天文21年春 6
美濃の斉藤家と、尾張の織田家の密談は続いている。
「困った」
と織田備後守はつぶやいた。困る理由はいくつもある。
もっとも大きな理由は、自分たちが命を助けられていることだった。
信秀は高血圧とヒ素中毒から。
義龍はハンセン病を母と自分の2人、完治してもらっている。
良之のいた時代と違い、この時代には抗生物質が無かった。
つまり、どんな名医にかかろうとも、癒やせぬ病だったのを、良之の錬成した薬と、アイリの回復魔法によって治療されているのだった。
さらには、彼が武家では無く公卿、それもかなり高位な存在であることも彼らを悩ませている。
たとえば良之が武家や百姓であれば、婚姻などで同盟を結び、親族衆のような形で融和させ、やがては家中に同化してもらうという選択肢がある。
だが、官位を取っても、血統性についても、良之の方が圧倒的に上なのである。
そして、正三位の参議として帝に直接拝謁できる身分であり、兄は現役の従一位関白であり、現時点では二条家の猶子でさえあるのだ。
家格も准三宮――三宮である太皇太后(先々代皇后)、皇太后(先代皇后、あるいは現帝の生母)や皇后に準ずるほどの家格が与えられる二条家である。
そこに、種子島による武装と有り余るほどの火薬の在庫を持ってのこの訓練である。
信長が言うには、
「毎日、今日のような射撃訓練で火薬を消費しても、10年は使い続けられる」
というほどの在庫を、今の段階で良之は持っているらしい。
鉛についても、現在はどちらも休鉱させているが、神岡と平金という二つの鉱山を持ち、自己生産力を有しているのである。
この点、信長の分析力は卓越していたが、神ならぬ身の上。
良之が他にも、昭和期の学者がまとめた鉱脈の記録データによって、江戸期や明治期に入って開発された日本中の鉱山情報をいくつも知っていることには気づいていなかった。
彼らがもっとも扱いに困るのは、良之の行動力と、どこから沸いてくるのか分からない得体の知れない資金力だった。
関東甲信越から東海、近畿のほとんどの大商人と直接会い、さらには、博多や平戸、そのうえ伝説の倭寇、五峯とまで面会していると聞く。
しかも堺に銅座を作り、棹銅や分銅などの官許事業まで経営している。
織田備後守信秀の「参った」という一言は、まさにそうとしか言いようのない万感が籠もっているのである。
「備後殿。わしもな、婿殿がこの地で御所様の家来をやると聞いた時には驚いた。だが、もしやこれは存外正しいやも知れぬと思いはじめたわ」
道三は言う。
「そういえば、木曽の左京大夫殿も御所様に求められ、この地に残って居るであろう? いかにも、卿に求められやむなくといった体を装ってはいるが、わしは、木曽もいずれ現当主がここにやってきて、臣従を言い出すと睨んで居る」
「武田に強い圧力を受けてますゆえな」
「うむ」
道三の言葉に義龍が言った「圧力」とは、信濃統一の進む武田による木曽家への脅迫に他ならない。
木曽が、強大な武田を選ぶか、新興ながら一気に国家としての体力を付けはじめた二条を選ぶか。
あるいは、二条大蔵卿良之は、木曽が臣従を言い出した時、どうするのか。
「わしは、御所様はお受けになると思う」
信長は言った。
「それに、武田には御所様に大きな借りがあるらしい」
「ほほう?」
信長の言う「借り」というのは、現当主武田晴信とその弟、典厩信繁と刑部信廉の母、大井氏が卒中で衰弱しているのを助けられたことだという。
「そのようなことで、大膳大夫が思いとどまろうか?」
義龍は首をかしげる。
「その時は」
信長がにやっと笑って言った。
「御所様の真の実力が知れるであろうな」
「のう、せがれ。わしもこのまま御所様にお仕えしてみて良いか?」
「……それは?」
道三の言葉に一瞬義龍は返答に窮した。
「一つには、今婿殿が言った話もある。わしもあの御所様が何者か見極めたくはある。が、やはり好奇心であろうな、本音は」
道三もさすがに老いを感じる。
もうじき60を越える老境である。
肉体だけで無く、近頃では精神の衰えを痛感している。
残りの人生に感動を覚えないのである。
だが、死ぬ程に嫌悪していたせがれの病を癒やされた時、道三は人生ではじめてと言って良い種類の感動をあの若い公卿に抱いた。
ほとんど他人を尊敬したことの無い道三が、はじめて他者に畏れ――畏敬の念を抱いた。
ひるがえってせがれのことを思うとき、自分がいかに、白癩という難病を背負った息子に精神的苦痛を与え続けたかを気づかされ、いたたまれない気分に陥る。
患った義龍に当てつけるため、公然と次男孫四郎、三男の喜平次を溺愛して見せた。
そうしたわだかまりは、今もこの親子の間にははっきりと傷跡になっている。
病のことを除けば、この義龍は非常に優れた支配者であり指導者であった。
道三は認める気は全くないが、大方の家臣団は、道三より優れていると見ている節を感じてもいたのだ。
その筆頭が、彼の叔父であり道三の奥の兄、稲葉一鉄である。
「孫四郎と喜平次も、わしと一緒に御所様に仕えさせようかと思う。そなたは、喜太郎を嫡男として、思うままにしたがええわさ」
「……」
言外に道三の意図を敏感に感じたのだろう。
義龍には返す言葉が見つけられなかった。
「うらやましいのう。わしも権十郎に家督を譲って御所様に仕えてみたくはあるが……あやつでは尾張は治まるまいのう」
「親父殿に尾張を治めてもらわねば、せっかくのわしの株が下がる。やめてくれ」
「ぬかしよる」
信長の言葉に信秀は苦笑する。
そういうまるで自分を軽視したかのような信長の、その視線の奥にある自分への愛情と、必死さを感じて信秀は胸が熱くなる。
この信長という人間を真に理解出来ている家臣はどれほどいたであろう。
おそらく、川尻や池田、丹羽あたりは、奇矯な振る舞いに秘められた信長の本性を見抜き、愛したが故にこうしてどこまでも従っているのであろう。
だが、平手政秀あたりは、彼の才を愛しはしたが、その奥に眠る本当の実力に思いを馳せること無く、ただ振る舞いだけをもって信長という個性を判断してしまっている。
林佐渡守に至っては、信長付きの一の老臣でありながら、公然とその弟で信勝付きの美作守と信長廃嫡を共謀していたらしい。
信長を廃して信勝に尾張を渡せば、それは家臣どもにとっては御しやすい主君が生まれるだろう。
だが、その途端に、尾張の滅亡の音が東の海道から響いてくるだろう。
どうにも、信秀の家臣どもにはそれが分かっていないようだった。
「まあ、まずはあの御所様の身近で様子を窺うしかあるまい。わしも、婿殿もな」
道三は言う。
「飛騨が治まり、木曽がもし臣従したとして、御所様の目は、どちらに向くのであろうな? 信濃か? 加賀か? 越中か? あるいは」
美濃か?
