第三章 エンジェリックウィスパー⑫
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望はイリーナを救出すると、すぐに犯人たちのもとから離れることにした。少女を落ち着かせるためにはそうした方がいいと思ったからだった。
イリーナは足がすくんで歩けそうもなかったので、望は少女を抱き上げてを抱えて大学の建築現場を出た。
大通りにそって進むと、遊歩道が整備されているような大きな公園を見つけたので、望はその中を歩くことにした。少しでもイリーナを落ち着けさせるためだった。
ふと、彼が顔をあげる。遊歩道にそって植えられた樹木が、風を受けてゆれているのに気づいたからだ。
さらに小鳥のさえずりも聞こえてきた。近くの樹木に小鳥がとまっているのかもしれない。
耳をすませば、遠くのテニスコートから、ボールを打つ、リズミカルな音が聞こえてくる。どこかのテニスクラブが練習でもしているのだろう。
(やっぱり、こっちの方がいいな)
約3日間、能力を発動させ続けた望にとって、こうして正しく時間が流れている世界は久しぶりだった。
木々を眺めたり、聞こえてくる音に耳をすませる。なんてことないはずなのに、そうしているだけでうれしくなった。
そのとき、ポケットの学生証が鳴った。
「おわッ、着信? ……どうしよう」
イリーナを抱えていたため、彼の両手はふさがっている。
「ごめん、イリーナ。ここに座っててくれる?」
「……うん。わかった」
イリーナをそばのベンチに降ろすと、ポケットから学生証を取り出した。
画面に表示されていたのは、ひなたの名前だった。
『どうしたの? 急に切れたんだけど? もしかして、あなた、能力使った?』
「え? あーッ、うん。そうだね」
望はすっかり忘れていた。イリーナを助けるために能力を使ったのは、ひなたとの通話している最中だった。
彼には数日前の出来事だったが、彼女にとっては一瞬だ。
ひなたからしてみれば、突然通話が切れたので、かけ直してきただけだった。
『なにがあったの? ちゃんと説明しなさいよッ!! こっちはイリーナのことで……』
「そのイリーナのことなんだけど……もう大丈夫なんだ」
『はあ? あなた、なにを言って……』
「だから、もう助け出して、今一緒にいる」
学生証のスピーカーから、ひなたの叫び声が聞こえた。
声が大きすぎて、なにを叫んでいるのか聞き取れないほどだった。
「ひなた、もう少しトーンをおさえて。頭に響く」
だが、ひなたには望の言葉が聞こえていないらしく、大きな声でしゃべり続ける。
今の望は、イリーナの捜索と犯人たちとの戦闘で、疲労困憊だった。ひなたの叫び声は、聞いているだけで頭を殴られたような気分にさせられる。
「ひなた、聞いて。僕の話を聞いてってば。ひなた、ねえ、ひなた、聞いて」
『なによ、もうッ!!』
ようやく、ひなたが叫ぶのをやめた。
「イリーナを連れ去った犯人なんだけど、カンナ区にある大学の建設現場、そこの倉庫にいる。かなり厳重にロープで縛ったし、全員気を失っているから逃げられないと思うよ」
『あなた、犯人を拘束したの?』
「ついでだよ」
『カンナ区にある大学の建設現場、その倉庫ね? わかった。すぐに知らせる……ところであなたとイリーナは、どこにいるの?』
「建設現場からそれほど離れていないんだけど、ルート1にそって行くとテニスコートのある公園があって」
『カンナ公園ね。すぐ行くから待ってて、そこから動いちゃダメよ』
「うん、待ってる。疲れたから、ここでジッとしてるよ。それじゃあ」
電話を終えると、どっと疲れがあふれてきた。
ひなたに状況を伝えたことで、張り詰めた緊張が解けてしまったのだろう。
望は強烈な倦怠感に襲われ、立っていられなくなった。彼はベンチに向かうと、イリーナの隣に腰かけた。
「望、つかれているの?」
イリーナが訊いてきた。
その声を聞くかぎり、だいぶ落ち着いたようだった。救出直後の少女は、体を硬直させて身動き一つしなかった。殺されかけたのだから、それだけショックを受けてしまったのだろう。
今のイリーナは、望の様子を見て彼の心配をしている。相手を気遣えるまで、落ち着きを取り戻したようだ。
