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フェアリーテイル・クロニクル ~空気読まない異世界ライフ~ 作者:埴輪星人

後日談 春菜ちゃん、がんばる?

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第4話

春菜さん、ついに頑張り始める。

※一部グロ描写があります、ご注意ください。
「……さすがに貸し農園だけあって、土はそんなに固くなってないかな」

 フェアクロ世界に顔を出した次の月曜日。早朝六時前。春菜はジャージを着て首からタオルをかけた姿で、自宅のある高級住宅街から自転車で五分ほど走った場所にある貸し農園に来ていた。

 高級住宅街からそれほど離れていない場所に貸し農園、と聞くと不思議な印象があるが、言うほど都会ではないのが春菜達の住む潮見市だ。ここに住む金持ちは、趣味で農業をたしなんでいる人間が結構多いのである。

 とはいえ、所詮金持ちの道楽。続く人間はとことんまで本格化していくが、続かない人間は全然続かない。そのため、いつもそれなりにまとまった区画が空いていたりする。

 そんなまとまった区画のうち一アールほどを藤堂家が昨日手続きをして借り受け、今日から春菜が農作業にいそしむことになったのだ。

 農園を借りたのは言うまでもなく、唐突に農業に目覚めた春菜のおねだりによるものである。そうでもなければ、いろんな意味で忙しい藤堂家が、農園を借りる規模の家庭菜園になど手を出すわけがない。

「とはいえ、結構長くほったらかしにされてるから、まずは土づくりをしなきゃね」

 ざっと土の状態を確認し、やる気に満ちた表情でくわを手にそう宣言する春菜。昨日のうちに地主の厚意で用意された物置には、これまた昨日のうちに藤堂家にいる女性型お手伝いロボ「いつき」の手により、さまざまな種類の肥料の袋がたっぷり詰め込まれている。

 土づくりの段階ですらどれほどかかるかという問題に目をつぶれば、準備自体は十分できているのだ。

「さて、家に帰って支度する時間も考えたら、作業時間は三十分ほど。全速力でできるところまでやらないとね」

 そういいながら、ひそかに加速系の魔法を発動させ、鍬を振り上げ振り下ろす春菜。

 結局その日は、畑の半分ほどを耕して朝の農作業は終わった。







 なぜ春菜が唐突に農作業を思い立ったのか、その理由はアルフェミナとの話し合いを終えた直後までさかのぼる。

「……あれ?」

 アルフェミナから詩織の件について許可とある程度のアドバイスをもらい、せっかくだから帰る前にこの時期の取れたての果物を食べて帰ってほしいというエアリスの申し出を受けて農場に出たところで、春菜が違和感に首をかしげる。

「どうかなさいましたか、ハルナ様?」

「アルフェミナ神殿の農場って、こんなに広かった?」

「いくつかの作物を栽培するため、最近拡張したのです。ファムさんたちにもお手伝いしていただいたおかげで、開墾はとてもスムーズに進みました」

「そうなんだ」

 エアリスの言葉に納得すると、再び農場を見渡す春菜。拡張されたばかりという新しいエリアでは、ちょうど最低限の土づくりを終えて今から作物を植えようとしているところであった。

「……春菜さん?」

「あ、ごめん。何でもないよ」

 農作業の様子を見ながら何やら考え込んでいた春菜が、宏に声をかけられて我に返る。

「別にええんやけど、今日やるんやったら神の城でやりや?」

「いや、その、成功するのが確定してる農作業はちょっと……」

 考えていたことが見透かされ、思わず視線をそらしながらそう反論する春菜。とはいえ、農作業に対する衝動は抑えられそうもない。

 結局、この日は夕食が終わっても農作業に対する衝動からは解放されず、一度日本の自宅に帰って両親に貸し農園の手配をねだってしまった春菜。

 その後、珍しい春菜のおねだりに本気を出した雪菜の一族の手により、翌日にはいつでも農作業が始められる準備が整えられ、冒頭の早朝の農作業につながるのであった。







「おはよう、宏君」

「おはようさん」

 初日の農作業を終えた午前七時二十分、東家玄関。学校に行くための身づくろいをきっちり整えた春菜が、宏と合流していた。

 先週の水曜日から、春菜は東家に寄って宏と一緒に登校している。もとより宏と春菜では登校時間が十分程度しか変わらず、春菜の方も二重の意味で今の時間に登校する理由がなくなっていることもあり、蓉子や田村の勧めで一緒に登校することになったのだ。

 なお、春菜が宏を迎えに来ているのは、二つの理由がある。一つ目の理由は二人の家の位置関係と通学路。宏の家は春菜の通学路から少し寄り道するだけで寄れ、しかも高校にも徒歩十分強とさほど遠くない場所にある。宏が春菜を迎えに行くより、圧倒的に効率がいいのだ。

 もう一つは春菜の家庭環境。なんだかんだ言っても春菜の家は金持ちで、血筋だけで見ても本来は運転手が送り迎えしてもおかしくない家の育ちである。さらに、家は一般庶民が足を踏み入れるのにかなりの度胸を要する高級住宅地にあり、住んでいる人間は世界的歌手のYukinaと国民的アイドルバンド・ブレスの一員である藤堂スバルと来ている。

 宏でなくとも、近寄るのにハードルが高すぎる。ストーカー先輩のおかげで周囲の警戒が高まっているから、なおのことである。

 それに、藤堂家には現在、男性はスバルしかいない。そこにのこのこ宏が顔を出せばどうなるか? 東家に初めて訪れた春菜と同じ扱いを、それもいろいろグレードアップした形で受ける羽目になるのは目に見えている。

 なので、挨拶に行くにしてももう少し時期を見て、ということになっている。

 宏も春菜も、藤堂家の皆様から既にロックオンされていることは分かっている。分かっているのだが、まだ春菜の両親や妹、特に母と妹の前に二人そろって出ていく覚悟が定まっていないのだ。

