暗雲 8
和田伊賀守は細川兵部大輔に、早々に都に戻るべきだと説いた。
だが、細川は頭に血が上っている。
人間というのは、理屈で負けると感情が沸騰するものだ。
翌日、細川は良之宛に発行された将軍・義藤の書状を富山城に届け捨て、憤然と越中を去った。
「やれやれだな」
良之は、足利義藤から届けられた書状を放り投げていった。
「……面倒ですな」
斉藤道三が、ちらっと書面を一瞥して言う。
「御所様は、これをどういたします?」
「どうにも? 俺は足利の家来じゃ無いしね」
良之は肩をすくめる。
そもそも、良之はこの戦国時代の元凶は足利幕府だと思っている。
足利幕府は、世の規範になるどころか自身で権力抗争を繰り返し、よその権力闘争にお墨付きさえ与え、親子、兄弟が殺し合うような世界を作り上げた。
しかも、今回もまた、家臣に国家を壟断されているような能登畠山に、すでに3世代にもわたって実権を失っている越中の実権を、なんの見返りも無く差し出せと良之にのうのうと言ってきているのである。
良之は、今の足利幕府は要するに政治ブローカーだと思っている。
ブローカーというのは仲買人のことだ。
買いたい人間と売りたい人間の間に入って、取引を成立させて手数料を稼ぐ。
領地を持たない足利幕府にとって、この政治力こそが収入源だ。
越後守護が欲しい長尾家、信濃守護が欲しい武田。
彼らは積極的に足利幕府に取り入り、貢ぎ物を送り、戦争の大義名分を得て、偏諱を賜る。
逆に、足利幕府は、敵対しあう大名間を仲介して和睦を結ばせたり、討伐令を出してひいきの大名筋にとって有利な政治状況を作り出そうとしたりもする。
良之は、脆弱な基盤に存立している足利幕府が、この時代でも意外に存在意義を全国に認められていることに舌打ちしたい気分だった。
一つだけ救いがあるとすれば、足利幕府にとって、良之への強制は大義名分がない事だ。
足利幕府にとって、守護職を得ているならともかく、国司が軍事力を持って統治をした場合、途端にその帰属は曖昧になる。
たとえば、土佐の守護・守護代は細川家だった。だが、現状土佐を支配しているのは国司一条家である。
一条の場合、そもそもが将軍家より地位が上の殿上人、五摂家である。
伊勢国司北畠家の場合は、従前からの足利との関係によって、国司でありながら伊勢守護も得ている。
二条は、前例に沿って考えれば、一条と同じ五摂家である。
足利家にとって問題なのは、もし越中の領有権を左右しようとした時、果たして世論が形成できるかどうかだ。
足利家はまず、朝廷に二条良之の非難を行った。
そして、甲斐の武田、越後の長尾、美濃の斉藤に、武力による越中の獲得を指示した。
朝廷の動きは迅速だった。
良之の兄二条関白晴良は左大臣補任。
即日晴良は関白・左大臣を辞任、散位。
これは、先例に基づき左大臣陞爵の栄を与えてから辞任するという一種の手続きである。
そして、新たに内覧如元。
内覧如元というのは、要するに新たな関白の職権代行職である。
主に、関白として参内する事が難しい場合に代行職として任命される。
新たな関白は、一条兼冬。
関白と左大臣を同時に任命している。朝廷の焦りが感じられる。
身体が生まれつき弱いのである。
良之宛に、後奈良帝より書簡が届いた。
正確には、女房奉書、という。
朝廷が外部の者に帝の命を伝える場合、伝奏と呼ばれる部局が対応する。
だが、室町殿が政治実権を握って以降、伝奏は全て幕府が掌握した。
朝廷から政治力を削ぐのが目的である。
幕府にとっておもしろくない内容の場合、叩き返すか握りつぶす。
朝廷は対応策を編みだした。それが女房奉書である。
元々、伝奏が禁裏を休んでいる際の便宜上だった女房奉書を、そのまま相手に送ることにしたのである。
女房奉書によると、一条兼冬の容態は悪いらしい。