「大丈夫?」
「大丈夫――ではないかも。イリーナのことをずいぶん捜したからね……実は、こうして話すのも少ししんどい」
イリーナが望の右手に自分の手を重ねた。
「わかった。しゃべらなくてもいいよ……『スピラ』」
望には、聞き覚えのない言葉だったが、それがイリーナのセーフティースペルなのだろうと思った。
《望、わかる?》
頭の中でイリーナの声がこだます。彼女が助けを求めてきたときと同じだ。
《望もしゃべらないでいいよ。念じるだけでイリーナにも伝わるから》
《こんな感じかな? イリーナ、聞こえる?》
《うん、大丈夫。ちゃんと聞こえてるよ》
《へえ、おもしろいね。こんなの初めてだよ……イリーナさあ、これってテレパシーだよね?》
望はイリーナを捜している間、彼女はテレパシー能力者だろう、となんとなくわかった。
テレパシー能力を体験したことはなかったが、望でも『スターティングコール』とその原因になった能力のことは知っている。あんな風に呼びかけてきたイリーナが、テレパシー能力者だろうと考えるのは極自然な流れだった。
《そうだよ。イリーナの能力はテレパシーなの。そして、すごく強い。地球上なら、だれとでも交信できるよ》
《そうなんだ、すごいね》
《あーッ、あんまり驚いていない》
《驚いてるよ。すごいじゃんテレパシー》
《うーッ、声を出さなくてもいいから楽だなあ、って思ってる。テレパシーって、もっと、もっと、すごい能力なんだけど……まあ、いいか》
望はテレパシーで会話に、すんなりと順応していた。普通なら、多少は混乱するものなのだが、深く考えない彼の性格が幸いして、この状況をありのままを受け入れていた。
《すごく疲れてる。イリーナを捜すの、たいへんだったの?》
《大変だった。結波市って広すぎなんだよ。3日ぐらいかかったんじゃないかな?》
《本当だ。そうなんだ。こんなにしてくれたんだ……ごめんね。たいへんだったよね》
イリーナのテレパシーは、相手の記憶すらも読み取ってしまう。その力で、彼女は望が時間停止の世界でどんな経験をしたのかも知った。
《そんなに謝らなくても……あれ、イリーナ、泣いてるの?》
《だってえ、イリーナのためにボロボロになってるんだもん。それに長い間、時間を止めてると変になるみたいだし……もう、ばかあ》
《僕が、そうしたかったからやったんだよ。気にすることないって》
望はイリーナを捜していたときのことを思い返した。そうすることで、自分がどんな気持ちでいたのか伝わると思ったからだ。
《そ、そういう風にされるとダイレクトに伝わっちゃって……恥ずかしいよ》
どうやら、上手くいったらしい。
《望って、テレパシーに抵抗ないね。これってすごいんだよ》
《そうなの? 初めてだから、よくわからないよ》
突然、イリーナが望に抱きついてきた。
《えッ!? どうしたの?》
望が困惑していると、少女からこんな提案をされた。
《望……テレパシーを強めてもいい?》
望には、テレパシーを強める、とはどう言うことなのかわからなかった。
《よくわかんないけど、イリーナがそうしたいならいいよ》
《じゃあ、少しだけね》
そう言うと、イリーナは望にしがみつく手にギュッと力を込めた。
直後に、彼は不思議な感覚におちいった。
イリーナを抱きしめている感触と一緒に、自分に抱きしめられているイリーナの感触も感じているのだ。呼吸も自分だけではなく、彼女の呼吸も一緒に行っている。視覚は自分の物だけだったが、それはイリーナが目を閉じているためだった。
さらに奇妙なこの感覚は強くなっていく。しだいに望とイリーナとの境界があいまいになっていった。
抱きしめている腕の感触や相手の体温、自分の吐息、鼓動。それらがイリーナのものなのか自分のものなのか、望は区別できなくなっていた。
少女と溶け合い、混じり合ったかのような一体感と奇妙な心地良さ。
次に頭にイメージが浮んだ。
イリーナが助けを求めたときも、頭に映像が浮かんだが、それとは情報量が格段に違う。
様々な映像が、ものすごい早さで頭の中をかけめぐっていく。さらに、だれかが話す言葉やイリーナ自身が口にした言葉が、次々に頭の中でこだました。