「にしても、春菜さん。早速家庭菜園始めたん?」

「……やっぱり分かる?」

「少し、土と肥料の匂いが残っとるからなあ。っちゅうか、昨日はほぼ一日向こうおったんやから、作業はじめたん、今朝からやろ?」

「うん。……なんだか、完全に筒抜けになってるよ」

「匂いしとるからなあ」

 あっさり見抜かれたことに複雑な表情を見せる春菜に対し、苦笑しながらそう答える宏。そもそも、土日は基本的に、宏と春菜は一緒に行動している。必然的に互いのスケジュールなど完全に把握しているわけで、この時点で土と肥料の匂いが残っているとなると、春菜がどういう行動をしたかぐらい簡単に予想がつく。

 ちなみにこの匂いが分かるのは、宏のような人間をやめた存在以外は、おそらく澪ぐらいである。汗や石鹸、シャンプー、制汗スプレーなどの匂いに完全にまぎれる程度なので、普通の人間の鼻ではどうやっても識別できないだろう。

「ほんで、畑始めんのはええけど、何植えるんよ?」

「まだ土作ってるところだから完全には決めてないけど、この時期からだと夏野菜の類かな、って考えてる」

「なるほどな。何やったら、手伝うで」

「うん、お願い。朝の作業は私がやるけど、放課後とか休みの日は手伝ってくれると凄く助かるよ」

「了解や。ほな、今日は特に放課後に用事あらへんし、早速手伝うわ」

「うん、ありがとう」

 宏の申し出に、心底嬉しそうな笑顔を浮かべて礼を言う春菜。何の気負いもなく、ごく当たり前に手伝いを申し出てくれる宏のやさしさと、好きな人と二人きりで過ごせる時間に、早くも心が浮き立ってくるものを感じる春菜。

 さすがにこれをデートだと認識しない程度の冷静さはあるが、それ以前にそもそも、都市部に住む一般的な女子高生は、普通は園芸部でもない限り、好きな人と一緒に農作業することを喜ばない、という点には思い至らない。

 もっとも、その話を追求するなら、そもそも都市部では親が農地を借りて家庭菜園をやっているとかでもない限り、いくら園芸部でも普通は農地で畑仕事などしない。庭のある家なら庭に花壇を作り、そうでなければベランダに植木鉢やプランターを並べて花やちょっとした野菜を育てるのがせいぜいだ。

 春菜のように、親にねだって一アールもの広さの農地を借りて家庭菜園をする、なんて女子高生はそうはいないだろう。

「あ、そうだ。宏君のおうちについて、ちょっと気になってた事があるんだけど、聞いてもいい?」

「別にかまへんけど、内容によっちゃあ答えられへんこともあんで」

「そんな大したことじゃなくて、宏君のおうちの工場って、アルバイトとか募集してるのかな、って」

「積極的には募集してへんけど、全く雇わんっちゅうわけでもないで」

「そっか。私がお手伝いしに行っても大丈夫そうかな?」

「それはおとんとおかんに聞いて。ただまあ、春菜さんやったら経理は普通にできるから、そこ手伝ってもらうだけでもだいぶ楽にはなるやろうとは思うけど」

 宏の言葉に、なるほどとうなずく春菜。家族経営の零細町工場において、一番面倒な仕事は間違いなく経理業務である。

 宏の両親が経営する町工場は、現在人を雇わず両親だけで仕事をしている。大阪にいたころは事務員と職人を一人ずつ雇っていたが、事務員の女性は工場の移転が決まる直前に結婚退職をし、職人に関してはさすがに東京までついてくるのは不可能ということで、人材募集をしていた取引先に移ってもらったのだ。

 移転の際についでに仕事を整理し、難易度高めだが納期と値段がいい仕事をうまく取り込めたため、とりあえず職人が父と母だけでも仕事は回っている。取り込んだ仕事も宏の両親にとっては得意分野で割りがいい仕事だが他の会社だと倍貰ってもやりたくない、という類の物なので、値段を叩かれる心配も薄い。

 が、少人数であることに違いはなく、納期が重なると経理業務どころではなくなることも珍しくないため、信頼できる人間を雇えるなら事務員ぐらいは欲しいのが本音である。

「とりあえず、春菜さんやったら喜んで雇ってはくれると思うけど、そんなええバイト料は出えへんで」

「別に、無給のお手伝いでもいいよ?」

「労働基準法とか色々あるから、そういう訳にはいかんで。あと、喜んで雇ってはくれるやろうけど、それも大学入ってからの話やな。まずは入試最優先やって絶対言われるで。僕かて、そういう理由で最近は家の手伝いほとんどしてへんし」

「うん。それは分かってる。だから、すぐにとは考えてないよ」

 宏に言われ、真顔でうなずく春菜。今となっては、宏ともども第一志望の海南大学ぐらい余裕で入れるだろうが、それでも受験生がバイトだ何だとふらふらするのは避けるべきである。そういう部分で宏の両親の心証を悪くしては元も子もないし、入試に全く不安がないかというとそんなこともない。

 だが、実際にアルバイトを始めるのは大学に入ってからだとしても、このあたりの根回しは早いうちからやっておきたい。理想を言うなら、大学に受かったらすぐにバイトを始めたいところである。

「っちゅうか、えらい唐突な上に、妙に必死やん」

「そりゃ、宏君の近くにいる時間を少しでも増やしたいし、それに色々将来に絡む下心がある話だから……」

「下心なあ……」

 とりあえず一緒にいる時間という部分をスルーして、下心という言葉に反応を示す宏。言っては何だが、宏の家の工場は吹けば飛ぶような小規模なものだ。気心が知れた相手の親がやっている会社、という点以外に、春菜にメリットとなりそうな要素がない。

 なおこの場合、少しでも近くにいる時間を増やせるというのは、スルーしているだけあって大してメリットとしては考えていない。もはや現在の春菜の気持ちは疑っていない宏だが、将来的にどうかという点に加え、仕事中はそもそも大して会話すらしない、というある種当たり前の理由から、いまいち大きなメリットになるとは思えないのだ。

