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雨と箱詰め

作者:菱田薬子
 八月が来る前に埋めてしまわなくては。ひどい臭いに耐えられなくなる。
 梅雨の季節にしたのが悪かったのかも知れない。あんなにも梅雨が長引いてしまったのは誤算だった。今さら悔やんでもどうしようもならない。
 六畳一間のアパートの一室。流しに溜まったままの食器が厭な臭いを放っている。半分朽ちかけている畳に薄い壁。薄汚れた室内。最後に掃除したのはいつだっただろうか。そして忌むべき保冷箱。隣人は札付きの男と学生。隣室から苦情は来ないだろうが己のしたことといえ神経の参っている私は耐えられそうに無い。ブラウン管の向こうに住む誰かが世の不条理を嘆いている。この嘆きを見ている人のうちいったいどれくらいの人が哀しんでいるのだろうか。無いとは分かっていても今しも私のしたことが放送されそうで怖ろしくなる。
 今日も雨が降るのか。窓の外から流れ込む湿った空気が鼻につく。流しから放たれる腐臭と混じって鼻腔の奥まで毒されるようだ。今降っていなくとも昼からは降るだろう。空気が肌に絡みつく。私の輪郭が曖昧になって溶け出していく。じめじめとしている。からからと笑う。
 抽斗の中に溜まった日めくりのカレンダーを取り出して幾日過ぎたか数える。厭になる。ドライアイスはもう溶けてしまっただろうか。そればかりが気になる。とぷ。
 冷蔵庫の中にある発泡スチロールの箱から新聞紙にくるんだドライアイスを取り出して細かく砕き部屋の片隅にある保冷箱に入れる。入れようとする。しかし開けようとした手が震えドライアイスを取り落としてしまう。畳の床を剥片は滑り昇華して白い煙となる。足下が刹那の間涼しくなる。しかし細胞と溶け合った湿気は体の奥深くへと染みこんでいく。肺腑へと落ちていく。
 手元に残ったドライアイスがすっかり溶けてしまうまで私は動くことができなかった。座り立ち取り入れる。たったこれだけの動作ができなかった。にもかかわらずシャツは体に張り付いた。噴き出した汗が湿気と混ざり輪郭が溶ける。溶けてしまえばいいのにと願い輪郭を保ったままの手を見てからからと笑う。じめじめと沈む。
 顎に伝う汗を拭って私はいよいよ決断する。今日こそは捨てにゆく。埋めてしまわなくては。八月が来る前に。幾度目かの決意。その度いよいよ今日こそはと思って先延ばしにしてきた。引き延ばされた怠慢は空気に満ちて肺の奥深くへ澱のように溜まる。
 決断を緩めてはいけない。言い聞かせ流しに立つ。山のように積み重ねられた食器に蛇口から水を出す。じゃばじゃばと掛かりばしゃばしゃと跳ねる。腐臭を含んだしぶきが服に肌に顔に飛んでいたずらに鼻腔を刺激する。二組ずつの食器なんて要らない。
 食器の山がだんだんと小さくなるうちに決心がかたまっていくような気がした。八月になる前に埋められる。私は嬉しくなって腐臭のしぶきが口にはいるのも構わず流行りの曲を口ずさんだ。ブラウン管も口ずさんだ。じめじめと笑う。からからと浮かぶ。
 窓の外から流れ込む湿気を含む空気が急に涼しくなった。私は咄嗟に振り向き保冷箱が閉じていることに安堵する。保冷箱のドライアイスが開かれたせいで溢れだしたのかと思った。安堵すると同時に急に降り出した雨がアパートの屋根を叩いた。
 急に降り出した横殴りに降る雨は視界に斜線を引いているかのようだ。塗りつぶされていく。早くしなければ。一刻も早く埋めなければ。横殴りに降る雨がそうさせたのかもしれない。私は保冷箱を掴んで部屋を出た。保冷箱が身じろぎした。ような気がした。水の中で息をするような感覚。とぷとぷ。
