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芥川龍之介のマニア向けです。気楽に読んでください。
訪問客――芥川龍之介 異聞
作:梅本利雄




 隅田川の花火大会は、その日大盛況を迎えていた。昭和二(一九二七)年七月二十三日のことだ。だが、同じ頃、田端にある民家の一室は静寂に包まれていた。

龍之介は思った。
人生は花火のようなものだと。
自分を取り巻くさまざまな思いが、浮かんでは消えた。もういいのだ。これ以上、人生に対して未練など無かった。自分を取り巻いてはなさない思いに、疲れ切っていた。僕に与えられた人生は、どう生きるかという問いでは無かった。まさにどう逃げるかという人生だった。完全に全てに行きづまっていた。全てに自由になりたかった。
 龍之介は思った。
もし自分が自殺したとしたら、どう報道されるだろうかと。
犀星あたりが、何か新聞に僕のことを書いてくれるだろうかと思った。
また、きっと僕が親友と呼ぶ小穴が自分の遺書を読み、神話イカロスのように、日の丸の光に翼が解け墜落する哀れな男を、涙で美化してくれるだろうかと思った。
いや、実際は時代に振り回された軟弱な男として、多くの失笑をかうのかもしれない。
そんな人生も悪くない。
実母のように僕を育ててくれた叔母は、生き絶えた僕の姿を見てどう思うだろうか。
葬儀の時、彼女は泣き叫ぶであろうか。
これまでいろいろな死の世界を小説の中に書いてきた。
そして、死について多くを語ってきた。
でも、現実の死とは違うものだ。
妻は自分が死を選んだことを許してくれるであろうか。
きっと息子三人、その中でも特に比呂志は生涯、僕を恨むのかもしれない。我が子に教えられることなど、何一つ無い。僕は父として落第生だ。実父母の遺伝なのだ。仕方が無い。僕は死を夢見ている。その永遠の安らかさを至上のものと見ている。結局のところ、死は孤独でしかない。人生に価値をもたせる意味など無いのだ。
「澄江堂」と書かれた額が暗闇に浮かぶ。龍之介は静かに立ち上がると、そっと窓を開けた。夏の夜の微かな風が頬をかすめた。
 今の自分にとって、人生とは死ぬことのように思えてならない。
今日もまた一日中、安らかな死について考えた。
十分死ねるだけの睡眠薬はここにある。最近では、家族も執筆中には部屋には寄りつかない。今、これを口に入れれば明日の朝までに全ては終わる。そして、新聞の小さな見出しに僕の名前は載るだろう。これでも彼の漱石先生の弟子としての名を持つ作家なのだから、多少なりとも報道はされることだろう。そう、一時間ほど前、叔母に
「これを明日の朝に下村先生に渡してください」と言った。叔母は葉書を渡された時、困った顔をしていた。それもそうだ。葉書など自分で出せばいいのだし、叔母に出してくれるように頼むことも不自然なことだった。叔母はきっとこのことが別れの挨拶だったのだと後に語るかもしれない。彼女に対して、僕は人生の中でわがままなど今まで一度も言ったことが無かった。反対を受けた吉田弥生との結婚も結局はあきらめ、今の小説家としての人生があるのだから、きっと僕は叔母に最後まで反抗することなく終わっていくのだろう。一瞬で消えるマッチの灯火のような人生。僕のたった一つ彼女へのわがままは、辞世の句の書かれた葉書を郵便箱に入れてもらう程度のことなのかもしれない。見えざる運命に動かされる人生、それが自分の人生だった。
「人生とは一行のボードレールに若かない」のだ。人生などどうすることもできない。
死とは違う選択についても考える。明日という日があれば、僕は一日生き延びたことを喜び、そして憂鬱になりつつも生きていくことだろう。今日叔母に出しておくように頼んだ葉書も、日を追う毎に我が家の笑い話になる。それはそれで、愉快な選択だ。

