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妻に媚薬を盛ってみた

作者:鈴本耕太郎
「ヤバイくらい効くから」
 会社の同僚とのくだらないバカ話を思い出して、何気なく検索をしたのがきっかけだった。記憶の片隅に残っていた商品名を入力すれば、それはあっさりと見つかった。
 スマホの画面に表示されたそれが、すぐ隣でテレビを見ている妻にバレやしないかと思うと、緊張して心臓がどくどくと五月蠅い音を立てていた。僕は小さく深呼吸をして、商品の口コミ欄に目を走せた。

 曰く、二人きりの時に飲ませれば、簡単にヤレる。
 曰く、自分に使ったら、中学生の頃に戻ったかのような持続力に驚いた。
 曰く、不感症だったのが嘘のように、乱れ狂っていた。
 曰く、外での使用は控えた方がいい。
 曰く、服用すれば、身体の疼きが抑えられなくなる。
 曰く、無色透明且つ、無味無臭の為、こっそり使用しても絶対に相手に気付かれない。
 曰く、これを使えば、どんな人でも性の虜になるだろう。

 気付けば口元が緩んでいた。慌てて表情を取り繕い、妻の方を確認して一安心。どうやらバレてはいないようだった。 
 眉唾物の話ばかりではあるが、試してみる価値はあるかもしれない。そう思って金額を確認すれば、二万円弱だった。その金額が高いのか安いのか。僕は少しだけ迷った後で、欲望に負けて、あっさりと購入ボタンを押した。
 隣にいる妻には、まだバレてはいない。

 注文から僅か二日後。
 商品は驚くほど簡単に手に入った。コンビニ受け取りとしたそれを、車の中で配送用の箱から取り出せば、ネットで見るよりも遥かに禍々しいデザインをしていた。目がチカチカしてしまいそうなパッケージに書かれたうたい文句。
『どんな淑女も、僅か数滴で淫らに堕ちる』
 随分と大袈裟に語っているだろうその言葉に苦笑しながら、封を開けた。取り出した媚薬は、無色透明の容器に入れられた目薬にしか見えなかった。

 使い方は簡単で、飲み物や食べ物に四滴程垂らすだけで良いらしい。無味無臭のそれは、使いどころさえ間違えなければ、バレる心配はほとんどない。
 とはいえさすがに、こんな怪しげな薬を、いきなり妻に使用するのは気が引けた。だから僕は、まずは自らの身をもって媚薬の効果確認を行う事にしたのだ。説明書によれば、効果は服用後、数十分で現れ出し、四時間程持続するようだった。そこで僕は、妻が入浴するタイミングに合わせて、一滴だけを試しに服用した。効果確認というには些か少なすぎる気もしたのだが、慎重になるに越した事はないだろう。

 僅か一滴では、大した効果は得られないのではないかと思っていたのだが、そんな事はなかった。服用から十分程で身体が火照り出し、心拍数が上がったのが分かった。そして、身体がムズムズしだし、気付いた時には劇的な変化が起こっていた。
 いつもよりも遥かに元気だった為に自分で処理するのに、随分と時間がかかってしまったが、妻が長風呂だったおかげで、事なきを得た。
 欲望を吐き出し、なんとか鎮める事に成功した後も身体の火照りは続いていた。どうやら媚薬の効果は間違いないらしい。適量通りに服用すれば、あのうたい文句の通りになるのかもしれない。今から使う時が楽しみだ。念の為、適量通り服用して、問題がない事が確認出来てから妻に使おうと心に決めた。
 バレずに事を運ばなくては……。

 二回ほどのテストを繰り返し、問題がない事が確認できた。テストの際には驚くほどの反応の良さに、自分の身体ではないように思えて、本当に驚いた。身体の疼きが抑えられなくなり、通常以上に膨れ上がった欲望に思わず笑ってしまった程だった。
 これを妻に使ったら、一体どうなってしまうのだろうか。乱れた妻を前にして、僕は一体どう思うのだろうか。そして全てが終わった後、僕達の関係に変化はあるのだろうか。
 いや、必ず変えてみせる。だから絶対に成功させなければ。
 妻にはまだバレていないはずだ。