 ひびの入ったコンクリートの廊下は早くも雨が吹き込んで黒く変色している。低い手すりから見える地面は雨に煙って見えない。膝で保冷箱を支えて片腕を離し念のために鍵をかける。重い保冷箱はぐらぐらと揺れて今にも廊下に中身が落ちてしまうところだった。抱き直してほっとする。保冷箱と密着していることに脊椎がざわめく。脊椎から上ってくる悪寒は頭蓋の裏で虫が這い回る感触に変わる。頭を振る。振り払う。
 鍵を閉めるともう一度抱え直して水浸しになりつつある廊下を抜ける。中身がぎっちりと詰まっているため不審な音が出る心配もない。ぎっちりと詰まる。ぎっちり。
 足早に駆け抜けようと思った矢先後ろから声がかかった。
「今からお出かけですか?」
 不機嫌そうに声を掛けてきたのは隣室の学生だった。振り返り会釈する。水の中で息を。とぷとぷとぷ。
「テレビの音がうるさくて。今も鳴っているので止めてもらえませんか?」
 煩いのはこっちの方だ。怒鳴り返したくなる衝動を堪えて苦学生に謝る。廊下を引き返してドアを開け中に入る。奥にあるテレビのコンセントを引き抜く。
「臭いますね。腐らせないでくださいよ」
 中を覗き込んで流しを見つめる隣人。口うるさい大家に苦情を出すには手間が掛かるが直接文句を言うなら手間が掛からない。しかも相手に落ち度があればなおさらだ。彼の絡みつく思考が梅雨の空気を思い出させた。せり上がる吐瀉物を飲み込み私は平静になろうとする。水の中で。とぷ。
「それになんです、その、」保冷箱を指さす。「臭いますよ」
 新聞紙で幾重にも包んだ上に袋に入れて保冷箱に詰めた。臭うはずがない。きっとあることないこと言っているだけに決まっている。分かるはずがない。水の中。とぷと。
 鍵を閉め怒りを薄笑いで隠してもう一度会釈し廊下を去ろうとする。
「傘も持たずにどこへいくのですか?」
 酷く。
 酷く小心者の隣人が怖ろしくなった。大家に苦情を出すことすら厭い普段は泣き寝入りするしか能のない小心者の隣人が怖ろしくなった。彼は保冷箱の中身を知っているのではないか。からからの嘘。知っていてなお猫が鼠をいたぶるように知らぬ振りをしているのではないか。じめじめと本当。恐怖を薄笑いで塗りつぶして駐車場すらないアパートで車があるのですとだけ答える。
「そうですかこれは失礼しました。何かお困りでしたらいつでも――帰ってきてからでもお越しください」
 ぬめった声が絡みついた。彼の言葉が頭蓋に響く。這い回る虫。踵を返して廊下を駆ける。横殴りの雨が廊下を服を顔を濡らす。コンクリートの階段を降りてアパートの前の通りに出て振り返ると隣人が私を見て厭らしく微笑んでいた。分かっていますよ分かっていますよ。
 通りには誰もいない街は死んだよう。この雨で出歩く人などいないのだろう。しかしそれは埋めにゆくのを見つかれば言い逃れが出来ないということだ。
 厭だ。隣人の微笑みが脳裏に浮かぶ。厭だ。雨が降る前の肌にねっとりとまとわりつく梅雨の名残が脳裏に浮かぶ。厭だ。体に張り付く服が体温で温くなる。厭だ。髪から滴る水滴は大粒の雨と共に落ちる。厭だ。
 水溜まりに足をとられ拍子に保冷箱が濡れた手から落ちる。半回転した保冷箱は横向きに落ちた。きつく結ばれたビニル紐がずれて箱のふたが少し開く。中からまだ溶けきっていないドライアイスが転がり出て外の湿気にやられた。白い煙を上げる暇すらなく気化したドライアイス。
 閉めようと手を伸ばす。ずれたふたの隙間からだけで表情はないがこちらを確かに睨み付けていた。は己の置かれた状況を確認するべくぐるりと一回転する。水の。とぷとぷとぷ。
 幻覚を見たと頭を振ってなんか無いと納得する。はさきほどの一瞬だけで今はもう消え去っていた。腹の下からこみ上げる嘔吐感を堪えてふたを閉じビニル紐を乱暴に結び直す。遠くから水しぶきの音が聞こえた。雨音に混じって近づいてくる微かなエンジン音。