 将来に絡む下心、という言葉の前に告げているあたり、そのあたりはおそらく春菜もちゃんと分かっているのだろう。

 それだけに、春菜が何を求めているのかがよく分からないのである。

「こういうとあれだけど、私も宏君も、まず間違いなく普通の会社とか役所とかには就職できないよね?」

「……まあ、せやわなあ」

「そうなると、親のコネで何とかするか、限界集落レベルの過疎地に引っ込んで農家になるかぐらいしかないけど、さすがにまだ都会に未練はあるし、なんとなくあんまり親のコネは使いたくないから……」

「それで、比較的当たり障りのないうちの工場、っちゅうことか」

「うん。勝手なイメージで悪いんだけど、従業員が少ない零細の町工場って、あんまり人の出入りなさそうな気がしてるけど、どうかな?」

「せやなあ。うちの場合、大体いつも来る取引先とか銀行とかの人、っちゅうんが延べ人数で毎日十人おるかどうか、っちゅう感じやな」

 春菜の下心の意味を理解し、納得したようにうなずく宏。恋愛感情云々を抜きにしても、同じ事情を抱える者同士が零細工場を経営するのは、色々な面で都合がいい。

 さらに都合がいい事に、零細企業は周囲に不審がられずに会社をたたむのも難しくない。業種や取引先が違えば近隣の会社との接点もほとんどないし、近所に住んでいる人間も結構どんな人が働いているかを見ていないものである。それに加え倒産も廃業も珍しくない規模だけに、やめてしまえば勝手に想像して納得してくれるのである。

 春菜が下心だの打算だのを口にするのもよく分かる。

「まあ、何にしてもまずは目先の受験やな」

「そうだね」

 とりあえず、鬼が笑うにもほどがありそうな話を、その一言で終わりにする宏と春菜。東家の家業を継ぐだけならば別段大学に通う必要などないが、少なくとも普通の人間として過ごす間は、学歴があって困ることはない。

「それにしても、綾瀬教授とかものすごい有名やねんけど、老化とかその辺の問題はどないするんやろうな?」

「うちのお母さんとかみたいな事例もあるから、今のところは個人差の範囲で通してるみたい。四十代折り返しててもすっぴんでも二十代に見える人って、意外と珍しくないし」

「それで誤魔化すんも無理が出て来たら、どないする予定なん?」

「自分で開発したアンチエイジングの最新技術を、自分の体で実験してるって言い訳で逃げるつもりだって言ってたよ。で、そこそこの歳になったら引退して、適当にほとぼりを冷ますんだって」

「教授ならではの逃げ方やな……」

「だよね。少なくとも、私たちはちょっと無理だよね」

 エジソン以来の世紀の発明家と呼ばれている人間ならではの逃げ方に、微妙に遠い目をしてしまう宏と春菜。辛うじてという感じではあるが、やろうと思えば実際に人類の最高寿命を一世紀、平均寿命を半世紀程度なら伸ばせるらしいのが業の深い話である。

 とはいえ、生命科学のジャンルに関しては、転移ゲートをはじめとしたインフラ回りや人間そっくりの人型お手伝いロボットなど目ではないほど社会に混乱をもたらすのが分かっているため、今まで治療法がなかった類のものを治せるようにする以上の事はする気がないらしいのだが。

「それにしても、春菜さんやったら飲食店とかキッチンカーで屋台とか、そういうんやりたがるかとおもっとたんやけど……」

「飲食店に憧れがないといえば嘘になるけど、日本でそういうのやろうと思ったら、結構色々面倒くさいんだよね。料理を出すんだったら調理師免許とか衛生管理関係のあれこれとか取っておく必要があるし、キッチンカーで屋台だと役所への届け出以外にも縄張りがどうとか、いろいろ気を使わなきゃいけない事がいっぱいあるし」

「深く考えたことはなかったけど、やっぱ結構面倒くさいんやなあ……」

「そうだね。少なくとも、ウルスで屋台やるほど気楽にはできないかな」

「っちゅうて、普通に店構えるとなると、家賃に光熱費に、っちゅうんが屋台よりかかりそうやしなあ」

「そうそう。それに、どっちも共通して悩みどころなのが、仕入れとかどうするかって部分。さすがに、向こうの食糧庫とか神の城でとれるものとかを使うわけにはいかないし」

「せやわなあ。仕入れ費用が足らんからモンスター狩ってきて、とかそういう真似もできんしなあ」

「そうなんだよね。というより、そもそも仕入れ費用ゼロ自体が日本では無理だよ。自分のところでとれた野菜を使って、って言っても、野菜育てるための費用は掛かってるわけだし」

 日本で商売を始めるのにあたり、ハードルになりそうな要素を上げ、小さくため息をつく宏と春菜。社会が成熟し、技術も目覚ましく発達している日本は、その環境自体が参入障壁となっているのだ。

 なお、宏も春菜も開業のための資金や当座の運転資金に関して一切気にしていないのは、自分たちがそのあたりの調達を考えなくても、雪菜あたりが勝手に用立ててくれると分かっているからである。

 ほとんどお金に関して困ることはなかったとはいえ、曲がりなりにもフェアクロ世界で商売をしてきたのだ。初期の設備にかかる費用や黒字経営になるまでに必要な運転資金を甘く見るほど、宏も春菜も能天気ではない。

