぶりを眺めながら頷く。本音を言えばもう少し食べたい、という様子ではあるが、起きぬけの暴飲暴食はよろしくない、という事ぐらいは分かっているらしい。食後の感謝の祈りを女神に捧げると、ため息をひとつついて頭を一つ下げる。

「どうやら、気に入ってもらえたみたいだね」

「それは良かった。明日はまた、ちょっと違うもんを用意するから」

 春菜と宏の言葉に、一目で分かるほど目を輝かせる少女。余程気にいったらしい。その表情を見て、明日のメニューについていろいろ考える。

「そうやなあ。ダシが気にいってくれたんやったら、明日はおでんとかどないやろう?」

「あ、いいかも。寒くなってきたら、屋台のメニューにもできるし」

「屋台、ですか?」

「うん。冒険者としての仕事の合間に、屋台を出して食べ物を売ってるんだ」

「どんなもんを売ってるか、いうんも明日教えるわ。今目の前にあったら、食べたなるやろ?」

 宏の言葉に、コクコクと頷く少女。一応育ち盛りであるため、加減されて出された先ほどの分量では、少しというにはやや厳しい程度には物足りない。

「それにしても、冒険者なのに屋台を出しておられるのですか……」

「工房に出来る程度の広さと作りの拠点が欲しくてな。正直、普通に冒険者としてやっていくと効率悪いから、街の中の仕事を基本にして一杯こなしながら、屋台で副収入も稼いでるねん」

「協会の設備を使わせてもらう、って言う手もあるんだけど、いろいろとあって目をつけられてるから、出来るだけ他人と関わらない形で物を作れる環境が欲しいの」

 目をつけられている、という言葉に顔が引きつる少女。その様子に気がついた春菜が、苦笑しながらフォローする。

「目をつけられてる、って言っても、別に非合法なものを作ったとか、そういうことじゃないの」

「では、どうして……?」

「あなたの目利きに期待した上で質問するけど、この部屋、おかしいと思わなかった?」

「部屋、ですか……?」

 そう言って、部屋の中を見渡す。空腹を満たすことに意識を持っていかれて忘れかけていたが、よくよく見れば、先ほどの寝室と同じ種類の違和感がある。自分が食事に使ったテーブルや椅子、室内を照らしている魔力ランプ、キッチンの機材、それらの大多数が、シンプルではあるがそうそうお目にかかれないほどの技巧を使って作られた、素材以外の部分は最高級と言っていい代物なのだ。こんな家財道具を揃えられるのであれば、普通に工房ぐらい手に入りそうな気がする。

「あの、お二人とも、ずいぶんと立派な家具をお使いになられているのですね」

「こんな部屋にあるの、おかしいでしょ?」

 春菜の苦笑しながらの言葉に、どう返事をしていいかが分からない少女。そんな彼女の様子に構わず、答えを告げる春菜。

「これね、全部自作なんだ。作ったのは私じゃなくて、あっちの東君だけどね」

「……」

 あっさりと信じられない事を言われて、思わず絶句する少女。だが一方で、それならば目をつけられてもおかしくない、と納得する自分も居る。これだけの魔道具を作れるのであれば、目をつけられるのも当然である。そもそもよく考えれば、この男女のうちのどちらかは、少女の使った秘術を解除できる能力を持っているのだ。むしろ、今まで無名である事の方がおかしいだろう。

「でまあ、ついつい雑談に走っちゃったけど、とりあえず自己紹介しよっか」

「あ、申し訳ありません。これは失礼しました」

「あんまり固くならんでええよ。僕は、東宏。東が名字で宏が名前や。冒険者ランクは十級。気楽に好きに呼んだって」

「藤堂春菜。藤堂が名字で春菜が名前ね。冒険者ランクは同じく十級。私も、よっぽど変な呼び方じゃない限り、好きに呼んでくれていいよ」

「ヒロシ様にハルナ様ですね。私はエアリスと申します」

 二人が見せてくれた冒険者カードを確認し、嘘をついていないことを理解すると、とりあえず名前だけ告げる。

「それで、お二人に確認したいのですが」

「何かな?」

「私たちは、一体どういう状況だったのでしょうか?」

「自分ら、巨大蜘蛛に襲われた事は覚えてるか?」

「はい」

 先ほど確認した記憶と一致するその問いかけに、迷うことなく一つ頷く。

「自分ら全員、あの蜘蛛の餌として、繭に閉じ込められとってん」

「タイミングから言って、もしかしたら間一髪だったかも」

「そうですか。お二人はなぜ、あの巨大蜘蛛の住処に?」

 エアリスの質問に対し、顔を見合わせて苦笑する二人。どうでもいい事だが、宏はエアリスと春菜のいる場所と対角の位置に陣どり、ずっと立ったままである。正直なところ、事情を理解している春菜はともかく、エアリスの方は微妙に落ち着かないものを感じているのだが、それを口に出していいかどうかの判断がつかない。