初めてみる光景なのに、そこがどんな場所で、そこでイリーナがどんな経験をしたのかわかった。望は英語を喋れないはずなのに、飛び交う外国語の意味を理解できる。それは実際に口にした言葉だけではなく、テレパシーで読み取った感情も含まれているようだ。
ほんのわずかな時間だが、まるでイリーナの半生を、ダイジェストで見ているようだった。
とても会話ではえられないであろう、莫大な情報量だ。
《今のが、イリーナの過去?》
《うん。イリーナのこと、知ってもらいたかったから》
《色々あったんだね。あのラルフって人、ひどいな》
《あの人は怖かったんだよ。だからイリーナにあんな態度を取ったの。悲しかったけど、でもしかたないの。それにもう気にしてないから》
イリーナが送ってきたイメージは、アンダーポイントとして生きてきた望には、考えられないものだった。
たくさんの人間が、イリーナの能力を賞賛する一方、彼らは少女を恐れていた。それが手に取るように、読み取れてしまうのだ。
幼少の時期には、自然と知らないフリをするのを覚えていた。そうしなければ、自分の周りから人々が離れていってしまうから。
《僕の能力は、ずいぶん前から知っていたみたいだね》
《うん、転入してきた日。こんな力を持っている人がいるんだなあ、ってびっくりした》
《ああ、あのとき……でも、どうして僕だったの?》
またイメージが流れ込んできた。
イリーナと仲良くなったきっかけである、ひなたとの口論からはじまり、それから望たち、アンダーポイント五人組と話をするようになる様子が、少女の視点で語られる。
はじめ、イリーナは望の能力だけに興味を持っていたようだった。だが、彼とすごしていくうちに、その人間性に惹かれていったらしい。
《望ってさあ、ほとんど裏表がないから、テレパシーで心を読む必要がないんだよね。他の人とはぜんぜん違う》
《あははは、それは褒められているのかな?》
《もちろんだよ……それから、ひなたがイリーナのこと疑いはじめて、望に注意しようとしたことがあったでしょう? あのとき、望にはイリーナのこと悪く思って欲しくないと思った。だから意地悪かもしれないけど、約束してもらったの》
それから今日にいたるまで、イリーナは長い間、悩んでいたようだ。もしも彼の時間停止能力に自分のテレパシー能力を合わせれば……。
《もっと、早く言ってくれればよかったのに。OKしたに決まってるじゃん》
《でも、望を巻き込むことになっちゃうから……》
《そんなの気にしなくていいよ。つまり、さっきみたいにイリーナが『助けて』ってテレパシーで言ってきたら、また助ければいいんでしょ?》
望がイリーナの保護に力を貸してくれれば、これほど心強い味方はいない。さらに望という少年は、イリーナが頼めば二つ返事で了承し、自分の能力も口外しないことはテレパシーでわかっていた。
だが、望に好意を持ち始めていたイリーナは、自分の問題に彼を巻き込むのに躊躇してしまう。
ちゃんと説明しよう決めたのは、今日の放課後になってからだ。
自分との約束を守ろうとした結果、望がひどく落ち込んでしまったのを見て、強い罪悪感を抱いた。
《ひなたと仲直りしてもらわなきゃ、って思ったの。そのためには、全部説明して誤解を解いてもらわないといけないでしょ?》
明日、望に打ち明けるはずだった『大事な話』は、このことだった。
《そしたら、こんなことになっちゃって……でも望は、なにも説明しなくても助けにきてくれた。望に助けられたってわかった瞬間、イリーナはこれだけうれしかったんだよ》
犯人たちに捕らえられ、今、まさに殺されそうな絶望的な状況で発したテレパシー。
説明する時間もなかった。助けにきてくれる可能性は、わずかしかない。
それでも、望は助けにきた。
彼に抱えられて倉庫を出たときの安堵感は、言葉では言い表せなかった。
《ありがとう……望、本当にありがとう。イリーナは、イリーナは……》
イリーナが、さらに強く望に抱きついた。どうやら、また泣いてしまったらしい。あのときの、恐怖心と安堵感を思い出しての涙なのだろう。
《よしよし、もう大丈夫。心配いらないよ》
望は、なるべく優しい気持ちで少女の頭をなでた。
それに応えるように、イリーナが頭を押し付けてくる。
