しんしんと降り積もる雪。
もう何年も止むことのない雪。
あらゆる音を奪い静寂を生み出す雪。
命を枯らす雪。
終わることのない『フユ』。
少年はそんな世界に生まれた『ハル』を知らない子供でした。
「母さん、『ハル』って何?」
白い息を吐きながら、雪深い道を足をとられながら歩く少年は、自分の手を引いて隣で歩く母親に尋ねました。
「お前はみたことないんだよね。『ハル』という季節を。『ハル』は美しいんだよ。緑と花と小鳥の囀り(さえずり)が 世界いっぱいに広がるんだ。お前にも見せてやりたいねぇ……」
少年はまだ八つでした。まだ『ハル』を見たことはなく、勿論、緑も花も小鳥さえも見たことはありませんでした。少年がこの世界で知っていることと言えば、凍えるくらい冷たい雪と、刺すような冷たさの風と、寒さと飢えで息絶えた昆虫だけでした。世界は白く、寒く、音が無いものだと信じていたのです。
幼い少年には鮮やかで命芽吹く『ハル』とは想像すら出来ないものでした。
そんな少年に、雪がいつも以上に強く降るある日、悲劇が訪れました。少年の母親が病気で倒れてしまったのです。強く優しく、今まで少年を支えてきた母親は、弱りやせ細り、やがて起き上がることすら出来なくなってしまいました。
少年は必死に母親を看病しましたが、病気はますます悪化するばかりで、回復の兆しすら見えません。いつもなら、美味しい美味しいと言って飲み干す、少年お手製の豆のスープさえも残してしまうのでした。
少年は悲しくなりました。そしてどんどん弱っていく母親の姿を見ていると、何もしてあげられない自分に腹が立ちました。
そんなある時、少年の母親は夢か現かぽそりと呟きました。
「あぁ、フキノトウが食べたいねぇ……」
たった一言、それだけ呟いたのです。勿論母親の側にいた少年はこの言葉を聞いていました。しかし『ハル』を知らない少年がフキノトウなど知る由もありません。けれど食べ物だということは分かりました。
「フキノトウなら食べれるのかな」
スープすら飲めない母親はその時既に何も口にしなくなってから丸二日が過ぎていました。幼い少年にも、これ以上何も食べなければ、母親は死んでしまうだろうことは理解できていました。だから決心したのです。
「フキノトウを探しに行こう」
少年は青色の綿入れを着て、耳当てのついた白色の毛糸で編まれた帽子をかぶりました。そしてモコモコのブーツを履くと雪降る外へと飛び出しました。
白銀の世界には緑や動物達がいないかわり雪の精がいます。ずっとこの『フユ』の世界で暮らしていた少年には雪の精の友達が沢山いました。フキノトウがどのような食べ物なのかすら分からない少年は、雪の精に聞きました。
「ねぇ、フキノトウって知ってる?」
雪の精はくすくす笑って答えました。
「知ってるよ」
少年は青と白のしま模様の手袋をはめた手のひらに雪の精を一人のせました。
「ねぇ、教えてよ。僕のお母さんが食べたいって言ってるんだ」
雪の精は、うーんと唸って答えました。
「フキノトウは野菜だよ。『ハル』を告げる野菜。『ハル』がくると土の中から顔を出すのさ。……でも今は『ハル』じゃないからきっと採れないよ」
「えっ……」
少年は愕然としました。『ハル』がこないと芽吹かない野菜だなんて、と。でも少年は今雪の精の言葉にヒントがあることに気付きました。
「……でも『ハル』になると顔を出すってことは、『フユ』の今でも土を掘ればあるかもしれないよね?」
「うん、まぁ……」
雪の精は歯切れ悪く答えました。実際雪の精は知りませんでした。『ハル』になれば溶けて消えてしまう身なのですから。本当はフキノトウの姿すら見たことがないのです。それに『フユ』のうちにフキノトウを堀だそうという考えを持ったものにも会ったことなどなかったのですから。
それから少年は雪掘りを始めました。母親が食べたいと言うフキノトウを見つける為に、その小さな手で雪を掘り始めたのです。
雪はしんしんと降り続きます。沢山の雪の精達が、近くの枯れ木の枝に座りながら少年を見守っていました。