「僕らの目的は単純や」

「服を作るために、糸を取りに行ってたんだ」

「服、ですか?」

「うん。屋台の時に着てた服が、いい加減汚れが落ちなくなってきてて」

「カレーの汚れに油汚れやからなあ。生半可な洗剤では落ちへんで」

 カレーというのが何かは分からないが、油汚れが生半可なことでは落ちない、というのは侍女との雑談で聞いたことがある。とは言え、そんな理由で蜘蛛の群生地まで出向いたのかと思うと、何とも言えなくなってしまうエアリス。正直なところ、それぐらい買えばいいのではないか、と思ってしまうのが人情だが、この二人がそう言う思考回路でなければ、自分達は今頃蜘蛛の胃袋の中に居た可能性が高い。今回ばかりは、そのくだらない理由に感謝せざるをえまい。

「こっちからも質問、ええ?」

「はい」

「蜘蛛に捕まったんって、八人であっとる?」

「あっています。あの……」

「他の人の事やったら、悪いニュースになるから覚悟して」

 宏の言葉に、全員が助からなかった事を悟ってうつむくエアリス。

「助かったんは、エアリスさんを含めて三人だけや。一緒に寝かせとった女の人と、あとごっついおっちゃんが生きてる」

「レイナは確認していましたが、そうですか、ドーガ卿も助かりましたか」

「ごめんな。他の人は、繭から解放した時点で手遅れやった」

 宏の言葉に、首を左右に振る。正直なところ、残りの五人に関しては、自分の術が届いた手ごたえが無かった。多分、繭に閉じ込められた時点で、命を落としていたのだろう。

「ヒロシ様が謝罪なさることではありません。助かっただけでも、奇跡なのですから……」

 そう。助かっただけでも奇跡なのだ。それ以上を求めるのは、贅沢にすぎる。そもそも、助けてもらった上に食事までご馳走になって、何で全員助けてくれなかったのか、などと責めるのは、恥知らずにもほどがある。

 だが、それでもエアリスは、こみあげてくるものを抑える事が出来なかった。







「貴様ら! 姫様に何をした!」

 俯き、すすりあげるように涙を流すエアリスを見守っていると、春菜の部屋からもう一人が飛び出してきた。

「レ、レイナ!?」

 突如飛び込んできた自身の護衛に、思わず涙が止まってしまうエアリス。あまりに空気が読めないその行動に、悲しみを忘れるほど思考が完全に空回りしているのだ。

「貴様か!」

 軽快な動きでテーブルを乗り越え、一挙動で剣を抜き放つと、迷うそぶりすら見せずに宏を壁に押し付け、首筋に刃を突きつける。

「レイナ、やめなさい!」

「姫様、だまされてはいけません!」

 明らかに何かを勘違いしているレイナに、どう対処していいのかわからずにおろおろすることしかできないエアリス。もはや、先ほどまでの悲しみなど、完全に飛んでしまっている。

「レイナ、ヒロシ様を放しなさい!」

「いくら姫様のご命令でも、それだけは聞けません!」

 そういって宏をにらみつけると、きつい口調で言葉を次ぐ。

「貴様があの男の一味なのは分かっている! 何が目的だ!?」

「レイナ!」

 エアリスの叱責をまったく聞き入れず、問答無用で宏を脅しにかかる。その様子を青ざめながら見つめている春菜。明らかに宏の様子がおかしい。顔が土気色になり、見て分かるほど全身に鳥肌が浮かび、目の焦点は合わず、明らかに体が震えている。このままでは、彼が壊れてしまう。だが、下手に助けに入ると、今度は春菜自身が宏に余計なプレッシャーを与えてしまう。しかも、その条件をどうにかしたところで、レイナと呼ばれた女性が納まらない限り、宏に不必要なダメージを与え続けることになりかねない。

 こちらにきてから、東宏は人間とは思えないほどの精神力を有するようになった。だが、竜の血を浴びて不死身となったはずのジークフリートが、たった一枚の葉っぱのおかげで命を落としたように、どれほど強靭な精神をしていようと、そう簡単に克服できない心の傷というのはある。春菜との共同生活でましになってきていたとはいえ、そもそも一定ラインの社会復帰ができている現状そのものが奇跡という種類の経験をしている彼にとって、見知らぬ女性に濡れ衣を着せられ詰め寄られ、何一つ聴く耳を持ってもらえないというこの状況は、過去のトラウマをとことんまで深くえぐる行為なのだ。

「しかし、見れば見るほど下劣な顔だな。しかも、黒幕を気取っているくせに、この程度の恫喝でここまでおびえすくみ上がるとは情けない。どうせ単なる女子供と甘く見たのだろうが……」

 レイナの言葉は、最後まで続けられることはなかった。恐ろしい怒気とともに放たれた一撃に、否応なしに対処せねばならなかったからだ。春菜の鋭すぎる一撃をかろうじて払いのけた次の瞬間、すさまじい衝撃を受けて部屋の反対側の端まで吹っ飛ばされる。