 というよりむしろ、宏と春菜の方が無計画に脱サラして商売を始めるサラリーマンより、はるかにそのあたりをシビアに考えている。

「おはよう、春菜、東君」

 そんな話をしているうちに、いつの間にか校門が見えてくる。同じように丁度学校に到着したらしく、蓉子が朝の挨拶をしてくる。

「あ、おはよう、蓉子」

「おはようさん」

「なんだか朝っぱらから楽しくなさそうな雰囲気だけど、何を話してたの?」

「いやな、日本で商売はじめるっちゅんは大変やなあ、っちゅう話をな」

「……なんでそんな話してるのよ?」

「成り行きみたいなものかな?」

 そう言って、これまでの会話の流れを蓉子に伝える春菜。春菜の話を聞いた蓉子の感想は、というと……。

「とりあえず、春菜がまずは外堀を埋めようとしてる、っていうのは分かったわ」

 という、ある意味真っ当でストレートなものであった。

「当の昔に外堀自体はほぼ埋まっとるから安心し」

「……この時点でそれって、どれだけ頑張ってるのよ……」

「頑張っとるも何も、うちの両親に関しちゃ、春菜さんがうちに挨拶来たその日のうちに陥落やからな」

「あ~……、まあ、普通ならそうなるわよね……」

 初対面ですでに陥落済み、という情報に、なんとなく納得してしまう蓉子。春菜の容姿と性格と雰囲気で、しかも蓉子たちにつつかれて開き直った後のような態度を見せているのであれば、普通のご家庭の親御さんが大喜びで陥落するのはむしろ当然であろう。

「で、一つ気になったんだけど、何で東君は春菜が飲食店をやりたがると思ったの?」

「例の件の時にな、そらもう春菜さんが事あるごとに食いもん屋台出しまくっとってなあ。あの様子見とったら、普通は将来の夢は飲食店やと思うで」

「……そんなに、屋台やってたの?」

「やってるうちになんだか楽しくなっちゃって……」

 蓉子に生温い目で見られ、そっと視線をそらしながらそう言い訳する春菜。何の言い訳にもなっていない単なる事実だが、そこは気にしてはいけない。

「それにしても、実際に始めるわけでもないのに、やけにシビアな話をしてるわねえ……」

「そら、そういうんを甘く見たら碌な事ならへんからな。実家が商売しとるだけに、資金繰りやの必要な資格やの税務関係やのを軽視して失敗した、っちゅう話はいくらでも耳に入ってきおるし」

「そんなに良くある話なの?」

「良くある話やで。一番よう聞くんが、早期退職で一千万ぐらいの退職金もろて、気ぃ大きいなって商売始めてあっちゅう間に食いつぶして破産、っちゅう話やな」

「一千万って、すごい大金に聞こえるけど、そんなものなの?」

「いざ稼ぐとなると物凄い大金やけど、食いつぶそうと思ったら一瞬やで。こう言うたらあれやけど、下手したら最低限の広さの建物建てられる土地すら買えん金額な訳やし」

「……あ~……」

 さすがに実家が商売をしているだけあって、宏の指摘には納得するしかない蓉子。おそらくこのあたりの感覚の差が、多くの脱サラして始めた商売を破綻へと導いているのだろう。

「まあ、春菜さんが商売始めるっちゅうことになったら、業種に関係なく開業資金と運転資金は心配いらんやろうけどなあ」

「そうね。土地にしても、有望な遊休地を買い上げた上で格安で貸してもらえそうだしね」

「……実は、私も同じことを思ったから、下手に料理屋やりたいとか言えないんだよね」

「起業したくてもお金がなくて諦めてる人からすれば、ものすごい贅沢な話なのは間違いないわね」

「正直、何するにしても恵まれすぎてて、なんとなく申し訳ない気持ちになるときはあるよ」

 世間一般の人間がさらされている現実の厳しさと、そこから過保護なぐらいに守られている事実に、本当に申し訳なさそうに遠い目をする春菜。何でも親が干渉してくる、などという子供っぽい反発はしないが、こうも七光りが強いと自分が大した人間ではない気がして、いまいち自信を持ちきれない部分はある。

「まあ、そこは深く考えんでもええと思うで。その辺の話しだしたら、僕なんぞ普通の職場ではよう働けんから、半分親のすねかじる形で実家に頼って就職するわけやしな」

「それは、親の跡を継ぐっていう立派な名目があるから、そんな卑下するようなことでもないと思うんだけど……」

「親の力に頼って過保護な形で自立する、っちゅう実態はあんまり変わらんからな。そういう理由で春菜さんが胸張れんねんやったら、僕も胸張って生きていけんで、実際」

 どうにも春菜がへこみかけているのを見て、そんな風にフォローをする宏。基本ヘタレのくせに、こういうところは実に男前である。

 ヘタレであることを利用した妙に男前な宏のフォローに感心しながら、自身の下足箱に向かう蓉子。なんだかんだと長話をしていたからか、いつの間にやら昇降口までたどり着いていた。

 蓉子と同じように、自身の下足箱に向かう宏と春菜。宏と春菜は向かい合わせになっている列の対角の位置、蓉子は宏の列から二つ隣の真ん中付近だ。

 それぞれが結構離れた場所であるため、宏が靴箱に手をかけた状態で動きを止めていたことに、他の二人はすぐに気が付かなかった。

「……どうしたの?」

 先に何やら渋い顔で動きを止めていた宏に気が付いたのは、やはり春菜であった。

「いや、ちょっと変な臭いがしてなあ……」

「変な臭い? ……ホントだ、何か、生臭いのと腐ったのとが混ざったみたいな、変な臭いがするよね」

「これ、開けて確認すべきか、それとも開けんと先生呼んだ方がええんか、どっちやと思う?」

「……一応、開けないといけないんじゃないかな?」

 最近人間の限界をはるかにぶち抜いて鋭くなった宏と春菜の鼻でも、五歩も離れるとはっきりとは分からなくなる程度の微かな悪臭。その存在に、どうしたものかと頭を悩ませる宏と春菜。そこへ、いつまでたっても靴を履き替えてこない二人を不審に思った蓉子が、様子を見に来る。

「どうしたのよ?」

「あ、蓉子。多分だけど、宏君の靴箱にいたずらされてるみたいだから、先生呼んできてもらっていいかな?」

「了解。そろそろあるかもとは思ってたけど、本当にやる馬鹿がいるとはねえ」

「土日があったから、実行犯が在校生とは限らんで」

「まあ、そのあたりもすぐ分かるでしょ。にしても、開けてもないのによくいたずらされてるのが分かるわね」

「変な臭いがするんよ」

「臭い、ねえ……」

 宏に言われ、少しかがんで宏の靴箱に顔を近づける蓉子。もとより靴箱などいい匂いはしないが、それでも鼻が蓋につきそうなぐらいまで近づくと、確かにおかしな臭いが漏れてきているのが微かに分かる。