少年は懸命に掘り続けます。毎日毎日同じ時間に同じ場所で。少年は毎日、母のいる家とその場所の往復をしていました。しかし、少年の頑張りとは反比例して母親は見る間にやせ細っていきました。
少年は毎日掘り続けます。手袋の指先が破れて霜焼けになってしまっても、そんなこと気にせずに、懸命に掘り続けます。
近くで少年を見守る雪の精達もだんだんと諦めの色が濃くなっていきます。毎日一心不乱に掘り続ける少年の体を心配する雪の精も現れました。
「無理だよ……やめなよ……」
少年にフキノトウのことを教えた雪の精は見るに絶えず声をかけました。しかし少年は返事をしません。ただ黙々と素手同然の手で雪を掘り続けています。けれど、少年の掘る穴はなかなか深くはなりません。少年の掘るスピードと同じくらいの速さで雪も降り続けていたのです。そんなことの繰り返しが一週間程続いたある日のことでした。
「お母さん……?」
朝目を覚ました少年が目にしたものは、二度と目覚めることのない、冷たくなった母親の姿でした。
「お母さんっ、お母さん……っ!」
少年のフキノトウ探しは間に合わなかったのです。母親は死に、フキノトウを食べさせてあげることは出来ませんでした。
少年はおいおいと泣きました。涙が枯れるほど毎日毎日泣き続けました。何も飲まず、何も食べず、ただ母親を失った悲しみに暮れていたのです。雪の精達は、そんな少年を木の上から眺め心配していました。
「何か食べないと、体に毒だよ」
一人の雪の精が言いました。それは少年にフキノトウのことを教えた雪の精でした。飲まず食わずで悲しみ打ちひしがれている少年が心配でならなかったのです。けれどその声は聞こえていないのか、少年の虚ろな瞳からは、絶え間なく大粒の涙がこぼれていました。
雪の精は考えました。母親の為に手に入れようとしたフキノトウ、霜焼けを作ってまで掘り続けようとしたフキノトウ、それを少年に持っていけば少しは元気を取り戻せるのではないかと。
雪の精は空を舞い、少年が何度もフキノトウを掘り起こそうと挑戦していた場所にたどり着きました。けれどそこには穴を掘っていたという面影一つありませんでした。母親が死んで以来一度も少年はここを訪れていないのだから当たり前です。
見渡す限りの白銀の世界。雪の精はごくりと喉を鳴らしました。遅れて他の雪の精達もやってきました。けれど彼らはその雪の精を手伝いに来たわけではありません。『ハル』が来る前にフキノトウを掘り起こそうとするなんて無駄なことだと知っていたのです。ましてや、子供の手に乗ることの出来るほどの大きさの自分達に、その何倍もの大きさの少年が出来なかった事をやり遂げようなど、無謀な事とは、誰が見ても明らかでした。
それでも雪の精は決めたのです。少年の為にフキノトウを持っていこうと。そしてまた少年の元気な姿をこの目で見ようと。
雪の精は、少年よりも更に小さな手で雪を掘り始めました。雪がしんしんと降り続ける中、たった一人で掘り続けたのです。
周りの枯れ木の枝の上では他の雪の精達が、たった一人雪を掘り続ける仲間を笑い、馬鹿にしていました。不可能な事を何故やり続けるのかと皆不思議に思いました。
ある時一人の雪の精が、黙々と掘り続ける雪の精に問いました。
「どうして無駄な事をするんだい? 無理に決まっているのに」
すると雪の精は手を休めずに答えました。
「無理かどうかは分からないよ。それにあの子には笑っていてほしいんだ」
そして、ふぅと一息ついて言いました。
「友達だから」
尋ねた雪の精は口ごもってしまいました。その時の仲間の姿がとてもきらきらと輝いていたからです。友達の為にフキノトウ探しを続けるその姿は、彼を見て何もせずに、笑ったり、馬鹿にしたりしている他の仲間に比べて格段に美しく見えました。
「ぼ、僕も手伝うよ!」
雪掘りの仲間が増えた瞬間でした。
そうして始めは一人きりで始めた雪掘りでしたが、次第に二人、そして三人とその数は増えていきました。周りの枯れ木の枝にはもう彼らを笑う者はいません。ある者は彼らを手助けし、ある者は彼らを励まし、ある者は少しでも早くフキノトウが見つかるように祈り続けました。友達の為に動く彼らに皆心動かされたのです。