帝は、良之の医術に期待を寄せ、助けが欲しいとおっしゃって居られる。と結ばれている。
「というわけで、頼めるか?」
良之は、千、阿子、下間源十郎らを呼び出し、京への出張を依頼した。
3人は快諾し、ボディガードの手練れの忍び5人と共に、岩瀬港から敦賀を目指して立っていった。
武田から、二条領の実務が見たいという打診が届いた。
併せて、足利将軍家から二条領への侵攻が打診されたが、信濃に苦戦している状況で無理だと返答したことが記されていた。
良之は深く感謝を伝え、見聞を認める旨を記して返した。
長尾家、斉藤家からも、将軍家からの出兵要請を断ったとの連絡が入った。
どちらも、国内の反抗勢力を討伐したばかりで政情に不安があり、長期遠征は無理だという理由にしたとのことだった。
天文21年12月。
飛騨ほどではないが越中においても、降雪量は多い。
だが、雪が降るとある種の緊張から解放される。
この時代の戦争は、雪が降ればそれで終わりなのである。
春が来るまでの間に、良之は翌年に作りたいものの設計図を引いたり、製品に必要な職人たちの教育に時間を充てた。
その中に、紀伊から帰ってきた鈴木孫一が連れてきた新顔の鋳物師丹治善次郎がいる。
善次郎は幼いうちから下働きとして鋳物師の工房で働き、良之の噂を聞いて飛騨に憧れた。
歳が18才と若いため、阿子について錬金術を学ばせたところ、非常に高い成果を残したので、推挙されて良之に付けられた。
丹治善次郎は良之に付いて、この時期から計測器の生産を始めている。
ノギス、マイクロメーター、ダイヤルゲージ、シリンダーゲージ、曲尺、巻き尺といった金属加工に欠かせない各種の精密測定器である。
単位の原器には、良之の文具のステンレス製の物差しを利用した。
善次郎がこれらの生産に狩り出したのは、高岡の西部金屋の鋳物師である。
金森、喜多、藤田、般若といった頭衆に率いられ、職人や小間使いや家族まとめて全て、木下藤吉郎が拓いた岩瀬港対岸草島村の南部に引っ越させ、ここで測定器の量産に従事させた。
越中を支配したことで良之が新たに手に入れた技術者に、船大工がある。
氷見から岩瀬までの間で手の空いている船大工を全て集め、
「五千石の船を作って下さい」
といった。
船大工たちは困った顔をした。
それほどの船を作れる経験者がいないのである。
「千石ほどなら……」
というので、良之は総掛かりで千石船を作らせ、徐々に技術を高めることにした。
東洋の船には、竜骨がない。
そこで、良之は数枚の資料を彼らのためにプリントアウトして渡した。
イギリスの快速船、カティサーク号の設計図である。
「全長86メートル。全幅11メートル。喫水は7メートル。これで四千石です」
ただし、真ん中以外のマストは要らない、と良之は付け加える。
その真ん中のマストも、クレーンとして使うだけで、帆を張る必要はない。
帆のない船などなんにするのだろう、と棟梁たちは首をひねった。
見たところ、船体は細長く、3層構造で積み荷を詰め込む構造になっている。
水夫が櫂でこぐ訳でもなさそうである。
良之の周囲の女性たちは男装が日常という事もあって気がつかなかったが、岩瀬に近い住環境に変わったことで良之は白粉に触れる機会を得た。
そして、その成分を聞いて愕然とした。
鉛白、つまり鉛である。他にも水銀粉などという有害物質まで珍重されている。
良之は科学事典で、彼の時代の白粉を探した。
粉白粉の主成分は、滑石、蝋石、酸化亜鉛やカオリンなどと、デンプンだった。
滑石、蝋石、カオリンは木曽、飛騨、美濃あたりでは比較的入手が容易だ。
現在岩瀬に在庫している全ての粉白粉を購入し、以降、小売商の粉白粉の輸入を禁じる。
また、塩屋に命じて領国内の在庫を全て回収させ、代替品として鉛白を酸化亜鉛に置き換えた製品を提供することにした。