「自嘲 水涕や鼻の先だけ暮れ残る 龍之介」

叔母はきっとこの葉書のことを田端の文士達に語るだろう。
漱石先生に褒められ、文壇に出た『鼻』の先に書いた小説は、『羅生門』くらいなもの。
僕の死後に残る小説はこれだけだ。自分にとって文学者の証、あらゆるものへの反抗への証だった。僕の文学の原点であり、全てを指し示すものだ。僕の人生の中で評価されるものなどそんなものだ。時代に乗れない僕の小説は、いずれは風化していく。古い時代の人間は、畢竟消えていかなければならないのだから。

 僕は深いため息をついた。
そして『続・西方の人』の最後の数行を書き込んだ。
神の子に対して興味など無かった。
僕の中に神はいない。
イエス・キリストは結局のところ、僕にとって自分自身であり、ジャーナリストでしかない。
六年前に見た西欧諸国の植民地化されつつある、中国大陸の状況は悲惨そのものだった。
文化や伝統を無視した、西洋人の信じる神を永遠のものと信じられるのか。
大地の中を飢えで苦しむ人々を見て、何も感じないほど、僕は鈍感ではない。
混沌とした世の中に何を見つけ出すのか。
日本の中で検閲を受ける現実の中で、僕は何を書けばいいというのだ。革命家の血のついたビスケットを食べ、熱い思いに身を焦がす大陸の人々を見ながら、自国への思いを何一つ書くことは不可能である。まさに口をきくことを許されない『杜子春』と同じだ。普通の人間が仙人になることはできない。架空の中で人は生きられないのだ。僕が救いを求めるのは
「処女懐胎」、父母のない神による出生、そして多くの罪を背負う死だ。重い十字架を背負う若者を描くことを、僕自身の人生の最後にしようと思った。それが永遠の聖母の愛と出会うことになるのだから。時折、聖書をひきながら考える。僕を殺してくれと。この気持ちは激しい。ふと、有島君の顔が浮かぶ。四年前、彼はとある女性と共に心中した。彼が軽井沢の別荘の中で首をつり、宙に浮かび、微かに揺れる姿が想像される。彼の死の知らせを聞いた時の興奮は今も忘れられない。あの時、僕の心を占めたのはまさに憧憬だった。宇野が病気で発狂じみた症状を見せた時、僕にはっきりと運命的な答えが見えていた。有島のように死なせてくれ。いや、宇野のように僕の余りに脆い心を狂気とともに奪ってくれ。たとえ無残でも構わない。自分を待つもの、それは
「発狂か死」という現実以外に考えられない。僕の前に異界へ逃げ出す梯子を与えてくれ。僕は全てを受け入れる。

 爽やかな夜風が入ってくる。
龍之介は窓をそっと閉めた。
微かに花火の音が遠くから聞こえる気がした。
小説を書きながら思う。
僕は何処へ行くのかと。
開かれたままの聖書を見つめると、悲しみだけが沸き起こった。
僕はこの中に純粋なテーマを見つけることはできない。
強烈な自己不信に包み込まれる。
もう自分には現実に打ち勝ち、家族を養い生きていくだけの気力など無い。
小説を書く喜びなど遠い彼方に消え、僕にあるのは日々必死に生きる生活手段でしかない。
僕と同じように、神によって運命を授けられた男は、重い十字架を担ぎ、死刑場のある丘への道を必死に汗を流しながら歩いた。
まさに、小説の中のジャーナリストは、与えられた人生に幕を閉じる必要があった。何故か追い詰められるような感覚が時折起こる。もう僕は悲しみの扉を開けてしまった。忌まわしい過去への回帰の作品は『点鬼簿』以上、もう書くことは出来ない。過去を冷静に語れるほど強い心臓などない。僕は室生犀星や志賀直哉ではない。
 原稿用紙の広がる机の上に、龍之介は筆を置いた。
僅かながらの開放感があった。
開かれたままであった聖書を閉じ、睡眠薬の詰まった瓶を見つめた。
そして机の引出しに気付かれないようにしまってあった遺書を取り出し、机の上に置いた。
ここまでは、一か月近く定期的に続いている習慣だった。
僕は今日も、震える手を睡眠薬の瓶へと近付けた。
蓋を開けると、香ばしい独特の香りが漂った。
考えることはいつもと同じだった。
これを飲めば、全て自由になれる。もう、何一つ自分の運命を呪う必要など無いと思った。残された家族も、僕の全集がしばらくすればできるであろうし、僅かながらの印税も入るはずだ。それが僕の最後の贈り物になるだろう。センチメンタリスムなのかもしれない。逃げ場を無くした男にとって、待つものは死あるのみ。



