第三章 エンジェリックウィスパー⑩
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ひなたを傷つけてしまった罪悪感から、望はイリーナと学校の屋上で別れてからも、気持ちが落ち着くまで屋上で過ごした。
(……ずっと、ここにいても仕方ないよね)
しばらくすると、気持ちも落ち着いてきた。望は屋上を後にする。
彼が、どんな風にひなたと仲直りしようかと考えながら、玄関ロビーで靴に履き替えていたときだった。
学生証がメールの受信を告げる。
望は学生証の画面をのぞき込むと、うーん、と首をひねった。
「どういう意味なんだろう、コレ?」
メールは織戸から送られてきたものだった。
望さんへ
今、私のいるセントラルでは、たくさんの人たちがあわてた様子で色々なところに確認を取っています。
詳しい説明はありませんでしたが、なにかが起きたんだと思います。
そちらで変わったことはありませんでしたか?
もしも見慣れない人物や光景を目の当たりにしたら、絶対に近づかないようにしてください。
私は、しばらくセントラルから出られないと思います。
ですが、心配はしないでください。ここは安全ですから。
──織戸神那子
PS なにもなければ、それでかまいません
望は、ひなたの言葉を思い出した。
彼女はイリーナのせいで、結波市が壊滅するかもしれない、と忠告してきた。
それを信じたわけではないが、妙な胸騒ぎがする。
「とにかく、僕は無事だって伝えなきゃ」
靴に履き替えた望は、玄関ロビーを出ると校門までの間に、特に変わったことはないよ、と織戸に返信した。
「これで織戸さんが安心してくれるといいんだけど」
送信した直後に、着信音が鳴った。
「だれだろう? ……ひなた?」
ひなたの名前が表示されたのを見て、望は心臓が跳ね上がった。
さっきまで、どうやって仲直りをしようかと考えていた相手だ。
だが、彼女から連絡してきてくれたのはよかった。
(これはチャンスだ……たぶん)
望は、なるべく明るい口調で電話に出た。
「ひなた? どうしたの?」
『望、イリーナのことだけど……』
ひなたの声からは、強い緊張感が伝わってきた。
その緊張感が、望にも伝染していく。一瞬にして彼の周囲も、ピンとはりつめたような空気が流れた。
『今、あの子が危険なの。時間がないから余計な説明はしないけど、もしかしたら、あなたにイリーナが助けを求めるかもしれない』
「え? イリーナが危険って、どういうこと?」
『いいから、黙って聞いて。電話やメールで連絡してくるかもしれないけど、もしからしたら「そんな気がする」だけ、かもしれない。けど、もしイリーナが自分に助けを求めていると感じたら、すぐにあたしに知らせて』
「ちょ、ちょっと待ってよ。『そんな気がする』だけ? そう感じるって、どういうことなの?」
望には、ひなたの言葉が、上手く理解できなかった。
だが彼女が言った、『そんな気がする』という意味を、この直後に理解することになる。
《望》
イリーナの声だった。
「!」
望が周囲を見渡す。だが、どこにも少女の姿はなかった。
『いいから、そう感じたら、すぐに知らせなさい……望? ちゃんと聞いているの?』
ひなたが、スピーカーの向こうから問いかけてくる。
「あ……うん」
さっきの声は、気のせいだろうと思った。
「重要なことなんだから、ちゃんと聞きなさ……」
《たすけて》
今度は、はっきりと聞こえた。だが、その声は耳で聞いたものではなかった。
脳に直接語りかけてきたような、今まで感じたことのない不思議な感覚だった。
「イリーナ?」
《望、たすけて。イリーナ、殺されちゃうよ》
その瞬間、望の頭に、覆面をかぶった数人の男と、その一人が手にしている大振りのナイフがイメージとして飛び込んできた。
男たちの不気味な覆面と鈍く光る切っ先が、薄暗い部屋でぼうと浮かび上がっている。
《望、たすけて》
頭に流れ込んでくる映像は、今、まさにナイフが襲いかかる瞬間だった。
なにがなんだか、わからなかった。
それでも、これだけわかった。
イリーナが助けを求めている
――そんな気がした。
「『エクスクルード』ッ!」
望がセーフティースペルを口にした、その瞬間。
世界は静寂に包まれた。
道路を走っていたトラックが、ぴたりと動きを止た。
下校中の生徒たちは、微動だにしない。
頭上の雲も、空を飛ぶ海鳥も写真のように停止していた。音も聞こえない。
世界は停止し、沈黙し、呼吸をやめた。
だれひとり、なにひとつ、停止しなければならない──それが、この世界の絶対的ルールだった。
しかし風澤望だけは、その絶対的ルールの例外だった。
唯一、彼だけがこの世界のルールから外れた特異点であり、そして彼こそがこの世界の発生原因だった。
「イリーナがやばい……あんな状況じゃあ、時間はもどせないな」
今まさに、凶刃がイリーナに振り下ろされる直前である以上、望に能力を解くことはできない。
彼が、一瞬だけ、考えるように目を伏せた。
この世界では、ひなたを頼ることも、織戸に助言を求めることもできない。だれの力もえられない……だが、それでもやるしかない。
そう決意し、顔を上げた。
「このまま、捜そうッ!」
望はズボンに学生証をねじ込むと、停止した世界をかけだした。
イリーナの居場所はかわからない。だが、少女と別れた時間を考えると、結波市のどこかにいる可能性は高かった。他に与えられた情報は、あのイメージだけだが、それでなんとか探し出すしかない。
(薄暗い部屋、それほど広い部屋じゃなさそうだったし、窓から明かりが差し込んでいたから地下じゃない、あまり使われてなさそうな、物置みたいな雰囲気で……でも、それだけなんだよなあ)
結波市に、あのイメージに該当する場所は無数にあった。
「こうなったら、シラミつぶしだ。絶対に見つけるッ! 待ってて、イリーナ!」
たった一人の捜索が始まった。
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終章まで、ほぼ毎日更新していく予定です。