すぐに、頭をなでる感覚と頭をなでられる感覚が、ごっちゃになった。テレパシーを強めていたからだろう。
望は、ふと昔のことを思い出した。
それは、幼い頃の記憶。
幼稚園に通っていた頃、望は今のイリーナと同じように、兄に抱きついて泣いたことがあった。理由は思い出せなかったが、そうしていることに安堵したの憶えている。
少女の頭をなでながら、兄もこんな気持ちで自分の頭をなでていたんだろうと思った。
《望、お兄ちゃんがいるの?》
イリーナが問いかけてきた。望が思い出していた昔の記憶が、テレパシーによって少女に伝わったのだろう。
《いるよ。けっこう歳は離れてるけどね》
《へえ、いいなあ》
第二世代能力者のイリーナには、その出生から兄弟がいない。育ての親はいるが、兄や姉、弟や妹のような関係を今まで持ったことがなかった。
そんなイリーナが望と兄の記憶を見て、うらやましいと思うのは自然な感情だった。
その気持ちが、テレパシーを通して伝わってくる──その気持ちによって生まれた、ひとつの願望も一緒に。
《望、イリーナのお兄ちゃんになってよ》
《いいけど……僕なんかでいいの?》
《望じゃなきゃ、ダメなの。それじゃあ、今から望はイリーナのお兄ちゃんね》
《わかった》
《ねえねえ、お兄ちゃん》
《どうしたのイリーナ?》
《ううん。お兄ちゃんのこと呼んだだけ》
《なんだ……それだけ?》
望の中に流れ込んできた感情は、兄に甘える妹の感情、そのものだった。
イリーナのよろびと安らぎは、テレパシーによってダイレクトに伝わってきた。
《イリーナ?》
そのとき、望は違和感に気づいた。
テレパシーを強めたことによって、お互いの記憶や思いがひとつになったような一体感がある。それなのに、イリーナから伝わってくる感情には、ある部分がすっぽりと抜け落ちていた。
《怖くなかったの? メリーランドこと、命を狙われていたこと、普通なら……》
恐怖や悲しみ、怒り、そして憎しみ。望に伝わってくる思いには、そんな感情がまったく含まれていなかったのだ。
《ふーん、お兄ちゃんにしては鋭いね……でも、一度、ひとつになったからって、女の子の全部を知りたいだなんて、ちょっと傲慢かも》
《傲慢?》
イリーナが笑みを浮かべた。
抱き合っている望にはわからなかったが、その顔は、今まで見せたことのない小惑的な笑みだった。
《女の子はね、秘密があるの……たとえ相手がだれであっても教えられない秘密。わかるかなあ?》
《難しいなあ。それって、つまり……》
するとイリーナが望の耳元で囁いた。
「だから……お兄ちゃんには教えてあげない」
10歳の少女とは思えない、大人びた女性の口調だった。
望は抱きしめている相手が、本当にイリーナだという自信がなくなってしまった。
こうして抱き合っている女の子は、だれ?
だが彼の思考は、急速に鈍りはじめ、ものを考えることができなくなっていく。
疲労が原因だった。現在の望は、とっくに体力の限界を超えている状態だった。こうしてイリーナとやり取りをしていたのも、彼女のテレパシーによって、なんとか意識を保っていたからだった。
しかし、それにも限度がある。極度の疲労によってまともにものを考えるのも難しくなってきた。そのせいでイリーナへの思いや疑問も、思考と一緒にあやふやになっていく。
《……どうしたの、お兄ちゃん? ふわふわしてるよ》
イリーナも望の異変に気づいた。
《イリーナを捜すのに、ずいぶん歩き回ったからね……もう限界なのかも》
望はぼんやりとした頭で答えた。今にも意識が途切れてしまいそうだった。
彼が気を失うのも、時間の問題だろう。
《ごめんね、無理させちゃった。もう、お休みした方がいいよ》
《そうだね。また、今度、話そう……イリーナ》
その瞬間、例の感覚が消えた。イリーナが能力を切ったのだ。
それにより、望の意識は急速に薄れていった。
心地よい疲労感と倦怠感の中、望は深い眠りにつく。
意識を失う間際、聞こえてきたのは新しくできた妹の声だった。
「お疲れさま。お休み、お兄ちゃん」
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終章まで、ほぼ毎日更新していく予定です。