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天文23年夏 4

寒天は、日本の特産品だった。

発明した人物も、その状況も分かっている希有な食品でもある。

良之たちのいる天文23年(1554年)から130年後の江戸時代、貞享2年(1685年)の京都伏見。

美濃屋太郎左衛門は旅館美濃屋の当主だ。彼は島津の当主の参勤交代のもてなしに、その頃京で流行していた天草で作ったところてんを饗した。

余ったところてんを終夜屋外に放置していた所、翌朝には偶然、フリーズドライ状態になっているのが発見されたのである。

美濃屋はこれを再び水で戻してみた。すると、今まで食べていたところてんより遙かに美味なものになっていた。

見た目のつやがきめ細かく美しい上、従来の乾燥させたところてんに残っていた海草の乾物臭さが抜けていたのだ。


第二次大戦直前まで、全世界で使用される寒天は、ほぼ日本製だった。

寒天は食品としてだけで無く、医療分野で細菌の培養に用いられていた。

非常に重要な商品だったのである。


寒天の一大生産地は信州だった。

原料となる天草は、伊豆や紀伊半島の海岸で採取され、浜でしっかり乾燥させて圧縮して陸路、信濃に送られる。

言うまでも無く、海草である天草は、土地の海女によって収穫される。

春から秋にかけてたっぷり収穫された天草は、厳冬期の信濃の農民によって寒天へと加工された。


乾燥保存された天草はしっかり洗浄され塩分と砂を取り除く。

その後2昼夜水にしっかり浸して戻される。

戻した天草は巨大な釜で半日間煮上げて、天草から寒天液を抽出する。

抽出された寒天液は、木綿の漉し袋に入れられて、上に重しをかけて絞り出される。

寒天液の状態では大量の天草の残滓が残っているが、ここで漉されると、夾雑物は取り除かれる。


この時点では寒天液の色は、天草の色である赤紫色だ。

寒天成形用の四角く大きな桶に寒天液を張り、室温で丸1日寝かせると、寒天液は凝固する。

この凝固した寒天を荷姿の大きさに切断し、露天に2週間晒すと、乾燥と凍結を繰り返し、天然のフリーズドライ状態になる。

また、直射日光に晒すことで天草の色素が漂白され、美しい乳白色に落ち着く。


良之は太平洋側の商人たちにこの天草採集を推奨させ、費用を出し漁師の妻子などを海女として動員させた。

また、信濃の諏訪から伊那にかけての農民たちに設備と知識を提供し、寒天作りを教えた。

実稼働は今年の冬からになるだろう。


真空引きした大釜があれば、工業的にフリーズドライは実現できる。

まずは業務に携わる全ての者達に、良之はところてんやあんみつを振る舞った。

自分たちがこれから作る食品の真価を知って欲しかったのである。


言うまでも無く、富山御所にいる女性陣や、信長、晴信、不識庵ら「二条軍」について検討を続けている幹部たちも余福に預かった。

男性陣には三倍酢のところてんが高評価だったが、女性陣には黒蜜のところてん、そして何よりあんみつが大好評だった。

「信濃の寒天作りが成功したら、いつでも食べられるようになるよ」

試作品を全て食べ尽くされた良之はそう言って、陰に陽に再生産を要求する一同をいなしたのだった。


信濃国司中務大輔義康は、この一件における最大の被害者だった。

「中務殿」

富山御所を歩く義康を呼び止めたのは越後殿、お虎御前だ。

「これは」

主君の側室に義康は一礼する。

「御所様から聞いたんだけどねえ。寒天、あたしはあれが大好きなのさ」

「は? はぁ」

「御所様は冬になったらたくさん作れるって言ってるんさね」

「はい、聞き及んでおります」

「……はやく食べたいねえ」

「……越後殿。御所様からは、諏訪湖が凍る季節にならねばはじめられぬ、と聞いております」

「ああ、そうだったねえ。とにかく、楽しみにしてるよ」

ほっとため息をつき一歩踏み出そうとした中務の目の前に、北の方が微笑んで立っていた。


「ふう」

女性陣からの笑顔の圧迫外交を凌いで、織田加賀守たちとの会合に出席した中務は、ほっとため息をついた。

「中務殿」

顔を上げると、そこには満面の笑みの信長と晴信、無表情の不識庵が待っていた。

「あのところてん、美味しゅうございましたなあ」

「さよう。わしはあのあんみつとやらが恋しゅうござる」

「ほう、不識庵殿は甘い方もいけるのですなあ」

「わしはくろみつ掛けのところてんが一番ですな」

なんと恐ろしい、中務は青くなった。

織田信長と武田晴信と長尾不識庵が、寒天などというもののために共謀しているのである。


「御所様、お助け下さい」

その晩、木曽義康は良之に泣きついた。

「全くみんなしょうがないな」

良之は苦笑して、錬金術による合成を承知した。




良之が虎視眈々と食のブームを起こそうと企んでいる分野は「卵」だ。

冬場に向けて、良之はおでんの開発に入っている。

冬の味覚を真夏に準備しなければならない理由は、竹串だった。


美濃から越中・越後にかけての一帯は、良質の竹が多く手に入る。

ゆえに古来から竹細工の盛んな地域だが、良之は主に山方衆のリタイアした老人たちに依頼して、徹底的に竹串のプロダクトを殖産した。

猿倉衆に卵や鶏肉の増産をさせ、ミンサーで鶏つくねを生産させる。

