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天文20年冬期 1

天文二十年十一月一日。新暦では11月28日。

良之は飛騨を家臣たちに任せ、厳冬期に京と堺で活動することに決めた。


「隠岐大蔵」

「は」

「飛騨での俺の名代を頼む。攻め込まれた場合、交戦を許す」

「はは」

「江馬左馬介、神岡代官を任せる。塩屋筑前、丹生川代官に任ずる。まあ2人とも、今まで通りの感じで頼む」

「はっ」

「服部半蔵、兵1000、鉄砲500を預け、江馬左馬介付きを命ずる。千賀地石見にも兵1000、鉄砲500を預け、塩屋筑前付きとする。しっかり守ってくれ」

「はっ」

「承知」

「望月三郎は兵500鉄砲300で平湯を守れ」

「はっ」

「鈴木孫一殿、三郎の与力をお願いいたします」

「承りました」

「残りは俺と京に上る。準備を頼む」


「御所様」

江馬左馬介が評定のあと声をかけてきた。

「実は、お馬廻りに1人、我が子円成を置いていただきたく」

見ると、剃髪した若者が1人付き従っている。

僧衣である。

「分かりました。馬には乗れますか?」

「は」

「じゃあ騎乗で従って下さい」

「承知いたしました」

随分利発そうな少年だった。

すぐに旅装を整えに走り去る。

「左馬介どの。古川や広瀬、高山あたりの調略、くれぐれもご用心下さい」

「……は、はい」

いきなり良之に言われて、江馬左馬介は驚いた。

左馬介は、内ヶ島の取り込みが不調に終わったあと、文を使って塩屋と共同で、高山周辺の国人層に、二条家への帰順を促す書状を送っている。

こうした動きは、当然、内ヶ島や姉小路、三木を刺激しつつある。

今回、丹生川の塩谷氏居城である尾崎城に千賀地を入れ、兵を1000付けたのも、こうした動きと無縁では無い。

よもや真冬に戦など仕掛けはしないだろうが、雪解けを待って軍を動かす可能性は無いとはいえない。


「現状は、彼らよりあなた方の安全の方が俺にとっては大事です。くれぐれも、安全に。それと、身体を労って下さい」

良之に言われ、江馬左馬介は感激した。




神岡を立ち猪谷で一泊、そのまま富山の岩瀬から船便で敦賀に向かう。

敦賀からは陸路で比叡山、そして京の市街に上った。


良之は禁裏に参内し諸事報告。下がって女御たちに塩、肴などの提供をした後に山科邸へ赴き、金150両を納める。

この時期の山科家の逼迫は厳しい。

特に、三好家の被官である今村紀伊守慶満あたりに内藏寮率分関を横領され、わずかに残った運営費まで喪った。

このとき良之が支払った150両は、飛騨の山科家領、内蔵領からの収益という名目にして、山科卿が受け取りやすくした。


その後、二条の実家に戻る。

この頃、やっと二条家では、資金難から解雇せざるを得なかった家令たちが戻り、京の商人、特に皮屋今井宗久、小西屋小西宗寿らによって、塀の修復、館の修繕などが進んだ。

禁裏も、良之の献じた金によって、いくつかの施設が再建され、生気を取り戻した感があった。


翌日、帝の命により参内。

周防で死んだ次兄に代わり、左近衛中将を拝命。


良之はその後、三好筑前守長慶に面会し、改めて遠里小野と船尾の土地について礼を述べた。

この年、筑前は二度も暗殺未遂に遭遇し、さらに岳父(しゅうと)遊佐長教までが暗殺される事態となり、精神的に参っていたようだった。

非常に優れた人物でありながら、この人物の精神には貴族的な線の細さがある、と良之は思った。



翌日には良之は京を立ち、醍醐寺に宿を取った。

翌朝、藤吉郎と源十郎のみを供に、笠取山の下庄(しものしょう)を目指す。