「この至近距離で分かるかどうかっていうぐらいだけど、確かに生臭いのと腐ったのが入り混じったみたいな、靴箱からするのとは違う種類の悪臭がするわね……」

「せやろ?」

「……そうね。変なものが出てきたら困るから、このままにして先生を呼んできましょう。東君と春菜はここで待ってて」

「あ、私は購買行ってくるよ。宏君、上履きのサイズは?」

「26.5やな。お金は……」

「後でいいよ」

 そういって、宏を現場に残して各々のやることを済ませに動く蓉子と春菜。被害者であり、しかも恐らく上履きが使い物にならなくなっている宏は、二重の意味でこの場から下手に動けない。

 そんなこんなで五分後、学年主任の先生を連れて蓉子が戻ってくる。

「お待たせ」

「ああ、ご苦労さん。悪いなあ、パシリみたいなことさせてもうて」

「今回は仕方ないわよ。それで、パソコン使って何してたのよ?」

「ああ、念のために現状保存もかねて昇降口全体の記録を取っとってん。ちなみに、中村さんが先生呼びに行ってから今までで、ここ通って中に入った生徒は八人やな。高橋さんもおったけど、野次馬しとってもしゃあないからっちゅうてさっさと教室行ってもうたで」

「だ、そうです」

 宏と蓉子の会話に、学年主任の大橋先生(三十五歳男性、六月に結婚予定)が真面目な顔で一つうなずくと、疑問に思ったことを口にする。

「用意周到だな。変な目で見られなかったか?」

「そこはもう、ちゃんと事情説明しとりますし」

「現時点でその話をするのはどうかと思わなくもないが……。まあ、隠そうとして隠せるようなことでもないか」

 そう言いながら、宏同様パソコンのカメラ機能で状況を記録していく大橋先生。使うパソコンは学校の備品である。

「監視カメラにも一部始終は写っているが、一応記録はしておかないとな」

「東君じゃありませんけど、こういう時の記録は大事ですからね」

「まあな。それに、やじ馬も増えてきてるから、大事になるかもしれないというのを示すためにも、これぐらいのポーズは必要だろう。……さて、そろそろ開けるか。東、中村、悪いが記録頼む。中村は、学校の奴で記録してくれ」

「「はい」」

 安全と現場の保護のために手袋をし、宏と蓉子にそう指示を出す大橋先生。二人が記録を開始したのを確認して、ちゃんと開ける動作と靴箱の中身が写るように立ち位置を調整しながら、靴箱のふたに手をかける。

 そこに、上履きを調達しに購買へ行っていた春菜が戻ってきた。

「ただいま。今から開けるの?」

「おかえり。ちょうど今からやな」

「そっか。じゃあ、上履きは終わってから渡すね」

「おう」

 今の状況を理解し、そう告げて邪魔にならぬ場所で待機する春菜。考えようによっては、すべての状況を把握でき、かつ靴箱の中身がしっかり確認できる特等席である。

「じゃあ、開けるぞ」

「どうぞ」

 場合によっては明確な犯罪行為になるということもあり、結果的にやたら大仰で勿体をつける羽目になった開封作業。これで中身が特に問題なく単なるいたずらで終わっていれば、新聞部あたりに自意識過剰扱いされた上で宏達がちょっと注意されて終わりだっただろう。

 だが、靴箱の中身は、色々と想像していた以上の状態になっていた。

「……うわあ……」

 一瞬の沈黙の後、あまりの惨状と一気に解放されたえげつない悪臭に、誰かが吐き気をこらえるようにうめき声を漏らす。そのうめき声に我に返った大橋先生が、やじ馬に向かって矢継ぎ早に指示を出す。

「……誰でもいい! 職員室に行って校長先生と教頭先生に連絡! 早急に警察と保健所を呼んでもらえ! あと、他の生徒はこの一角には立ち入り禁止! この周囲の靴箱を使っている生徒は、来客用のスリッパを使うように!」

 大橋先生の指示を受け、幾人かの生徒が大慌てで職員室に駆け込む。その中には、同じクラスの田村や山口もいる。さらに、職員室に駆け込んだ生徒につられるように、野次馬をしていた最前列の生徒たちが一斉に方々のトイレへと走り、他の生徒も蜘蛛の子を散らすように自身の教室や部室に移動する。

 よく見ると何人か気絶している生徒がおり、彼らをグロ耐性が高い、もしくは直視しなかった生徒たちが慎重に保健室へと運んでいた。

 そんな様子を見守っていた宏と春菜が、ぽつりと感想を漏らした。

「どうでもええけど、ようあんなデカいドブネズミ捕まえれたなあ」

「そうだよね。おばあちゃんとかおばさんたちとかが言ってたけど、最近は山の中の古い民家でもなきゃ、ネズミなんてめったに走ってないし」

「見かけんなったっちゅうんもあるけど、そもそもの話、普通に走っとるネズミなんざ、人間が簡単に捕まえられる生きもんやあらへんで。死骸見つけたにしても、よう探してきたなあ、っちゅう感じやわ」

「……これ、そういう問題じゃないでしょ……」

 大半の生徒が悪臭とグロさに吐き気をこらえている中、どこからどう見ても平常運転でどこかずれた会話をする宏と春菜。それに突っ込む蓉子だが、気持ち悪さのせいかいまいち突っ込みに切れがない。

 さすがの蓉子も、血まみれで内臓がはみ出て腐敗が始まっている複数の大きなドブネズミの死骸(一部糞尿まみれのオプション付き)となると、直視して平気、というわけにはいかなかったらしい。隙間から蟲の類が這い出してきているのが、グロさをより一層増幅している。テレビなどなら、モザイク必須のレベルだ。

