サカナタウンにて
僕の住む町には魚がいる。
そう、あの魚。海や川でずっと泳いでいる、アレ。別段、珍しい生き物ではない。取り立てて思う事でもない。ただ、この町の魚は少しだけ変わっているのだ。
僕が生まれ、今現在も住んでいる町、空木野。
山に囲まれてて、坂道がやたらと多い。小さなゲーム屋はあるがゲームセンターはない。デパートはないがスーパーならある。高校まではあるが大学はない。遊べそうな場所と言ったら、山か川。お世辞にも素晴らしい町だ! とは言えないし、色々と不便なところだとは思う。けど、嫌いじゃあない。何だかんだでこの十六年、ここで生まれ育ったのだから、愛着が湧きはしても憎むなんて事はない。不便だと言っても、慣れれば良いのだし、大体、僕なんかは最初からここにいたのだから当たり前としか思えなかった。空木野に文句を言うのは、大概が観光客か、違う場所から引っ越して来た人ぐらいのものである。
そう、観光客。見るところなんか何もない。けれど、空木野にやってくる観光客は後を絶たないのである。
何故なら、この町には魚がいるからだ。
「じいちゃん、行ってくるね」
「……おおーう」
しゃがれた声が家の奥から聞こえてきたのを確認して、僕は玄関の引き戸を閉める。腕時計に目を遣ると、午前、八時前を指していた。
今日の陽射しはまだ優しい方だ。僕の家は坂の上に建てられた、どこにでもある、何の変哲もない平屋である。そんな事はないんだろうけど、坂の上にあるから太陽がやけに近く感じられてしまうのだ。……尤も、正確に言えば僕の家ではなく、僕のじいちゃんの家。
今、僕は母方のじいちゃんと二人で暮らしている。生まれた時からここに住んでて、父さんと母さんもいたんだけど、いつの間にかどこかへ行っていた。一人息子の僕を置いて、である。良いけど。それでも僕を産んでくれた人たちなので、子供の時にそれとなくじいちゃんに聞いたら、二人はよその町で暮らしているらしいと教えてくれた。
だから、僕はずっとじいちゃんとばあちゃんと三人で暮らしていた。三年前までは。ばあちゃんが死んでから、そろそろ三年が経つ。優しかったばあちゃんが死んだ時は悲しくて悲しくて、ずっと泣いていた。けど、一週間くらいで僕はけろりとしてたように思う。人間って素晴らしい。それこそ、どんな状況にだって悲しくもならないくらいに慣れてしまうものなのだ。
僕はズボンのポケットから原付の鍵を取り出す。校則では原付に乗る事はおろか、免許を取る事すら禁止しているけど。けど、去年の夏、こっそりと隣町まで免許を取りに行った。一発で合格出来たのは、久しぶりに嬉しくて、我ながら良くやったと思ったものである。
僕の通う学校、空木野高校はここから坂を下って、小さな商店街を抜けて、もう一つ坂を上っていった先にあるのだ。遠いし、疲れる。ふふん、だからこその原付なのだ。僕は庭先に停めてあった愛車のシートをぽんぽんと叩き、調子を確かめる。こいつとはもう一年の付き合いになるが、こんな事をしただけじゃあ、やっぱりさっぱり分からない。
アイボリーホワイトのベスパが僕の愛車だ。詳しくは知らないのだけど、こいつはビンテージシリーズだとか何とかで少しは人気があったらしい。信頼の置ける友人に言ったところ、羨ましがられたので柄にもなく天狗になったのを覚えている。……尤も、正確に言えば僕のではなく、これは父さんが置いていったものだ。庭の片隅に、まるで乗り捨てされていたかのようにそこにあったそれを、ちょっとしたオブジェとして認識していたのは去年までの事。今では僕の足であり、通学路を共に行く相棒なのだ。