この一帯は、日本に数ヶ所しか無い重晶石の産地である。


良之の鉱山の知識には、種元がある。

日本鉱山総覧や鉱床総覧を底本に、データベース化された鉱山鉱床の電子地図がある。

良之はこのデータをUSBでコピーしてあった。

鉱山が工業史に与える影響の分析のために揃えたデータだった。

廃坑になるとその地に栄えていたはずの都市が、たった10年たらずで風化してしまうため、論文の課題としてはあきらめた。

ちなみにこのデータ、鉱石マニアと廃墟マニアの学生たちには大変人気のあるデータ群だった。


笠取下庄一帯で心ゆくまで重晶石の採取を行った良之は、日暮れ前に慌てて醍醐寺に引き返した。

重晶石。硫酸バリウム鉱である。

病院で胃のレントゲンを撮る時に飲まされることでおなじみの物質で、ほぼ中国などからの輸入に頼っている鉱石の一つである。

良之がこの鉱石を欲したのは、言うまでも無くフェライト磁石作成のためだった。

良之の錬金術では、原子単位の抽出精製や有機・無機物の化合物合成は可能だったが、たとえば水銀の原子を金に換えるような力は無い。

そのため、化合物作成であっても必ず、オリジナルの元素が手元に必要になる。


山城・丹波にはもう一箇所、京北にバリウム鉱が産出する地域がある。

日本においては、残るのは蝦夷しかない希少鉱だ。




宇治から多賀、田辺に下り、西に進路を取って淀川沿いを下り、石山へ。

一行は石山の寺町で休息を取る。

良之と源十郎は法主証如にあいさつに訪ねた。


「法主様、先日は平湯開拓にお力添え、ありがとうございました」

「御所様、お久しゅうございます」

良之は、この時代屈指の知性である証如に、この一年の行動を話して聞かせた。

そして、特に、刀狩りによる庶民の武装解除と、警察・軍の専門職化による治安向上のアイデアについて説明した。

「俺はこれを、白川の照蓮寺や帰雲城の内ヶ島にもいずれ徹底させたいと思っています」

「む……しかし御所様、そうなると、戦は避けられますまい」

証如は、表高では分からない内ヶ島の豊かさと、加賀の一向宗門徒との結束を知っている。

かつて越前の朝倉氏が加賀の一向宗門徒と武力対立した際、越前国境を門徒に対して封鎖した。

門徒衆は物資や人の移動を越前の街道から白川の街道に頼り、いつしか美濃の郡上から白川を抜け、小松や金沢へと至る街道が整備されるに至った。

こうした長年の強い絆があるからこそ、加賀門徒衆の武力を背景に内ヶ島は強気なのだと良之は見ている。

「法主様、門徒衆はなぜ武装しているのでしょう?」

「それは……」

話せば長い質問である。この時代の本質を突いた質問であり、証如に取っては、正当性を証明するためには、全身全霊を以て対峙せねばならぬ事柄である。

「俺は、門徒も国人も大名も、突き詰めればより良く生きたいから武装してると思います」

「より良く?」

「女房子どもを守りたい。財産を守りたい、村を、畑を守りたい」

証如はうなずいた。突き詰めると、もちろんそうである。

「ところが、中には不心得者も居て、代官や庄屋や豊かな商人を打ち壊して、反対に奪う者も居る。その最たるものが合戦です。でも門徒もそうした夜盗強奪の類いをやっている」

「……返す言葉もございませぬな」

証如自身、何度も加賀の一揆衆のリーダーを破門している。

力を持つと人は奢る。残念ながら、それは僧侶でも変わらない。

「俺は(おおやけ)な組織を作り、警察、軍のみに武装を許し、残りの四民・万民は全て武装を禁じる社会を作ろうと思います。代わりに、商人や農民が戦争なぞに狩り出されなくても幸福に生きていける社会を目指します」