どれくらいの時間が過ぎたのでしょう。相変わらず降り続ける雪の中、一人の雪の精が叫びました。
「フキノトウだ! フキノトウが見えたよ!」
皆が集まったそこには雪の間から覗く黄緑色の何かがありました。始めに掘り始めた雪の精はそっとその黄緑色の何かの周りの雪を掻き分けました。そこから現れたのは、今この白銀の世界で唯一鮮やかな色を持つ黄緑色のフキノトウでした。その鮮やかさに雪の精は目が眩むほどでした。
「すごい! なんて鮮やかな黄緑色なんだろう」
雪の精達は口々に言いました。当たり前です。白い肌、白銀の髪、そして銀の瞳を皆一様に持つ彼らにとって、今まで色を持っていたのは人間だけだったのですから。自然の中には鮮やかな色など存在しないと思っていたのです。
雪の精はフキノトウを傷つけないように土を掻き分け、まだ固く閉じたままのそれを収穫しました。
「これであの子も元気を出してくれるかな」
フキノトウを手にして満面の笑みを浮かべた少年の顔を想像して、雪の精は嬉しくなりました。少年の為に 何かしてあげられる事が幸せだったのです。
しかし現実は悲しく、そして残酷でした。
飲まず食わずで嘆き続けた少年は、死んでしまった母親の様にやせ細り弱っていたのです。母親の亡骸に寄り添う少年は、あまりに涙を流し続けたせいなのでしょう、その肌はまるで老人のようにカサカサし、目は窪んでいました。
「ほら! フキノトウを採ってきたんだ。食べてみるかい?」
雪の精はなるべく明るく尋ねると、少年は窪んだ目を雪の精に向けました。雪の精は思わず顔を背けたくなりました。あれほど元気いっぱいで、いつもにこにことしていた面影が、その姿には見られなかったからです。そして少年は枯れ枝の様な手を差し出して言いました。
「ねぇ……僕の側に来て。この手に乗って近くまで、来て」
その声は今にも消え入ってしまいそうなほどか細い声でした。雪の精はこくりと頷くと、少年の手のひらの上に舞い降りました。そして抱えていたフキノトウを足元に置きました。
「ほら、フキノトウだよ。これがフキノトウって言うんだよ」
雪の精は少年に言いました。
「綺麗な黄緑色だろう? これがフキノトウだよ。君のお母さんが君に見せたがっていた『ハル』なんだよ!」
少年は手のひらに雪の精とフキノトウを乗せたまま、力無く笑いました。それは雪の精が久し振りに見た少年の笑顔でした。
「ありがとう……。僕の為に、採ってきてくれたんだね……」
そしてもう一度少年がありがとう、と言った瞬間、雪の精の足元がぐらりと傾き、ことんと音をたててフキノトウが床に落ちました。雪の精は慌ててフキノトウの元へと飛び降りました。
「フキノトウ食べるだろう? 待ってて、今――」
そこまで言いかけて雪の精は一度拾い上げたフキノトウをぽろりと落としました。先程まで自分を乗せていた少年の手がだらりと力無く下がっていたのです。
雪の精は少年の顔の近くへと移動しました。そして少年の痩せこけた頬にその小さな手で触れながら名前を呼びました。しかし少年は瞳を閉じ、雪の精の呼びかけには応えません。
「起きておくれよ……。フキノトウ、持ってきたんだよ……」
雪の精は今度は少年の手のひらの上へと移動し、フキノトウをその手に握らせようとしました。
ことん。
けれど、その手は握りしめられること無く、フキノトウはまた床に落ちてしまいました。雪の精は少年の傍らに立ち尽くしました。少年は母親の後を追うように死んでしまったのです。
雪がしんしんと降り積もる中、雪の精はほろほろと泣きました。来る日も来る日も、友達の死に泣き続けました。少年の為に掘り出したフキノトウを抱えながら、雪の精の銀の瞳からは止まることなく涙が流れ続けました。
毎日毎日泣き続ける雪の精を見て、一人の仲間の雪の精が言いました。
「もう泣かないでおくれよ。それ以上泣いたら君は――」
雪の精達は知っていました。自分達にとって温かい涙は毒であることを。
毎日毎日涙を流し続けた雪の精の体はどんどん小さくなっていきました。雪の精は自分の命を削って涙を流し続けたのです。