が、アイボリーホワイトなんてどうにも聞こえが良過ぎる。年月が経って塗装は剥がれてしまい、雨風に晒されていたせいか所々が錆びている。すぐに調子は悪くなるし、国産のと比べれば燃費は悪い。どれだけ手を掛けて整備してやっても、うんともすんとも言ってくれないのもざらだ。それでも手放そうとは思わない。新しい奴を買うお金はないし、一応は、父さんのものなのだから、勝手に処分するのは躊躇われる。
鍵を回すと、今日は素直にエンジンが掛かってくれた。これだけで、僕の気分は大分良くなる。ゴーグル付きのヘルメットを被り、ハンドルを握る。さあ、出発だ。
坂道を半分ほど過ぎたところで、僕の愛車は力尽きたような音を立てる。ぷすんぷすんと、人を舐め切ったようなふざけた音だ。
「ポンコツめ」
軽く蹴飛ばし、僕は溜め息を吐きながらシートを降りる。ヘルメットは外さないままゴーグルだけを上げて、空を仰ぎ見た。鰯の群れが雲を食むのが見えて、これが本当の鰯雲、とか思っちゃったり。……尤も、じいちゃんから聞いた話では、鰯雲と言うのは鰯の群れの形に見えるから鰯雲というのではなく、鰯がたくさん獲れる時期に見られる雲だから、との事である。それよりもどうしよう。一旦、家に戻ろうかな。……いや、良いや。このまま行っちゃおう。
僕はポンコツに跨り、足でコンクリートを蹴った。ゆっくりとではあるが、ポンコツベスパ君は少しずつ道を下っていく。この坂じゃあ、滅多に車が走らない。よそ見は危ないけれど、僕はガードレールの先に目を向けた。
眼下には青々とした緑一色。この辺りは僕の家と同じく、木造の平屋ばかりが連なっている。坂を下ってもう少し進めば、洋風の住宅、建物も見えてくる。けれど、僕はここから見る景色が一番好きだ。見上げれば白い雲、青い空、忌々しい太陽、鰯の群れが鮫に食われる。少し視線を落とせば瑞々しい木々と、見ているだけで落ち着く日本家屋。進行方向、正面に目を戻せば、虫取り網を持った女の子。
「うわあ!?」
スピードは出ていなかったが、こんな鉄の塊がぶつかるとただでは済まないだろう。僕は両足を道路に着けて踏ん張り、女の子のちょうど目の前で止まる事に成功した。
「あっ、危ないじゃないか」
よそ見をしていたのは僕もそうだけど、お互い様だと開き直り。
女の子はぼんやりと空を見上げていたが、暫くして、こっちに顔を向けてくれる。僕よりも背は低いが、彼女のきりっとした目鼻立ちは大人っぽくて、僕よりも年上に見えた。女の子は白いTシャツとジーパンというラフな格好に、やたら大きなリュックサックを背負っている。こんなところで何をしているんだろう。もしかして、観光客だろうか。その割には、やけに荷物が多いような気もするけど。
「お、ベスパじゃん」
虫取り網を放り出した女の子は僕の愛車にべたべたと馴れ馴れしく手垢を付けていく。
「うおー、カッケーなあやっぱり。いや、こんなところで見れるとは思ってなかったなあ」
無視されたので文句の一つでも言ってやろうと思ったのだけど、かっこいいと言われて悪い気はしなかった。けど、かっこいいのは僕じゃなく愛車だという事に気付いて、憤慨。
「あのさ、何か言う事があると思うんだけど」
「ん?」
こういうのは先に謝った方が負けだと聞く。
「んー」
女の子は愛車から手を離し、困ったように空を見た。
「あのさ、何で魚が飛んでんの?」
「……え?」
僕の住む町には魚がいる。