 電車が谷あいの道をゆっくりと通り過ぎていく。残された田端の駅の灯りだけが、暗闇の中に浮かんでいる。ここから龍之介の家まではさほど離れてはいない。小高い丘の鬱蒼と茂る林の中にそれはあった。木々は全ての音を吸い込んでいるかのようだった。乾いた土が狭いながらも道を形成していた。

 しばらくすると、僕の前に茶褐色をした物体があった。それはまるで大きな蛙のようにも見えた。湿った皮膚に黒い模様が所々入っている。僕は彼に見覚えがあった。彼は僕の机の向かい側に、正座をしていた。
 河童だ。
 僕が好んで描き続けていた河童が前にいる。
飯田蛇笏あたりに話したら、大笑いするかもしれない。
自分が好んで描いた絵が、現実のものとして目の前に見えるのだから。
いや、とうとう気が触れたと嘆くのかもしれない。僕はもう疲れている。これ以上書くテーマなど一つも見つからない。もう、書くことは完璧に無い。河童の姿が見えることは、歯車のような閃光が起こる症状の痛みよりはましなことだ。まだ滑稽さがあるではないか。悲しいかな、彼と黙って見つめ合う夜も悪くは無い。疲れているのだ。
 河童は水かきのある右手を後頭部へ持っていくと少し擦った。
僕の小説の中で、その妖怪は活き活きと世界を形成していた。
主人公は偶然ながらも河童の世界に迷い込み、そして発狂する。
死ばかりを夢見る今の僕はまさに狂人だ。
まともな判断ではない。
現実について深く考えることなど意味の無いことだ。
河童は上目遣いで僕を見つめ、顎を僅かに左右へ動かした。
まるで不思議なものに出くわした表情だ。
黒い瞳と黄色いくちばしが不気味さを強調した。河童などという小説を書いたが、実物を見ると気持ちの悪いものだ。両棲類に似た体に、嘴は不釣合いのように感じた。そのような価値観も、異端と考える自分の価値観だけで大したものではあるまいが…。河童の嘴の塊が割け始めた。水飴のような唾液が、幾筋も糸をひいていた。
「死ぬおつもりですか」と音が聞こえると、黄色い嘴は元の形に戻っていった。その奇妙な物体が話せるということは、意外そのものだった。僕は首を縦に振った。河童はまた顎を僅かに左右へ動かした。
「それは残念なことです。あなたは実に素晴らしく私たちの世界を書いて下さった。感謝いたしております」
河童は右手の水かきを上下に動かしながら、熱心に話した。僕はただ成り行きを見つめるしかなかった。狂気と死を夢見てばかりいる僕の思考は、現実さえも歪ませてきているのかもしれない。
「出産の場面が実にいい。よくぞ描いてくれました。出生する本人が母親の胎内で生まれたいかどうかを自己申請するようにして以来、わが国は犯罪が消えました。人間も早く見習うべきだと思います。いい種のみが生き残るとは最高のことではありませんか」
 僕は河童の顔をじっと見つめた。
両生類の皮膚のように、微かな粘着性とでも言うのだろうか。妙な瑞々しさがある。僕は小説『河童』の中で自己申請による生を描いた。誰にも頼らず、生きる自分。それは煩わしい血縁の憎悪関係の切り離された世界を求める思いがあったのかもしれない。生きたければ生きればいい、死にたければ死ねばいい。中途半端な現実は、娑婆地獄と化してしまう。
「架空の世界に現実を投影するあなたの技法、彼の漱石先生も絶賛していたではありませんか。特に『芋粥』は実にいい。私も芋粥を食べながら死にたい。私も欲望といえば、何よりも食欲ですな。満腹による死、本当に憧れます。やはり睡眠薬よりは芋粥ですな。もっとも私は生魚や胡瓜の方が好きですが…。ハハハ」
河童の黒目は人間というよりは、魚にも似て何を考えているのかわからない部分があった。無表情で何を考えているのかわからず、何処か狂気をはらんでいた。
「もう少し作品を書く気はありませんか。『トロッコ』も実に良かった。人は本当に救いを求める時には、母親の名前を叫ぶものなのかもしれませんね」
僕はこれまでの日々を考えていた。
死を間近にすると、走馬灯のように思い出が走るというが、まさにこのことなのかもしれない。僕は河童との会話の中で、母の姿を思い浮かべていた。河童の無表情な目がそれを思い起こさせたのかもしれない。日々遠くなる記憶を思い出すことは、小説を作ることにも似た煩わしい作業だ。僕の曖昧な記憶の母は狂人だった。

