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天文22年夏 1

良之からの話を聞いて、長尾景虎は悄然と力を落として春日山城に戻っていった。

殊に、

「他国に兵を出す暇があるのなら、国人が二度と反乱などしようと思わなくなるような、豊かな国にして見せろ」

と言われたことが景虎を打ちのめした。


景虎は再び陸路、越後から越中新川郡に入り椎名家を訪ね、その足で新川を超えて富山城下に入った。

川を越えた途端に、庶民たちの着ている服、肌のつやが明らかに違うことに景虎も気づいていた。

しかも、農民たちが持って居る農具は、品質が明らかに越後とも、椎名領とも異なっている。

高品位でぜいたくに鉄を用いて作られているのである。

さらに、二条領に入った途端、そこかしこで道路の普請が行われ、蔵や長屋が建設され、さらには見たことの無いコンクリートと呼ばれる素材によって護岸治水工事が行われている。

最初は泥のようなコンクリートは、乾燥すると岩のように堅くなると言う。


さらに進むと、二条領では積極的に河川に橋を架けている光景をよく見ることになった。

聞けば、二条の御所様の指示だという。


景虎は岩瀬から船で直江津に引き返し、春日山に戻った。

そして、小笠原を富山に送り出す一行に村上義清を同道させ、つぶさに富山を見聞してこいと命じた。

渋っていた村上もやむなく富山に向かい、景虎と全く同じ感想を抱いた。

そして、織田上総介指揮による軍事調練を見て、やっと良之の配下に加わる決心をするのだった。


小笠原信濃守は、二条家の家臣団に礼法を教える事となり、村上義清はこの後、槍部隊の総監として、長槍の規格統一や槍衾といった戦術を二条軍に導入することになる。




木下藤吉郎は、良之の指示通りに職人を手配し、出雲崎と呼ばれる海岸線の近く、尼瀬に職人長屋を建てさせている。

一方で人足を多数動員して、沈殿池や油井掘削予定地の整地、油井を作るための場所を数メートル四方の正方形に掘り下げさせ、コンクリートによって堤防を作る作業などをやらせている。

良之から説明された油井掘削では、ドリルビットに常に高圧の水を当て続けるという。

これはドリルビットの冷却と共に、掘削した際に出る土砂を取り除く目的もある。

その泥水が井戸から吹き上げてくるので、その排水施設をコンクリートで作っておかないと、油井周辺の土砂が流れてしまって、土台が脆くなり危険なのである。

藤吉郎にとっては、得意なコンクリート工法という事もあり、良之は彼にひとまず全工事を任せて越中に帰っている。

嫁いできた後奈良帝の娘の普光女王が、すでに富山御所に到着している。


良之は取り急ぎ普光女王との祝言を挙げる。

「子作りは、あなたの身体がもう少し育ってからにしましょう」

と良之はいって、初夜に緊張している普光女王の横でとっとといびきをかいて寝てしまった。

実際問題、医療担当の望月千からの報告では、普光女王の身体は決して壮健ではないと言うことだった。

年齢も未だ16才という事もあって、まずは彼女にはしっかりと栄養を摂ってもらい、適度な運動をする事で、出産に耐える身体を作ってもらうより他に無い。


祝言が終わると、良之は数人の職人と木下小一郎を召し連れて、疾風のように岩瀬から柏崎に発ってしまったのである。


「なんとひどい殿御に嫁いでしまったかと思いました」

その後、良之はさんざんに普光女王に言われ続けることになる。




藤吉郎は小一郎のサポートが得られたことで活動に幅が生まれていた。

そこで、同時並行で油井を建設するための足場組みを開始することにした。

油井の鉄骨は、良之が錬金術で錬成する事になっている。

完全にこの時代においてはオーバーテクノロジーで、材料となる鋼鉄の生産力も、現場まで運ぶトレーラーも、それをつり上げるクレーンも無いのである。

良之自身が足場に上り、地面から屹立する四本の支柱をその場で直接錬成して上に上に伸ばすという、

「なんとでたらめな……」

と藤吉郎が嘆息するような力業で全高50メートル近い油井やぐらを建造してのけたのだった。


掘削に必要な動力はふたつある。

油井やぐらで、滑車で吊すシャフトやパイプをつり上げるためのモーターと、水を圧入させるポンプ。このふたつの動力源は電気である。

そして、シャフトを回転させ地盤を掘削するための回転力。

良之はここで、ディーゼル発動機を利用することにした。

大学時代の友人に自動車部の部員がいたこともあり、良之にとってはエンジン系の理解はあった。

さすがに1からエンジンを作ることは骨が折れたが、彼には、エンジンの設計図というのに等しいメンテナンスマニュアルがあり、分解する気はないにせよ、実物のトヨタ製のエンジンを積んだキャンピングカーがある。

この車を購入する際、エンジニアであった祖父はメンテナンスマニュアルを全種類発注してよく眺めていた。

良之は、マニュアルから逆算して必要となる部品と工具を全て錬成し、500馬力のディーゼルエンジンを組み上げた。

操作はバーハンドルで行う。

横置きのエンジンの回転は、歯車によって垂直に地面に立つシャフトに伝えられる。


発電機もまた、キャンピングカーに搭載されたホンダ製ガソリンエンジン型の機種を、錬金術で模造した。


先に完成していたドリルビット。

これはローリング・スリーコーン・カッターと呼ばれる、シャフト回転によって歯車が回り、ダイヤモンド歯が取り付けられた円錐形のコーンが回転して地盤を掘り進めるビットを選択した。