 待ちに待った作戦決行日。今日は僕らの四回目の結婚記念日だ。
 恒例となった花束を僕が贈り、妻が用意してくれた豪勢な料理を二人で食べた。食卓には僕の好物が多く並んでおり、妻がまだ僕の事を想ってくれているのだと改めて実感した。同時に僕は罪悪感に襲われた。本当にこんな薬を妻に盛っていいのだろうか。
 しかしそれは、ほんの一瞬の事だった。偶然見てしまった妻の手帳を思い出し、僕は考えを改めた。何の為に媚薬を買ったのか。現状を変えるきっかけが欲しかったのではないのかと、自分に言い聞かせて、妻に対する罪悪感を強引に追い出したのだった。

 食事を終えて、互いに風呂を済ませた後で、僕らは当初の約束通りに、二人で映画を観る事にした。少し前に流行った恋愛映画のDVDをセットして、キッチンにいる妻を見る。簡単なツマミを用意してくれている後姿を確認して、妻のグラスに媚薬を垂らした。
 大丈夫。まだバレてはいない。

「乾杯」
 コツリと控えめな音を立ててグラスを重ねた。僕は自分のグラスに入った酒を口に含みながら、あまりの緊張で味が全く分からなかった。妻の手が緩慢な動作でグラスを口へと運んでいく。それに伴い、僕の心臓が加速して、まるで打楽器のように五月蠅い音を響かせる。
 数秒にも満たない短い時間が、驚く程長く感じた。華奢な妻の手が、その薄い唇に向かってグラスを運ぶ。ようやく辿り着いたその瞬間。妻の喉が動いたのを確認した時、僕は小さく安堵して、息を吐き出した。そして自分がした事を再認識し、緊張は興奮へと変わっていった。
 アルコールと共に妻の口内へと運ばれていく媚薬を想像して、僕は生唾を飲み込んだ。
 もちろん妻には、バレていないはずだ。

 興奮を誤魔化す様に、僕は視線をテレビへと向けた。
 DVDに収録されている映画の予告を観ながら、グラスを傾けてちびちびと酒を飲む。隣り合って座ったソファーでは、肩の触れ合う距離に妻がいて、同じように酒を飲んでいる。しかし僕のとは違い、妻の酒には媚薬が入っている。
 そう思うだけで、僕の身体は熱を帯び、加速した鼓動は治まる気配がない。
 僕は逸る気持ちを抑えるように、思考を切り替える。映画へと集中しようとして、ふと思った。こうして並んで映画を観るのは、いつぶりだろうかと。
「なんだか久しぶりな気がする」
 僕の心の中を見透かしたかのようなタイミングで呟いた妻を、横目で見た。そして内心の動揺に気付かれないように頷いて見せた。
「そうだね。最近はゆっくり話をする余裕もなかったから」
「ごめん。私のせいだよね?」
「違うよ。タイミングが悪かっただけ」
「――ありがと」
 本当は思う所があるのだろう。しかし妻は、それを飲み込んだようだった。一体何を言おうとしたのだろうか。無理に聞き出すのがなんだか怖くて、僕は何も言わずに、妻に向けて微笑んで見せたのだった。