 僕が生前の母に最後に会ったのは小学生の時だった。大人とは残酷なものだ。いや、それは自分の親戚に限ったことかもしれない。物心がつき始めの僕に、ある日突然、あなたの実母はこの階段の上にいる、というのだから。母に会い何を話せというのだ。無計画の上、正当性が何も無い。僕に残酷な影を落とすことを喜びにしているとしか思えない。
 母は狐のような目をしていた。
火鉢の前で長煙管をふかし、僕を見つめた。
感動など何も無い。
彼女の肌は日ごろ部屋から出ないためか、白く光っていた。
それはまるで白狐そのものだった。
母は僕が生まれた直後に発狂した。
原因は僕のせいでもある。
なぜなら、僕の出生が、彼女に不安を与えた部分があるからだ。
辰年、辰の日、辰の刻に生まれた僕は、一家に不幸をもたらすと言われ、信心深い家族が困惑した。
迷信は僕にとって敵である。
周囲の人々は縁起を担ぎ、不吉な星に打ち勝つ強い子として龍之介と名づけると、ある儀式をすることとなった。
それは生まれて間もない自分を、一旦お寺に預ける形をとり、その後で僕はまさに貰い児として、実家に戻るというものだった。
確かに考えようによっては風習的なものであるし、いずれ記憶の中に消えてしまう些細なものである。
だが、僕の出生をめぐる煩わしい出来事は、硝子細工のように壊れやすい母の心には耐えられなかったようだ。
その直後、僕の妹は流行した風邪で死んだ。
母は随分自責の念に苦しめられたという。
子供たちにふりかかる不幸を見る中で、母は狂人となった。
僕は幸せな一家を乱す子だった。
それ以来、僕が存在することは周りを不幸に巻き込むことになると考えずにはいられなかった。
周囲を狂わす、魔性の子というのはある意味正しい。
僕が生まれなければ、母の発狂は無かった。
ボードレールの詩の中に、僕の人生はある。
僕は親たちを不幸にするために生まれてきた、悪魔なのかもしれない。
母はおそらく何処やら狭い部屋で、毎日を何らかの不明確な思いに囚われ生きていたのだと思う。
それは確かに不幸なことかもしれないが、今の自分にとっては現世の地獄を生きる苦しみを感じないだけ、幸せにすら感じた。
発狂か死か、僕に与えられた宿命は残酷すぎる。
僕の心は余りに脆く、二重人格と余りにも弱い生への切り崩ししかない。
せめてあの時、実母が少しだけでも強く、僕の体を激しく抱きしめてくれたならと思う。
しかし、彼女は無表情に見つめ、僕の頭を長煙管で叩きつけた。
遺伝子とはよく言ったものだ。
今ノイローゼ気味で、死を夢見る男を作る遺伝とは狂気が源になっている。
あの時、僕は一言でいいから、母さんと呼びたかった。
しかし、そんなことなど彼女にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
分かっていることは、彼女にとって、僕は不明確な存在だということだ。
『トロッコ』を書いた時、そのきっかけとなる話をしてくれた知人が、少しのお金を求め盗作騒動を起こした。僕はその時思った。君は必死に母の影を求める少年の気持ちを描けるのかと。あの作品は僕にしかかけない。風を切る煙管から響いてくる痛みと怯えの中、母の愛を求める少年の気持ちがわかるのか。少なくても僕は分かる。そして、もし夭逝した妹が生きていたらと思う。だが、人生に
「もし」という言葉は無い。それに、母の神経を衰弱させるまで酷かったという、父の女癖の悪さが無かったらとも思う。確かに今では過去のことであるし、過去は変えることは不可能だ。母はその後、衰弱して死んで行った。僕はその中で、一生独身を通し、溺愛してくれる叔母によって育てられてきた。僕の敵は当時の古い因習でもある。何故そこまで苦しめるのだ。一人の人間として、幸せを与えてくれはしないのか。旧い体質など全て消えてしまえばいい。その後の裁判については聞いてあきれる。実母の死去後の養育権を巡る裁判は、常軌を逸している。不吉と言わしめた子を取り合うなど、滑稽というしか無い。