「それはまるで、堯舜(ぎょうしゅん)の世のようなお話ですな」

証如はため息をついた。

堯舜の世という概念は古い。

中国でも長い間国が乱れた。世が乱れると偉人が生まれる。偉人たちは常に、遠い過去の堯舜の治世を振り返り、理想に掲げた。

孔子や老子、孟子などの思想家の著作によって、あるいは司馬遷の史記などによって、こうした思想は戦国期の日本にも広く知れ渡っている。


ある日堯帝は、お微行(しのび)で里に下りた。

そこでは人々が陽気に歌いながら働いていた。


日出而作

日入而息

鑿井而飲

耕田而食

帝力於我何有哉


日が出たら作り

日が暮れたら休む

井戸を掘って飲み

田んぼを耕し食う

帝の権力なんてわしらにゃ関係ない


この歌を聴いた堯帝は心から満足し、帝位を禅譲し引退した。

「帝のおかげで平和に暮らしてる」

などと言う者がいるうちは本当の善政では無い。

善政が行き渡れば、帝の存在さえ忘れられる。そう説いているのだ。


「御所様。愚禿には今ここでお答えする事は出来ません。ですが、もし愚禿が生きている間にそのような世が来るとしたらその時は……御所様の傍らで愚禿もその世を見てみたく思います」

「その言葉だけで何よりです」

良之は証如に頭を下げた。

「ただし、加賀のこと。重々心にお留め下さい。欲得で兵を使う事があれば、俺は絶対許しません」

心得ました、と証如は言ってくれた。


翌日。

払暁から船を出してもらい、一行は堺へ赴いた。




天文20年12月1日。

新暦ではすでに1551年の12月27日に至っている。

堺について早々、良之は一行に

「3月までは滞在するから、それぞれ師匠を見つけて修行するように」

と言い渡して、小者たちを本願寺堺別院に寄宿させている。

良之とフリーデ、アイリ、千、阿子。

それに藤吉郎や滝川、下間、江馬右馬允(うまのじょう)は、良之と同じく皮屋の別荘に入った。

右馬允は、江馬時盛の三男で僧籍に入れていた円成を、良之の供回りに加えるにあたって還俗させた。

諱には良之からの諱を一字与え、之盛(ゆきもり)としている。通称は右馬允。

聡い子で、滝川からは武芸、下間からは鉄砲、藤吉郎からは学問を習っている。

その誰からも、将来が楽しみだと期待されている。


武野紹鴎は、この冬体調を崩した。

早速アイリと千をやって治療させると、早くも翌日には本復し、精力的に働き出した。

その紹鴎と連れだって、良之は船尾に向かった。

すでに干拓、環濠の工事が終わり、現在は急ピッチで銅座の建築が進められているという。

紹鴎に率いられて主従は馬で、住吉道を南に延ばした街道を進む。

この道も以前には無かったもので、紹鴎らの指示で開削されたものだった。

「へえ、橋を架けたんですか」

石津川には橋が架けられていた。銅座橋、と名付けられたらしい。

「船着場も作りました」

かつて猟師の小屋が建ちならんでいた一帯は船着場となっていた。

川を浚って水深を下げたらしい。随分と大規模な工事をしたものだと感心した。

外周を案内されると、かつて湿地帯の四つ池からの排水が流れていた三光川も完全に開削され、銅座の環濠へと変貌していた。土は街の内側に土塁として積み上げたらしい。

外から見たら堂々とした城構えにさえ見える。

街の南東の端に今池を取り込んでいる。この今池から北に向かっても新しい堀川が掘られ、石津川につなげられている。


内部には、鋳物師たちが信仰する三宝荒神、稲荷神、金屋子神などの寺社が建てられ、北西から南西にかけては土蔵が、北東から南東にかけては職人の居住地が建ちならぶ。

中心一帯には、鋳物師の作業場、銅座、そして分銅工房が建ちならんでいる。


「これは大変だったでしょう、本当にお疲れ様でした」

良之は労った。

「わては器をこさえただけ。こっからがんばらなあかんのは、広階の親方たちでっさかいな」

照れくさそうに、それでも誇らしそうに紹鴎は答えた。

その後、広階美作守の所にも顔を出し、大いに労って良之たちは堺に戻った。




式村比呂です。ご感想など本当にありがとうございます。

ご質問・ご指摘など、活動報告にてお答えできる部分についてお返しいたします。

4/1より、一日1回の更新とさせて頂きます。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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