同様に、関係のある全ての商家、大名家、そして京の帝にも鉛白入りの粉白粉の危険を認めた文を送り、代わりに無害な白粉を飛騨で生産させようと決めた。
殊に、お膝元に白粉座を持つ伊勢の北畠家には、毒性の低い酸化亜鉛を提供する代わり、水銀による白粉の生産をやめるよう求めた。
同様に、京白粉の座にも、京の兄の二条内覧を通じて同様の連絡を依頼した。
国内流通分の粉白粉でフリーデの弟子たちの錬金術で脱・鉛白をトレーニングさせ、代わりに酸化亜鉛を配合させて再出荷させる。
このとき、
「二条の無毒白粉」
という商標で売らせた。今までの白粉には毒が入ってますよ、と営業させたのである。
ちなみに、このとき回収した鉛白は堺に送り、油彩顔料として南蛮人に販売した。
ところで、亜鉛のコンデンサ凝縮の副産物であるカドミウムは、良之のプランでは全く用途がなかった。
毒性が高すぎるからである。
無機顔料としてはカドミウムイエローとして珍重されている事を知った良之は、硫化カドミウムCdSとして精製し、油彩顔料として南蛮人に限定して提供することにした。
硫化カドミウムは単体では橙色に近い発色だが、硫化亜鉛が混入量によって徐々に赤みが薄れ、強い発色の黄色となる。
良之は毒性の強さを強調し、くれぐれも油彩顔料以外に用いないことを書面で念押しした上で、サンプルとして鉛白とカドミウムイエローを数セットずつ、平戸宣教師トーレスに送付し、堺の皮屋で入手可能であると営業をした。
そして、密閉されたビンに定量を詰め、岩瀬港から堺へと出荷させた。
天文21年も残りわずかになり、いよいよ厳しい冬が来た。
京に新関白、一条兼冬の治療で出張していた顔ぶれも無事越中に戻り、二条家では年越しの準備に追われている。
一条関白は、予後が良好だという。
良之からの心付け2000両にも、とても喜んでくれていたようだった。
「善次郎、金屋には空いてる親方衆はいるか?」
良之は善次郎を呼び出し、聞いてみた。
出来れば、翌年中に良之には、どうしても実現させたい一つの課題があった。
井戸の手押しポンプである。
井戸の手押しポンプは、非常にシンプルな構造でありながら、いくつか実現しなければならない技術的な課題がある。
まず最初に、鋳物で制作する鋼製の加工物である点だ。
つまり、キューポラかもしくはアーク炉での溶鉱炉が必要となる。
次に、鋳物は既存技術で問題ないとしても、ピストン運動によって水を井戸から汲み上げる場合、シリンダーの加工はどうしても必要になる。
三つ目に、ジョイント部分はテコの原理でハンドルを上下させるために、ボルトとナットが必要となる。
シリンダー内を鋼鉄の棒が通り、ピストンを上下させる関係上、この棒にはプレス加工が必要にもなる。
そしてシリンダー。
最低でも、中ぐり、ボール盤による穴明け、そしてホーニングの処理は行いたい。
中ぐりというのは、鋳物で作られた手押しポンプに均等な筒としての穴空け削り加工を行う工作のことだ。
ボール盤は、ジョイント部分にボルトを通すための穴開け加工である。
そして、ホーニング。
ホーニングは簡単に言うと、円形のやすり掛け工具が高速で回転し、中ぐり後のシリンダー内部の表面を磨き上げる工具のことだ。
磨き上げられたポンプ内面はピストンとの密着度が良くなる。ピストンの性能向上と、耐久性の向上につながるのである。
可能であれば、シリンダー内部にメッキか、ステンレスのスリーブを打ち込むことで錆に強くしたいのだが、現在のところはそこまでは望むべくもない。
手押しポンプというのは、暮らしていれば毎日使うものであり、毎日使えば、長持ちするのである。
「それは、この年じゅうに図る必要が御座いますか?」
さすがに善次郎は相手が気の毒に思う。
「ああそっか、わかった。年明けにしよう」
良之はその意図を察したかうなずいて、善次郎を解放したのだった。