良之は、この油井がせいぜい、長くても400メートル程度掘り下げると原油が自噴する事を知り抜いている。

シャフトもパイプも、その程度しか用意していない。

しかも、ボーリング調査すら必要が無い。ここが日本石油発祥の地であり、当時でも日産7キロリットルもの自噴量が得られた事を知っているからである。


実物を稼働させたことの無い良之は、この石油掘削法が生まれた1880年代にはあり得なかった高品位の部材を錬成している。

タングステン鋼、クロムモリブデン鋼などである。

掘削させたシャフトのつなぎには藤吉郎指揮の下、職人たちが当たっている。

旧暦7月下旬には地盤を貫き、石油層に到達した。




自噴する原油を汲み上げるためのパイプの敷設を完了した良之にとって、次に必要となるのはパイプラインだ。

尼瀬の海岸線に、船に直接原油を積み込めるラインを作り、船は原油タンカーとして極力人力での積み卸しを廃した輸送形態を模索した。

千石船を作り終えた越中の船大工にオイルタンクの仕様を図面で示し、鉄製のタンクを内包した千石船を作らせる。

千石船のタンクには船腹にバルブを持たせ、運ばれる富山港の陸上と接続してポンプで吸い上げる方式にする。


原油と共に噴出する天然ガスについては、良之は妥協せざるを得なかった。

昇華するガスはガスタンクで収集させる機構は作ったものの、タンクからボンベに詰めて富山に運ばせる以外に道はなく、タンクの容量にも限度があるため、残りは大気として海上に排気せざるを得ない。

液化技術が導入できれば、プロパン、エチレン、メタンと分溜が出来る上に体積もおよそ600分の1にまで圧縮できる。

だが、良之はここに居続けて数年、もしくは数十年にわたって技術を伝播させるようなゆとりはなかった。

それに、LNGタンカーなどを作り出せるような船舶技術も、現状の船大工たちには無い。


油井の完成をもって良之は春日山城へと向かい、長尾家と後事を相談した。

直江津でも石油タンカー建造を依頼し、船が完成したところで富山に回航させ、石油タンクの取り付けを行うこととした。

原油輸出港の建造のため、木下藤吉郎、小一郎などを尼瀬に残し、良之は一足先に富山に戻った。


7月下旬。

越中に帰還した良之を、武田刑部信廉が待っていた。

「御所様。このたびは我らにお国の見聞をお許し頂き、誠にありがたく」

信廉は平伏し、礼を述べる。

「また、お聞きしたところでは、越後の長尾家の信濃への進軍をお諫め頂き、小笠原、村上両家の残党を越中にお引き取り頂いた由、感謝に堪えませぬ」

「別に、武田のためにやったわけではありません」

その言上に良之は一言釘を刺す。

「俺は越後から草水(くそうず)を安定して買いたいし、そのためには越後の安定が欠かせません。信越の国境で争いが多発すれば、やがては大きな戦に発展するでしょう。それが困るという事です。刑部殿、もしこの後、武田家が美濃や木曽、上野や越後に野心を抱くようであれば、当家としても黙ってみていることは難しくなるかも知れません」

すでに良之の軍の種子島や迫撃砲の威力をつぶさに見聞した信廉は青くなる。

総兵数では2万を超える武田軍だが、その動員は農閑期に限られる。

農繁期の動員はその年の収穫に直撃するし、合戦による死傷者数は、労働人口の減少に如実につながる。

ところが、二条領の兵たちは一切の農業から切り離され、近頃は幹線道路の切り通しなどの事業に駆り出されては居るが、基本的には常に武芸を練り上げられた精兵である。


武田家としては、信濃をほぼ手中に収めた今、次の目標として美濃の遠山氏、上野の長野氏、そしてあわよくば越後の長尾氏などに戦略的な狙いを持って居た。

良之の指摘通りである。

だが、越後は二条の婚戚であり、美濃に出るためには木曽を通らねばならない。

上野に出る場合、やがては北条と領地が接するため、早晩武田の領土拡張政策は行き詰まることになる。

戦で領土を広げなければ、山合にある甲斐や信濃では食わせ切れない。

また、塩の価格から分かる通り、武田領には海が無く、その物流に潜在的な危機がある。

武田は、甲斐での政権が成立した鎌倉期当初から、生存本能のように港を欲し続けたのである。


武田信廉が良之を待ち富山に留まった理由は、療養所の建設をねだるためである。

良之が温泉地に療養施設を自前で建設することを条件に美濃や越後で療養所の運営を引き受けていることを聞き及んでいる信廉は、甲斐や信濃での同施設の運営を良之に依頼した。

信濃についてはすでに木曽に建造が決まっているため、良之は甲斐についてそれを了承した。

この時代の甲斐古府中には、その名の通り「湯村」という集落がある。

開湯は弘法大師と伝わるが、実は日本中に伝説として弘法大師が杖を岩や地中に差し込み、そこから源泉があふれ出たという話が伝わっているのを良之は知っている。

――空海はよほど温泉マニアだったんだろう。

さもなければ、どこかで聞き及んだ村人が、自身の源泉にも置き換えたか。

良之はそんな風に思っている。


それはともかく。

療養所への運営依頼を快諾された信廉は、続いて、優れた山師である、と思われている良之に、信濃や甲斐における新鉱山開発について依頼した。

これについては、良之は断っている。

武田が独立した大名である以上、良い時はいいが、関係が悪化したら、良之にとっては人的、資源的なデメリットが発生する。

同様の理由で、信廉が求める電力開発や旋盤、ボール盤などの技術供与についても断った。

千歯扱きや足踏み脱穀機の甲斐での模造については、これを認めた。

そもそも、こうした発明で利益を得るつもりが、良之には毛頭無かったのである。


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