 河童は僕の顔を見つめた。
「私は『玄鶴山房』を読んだ時、きっとあなたは死ぬだろうと思っていました。玄鶴はあなたそのものだ。リイプクネヒトを読む若者のシニカルな視線を受け、新時代の到来を感じながら死んでいく。そんな開放感を夢見ている。玄鶴とはまさに幻覚。幻なのですよね。漱石山房ならぬ、幻覚山房。そして、あなたは死を求めている。何故そこまで死を求めるのですか。違う道もあるではないですか」
僕はどう答えていいのかわからなかった。論争は得意ではない。争いほど醜いものはない。何処か利権が絡むものだ。攻撃的でありながらも、僕の心は全てを受け入れる寛大さや分析力を持ち合わせていない。
「あなたは奇麗ごとを書いているといわれるかもしれませんよ。それに、人妻と好んで付き合ったりするのは良くありません。あなたはまた自分の息子を不幸にするというのですか。遺伝ですかね。母の狂気の原因となった実父と同じように、女狂いの血筋があるのかもしれませんな」
僕は机に両手をつき、
「うるさい、何処かへ失せろ」と叫んだ。すると河童の姿は闇の中に薄れ出していった。

 すると、今度は河童の横に黒い影が沸きあがった。烏帽子をかぶり、薄汚れた平安装束に身を包んだ男が横に現れ出した。黒ずんだ無精髭をたくわえ、目は怒りに満ち満ちている。微かな失意がそこにはあった。
「お久しぶりでございます。下人でございます」
僕は下人の姿を意識しても、何の感動も起こらなかった。正常ではない自分の心理状況を、冷静に把握することよりも、ただ成すがままであることを求めた。全てに疲れきっているのだ。誰かのために生きた僕は、主体的である生き方を求めようとは考えず、ただそれに対しての羨望しか持ち得なかった。
「実は先ほど、禅智内供より、龍之介様がまもなくお亡くなりになりそうだという話を聞き、馳せ参じた次第です。名も無き、地位の低い私を小説の世界で活躍させていただけたこと、感謝しております。まだ若いではありませんか。本当に死ぬおつもりですか」
僕は首を縦に振った。
「そうですか。非常に残念です。でもあなたは『羅生門』を書いた頃、自我を持つ近代人のように強く、欲望のままに生きる男として私を描いてくれたではありませんか。人は皆エゴの塊のようなもの。死を予期させる哀れな老婆の着物を奪ってでも、生きていこうとするのが真の人間なのではありませんか。ならば、龍之介様が死ぬ必要などないではありませんか。自分の欲望のために生きるべきです。無様な姿をさらしても生きるのは宿命。それが道ではないでしょうか」
下人は眉に皺をよせ、低い声で言い終えると、片膝をついた。
僕は彼の不精髭をただじっと見つめた。
死を求めているとしても、実際に死ぬということになるとかなり話は違うものになる。