そして少年が死んでしまってから程なくして、少年の死を嘆いていた雪の精の体は消えてしまいました。そこにフキノトウ一つ残して。
仲間の死は雪の精達に深い悲しみを与えました。彼らはもう何年も一緒にいたのですから。今の『フユ』が訪れてから、彼らは誰一人欠けること無く、共に過ごしていたのですから。共に過ごした仲間の一人を失い、雪の精達は、まるで自分の半身を失ってしまったかのような心の痛みを知ったのです。
「痛い……、痛いよ……」
雪の精の一人が心の痛みに耐えきれず涙をこぼしたのを皮切りに、全ての雪の精が声を上げて泣き始めした。涙を流すことは自分達にとって毒であることを知りながら泣き続けました。雪の精達は初めて知った心の痛みに、涙を止めることが出来なかったのです。
泣き続ける雪の精達の体は徐々に小さくなっていきました。それでも彼らは泣き続けました。おいおいと声を上げて。
やがて降り続ける雪はみぞれへと変化しました。みぞれと涙は混ざり合い見る見るうちに、白銀の世界の雪を溶かしていきました。彼らの流した温かい涙が世界中の雪を溶かしていったのです。
雪が全て溶けた世界に、雪の精達の姿は一人もありませんでした。
雪の精達が消え訪れた『ハル』の世界の大地には、緑がありました。そしていくつかのフキノトウが土の中から、その黄緑色に輝く体を覗かせていました。
そんな中、一際緑が溢れる場所がありました。広がる緑の中心には、高く高く茎を伸ばして花を咲かせた何かがありました。
「ママ、あれ、なぁに?」
緑広がる大地の上で、若い母親に手を繋がれた幼子が尋ねました。
「あれはフキノトウだよ。『ハル』の訪れを一番先に知らせる野菜」
「フキノトウ……?」
幼子は初めて耳にした言葉を噛み砕くように復唱しました。
「大きいねぇ……。ママ、あんなに大きなフキノトウ初めて見たよ」
「はじめて、はじめて」
幼子は目を丸くする母親の顔を見てキャッキャッと喜び、母親の手からするりと抜けて、高くそびえるフキノトウの元へと走り出しました。
広がる緑の中心に辿り着いた幼子は、高く高くそびえるフキノトウを見上げました。どこからともなく小鳥の囀りが聞こえてきます。幼子はフキノトウの太い茎に触りながら目を閉じ耳を澄ませました。『ハル』の音に耳を傾けていたのです。
その時、ぴちょんと幼子の口に滴がこぼれ落ちてきました。
「しょっぱい」
その滴は、何故か温かく塩辛いものでした。目を開けた瞬間、突風が幼子の体をかすめました。幼子はバランスを崩し、しりもちをつきました。顔をくしゃっとし今にも泣き出しそうな幼子の体を、後から追いついた母親が抱き上げました。
「ほら、見てごらん!」
母親は泣き出しそうな幼子を抱きかかえながら、青く澄み渡った空を指差しました。幼子は顔をくしゃっと歪めたまま、母親の指さす方向を見上げました。
「わぁっ……!」
幼子の顔は一瞬で笑顔を取り戻しました。空一面にに黄緑色の何かが舞っていたのです。
「フキノトウの花が風に舞っているよ。綺麗だね……」
それは先程の突風で空に舞い上がったフキノトウの花でした。青く澄み渡った空をふわふわと舞う花は、ひらひらと母子の足元に落ちてきました。
「ゆきみたい」
母親に抱きかかえられながら空を見上げ手を伸ばした幼子は、その小さな手のひらに落ちてきたフキノトウの花びらを見て言いました。
「初めて見る『ハル』は綺麗でしょう?お前に見せてあげられて、ママ嬉しいな。良かったね、サクラ」
サクラと呼ばれた幼子は高く高く両手を伸ばしていました。すると今度はフキノトウの花がその口に入ってしまいました。
「にがぁい」
再び顔を歪めた幼子を見て母親は笑いました。
「ふふっ、苦いでしょう? でも、それがフキノトウだよ。『ハル』の味なんだよ」
「にがいよぉ」
幼子は母親の胸に顔を埋めぐずり出しました。母親は宥めるように、幼子の背中をぽんぽんと叩きながら、フキノトウの花が舞う空を見上げました。
「ほんと……、雪みたいだね」
フキノトウの花はいつまでもふわふわと空を舞っていました。
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