飛騨での内政 1
越中で倉庫町の建造を担当していた塩谷筑前が、大量の樽を伴って平湯に帰参した。
樽の中身は、冬に堺で依頼した、お湯で煮出して精製した牛脂だった。
「御所様、このような脂、何にお使いなさるんで?」
塩屋は興味深そうに、検品する良之の傍らでその脂をしげしげと眺めつつ聞いた。
「石鹸を作るんです」
この時代、南蛮からの渡来品として石鹸はすでにある。
だが、あまりにも高額で希少な商品のため、供給地である平戸や博多からはわずかな量しか堺まで到達せず、そこから先には滅多に流通しなかった。
「シャボンでございますか。牛脂からでございますか?」
「うん。実際はどの油からだって作れるんだけど、牛脂が一番手軽に手に入るからね」
塩屋は首をかしげた。これは、良之にとっては、の話である。
堺の皮屋と縁が深くなったからこそ、河原衆の協力を得ることが出来、結果として、こうして丁寧に処理された牛脂が入手出来るのである。
実は、この牛脂の煮出しのあとの汁にも良質のコラーゲンが分離する。膠作りの材料にも転用できるので、河原衆にとってもあながち無駄な作業では無い。
何より、こうやって良之が値を付けたことで、本来焼却材として処分していた牛脂に価値が生じた。
牛脂は、燃焼材や明かりの燃料に使うと、多くの黒すすが発生し、動物臭も強いため忌み嫌われているのである。
「そうだ、塩屋殿。この石鹸作りの奉行を推薦してもらえませんか?」
石鹸作りは全く難しい技術は要求されない。
ただ、奉行という監視者を付けねばならない理由がある。
製造に使うのは、水酸化ナトリウムという、扱いにくく、とても強烈で危険な薬剤なのである。
強塩基性で、鹸化作用が強いため、人体に付着すると深刻なダメージが起きる。浸透性も強く、眼球や皮膚に付着すると、水酸化ナトリウムはその奥深くにまで達してしまい、予後を不良にする。
また、水酸化ナトリウムは潮解性が強く、空気中に放置しただけで溶解してしまう。
この際、かなり強い水和熱を発生させるため、水酸化ナトリウムの固形ビーズなどの取り扱いには入念な密封管理を要求される。
そして、この物質はガラスを溶かしてしまう。
そのため、保管にはプラスチック容器が要求される。
そのような理由で、もし石鹸製造を民に広める場合は、その特性を深く理解し、適切に管理できる人材が必要になるのである。
良之は、そうした危険性を細かく塩屋に伝え、人選を依頼した。
早速良之は試作品作りに挑戦することにした。
まずは、水酸化ナトリウムの生成と、保管容器の作成である。
10リットル程度のポリプロピレン容器を精製し、その内側に、塩から精製した100%NaCl塩から、水酸化ナトリウムNaOHを精製させた。
次に、石鹸製造用の鍋である。
これは鍛冶師が作る普通の鉄鍋のうち、いろりにかける深鍋を用意し、PTFE樹脂でコーティングした。フッ素樹脂と呼ばれる、焦げないフライパンの表面を覆っている樹脂である。
酸やアルカリにも耐性があるため、アルカリ石鹸作りでは役に立つ。
最後に、牛脂10kgをこの鍋で火にかけて解かし、そこに、牛脂100gあたり12gの分量で水酸化ナトリウムを投入した。この際、所定の分量を水溶液化させて、石鹸内にムラが出来ることを防ぐ。
さらに良之は思い立って、<収納>内に保管してある柚子の実の皮を錬金術で粉砕し、ついでに絞り汁も加えてみた。柚子石鹸である。
そうして60度前後の温度でじっくりと攪拌をして、石鹸を完成させた。
良之は、評判を確かめるために平湯の女性陣や幹部たち、そして飛騨全土の代官たちに石鹸を送って、感想を求めた。
女性陣からの反応は強烈だった。
フリーデやアイリの世界では、石鹸は比較的手に入りやすかったらしく、こちらに来てからはやむなく米の脱穀後のぬかを袋に詰めたぬか袋を使っていた。
垢は落ちるがにおいがひどく、渋々利用していたらしい。
阿子や千、虎といった面々も、香りが良く、しかも手ぬぐいに石鹸をこすりつけて身体を洗うと爽快感があり大絶賛だった。
「一度使ってしまうと、手放せないぜいたく」
と興奮していた。
言うまでも無く男性陣にも受けが良かった。
新しい物が何より好きな信長は特に石鹸に執着し、自分が奉行になるとさえ言い出した。
さすがに彼ほどの人材を石鹸作りに縛るわけにもいかないし、何より、そのうち飽きる気がするので、良之は笑って聞き流した。
江馬に属した豪族で、河上河内守という男が、石鹸を使ったあとで立候補してきたという。塩屋に連れられてやってきたこの男に、良之は徹底的に水酸化ナトリウムの危険性をたたき込んだ。
そして、全工程を伝授して、数回、良之の監督の下で石鹸作りを実践させた。
やがて河上は数ヶ月後、主に信濃からの流民のうち、女性陣をメインに雇用して、500人規模の石鹸工房を設立して量産化に乗り出す。