「ごめん、エアリスさん。私今、本気であなた達を助けなきゃよかった、って思ってる」

「……申し訳ありません、ハルナ様……」

「なぜ謝るのです!?」

「……レイナ。あなた、恩人に対して、どれだけ無礼を重ねれば済むのです?」

 顔こそ冷静ながら、全身から壮絶なまでの怒気を放つ春菜と、汚らわしいものでも見るような視線で自分を眺めるエアリス。二人のその顔に、背筋に冷たいものが走る。

「ひ、姫様! 姫様はだまされているのです! どうせあの男、眠っているのをいいことに、私たちを慰み者にしたに決まっています!」

「宏君のこと、何も知らないくせに勝手なことを言わないで!」

 後ろで震えながら、焦点の合わない目で虚空を見つめ、胃の中身をすべてぶちまけて、なにやらぶつぶつうわごとをつぶやいている宏。そんな彼を背にかばいながら、全身から怒りを発散してレイナを追い詰める春菜。いまだ恋愛感情など持ち合わせては居ない相手だが、それでも共同生活をおくれるほどには気を許し、パートナーとして信頼し、親友ぐらいにはなりたい程度には好意を持っている相手である。そんな人物を思い込みだけでコケにされ、あまつさえ最悪の犯罪者のように言い募られて我慢できるほど、春菜は温厚ではない。

「素性の知れぬ若い男など、みんな同じに決まっている! 大体、偶然あの場に居合わせて偶然助けたなど、信じられるわけがないだろう!」

「いい加減にせんか!」

 なおも自己を正当化しようとするレイナに、宏の部屋から出てきたガタイのいいおっさんが雷を落とす。

「ド、ドーガ卿!?」

「さっきから聞いていれば見苦しい! 百歩譲って最初の一手は見逃すとしても、姫様が引けといったのを聞かぬとは何事か!」

「で、ですが……」

「第一、この状況でそちらの女性が姫様に刃を向けたら、貴様はどうするつもりだったのだ!?」

 ドーガの言葉に返事に詰まる。今の春菜の動きを見ていれば、自分がカバーするより先にエアリスを貫くぐらい、軽くやってのける程度の腕前は持っていることは明らかだ。

「レイナ、あなたが男性不信気味であることは知っています。私ですら勘違いしそうになったのですから、あなたが思い込んでも無理はありません」

「姫様……」

「ですが、引けという命令を無視していいほど、その事情は重くありませんよ」

 上司二人に散々に怒られ、完全にしおれてしまうレイナ。そんな彼女を放置して、ドーガが宏と春菜に頭を下げる。

「申し訳ない。この件に関して、どのような罰でも甘んじて受けましょう」

 ドーガの態度にひとつため息をつくと、あっさり刃を収める春菜。

「次は、ありませんから」

「まことに申し訳ない」

「ヒロシ様は、大丈夫なのでしょうか?」

「分からない。ああなるってわかってたから、できるだけ物理的に距離をとって行動をしてたんだけど……」

 異常な呼吸をどうにか落ち着かせ、ふらふらと立ち上がろうとしては崩れ落ちる宏を、痛ましそうに見守る春菜。

「もしかして、ヒロシ様は……」

「相当嫌な目にあってきたみたい。もしかしたら、命の危険にさらされたこともあったのかも」

「……優しそうな方ですから、そこを付け込まれたのかもしれませんね」

 どうにか立ち上がった宏が、自分が吐いた吐瀉物を始末しようと台所の雑巾を手に取ったあたりで、ドーガがその動きを制する。

「わしがやろう」

 首を左右に振ろうとする宏を強引に押しのけ、無言で汚物の処理を始める。

「東君。着替え、ここにおいて置くから」

 宏の鞄から取り出した着替えをテーブルの真ん中に置き、少しでも距離をとるためにエアリスを伴い、レイナを引きずって玄関先まで退避する春菜。無言で着替えを取り、ふらふらと自室に戻って着替えると、何もかもを拒絶するように寝袋を引きずってベランダに出る宏。

「今日は、わしがそちらで眠ろう」

「ええからほっといて……」

 煤けた背中を見せながらかすれた声でそう言うと、さっさと寝袋に入って窓を閉め、つっかえ棒を入れて眠りに入る。そんな彼に追い討ちをかけるように、ポツリポツリと雨が降り始め、瞬く間に結構な勢いになり始める。その様子を、申し訳なさそうに、痛ましそうに見つめる三人と、さすがに自分のやらかしたことを思い知って青ざめるレイナ。命の恩人に無礼を働いた挙句に精神的に壊れる直前まで追い詰めてしまったこの一件は、冒険者組と助けられた三人との力関係を明確に決めてしまい、ある面では後々まで徹底的に尾を引くことになるのであった。
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