ただし、水の中を泳いでいる訳じゃない。ここ、空木野の魚は空にいる。言うなれば、空を泳いでいるのだ。その種類も様々で、鯵や鯖、鱈なんかの海水魚。鮎や鯉といった淡水魚。汽水魚や熱帯魚に深海魚、あと、鮫。とにかく、並の水族館よりもバリエーションは豊かで、悪く言えば大雑把だ。その上生態系なんかは無茶苦茶である。一応、季節によって魚たちはいなくなったり、いたりするのだけど、この間ブラックバスを見つけた時は戦慄したものである。ちなみに、僕は小学校に上がる頃には大抵の魚の名前を空で言えるようになっていた。同年代の友人には、その辺の図鑑よりも魚に詳しい奴がいる。
何もない筈の空木野に観光客がやって来るのは、魚たちを見る為である。……尤も、彼らには見えない。観光客が見られるのは小さなゲーム屋だったり、到るところにある坂道だけだったりする。
僕たちにだけ見えるのだ。空木野で生まれ、育った者にだけ魚は見える。よそから引っ越して来た人にも見えない。ずっと昔から、ここにいた者にだけ魚たちが見えるのだ。
何故と尋ねられても困る。
どうしてと小首を傾げられても何も答えられない。
この町の人間にとっては空を泳ぐ魚がいて、見えるのが当たり前で、むしろどうして見えないのかが分からないのだから。
年々、よそから来る人は減っている。一時はテレビ局や新聞社の人たちが撮影にも来たのだが、残念ながら彼らの目はおろかカメラにさえ魚が映らないし写らないのだ。そのせいで、空木野には嘘吐きしかいないだとか、詐欺師集団だとか謂れのない汚名を着せられた事もある。しかし、空木野の空を泳ぐ魚ブームはとうに去った。今では、冗談半分で空木野にやってくる観光客が殆どである。全く、酷い話だ。
子供の頃にそういった影響を受けたせいか、僕は観光客やよそから来た人が嫌いである。閉鎖的な考えかもしれないが、仕方ない。
「魚、飛んでんじゃん。見えないの?」
女の子は空を指差し、それから、僕を指差した。
僕はヘルメットを外して、空を見る。当たり前だが、魚はたくさんいた。
「いや、そりゃ見えるけど」
「何で?」
「何でって、何が?」
「いや、だからさ、何で飛んでんのよ?」
虫取り網を突きつけられる。僕は虫じゃない。網を被せようとするな。
「知らないよ。見えるものは見えるんだ。それより……」
僕はあまり人付き合いが得意じゃない。でも人の顔を覚えるのは苦手じゃない。この女の子は、今日、初めて見る子だ。今までに見た事がない。第一、この町の人間じゃないから魚について聞いてきたのだろう。
この町の人間じゃない。でも、女の子は魚が見えると言った。もしかしたら彼女には虚言癖があるのかもしれないが、見ず知らずの僕の気を引きたいんだとは思えなかった。
「どうして、君にも魚が見えるの?」
女の子は「はあ?」 と怖い顔でこっちを睨む。その眼力に、僕は思わず視線を逸らしてしまった。
「見えるもんは見えるんだから仕方ないじゃん」
そっくりそのまま返された気がして、僕は少し悔しくなる。
「なあ、何でここの人たちはフツーなのよ。魚が空にいんだよ? フツー、もっとこう、ワーってならない?」
「だって、それが当たり前なんだもん」
「はーっ、そういうもんかなあ。私はすっげえテンション上がってんだけど」
「ああ、だから」
僕は女の子の持つ虫取り網を見て納得した。なるほど、だからこんなものを持って坂道を上ってきたのか。暖かくなってきた、どころか暑くなってきたし、そういう人も増えてしまうのだろう。
「だから何よ? ……あ? この網?」
「うん。何それ、君の武器?」
「はあ? つまんねーよバーカ」
随分と堂に入った罵りぶりである。
「私は、こいつで魚を捕まえに来たんだよ」
僕は思わず、くすくすと笑ってしまう。「何笑ってんだ」と頭を殴られた。
「私にとっちゃあ死活問題だ。お前、人が死にそうな時に笑うのか? ひっでえ奴だよ、お前」
「え、君、死ぬの?」