また、竹串を使った牛すじも作らせ、真空パックで冷凍庫に保存させる。

越後屋に命じて蝦夷地からの昆布の仕入れを強化させ、さらに能登や加賀の漁師たちに白身魚を獲らせては、薩摩揚げやはんぺんなどの加工を教えて保存食化させていく。

揚げ物用の大釜やフライヤー、鉄製の菜箸やトング、揚げ物用の網、ボウルなども生産ラインを確立して、網元たちのうち乗り気な者達に提供していった。

こんにゃくは甲斐の水利が悪い荒地で換金作物として作らせる。足りない分は上野など関東一帯からかき集めた。


豆腐は京都から職人を呼び寄せ、油揚げやがんもどきの製造を研究させた。

そして、普及のための料理人は言うまでも無く、木下智である。

だしは鰹節と昆布。出しがら昆布は当然、結び昆布として具に加える。

おでんの評価も上々だった。

良之の狙い通り、徐々に宗教的忌避感より、美食の欲求が庶民に広がっていく。


この時代の食生活は、汁と米を中心にしたご飯。それに干物や野菜の漬け物と言った貧相な栄養状態だった。

この栄養状態の改善にうってつけなのが食肉だ。


猿倉衆の最大限の努力によって、良之やフリーデ、アイリといったビーフステーキ派にとっては満足のいく牛肉が冷凍庫には積み上がっている。

だが、なかなかシェアが増えない。


とにかく食肉への忌避感に勝つには、美味を提供することだ。

良之が次に投入した食品。それは、親子丼、カツ丼、そして焼き鳥だ。


ステーキで肉の姿に抵抗感をもたれることを悟った良之は、極力肉のイメージが和らぐ食べ物で徐々に浸透させていこうと考えたのである。

串を量産させたことの狙いもまた、ここにある。


良之の記憶では、焼き鳥は老若男女まんべんなく好まれる食品だった。

親子丼やカツ丼も、同様に日本人に広く愛されていた食品だった。

どちらも、醤油と出汁をメインに酒やみりん、砂糖を使用して調理される。

カツ丼のどんぶりについては、美濃の焼き物職人たちに大量に発注した。

また、どんぶりの普及に併せて牛丼も提供されはじめた。


「滋養強壮によい」

と良之は積極的に、もはや布教と行ってよいほどに牛丼を推奨した。

ステーキに抵抗を示した層にも、意外に牛丼は好評だった。


「獣臭さが少ない」


というのがどうも理由だったらしい。

この頃には、甘酢に漬けたいわゆる「ガリ」や、赤梅酢に漬けた「紅しょうが」も薬味に加わった。

さらに、甲州で水田農から離れさせた農民に推奨した梅干しや甲州小梅は二条領で大好評を博している。

特に甲州小梅は食べやすさやおにぎりへの使いやすさから爆発的人気を得て、武田晴信は大規模な果樹園への転作が指示できることになった。


また、能登の輪島塗職人たちに量産を依頼したのが天丼やうな重のためのお重である。

これらの新たな食生活は、全て富山御所から発信され、同心円を描くように徐々に近隣諸国に伝播される。

新しい調理技術を学んだ職人は数ヶ月単位で加賀、能登、飛騨、越後、信濃、甲斐、美濃の各主城に派遣され、まずは在城の士族たちから順に新文化として広がっていく。




旧暦8月。

良之は柏崎で、ナフサを原料にした合成ゴムの工場を建造していた。

急激に発展する二条領の底を維持するため、いよいよゴムタイヤの開発に着手したのである。

ゴムタイヤは、本来であれば合成ゴムと天然ゴムを半量ずつ使う方が好ましい。

天然ゴムの方が転がり抵抗が少なく、また、合成ゴムの方が品質が均一で寿命が長い。

これら原料ゴムを、加熱したローラーで何度も圧力を加えつつ混ぜ合わせ、さらにここに石炭や石油の精製で生まれるカーボンブラックや硫黄、それに加硫促進剤を加える。

紫外線によって劣化する性質を持つゴムの寿命を延ばすため、化学物質や油脂も加えられ、何度も混ぜ合わされる。

そうして製造したタイヤのゴムは、ナイロン製の芯布に貼り付けられ、タイヤとして成型製造されていく。


良之のタイヤ事業のスタートは、牛馬や人力で扱うリアカーの車輪からである。

車輪は自転車と同様のハブとスポーク製。

チューブ式の空気タイヤで、ベアリングを用いることで転がり抵抗を抑える。

シャフトは鋼鉄製。従来の木製のいわゆる「大八車」に対して、鋼鉄製でありながらむしろ軽量で、労力も圧倒的に小さくなる。

アスファルト舗装がされていないこの時代の道路においては、大八車は非常に過酷な輸送具だった。

車自体が自重があまりに重い。上に乗せる荷物の荷重に耐えるため、全ての構造材が頑丈で大きくなるためだ。

さらに車輪もシャフトも木製のため、製造には熟練した職人が必要になる。

木製の車輪やシャフトは壊れやすく、壊れると直しづらい。


すでに二条領にはアーク溶接があるため、鋼鉄のパイプ材同士の溶接が可能になっているため、リアカー製造においてネジ止めやリベット止めより堅牢な構造生産が可能になっている。

むしろ、大八車よりリアカーの方が製造コストも工期も短いのである。


プロダクト開始当初からリアカー生産は圧倒的な人材投入をしていた。

だがそれでも生産は需要に追いつかなかった。

二条領においては、軍のみならず商家、工場、それに富農がこぞって欲しがり、生産より予約の方が上回る状況がこのあと数年続くことになる。



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