とは言わず、じっと義龍の瞳をのぞき込んだ。
「実は、治部殿に折り入ってお願いがあるんです」
夕餉の席で、良之は切り出した。
「明知城のそばに、焼き物の積み石に最適な土が出る村があるんです。そこで工房を作り、飛騨に輸出して欲しいんです」
「焼き物の積み石?」
この時代には、日本にはレンガ技術は導入されていない。
日本の建築の基盤は木造であり、石垣はその名の通り石――自然石で組まれるのが一般的だった。
レンガが日本に入ったのは、幕末に反射炉を作る必要に応じたもので、まさに良之が必要としている理由そのものだった。
良之が必要としているのは耐火レンガである。
将来、高炉や反射炉を作るためにも、コークスや石灰を焼くためにも、そして直近では、銅や鉛、亜鉛を自溶炉で精製するためにも、喉から手が出るほど耐火レンガが欲しかった。
良之は率直なところがある。
自身が大蔵卿として、鋳物や鍛冶の朝廷側の棟梁として今後どうしても必要になる材料がそこに眠っていることを包み隠さず一同に話した。
そして、そのレンガを作るための技術、職人の育成を全て受け持った上で、きちんと対価を払って購入するから頼むと、義龍に頭を下げたのである。
「御所様は、その……秘法を我らに伝授なさると?」
「ええ。もちろんです」
「秘伝にして商えば全ての富が御所様のものになりましょう?」
義龍は本心からそう思っている。
自分たちに出来ない技術を彼が知り、それを作れもする。にもかかわらず、その秘伝を公開し、しかも支援して、出来るようになったら金を出して買うというのである。
「それだと、確かに俺は儲かりますが、俺の一生がそれで終わっちゃうじゃ無いですか」
良之は微笑しながらそう言ったのである。
「今の俺がやらなければならないのは、この日本に、銭を行き渡らせ、技術を行き渡らせ、人間が幸せで、健康で、長生きな国を作ることです。少なくとも、俺はそういう国を見てきましたから、この日本でも出来るはずです」
正直なところ、良之は自身の世界には帰りたい。
だが、そのためにフリーデやアイリに、命がけで無謀な<時空跳躍>をさせる気は全くなかった。
彼は彼なりに、それがどれほど危険で、無意味で、しかも実りが無いのかを理解していた。
おそらく、そんなことを繰り返させては、いつの日にか、永遠にフリーデとアイリを失うことになるだろう。
それでも良之に「やれ」と言われればあの2人はやるだろう。
だから、良之はいつしかきっぱり、元の世界に戻ることを忘れた。
そうしてこの戦国時代と向き合ってみると、実際の所、おもしろくて仕方が無い。
自身の知識や能力で何かを為すと、その結果がおもしろいように跳ね返ってくるのである。
「御所様はそのお歳で、異国に渡られたのですか?」
信長は驚いて聞き直した。
「ええ」
「あの2人の異人も、その時に召し抱えられたのですか?」
「まあ、そんなところです」
「御所様は、それほど優れた国に渡られながら、なぜ日の本にお帰りになったのですか?」
信長からして見たら、それは不思議で仕方が無い事だった。
それほどの技術がある国であれば、こちらに帰らずずっと暮らしたほうがよほど楽しかろう。
「まあ、定め、としか言いようが無いですね」
良之は運命論者では無い。そのあたり、彼は非常に無邪気に、自分の能力でこの世界と自分の人生はきっと変えていけると信じているところがある。
だから、この「定め」という言葉は、<時空跳躍>に巻き込まれてここに来て、帰れなくなった事実をそのまま表したに過ぎなかった。
だが、この夕餉に臨席した全ての者達にとって、あまりにも鮮やかに、心に残る言葉になった。
「明知に関しては、承知いたしました。しかし、彼の地は遠山家の所領ゆえ、今ここで確約とは参りませぬ」
「分かりました。よろしくお計らい下さい」
良之は頭を下げた。