「誰が死ぬか!」
ちょっとこの人頭おかしい。
「だって、死活問題とか言うから……」
「まあ、魚が取れなきゃもうすぐ死ぬかもしれねえな。餓死で」
餓死? この時代に、餓えて死ぬだって? 何か、変な人だな。浮世離れとまでは言わないけど、けど、確実に浮いている。
「まあ死なねえと思うけど。その気になりゃあ何でも出来るし。ほら、坂の上の方に家が見えるだろ。やばくなったらテキトーに襲うわ」
そこは僕の家だ。
「ここの奴らは良いよな、腹が減ったら魚取り放題の食い放題じゃん」
「いや、食べた事ないから」
「はっ? お前、魚食った事ないの?」
「いや、あるよ」
何を言ってんだこの人。
「食べた事ないって言ったじゃん!」
「あ。あ、そうか。じゃなくて、食べた事がないのはそこの魚」
僕は空を指差した。女の子はつられてそっちを見る。
「スーパーに売ってるような魚は、ここの人たちだって普通に食べるよ」
「バッカじゃねえの? 魚なんてその辺にうじゃうじゃしてんだから、買う必要ないじゃんよ。ちょっと手ぇ伸ばせば届くじゃん」
「届かないよ」
「じゃ何か、本気で食った事ねえのか」
「少なくとも、僕は食べてない」
食べる気もない。
「ふーん。はあー、そっかそっか」
女の子はうんうんと頷き、それからもう一度空を、いや、魚たちを見た。
「んじゃあ、私が世界で一番最初に空飛ぶ魚を食う女って訳だ」
いや、それはどうだろう。じいちゃんやばあちゃん、僕の友人は食べた事がないらしいけど(そりゃそうだ)、僕が知らない人や、僕が生まれる前に死んじゃった人たちの中には、あそこにいる魚を食べた剛の者がいるかもしれない。
「えーと、がんばって」
「おう、お姉さんがんばっちゃうよ!」
まあ、わざわざ指摘する必要もないし、止める権利も理由もない。どうせ、あんな網なんかじゃ捕まらないし、そもそも魚は空にいる。幾ら高いところに上ったって手が届く筈もない。と言うか、早く学校に行かなきゃ。更に言えば遅刻だ。僕はいつも原付で坂を下って、商店街の中にある駄菓子屋の裏に停める(勿論、店主のおばあちゃんには許可を得ている)。学校まで原付で行ったらばれちゃうからなんだけど、学校まで原付で行ったところで時間的にはぎりぎりアウトと言ったところだろう。
女の子は網を肩に担ぎ、元気いっぱいに坂道を上っていく。
僕は原付に跨り、坂道をゆっくりと下っていく。
また会うかもしれないけど、その時は無視しよう。今更だけど、あまり関わらない方が良いタイプの人だし。
授業が終わって、友人たちとだらだら話をして学校を出ると、陽はとっくに暮れ始めていた。
坂道を下っていくと、橙色に染まった町並みが僕の視界に飛び込んでくる。ここからじゃ判別し辛いけど、魚の群れが向こうの山へと泳いでいくのが見えた。別段、珍しい光景ではないけれど、何故だか今日は、とても綺麗に思える。
いつもよりもゆっくりと歩き、駄菓子屋のおばあちゃんに挨拶、お礼を言って愛車に駆け寄る。ぽんぽんとシートを叩いて、エンジンを掛ける。掛からない。鍵を回してもエンジンは掛からない。おばあちゃんが心配そうにこっちを見ていたので、大丈夫ですと告げて、ポンコツを押して帰る事にした。
シャッターが閉じていく商店街を抜けると、僕の目の前には坂道が待ち構えているのであった。ここを押して帰るのか。やっぱり、憂鬱だな。
僕はシートを開けて鞄を取り出し、その中から財布を抜いた。ポンコツを押しながら自動販売機に向かい、溜め息を吐く。邪魔にならないところに鉄の塊を置き、少しだけ迷ってから炭酸飲料を選んだ。スカッとしたい気分だったのである。