勇気のようなものが必要であるし、また、どこか狂気めいたものが必要なものだ。健康的な人間に、死は訪れないものなのかもしれない。今の僕はどうだろうか。死への決断ができるのだろうか。余りにも弱気な偽善者には、死などは寄り付かないのかもしれない。だが、僕は何らかの決断に迫られてきている。僕は下人に何を語ることができるというのだ。
「時代は変わるもの。日本の軍事色が日々強くなり、主義主張が異端とみなされるようにだ。あの頃と今は違う。死を夢む男になってしまった」
「何故ですか。逃げるのですか」
僕は近くにある本を一冊投げつけ
「何とでも言え!」と叫んだ。僕自身、何故そのような衝動に駆られたのかわからなかった。それは下人の体を通り抜けて転がった。下人は奥歯を噛み締め下を向いた。顰めた眉が揺れていた。
「申し訳ありません。お気に触りましたならお許し下さい。でも、これで全てわかりました。教職を辞し、専業作家を決意なされた頃、何故『羅生門』の中の私の未来を書き直し、運命を変えたのかということです。私は初作のように盗人となるのではなく、行方不明になる。つまり、私は…」
無精髭の上に悲しげな瞳が浮かんでいる。頬にあるにきびが赤く光る。下人はうつむき、右手を力なく畳についた。
「死ぬのですね」
そういうと下人の姿は暗闇の中にかすんでいった。



 薄明るい電灯の下、沈黙がはしる。
死の間際に現れるのが、過去の忌まわしい記憶等なら良くわかる。
それは自殺に弾みをつけてくれるものだ。
しかし、僕の目の前に現れるのは、作中の妖怪や下人なのだから不思議なものだ。
実際、死を間際にした者が何を見るのかなど、問題になることはない。それはいたって簡単な理由だ。死者は何も語らないからだ。先日、僕は墓のデザインをしたためておいた。小さな小さな正方形の墓だ。虚構の世界を好む性質が災いしている。そんなことだから、河童や下人が見えたのかもしれない。彼らに説教されるなど、笑い話にもならない。
 蟋蟀の鳴き声が近くにする。
これからは日毎、秋へと近付くのであろうか。
田端は実に静かな町だ。
閑静というのはまさにこういうことを言うのかもしれない。
ここを選んだ理由は静かな場所でゆっくりと作品が書きたかったからだった。
どうやらここが僕の終焉の地になるようだ。帝大在学中に若手作家として華々しく登場し、はや十余年。多くの世界を借り、自我を追求する人間世界を描いてきた。僕は透明になるマントを借りるように、職人気質で作品を作ってきた。そして、狂人になった母や親族の傲慢を描き、死を夢む等身大の男を描き、今では作品に行き詰まっている。
「未来に対するぼんやりとした不安」を抱えた僕にとって、傷ついた心を癒す術を僕は持ち得ない。未来に確信を持つことなど出来ない。