 まあ、これに関しては、牧場や食肉工場などに縁がない、平均的な都会の日本人である蓉子が平気である方がおかしいのは間違いない。フェアクロ世界で散々生き物の屠殺解体を行い、さらにグロいアンデッドや悪魔、異形モンスターを数を数えるのも億劫になるほど屠ってきた宏達でもなければ、普通はこういう反応になる。

「あと、別に駆除しなきゃいけない理由もなく、食べるわけでも毛皮とるわけでもないのにわざわざ殺すのはどうかと思う。色々被害が出て駆除しなきゃいけない、以外の理由で生き物を殺すなら、せめて毛皮剥げて食べられるようにしないと」

「いや、さすがにあのサイズやと、人間が食えるところはほとんどあらへんで。毛皮にしても、こんな小さいんはパッチワークにしても色々限界あるしな」

「ん~、でも、食べる方は頑張れば多少はいけなくもないと思うよ?」

「そら、多少はな。ただ、内臓は新鮮な奴でも食わん方が無難やろうけど」

「うん、そこはわきまえてるよ」

 さらに、腐り始めたネズミの死骸を見て、食う食わないや毛皮を剥ぐ剥がない、というよりドブネズミは食えるのかどうか、素材として使えるのかどうかの話に移行する宏と春菜。フェアクロ世界で散々そういうことをしてきた名残からか、ついついそういう思考に移ってしまうのだ。

「……教師始めてから結構経つんだが、ドブネズミの死骸見て食う食わないの話した生徒持ったのは初めてだな……」

「……そのあたりの感性が一致するあたり、東君と春菜ってすごくお似合いよね……」

「あ~、私は昔からそういう教育を受けてきた感じだし……」

「春菜が普通食べないようなものでも平気で食べる種類の育てられ方してたのは知ってたけど、ここまでとは思ってなかったのよ……。まあ、それ以上に東君まで同じだったっていうのが驚きなんだけど……」

「僕に関しちゃまあ、春菜さんと仲良くなった過程でいろいろあったから、っちゅうことで……」

 あまりにハイレベルな悪食を見せつけられ、げんなりした表情でそうぼやく蓉子。大橋先生もなんとなく遠い目をしている。

「何にしても、これやったアホはあと一年もしたらちゃう生徒がここ使う、っちゅうことは一切考えとらへんなあ、間違いなく」

「そうだよね。っていうか、それをちゃんと考えてる人は、学校で備品に被害が出るような嫌がらせとかしないと思うよ」

「それもそうやな」

 大勢の人間の顔色を変えさせた事件にも特にひるむ様子もなく、そんな感想で事件をまとめようとする宏と春菜。そのあまりの大物ぶりに、言葉を失う蓉子と大橋先生。

 保健所の簡易検査でかなり危険な新種の菌が大繁殖していることが確認されてしまったこともあり、結局この日は事情聴取や健康診断、体と持ち物の消毒などで休校とせざるを得なくなるのであった。







「本当に、ひどい目にあったわ……」

「すごい騒ぎになったよね」

 宏と春菜、蓉子の三人がようやくもろもろから解放されたその日の昼休み。蓉子が、青い顔でぐったりしながらぼやいた。

「それにしても、難儀なことになってもうたなあ……」

「本当だよね」

「たまたま朝練でタイミングがずれて、さっさと教室に入ってた美香が本当に羨ましいわね……」

 第一発見者の一人ということで、意識を飛ばすわけにもトイレに駆け込むわけにもいかなかった蓉子のボヤキに、思わず労しそうな視線を向けてしまう宏と春菜。

 正直な話、フェアクロ世界に飛ばされる前だったら、宏も春菜も恐らく蓉子と大差ない状態になっていただろう。それが分かるだけに、巻き込んでしまったことが少々申し訳ない感じである。

「まあ、犯人は割とすぐにわかったみたいやけど」

「正直な感じ、やっぱり、としか言いようがない範囲ね」

「他に直接手を出してきそうな心当たりもなかったしね」

 実のところ犯人に関しては、宏達が事情聴取と検査で拘束されている間に、監視カメラの映像などからあっさり判明していた。指紋が付かないようにといらぬ工夫をしていた割には、そちらに関してはびっくりするほどザルな動き方をしていたのが非常に印象的だとは、カメラを解析した警察官の言葉である。

 なお、実行犯は春菜に一方的に懸想していた、ストーカー先輩と呼ばれている人物である。そこからいろいろ背後関係が芋づる式に出てきているが、そのあたりは一般人が首を突っ込む事ではないので、深くは触れないことで全員の意見が一致していた。

 ちなみに、ストーカー先輩の情報源となったのは、宏と春菜が仲良くしていることを快く思っていない一部のグループだった。ただし、彼らに関しては、情報さえ与えておけば後はストーカー先輩が勝手に何かするだろう、という程度の思惑でしかなく、ここまで派手なことをするとは思ってもみなかったようだ。

 情報源になった連中が、教師はおろか警察にまで、ストーカーに余計な火種を与えるなとこってり絞られたのも、実際の被害やそれ以外に起こりそうな事件を考えれば当然であろう。

「それにしても、お昼ご飯どうしようか?」

「私はパスね……。正直、まだ食欲がないわ……」

 迎えを待つ間、とりあえず昼食をどうするかについて春菜が話を振る。

 なお、迎えを待っている理由は簡単で、宏以外は靴を回収できていないからである。こういう生徒は他にもいて、その中にはさっさと教室に移動した美香も含まれている。

 その美香は、現在お手洗いで席をはずしていた。

「さすがに、今日持ってきた弁当食うんはまずいんやろうなあ」

「だよね。多分、食べても特に問題はないと思うんだけど……」

「学食とかが念のために今日仕入れた分の食材廃棄させられとるぐらいやから、密封されとるはずやっちゅうても多分弁当はあかんやろう」

「お弁当箱とか包んでた布も、徹底的に消毒するか捨てるかしなきゃいけないかも」

「やなあ」

 保健所から受けた指示を思い出し、小さくため息をつく宏達。犯人のストーカー先輩が結構あちらこちらをうろついたせいか、健康診断の結果幾人かの感染が発覚していた。正確な感染ルートの特定はこれからだが、全員が昨日ストーカー先輩と一緒に食事したり、何か飲み物を飲みながら話をしたりしていた人物なので、実際にはほぼ確定しているも同然である。