ジュースを半分ぐらい飲んだ頃だろうか、ふと坂の方を見ると、誰かが下りて来るのが見えた。珍しい、この時間にここを通るのは誰だろう。何となくその人影を見ていると、そいつと目が合った。合ってしまった。虫取り網をぶんぶんと振り回しているのは、恐らく、僕に手を振っているからだろう。
気付かれてしまったのだから仕方ない。僕は観念して、原付のシートに腰を下ろした。
「いよう、奇遇だなあ。何、どこ行ってたのよ?」
女の子は今朝別れた時と同じく、元気いっぱいだった。
「学校」と短く答えて、僕はジュースを飲み干す。ごくりと喉が鳴って、気恥ずかしくなった。
「学校楽しい?」
女の子は原付の傍に荷物を置くと、自動販売機の前に立って唸る。
「楽しいよ」
「んじゃ、ジュースおごってくれよ」
「え、嫌だよ」
「そう言うなよ、知らない仲じゃないんだしさ」
「僕と君は殆ど他人じゃないか」
歯を見せて笑う女の子は、「しょうがねえな」と呟き、リュックサックを開けてごそごそとやり始めた。何か出すつもりなのだろう。……もしかして、ピストルとか出してくるんじゃないだろうな。いや、出しそう。出てきてもおかしくない。そう言えば、強盗に入る、みたいな事も言ってたし。家に押し入るからには、やっぱり何か武器になるようなものを持っているのではなかろうか。
「あ、あの……」
ジュースくらいおごろう。命を取られたり、脅されたりするよりはマシだ。
「ほら、これをやるからさ」
「……?」
女の子がリュックサックから出したのは、ピストルでもバットでもない。スナック菓子の袋である。しかもコンソメ味のポテトチップス。僕の好きな奴だった。
「あ、でも、半分ぐらいは分けて欲しいなー」
「良いよ。おごるよ」
「えっ、マジで! 良いのか!?」
ジュースぐらいでこんなに喜ぶ人、初めて見た気がする。
「何が良いの?」
「んー、お前と同じ奴。人が持ってるもんってさ、妙に魅力的に見えるよなー」
同意を求められているのだろうか。分からないから、僕は答えなかった。
「そう言えば、取れたの?」
「へ、何がよ?」
「いや、魚」
女の子はえへへと笑い、
「アレは無理だわ。だってさ、空にいんだもん」
当たり前の事を口にする。
「そんかし餓死は回避出来たぜ」
「ふうん」
「坂の上にあった家を襲ったからな」
「……冗談でしょ?」
「当たり前だろ」
良かった。ちょっと、いや、かなり驚いた。それぐらいやりかねないような人に見えるからなあ、この人。
「けどさ、そこのじーさんにタダ飯食わせてもらったぜ」
「冗談でしょ?」
「いや、マジマジ。ソーメンとおにぎり食わせてもらった」
冗談だろ、じいちゃん。
「それから、こいつをもらった」
女の子が誇らしげに掲げるのはコンソメ味のポテトチップスだ。うん、それ僕の。
「おかしな町だと思ったけど、良い奴もいるもんだな。いや、捨てたもんじゃねえなあ」
言いつつ、女の子は菓子の袋を開けて、中身を口に流し込んでいく。
「……くれるんじゃなかったの?」
僕はジュースを女の子に手渡し、彼女は蓋を開けて一気飲みし始めた。豪快だった。
「ぷはーっ。……あー、いや、ごめんごめん。忘れてた」
「別に良いけどさ」
「あっそ。それよりお前、家どこよ?」
答えに窮する。嫌な予感がしたからだ。
「だってさ、坂の上には家、いっこしかなかったぜ。あ、もしかしてお前、あのじーさんと一緒に住んでんのか?」
「いや、違うよ」
僕はあらぬ方向を指差して、女の子からは顔を背ける。
「僕、天狗だから山に住んでるんだ」
「マジで!? すげえっ! 私テングとか初めて見た! やべえ世界で一番最初にテングを見た女になったかもしれないっ」
し、信じた?