 目に見えて効果が現れ出したのは、妻が媚薬を飲んでからおよそ三十分後の事だった。その間僕は、当然映画になど集中できるはずもなく、視界の隅の方に見える妻の動きにばかり気を取られていた。何度も妻の方を振り向きたいと思ったが、必死の思いで我慢した。チラチラと視線を送っていたら、僕が何かした事を悟られてしまうから。
 しかしその我慢も終わりだ。視界の隅の方に見える妻の脚が不自然に動き、隣り合う肩はいつしか僕に密着している。そして極めつけは、明らかに荒くなり、乱れた呼吸。僕は跳びかかりたくなる欲求を必死に抑えて、妻の方へと振り向き、声をかけた。
「どうかした?」
 あまりに白々しい自分の言葉。平然と口に出来る僕は、クズなのだろう。
「――えっ?な、なんでもないよ」
 艶っぽい声だった。
 上気した頬、うっすらと汗が浮かんだ額、半開きの唇に首元が大きく開けて露出した鎖骨。そんな状態で、なんでもないなんて言葉が通用する訳がない。
「嘘つき」
「嘘なんかじゃないよ」
「本当に?」
「あっ」
 妻の身体を抱き寄せて、お互いの鼻が触れ合う程の距離で見つめ合う。親指でそっと妻の唇をなぞれば、僕の指を捕まえようと追いかけて来た。でも意地悪な僕の指は、妻の唇から逃げきってみせた。
 恨めしそうな目で僕を見つめる妻が堪らなく愛しく感じて、僕は思わずクスリと笑った。そしてコツリとおでこを合わせ、妻に問いかける。
「どうして欲しい?」
「意地悪……」
「何の話?」
 妻は視線を逸らせ、吐き出すように言った。
「ばか」
「誰がバカだって?」
 顎を掴んで強引に僕の方を向かせ、真っ直ぐに妻の目を見る。しばらくそうしていると、僕が折れる気がない事に気付いたのだろう。妻は唇を噛み締めるような動作の後で、小さく呟いた。
「ギュッてして」
 そんな妻が可愛くて、反射的に強く抱きしめた。小さくて華奢な妻の身体が、火照っているのがよく分かった。身体を伝って聞こえてくる心臓の鼓動。髪の毛からは、同じシャンプーを使っているなんて思えない程に、良い匂いがした。これから身体を重ねるのだと思うと、胸の奥が熱くなった気がした。

「次は?」
「……」
「このままでいい?」
「――して」
「なに?」
「キスして!」
「良く言えました」
 軽く妻の頭を撫でた後で、そっとキスを交わした。少しだけ触れて、すぐに離れれば、妻の唇が追いかけて来た。その事実が嬉しくて、僕はもう一度妻にキスをした。今度も触れるだけだったけれど、その時間は随分と長かった。そして啄むように唇を咥え、開いた隙間から舌を入れた。柔らかくて温かな感覚に何も考えられなくなっていく。
 こんな気持ちになったのは、いつぶりだろうか。その晩、僕らは多幸感に包まれながら、激しく求め合った。

 明くる朝。先に目覚めた僕は、すぐ隣で安らかな寝息を立てている妻の顔を眺めていた。心地の良い時間だった。カーテンの隙間から漏れる朝日を見て、溢れ出る幸せを抑えきれない今の僕のようだと思えた程だった。

「んん」
 気怠げな声と共に薄目を開けた妻に微笑みかける。
「おはよう」
「おはよ。今何時?」
「六時半。まだ寝てても大丈夫だよ」
「また寝顔見るの?」
「いや?」
「うん」
 もぞもぞと動いて、妻が僕の胸に顔を押し付けて来た。乱れた髪が顔に当たってくすぐったい。顔に当たった髪をどかし、妻の頭に撫でつけた。一撫でする毎に纏まりを取り戻していく柔らかな髪。僕らの関係もこんな簡単に元に戻れば良いのにと思ってしまう。
 でも、今ならきっと……。

「ねぇ」
 僕の胸に顔を埋めたままの妻に話しかける。
「なに?」
 返って来た声からは、さっきまでの寝ぼけた様子は感じられなかった。今なら大丈夫だろうと思った僕は、ここに来てようやく言いたかった言葉を口にした。
「もう、やめよう」
「え?」
 ゆっくりと顔を上げた妻が悲し気な目で僕を見ていた。
「不妊治療は、もうやめよう」
「どうして?」
「だって、辛いんだろ?」
「――どうして?どうして知ってるの?」
 目を見開いている妻は、心底驚いている様子だった。
「わかるよ。一緒に生活してるんだから。相談してくれるのをずっと待ってたんだけどな」
「ごめん」
「うん」
「でも、やめれないよ……」
「親の期待を裏切れない?」
「うん……。やめるなんて言ったら何て言われるかわからないじゃない」