 保冷箱を抱き上げて咄嗟に道の端の電柱に隠れる。保冷箱が身じろぎした。頭蓋の虫が。隠れたところでどうしようもないのに。車は私の横を気づきもしない横暴な素振りで通り過ぎびしょ濡れの体に駄目押しするようにしぶきをかけた。濡れそぼった保冷箱が寒い寒いと揺れた気がした。
 蛍が飛ぶ川の橋を渡り山道と言ってもいいような舗装されていない道を通り抜け神社の石段を上がり境内を突っ切って獣道に入る。
 カレンダーを溜め始めたその日から焦がれていた場所に着いた。まだ私が小さかった頃見知らぬ誰かと秘密基地を作った何という名かも分からない木々が立ちならぶ林の中。仮に快晴でも日差しは届かないだろう。土の臭いが鼻につき鼻腔の奥にこびり付いていた腐臭がなりを潜ませる。いい気味だ。からから。
 いつの日まで使われていたかも知れない古井戸まで保冷箱を運ぶ私の気持ちは躍っていた。もう少しで解放される。悩む必要が無くなる。保冷箱を落とした。思っていたより長い落下音の後井戸の底にぶつかったのか固い音がする。プラスチックの保冷箱がへしゃげる音だ。やっと終ったと思うと腰が砕けた。濡れた土に尻餅を着く。雑草と木の枝がちくちくと痛い。水。とぷ。
 井戸の縁にすがって立ち上がろうとすると井戸の底から音が――ビニル紐が千切れる音が聞こえた。気がした。保冷箱がどうなっているかは分からない。だが中から這い出ようとする音が雨音に紛れて聞こえてくる。雨粒が地面に弾ける音のように。産道を通り赤ん坊の音のように。井戸の底から沸き上がる。とぷとぷ。
 やっと立ち上がったのに再び腰が砕ける。尻餅を着いた。ズボンの尻に雨が染みこむ。温くなったシャツが体の周りの空気を梅雨のあの日に連れ帰る。
 古井戸を這い上っては落ちる。落ちては這い上る。段々と井戸の縁に近づいてくるような音音音。
 動かぬ足を手で打つ。頬を張る。立ち上がって土を掬い井戸の中へ投げ込む。土の臭いが鼻腔にこびり付く。腐臭が蘇る。倒木の欠片が爪に食い込むが気にせず掬う入れる掬う。堪らず井戸の中に吐瀉する。雨に濡れて半分泥になった土が手を汚しシャツを汚す。構う物か。掬う入れる。掬う入れる掬う入れる。
 雨音と土を入れる音よりも大きく。井戸から這い上がる音が林の中に充満する。頭の中に満ちていく。虫が。
 駄目だ。土を入れたところでどうにもならない。頭の中では逃げろと警鐘が響くのに体が動かない。いや動く。土を掬っては井戸に入れる動作を繰り返したまま止まらない。とぷとぷとぷ。
 水分を含んだ物が地面を床を井戸の壁を這う音が聞こえる。だんだんと近づく。雨音は聞こえない。這い上がってくる音だけが聞こえる。体は止まらない。耳をふさげない。生きたまま腐敗しそうだ。
 びちゃり、と。井戸の縁からが見えた。
 その場に崩れて井戸の縁を見上げる。見えない。消えた。雨音が戻る。だが雨は降っていない。耳の中に木霊する。私は梅雨のあの日に戻ってしまったのか。吐瀉物の匂いが今さら鼻につき堪らず涙がこぼれる。しかし口の端はつり上がって笑った顔を作っていた。からから。
 泥だらけになった体を無理矢理動かしてアパートに帰る。関節に虫が湧いて詰まったように緩慢な動作で歩く。関節の虫が歩く度に潰れる。雨の上がった神社の石段は滑る。地肌が削られて茶色い汚物のようなねばっこい粘土が道路に横たわっている。蛍が飛ぶ川は上流でせき止められてしまったのか水が少なくうっすらと汗をかいた石ころが見えた。アパートは出たときと変わらぬ顔で待ち受けていた。
 二階の廊下には隣人があの厭な微笑みを浮かべながら立っている。
「用は済みましたか?」
「シャワーを浴びたいわ」
 私は言って隣室に入った。シャワーを浴びるだけだから。シャワーを浴びるだけ、だから。
 とぷとぷとぷとぷ。
この夏現時点で一番ホラーだったことは、一度書いた原稿が消えたことです。

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