「でも鼻長くねえなあ」
鼻を摘まれる。
「嘘だろ」
「うん」殴られた。
「嘘は良くないよー、嘘は」
君だって嘘を吐いたくせに。
女の子は空になった袋と缶をゴミ箱に入れると、うーんと体を伸ばした。リュックサックを背負い、網を持つ。彼女はどこかへ行っちゃうんだなと、何となく思った。
「じゃあなピノキオ」と声を掛けられて、僕は「さよならジプシー」とかっこつけて返す。振り向かないでポンコツを押して、坂道を上り始めた。
「なあ」
女の子が呼ぶ。僕は振り返らずに立ち止まった。彼女は軽快な足音を連れてくる。
「何で走らせないのよ?」
今朝、会った時と同じように、女の子はべたべたとベスパのボディに手垢を付けていく。
「調子が悪いんだ。こいつ、もうじいちゃんだからさ」
「ふうん」とつまらなさそうに鼻を鳴らすと、女の子は僕の愛車に蹴りを入れた。突然の事で反応出来ない。彼女は尚も鋭いトーキックの雨をポンコツ君に浴びせていく。がこんがこんどすんどすん。あ、ボディがちょっと凹んだ。
「うわ、ちょ、ちょっと!」
「ん? 何よ」
「蹴らないでよっ、壊れたらどうするんだ!」
「エンジン掛けてみ」
「え?」
「良いから掛けてみ」
にししと笑う女の子。僕は彼女の言うとおりにエンジンを掛けてみた。すると、さっきまでだんまりだったベスパが嬉しそうな音を立てる。
「な?」
俄かには信じられないが、ポンコツはやる気を取り戻したらしい。なるほど、時には鞭打つ事も大切だったのか。
「あ、ありがとう」
「ゆあーうぇるかむ。んじゃあな」
女の子はゆらゆらと手を振って背を向ける。僕は咄嗟に、彼女を呼び止めるように、大きな声を出していた。
「あのっ! どうして、動いたの、かな」
「はあ? 動くもんは動く。そんだけだろ」
尤もである。違う、言いたいのはそんな事じゃない。
「君は、どこへ行くの?」
女の子はくるりと振り向き、
「魚が食えるところ」
そう、言った。
「魚、好きなの?」
「おう、今はな。お前は好きかー、魚」
「実はあんまり。小骨を退かすのが面倒でさ」
「勿体ねえの。ウマイのに」
「ねえ、またここに来る?」
「んー」女の子はぽりぽりと頭を掻き、躊躇いがちに口を開く。
「魚、食わせてくれるんなら」
「うん。分かった」
僕は愛車に跨り、ヘルメットを被った。
「じーさんによろしく言っといてくれな」
「……う、うん」
女の子は聞いた事もないような歌を口ずさんでいる。
僕はゴーグルを装着して、愛車を発進させた。
「おおっ」と言う声が聞こえたので空を見る。雲の中から鯨が姿を覗かせていた。鯨って、魚だったっけ。
僕の住む町には魚がいる。たまに鯨も出る。まれに変な人も出る。観光客は文句とゴミだけを残して去っていく。
「ただいま、じいちゃん」
「……おおーう、おかえり」
家の奥からしゃがれた声が聞こえたのを確認して、僕は戸締りをする。靴を脱ぎ捨てながら尋ねた。
「晩御飯はー?」
少ししてから、
「さんまの塩焼きとなー、昼の残りだあ」
と、嬉しそうにじいちゃんが言う。「げっ」と、僕は蛙が潰れたような声を出した。
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