 ストーカー先輩の所業からすると、一緒に食事をしたりする生徒がいることが意外に感じるかもしれないが、彼も春菜にストーキングまがいの事をしていなければ好人物だった。そのため、幾人もの人間がその件についてたしなめ釘を刺しながらも、おごってもらえるなら飯ぐらいは一緒に食う、ぐらいの人間関係を続けていたのである。

 そうやってストーカー先輩が意図せずばら撒いた問題の細菌は、絶対ではないものの空気感染や飛沫感染をする類のものではないため、パンデミックになる可能性は皆無ではある。皆無ではあるが感染力自体はそこそこ強く、菌が付いたものを口にするとかなりあっさり感染してしまう。さらに、この細菌は妙にタフで増殖が速く、本来の生存圏である生き物の体内から生存に全く適さない野外に出ていても、通常の細菌では考えられないほどの時間生存する。

 感染しやすさだけならさほど騒ぐ必要はないのだが、この菌は比較的変異を起こしやすい事もわかっている。今後空気感染や飛沫感染を起こしやすい種に変異する可能性があり、また簡易検査では現在ばらまかれた菌がどのタイプになっているのかが分からないため、保健所が出張ってくる騒ぎになっているのだ。

 もっとも、生き物の体内に入らねばいずれ死に、また人体にほぼ害がない種類の消毒薬で簡単に滅菌できるので、今日一杯校内を徹底的に消毒すれば、変異さえ起こさなければすぐに終息するだろう。

 また、感染した生徒たちについても、発症までに二週間以上となかなか長い潜伏期間があり、潜伏期間中に治療薬を飲めばあっさり治る類の病原菌なので、命の心配はさほどないのが救いである。

 正直な話、肉体が神に至っている宏と春菜が、いくら凶悪だといったところでたかが普通の病原菌に感染して病気になることなどないが、蓉子がいる場所で口にできる事情でもない。それに、開封せずにとはいえ、すでに一度消毒液まみれになった弁当を食べるというのもあまり気分的によろしくない。

 結局、宏も春菜も出した結論は同じであった。

「まあ、君子危うきには近寄らず。不審なものは口にしないのが一番だよね」

「せやな。となると、寄り道して食うて帰れるような空気でもあらへんし、帰ってから自分で作るしかないか?」

「あ、春菜ちゃんだけじゃなくて、東君も自分で料理する人なんだ」

 丁度戻ってきたところらしい美香が、宏の結論を聞いて疑問をぶつけてくる。その疑問を聞いて、普通は自分が料理するとは思わないかと納得しつつ、宏が答える。

「せやで。僕の事情でおかんに早起きさせんのも忍びないから、基本的に平日の朝飯と弁当は僕が作ってんねんわ」

「そうなんだ。ってことは、いつも食べてるお弁当って、全部東君の?」

「今ん所、全部僕が作った奴やな」

「へえ。こういっちゃなんだけど、かなり意外ね。時間はかからないけど結構難しい料理も入ってたから、てっきりお母さんが作ってるとばかり思ってたわ」

「申し訳ないけど、あたしもそう思ってた」

「まあ、普通はそう思うわな」

 蓉子と美香の失礼な言い分に、苦笑するだけで済ませる宏。おそらく自分が蓉子たちの立場であれば、間違いなく同じ感想を持つことが分かっていたからである。

「もしかして、春菜ちゃんが東君の分のお弁当作ってこないのって、東君の方が料理が上手だから?」

「いんや。腕前だけ言うんやったら、春菜さんの方が圧倒的に上やで」

「圧倒的、ってこともないと思うよ。宏君がそう思うのって、単純に他人が自分のために作ってくれるご飯ってそれだけでも美味しいからじゃないかな?」

「そんなことないやろう」

 美香の質問を出しに、はたで聞いている分には謙遜しあいながらいちゃついているようにしか聞こえない会話を始める宏と春菜。普通なら、砂糖でも吐きそうな気分になりながらごちそうさまと言いたくなる種類の会話だが、残念ながら宏も春菜も本心から厳然たる事実として話している。

 なので、会話の内容のわりに甘い空気がほとんどない。全くない、ではなくほとんどない、なのは、謙遜しつつも春菜がどことなくうれしそうだからである。どことなくうれしそうであってもほとんど甘い空気にならないあたり、春菜の恋愛下手はいまだに改善の兆しは見られないようだ。

「……あれ? 天音おばさんから連絡? なんだろう?」

「迎えに来る、っちゅう話しちゃうん?」

「……そうみたい。今から迎えに来るって。一緒にいるんだったら、蓉子と美香も送ってくれるって。ただ、私と宏君は直接のターゲットになってるから、一旦海南大学付属総合病院で精密検査するみたい」

「なるほどな。っちゅうことは、中村さんと高橋さん先送ってから病院、っちゅうことになるんか?」

 宏の疑問を確認しようとメッセージに入力を始める春菜。そのタイミングで教室の扉が開き、天音が中に入ってくる。

「春菜ちゃんと一緒にいることも多いし、念のために蓉子ちゃんと美香ちゃんも検査しておきたいんだけど、どうかな? 最新の機器だから、診察とか医師による病理解析とかが必要なもの以外は終了後十分もあれば全部結果が出るし」

「あ~、その方がいいかも」

「っちゅうか、えらい早いですやん」

「あ、実はこの学校にね、東君が卒業するまで期間限定でうちとのゲートを接続させてもらってるの。ここは私の母校で今の校長先生とも親しくさせてもらってるから、教育委員会さえ納得してればそれぐらいの融通はきかせてくれるんだ」