飛騨の石鹸は良之のお膝元には安定供給され、やがてその周辺国、そして堺を通じて、大きな利益を生み出していった。
良之は、皮屋の武野紹鴎に、河原衆へと石鹸を格安で提供した。
頑張って素材を作っている彼らに、せめてもの恩返しのつもりだった。
また、紹鴎に、各地の河原衆たちに動物性油脂の精製の技術指導と出荷を依頼した。
河上もまた、越中や加賀、美濃、尾張を歩いて河原衆を訪ね廻り、原料である動物油脂を求めて回ることになる。
そうするうちに、このエリアや堺を中心にしたエリアの河原衆は、徐々に豊かになっていった。
岩瀬から、直江津発の原油の二陣がやってきた。
今回もまた良之は、炭化水素をプロピレンに変換して収穫している。
今度は、ニトリルゴムを錬金術で精製するつもりである。
この時代、西洋ではすでに天然ゴムの製品化がはじまっている。
うまくすれば南蛮商人からの買い付けが出来そうであるが、現時点で海沿いの拠点を持たない良之にとって、流通量の確保や中間搾取の排除、さらには、専用廻船の確保など、実現が不可能な課題が多すぎる。
プロピレンからアセチロニトリルを精製し、また、原油残滓からさらにブタジエンを取り出し共重合させる。ニトリルゴムである。
良之が材料工学を学んでいた時代では、すでに植物アルコールからの合成さえ行われていた。
最高品質のセラミックスは、いくつかの分野で触媒として利用されていた。
その分野で国内に名の知られた教授の1人が、良之の担当教授だった。
良之は、懐かしさにふと顔を緩ませ、慌てて引き締めた。
懐かしさで涙が出そうになったのである。
残りの原油から、ナフサやガソリン、軽油を少しずつ精製した後、タールをカーボンブラックへと変性させ、その全てを<収納>に納める。
良之はフリーデにニトリルゴムを提供した。
分溜施設の圧力の問題に素材的課題を持っていたのを知っていたからである。
「フリーデはゴムの加工って出来るの?」
ニトリルゴムを手渡してから聞いてみると、
「ええ。錬金術で」
と彼女は答えた。
「それにしても良之様。こんな高品質なゴム、どこで手に入れたんですか?」
フリーデに良之は、
「錬金術で」
と答えた。
お互い、なんてでたらめな、と思ったが、それはお互い様であった。
カーボンブラックは、黒顔料として塩屋に扱わせてみた。
草を使い、堺、直江津、井口、津島など、めぼしい都市の商人たちにサンプルとして提供。堺の皮屋から大量受注があったので、岩瀬港から60kgの俵200俵を堺に向けて送りつけた。
残りは塩屋に管理させ、販売を一任した。
この頃、良之は顔料に凝っていた。
美濃から、採掘がはじまったマンガンやタングステン、緑柱石や柘榴石、亜鉛や鉛、銅の鉱石が毎日下呂に届くようになっていた。
下呂では急ピッチで倉庫町の建設が進められていたし、遠山家が苗木から下呂に向かって街道の大幅拡張をはじめてくれていた。
飛騨としても下呂から苗木に向かっての拡張整備をはじめさせているが、現時点では飛騨国内の主要街道の拡幅と架橋がどうしても優先になってしまう。
水酸化アルミニウムとリン酸水素マンガンを焼成して陶試紅という顔料を作ったり、同じく、水酸化アルミにコバルト、亜鉛、クロムを混ぜてピーコックという顔料を作り、これらも塩屋に扱わせた。
ちなみに、陶試紅は第二次大戦直前の日本の国家研究機関である陶磁器試験所が開発して世界中に普及した。
どちらも、そのまま「薄桃」「青緑」と呼んで売りに出させている。
試薬を1300度ほどで焼成して作ることが出来る色素なので、人気が大きく出たら工業化しても良いかと思って実験的に売ってみたのだった。
鉱石が届くようになったため、下呂、高山、塩屋、旗鉾、平湯、神岡の各拠点に、急いで蔵を建てる必要が出てきた。
まずは下呂から順に急ピッチで蔵の建造を推し進める。
幸い、木下藤吉郎が管理する消石灰工場では、フル稼働で石灰の焼成を行っているため、匠たちへの漆喰の材料として提供が可能になっている。
材木も、山方衆に依頼し、平金鉱山のための山林伐採が進んでいるので、そこから人足を使った輸送で続々と高山に集積しつつある。
これらは、新たに良之に降った国人層に担当させ、その経理方に、平手政秀と竹中重元を当てている。
平金の鉱毒沈殿池の南の山肌に生えている木を、山方衆総出で伐採させ、その地域を黒鍬衆に平坦化させる。
そして、良之はそこに最初の自溶炉を建設する予定でいる。
美濃からの耐火レンガを待っているが、なかなか来ない。
そろそろ畑作のシーズンとなる。
良之は、この機に領地化した飛騨全土を回って、肥だめの内容物を一掃する気になった。
まずは手近に旗鉾からスタートする。
従者は、肥だめの処理だというと皆嫌がって逃げてしまったので、木下藤吉郎、江馬右馬允、下間源十郎と草の者五名ほどで出立する。