 優しくて、真面目で、弱みを見せる事を良しとしない妻は、いつだって気丈に振る舞っていた。お互いの親が心待ちにしている初孫の誕生の為に必死になって苦痛に耐えてきた。それなのに、いつまで経っても一向に身籠る気配はない。生理が来るたびに、悲しそうに肩を落とす妻の姿を何度見た事だろうか。本人は隠しているつもりでも、僕にはお見通しだった。本当はもっと早くに言ってあげるべきだったのかもしれない。でもそれが出来なかったのは、一番辛いはずの妻が一向に諦める気配を見せなかったからだ。
 でも、僕は見てしまった。
 偶然開いていた妻の手帳。生理が来た日に大きくて強い筆跡で書かれた×印と、その横に落ちただろう涙の痕。すぐ下には消しゴムで消しても、分かってしまう程強い力で書かれた『やめたい』という文字。
 今まで気付かなかった自分を、殴りたかった。どうしてこんな近くにいながら、妻の気持ちを分かってやれなかったのだろうと、やるせない気持ちになった。何もしてやれない自分が、あまりにも情けなかった。 
 だけど。それはもう終わり。

「親に何て言われも、僕が何とかするよ」
「ありがと。でもムリだよ。知ってるでしょ?うちの親がそれで引く訳ないよ」
 どこか諦めたような妻の表情に僕は、自分の無力感を感じてしまう。でも、だからと言って、はいそうですかと僕まで諦めてしまう訳にはいかない。
「もし説得できなかったら、駆け落ちしちゃおっか」
「何言ってるの?」
 小さく妻が笑った。すでに結婚しているのに、今更駆け落ちなんてと思っているに違いない。
「本気だよ。認めて貰えないなら、逃げちゃえば良いんだよ。駆け落ちってのとは違うかもしれないけど、良いと思わない?」
「うん。でも……」
 何か言いかけた妻の言葉を遮って、僕の気持ちを伝えさせて貰う。
「もう見たくないんだよ。辛そうな姿も、無理して笑ってるところも。子供は出来れば欲しいけど、その為に何かを犠牲にするのは違うと思う。僕はもっと二人の時間を大切にしたいんだ。だからさ、もうやめよう。許して貰えなかったら一緒に逃げよう。きっと二人なら、どこに行っても楽しくやっていけると思うんだ」
 妻さえ元気で傍にいてくれるなら、僕はそれだけで幸せなのだから。子供という幸せを得る為に、夫婦関係が破綻してしまっては、それこそ本末転倒だと思う。笑顔も会話も減り、一緒に過ごす時間もどんどん短くなっていたこの頃。身体を重ねるのも予定日だけを狙って行われていた。それはまるでただの義務のようであり、大切な愛情がぽっかりと抜け落ちてしまっていたように感じられたのだ。
 そんな時に聞いた媚薬の話。藁にも縋る思いで、きっかけにでもなればと試したのだが、大正解だったようだ。仮にここで妻の説得に失敗したとしても、僕達の関係が、大きく修復されるのは間違いないだろう。

「――うん」
 そう言って、再び僕の胸へと妻が顔を押し付けた。胸の辺りが、じんわりと熱くなるのを感じる。もしかしたら泣いているのかもしれない。僕は何も言わずに妻をそっと抱きしめた。

 どれだけの時間をそうやって過ごしたのだろうか。次に妻が顔を上げた時には、憑き物が落ちたような晴れやかな表情をしていた。
 そんな妻が堪らなく愛しく思えて、僕は強く抱きしめた。
 ――そして。
 昨夜以上に激しく愛し合った。
 媚薬はもう、必要ない。






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