「なるほど」

 天音の説明に、あっさり納得する宏。一人の生徒を特別扱いするのか、と言われそうだが、この件は本質的には学校現場の不始末に対するフォローの側面が強い。直接関与こそしていないが、文部科学省も教育委員会も宏に関してはそういう意味で脛に傷があるので、いざという時には他の生徒のフォローもする、という条件で特例を認めてもらったのである。

 今回、早速その特例が役に立ち、感染が判明した生徒は既に緊急入院して治療がスタートしている。そのこともあり、件の病院間ゲートネットワークに学校の保健室を加える、という方向で話が進む可能性が出てきている。

 何しろ、学校というのは大体において避難所となっており、避難用のゲートが常備されている。そこの設定をちょっといじるだけでいいのだからコストもかからず、災害など緊急時の効果も倍増する。

「まあ、そういう訳だから、蓉子ちゃんと美香ちゃんもついてきてね。大学病院のスリッパに履き替えたら上履きはこの袋に入れて、向こうではこのサンダルを使ってね」

「はい」

「分かりました」

 天音に促され、素直に従う蓉子と美香。そのまま先導されて体育館のゲートから海南大学付属総合病院に移動し、検査施設まで連れていかれる。

「じゃあ、検査の手続きと準備を済ませてくるから、すこし待っててね。検査が終わったら、お昼用意しておくから」

「は~い。あ、おばさん。二人に澪ちゃんを紹介しておこうかと思うけど、いいかな?」

「別にいいと思うよ。明日ぐらいからそろそろ歩く方のリハビリに移れそうだし、そんなに悲壮感漂ってたり同情されたりって感じでもなくなってるし。っていうか、そのあたりは春菜ちゃんの方がよく分かってるんじゃないかな?」

「そうだけど、念のためにね」

「だったら、春菜ちゃんの判断に任せるよ。主治医としては、どっちでもいいかなってところだし」

 丁度いい機会だからと、蓉子たちに澪を紹介する話を済ませる春菜。澪という名前に首をかしげる蓉子と美香に、ざっとどういう知り合いかを説明する春菜。

「なるほどね。とりあえず、検査の後を期待しておくわ」

「うん。ちょっと言動に癖があるけど、普通にいい子だから」

 澪を知る人間からは「ちょっとか?」と突っ込まれること請け合いの説明で話を終え、さっさと最初の検査に入る春菜。他の三人も順次名前を呼ばれ、次々に検査に入っていく。

 天音の言葉通り、一番最後に呼ばれた美香の検査が全て終わるころには最初の方に受けた検査の結果が出ていた。感染症関連はすべて問題なしという検査結果にほっとし、そのまま昼食が用意されている澪の病室へ。

 澪の昼食は既に終わっているが、体が治るにつれて食べる量が増えていることもあり、一緒に間食を用意してもらっていたりする。

 歩行のリハビリが始まれば、必要とされるエネルギーや筋肉を取り戻すために摂取しなければいけないたんぱく質の量も一気に増える。そうでなくても緩やかだった肉体の成長が活発化する兆しが見えているのだから、余程食べるものが偏らない限りは食事の量を増やすことは推奨されているのだ。

 まだちゃんとした食事が完全解禁になるまでには至っていないが、実のところ随分固形物も食べられるようになっている澪であった。

「師匠、春姉、いらっしゃい」

「こんにちは、澪ちゃん」

「調子よさそうやな」

「ん、体調的には割と絶好調。それで、そっちの人たちが?」

「うん。髪が長いほうが中村蓉子、ショートカットで背が高いほうが高橋美香。どっちもすごく大切なお友達」

「ちなみに、前に話に出た三大お姉さまっちゅうんは、この三人な。っちゅうても、半分ぐらいはもめ事終わらせる落としどころに使っとるだけで、残り半分は九割以上のネタ成分にほんのり本気を混ぜて言うとる感じやけど」

 ほんのり本気、という言葉にとても嫌そうな表情を浮かべる春菜達三大お姉さま。時折、ほんのりでは済まないのがいて、背筋が寒くなるような体験をさせられることが多々あるのだ。

「……ん。とりあえず、三大お姉さまについてはなんとなく納得した。春姉たちだったら、十年後は三大お母さま?」

「あのねえ。十年後って、普通に全員就職してるわよ。いくらなんでも、そういうノリが通じる集団に三人そろって所属してるとかありえないでしょうが」

「知らないところで呼ばれている可能性が微レ存」

「仮にそうだとして、じゃあどういう集団だったらアラサーの女三人をまとめてそういうくくりで呼ぶのか、具体例を挙げてみなさいな」

 なかなかに厳しい蓉子からの突っ込みを受け、目をそらしながらならない口笛を吹いて誤魔化そうとする澪。この時点で、しっかりと澪の性格を理解してしまう蓉子と美香。

 恐らく健康的な肉付きを取り戻せばかなりの美少女になろうというのに、春菜と別方向で実に残念な性格をしているらしい。この年ですでにこれとなると、周囲の大人たちの苦労がしのばれ、蓉子も美香も思わず心の中で黙祷をささげてしまう。

「あと、お姉さまというなら、パーソナリティも肉体も基本的に男性なのに、女装が似合ってそこらの女より女らしいエレガントな男のお姉さまが一人ぐらいほしい」

「澪ちゃん、一応初対面の相手の前なんだから、そろそろちょっとは自重しよう?」

「ん、了解」

 なんだかんだと言いながら、ちゃんと春菜の言うことを聞く澪の様子を見て、互いにしっかりした信頼関係を築いていることまで察する蓉子と美香。宏とのことが分かった時にも感じた複雑な感情を、思わず澪に向けても抱いてしまう。

 そんな複雑な気持ちも、この後の澪を交えた食事ですぐに消え去り、春菜どころではない澪の残念さと宏達のこの後の予定にすっかりあきれて遠い目をすることになる蓉子と美香であった。
予定通り、がんばりどころがおかしい春菜さんでしたとさ。

あと、感想で指摘があったので追記しておきますが、この日本だと、都市部の一般人が直接目撃しない程度にはドブネズミは減っています。理由はもう、駆除技術の進歩ということで。
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