ぼやけていた河童の姿が浮かび上がる。
「あなたのために多くの仲間が集まっております。わかりますか」
下人の横には、禅智内供、大石蔵之助、松尾芭蕉、絵師良秀、六の宮の姫君、おぎん、その奥からも次から次と姿が現れだした。机の反対側にはあふれ、それぞれが違う衣装に身を包んでいた。よく見ると遠くに漱石先生や森鴎外先生が微笑んで立っている。幼い頃の友人や吉田弥生もいる。青白い光を発する阿弥陀如来が僕の後ろを指差している。河童が口を開く。
「見て下さい。誰かわかりますか」
手を差し伸べている女性の姿が見える。白い肌、細いながらも優しい目、しっかりと日本髪を結った女性である。僕は彼女に見覚えがあった。固く閉ざされた鎖が引きちぎれるような音がした。
実母の姿。
まさにそれは遺影の中、無表情でこちらを見つめる母の面影と同じだった。幼少の頃、狂気の雄たけびを上げ、襲いかかってきた母とは、まるで違う印象だった。
僕は思わず
「母さん」と小さく声をあげた。自分自身、声を出すなど信じられない行動だった。その女性はただ軽く頷いた。初めて見る実母の優しい微笑がそこにはあった。母は僕を手招きすると、優しく手をつかんだ。彼女の手から、温もりが体全体に伝わってきた。
「龍之介や。お母さんを許しておくれ。今まで母親らしいことは何一つしてやれなくて何と言ったらいいのか……。でも、私はね、お前のこと思っていたよ。立派だよね。自慢の息子だよ」
彼女はそういうと僕の体を強く抱きしめた。僕の頬に涙が一筋零れ落ちていく。息が詰まり、何を話していいのかわからない。僕はただ
「母さん」と繰り返しいうと、抱きしめ返した。彼女もしきりに頷いている。僕の背後にいる河童の辺りからは、大勢の人がすすり泣く声が聞こえた。僕はただ彼女を抱きしめていたかった。腕の力を抜くことは、母を失うことに似ていた。彼女の
「許しておくれ」という声が聞こえる。僕は黙って頷いていた。
周囲に光が溢れ出す。温かく、安心感に満ち満ちた光だ。僕の体は周囲に解けていくようだった。光は広がり続けた。僕の体は母を抱きしめたまま、光の中へと消えていった。



 昭和二(一九二七)年七月二十四日の朝方、田端の芥川邸は雨に包まれていた。
いつの頃からか降り出した雨は、優しい響きを立てていた。
時折、蛙の鳴く声が聞こえる。
朝食の支度を終え、一人の女性が、家のはなれに続く渡り廊下を、歩いていった。
それは龍之介の妻、文の姿だった。
彼女は盆の上に湯飲み茶碗をのせていた。
ここ数日、夫の怪しげな行動が気になっていた。
癇癪を起こし花瓶を地面に叩きつけるかと思えば、妙に子供とはしゃぐ。
急に優しげな言葉をかけたり、そうかと思うとぼんやり何処かを見つめ煙草をしきりに吸い続ける。
長く龍之介の妻として寄り添ってきた女の勘とでも言うのであろうか。
いつもとは違う最近の夫、龍之介の行動に、彼女はこの上もない不安と恐れを抱いていた。
友人の作家からも耳打ちされる、夫の自殺願望の強さがそれに後押しをかけてくる。
彼女にとって、それは夫の死という恐怖というよりもむしろ、二人が築き上げてきた生活の崩壊を意味するものだった。
前回の自殺未遂はともに心中を約束していた女性の気まぐれから、何とか事なきを得た。しかし、それも堰が崩れればそこまでである。それが次第にに近付いていることも察しはつく。もはや夫婦の戦いであった。一日一日の会話の中に、これが最後の二人の時間になるのではという緊張感があった。周囲にはわからない、勝負の日々である。それは暗黙のうちに互いの神経を擦り減らしていた。

その日、彼女は朝から胸騒ぎがしていた。気が重かったが、ゆっくりとはなれの襖を開けた。微かに擦れる音がする。

数分後、龍之介の妻は思わず茶碗を落とした。それは静かに書斎の畳の上を転がっていった。龍之介は机に置かれた聖書に後頭部をのせて眠っていた。安らかな表情で、何の苦しみも無い穏やかな寝顔だった。
妻が激しく揺すると、左手に握られていた睡眠薬の空瓶が手から落ちた。

彼女は龍之介の両肩を掴み、そして絶叫した。それは天にとどかんばかりの激しい叫び声だった。
雨の中、微かに蛙の鳴き声がこだましている。
〈 了 〉


やっぱり、ジャンルはSFなのでしょうか? そうですよねえ?













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