第三章 エンジェリックウィスパー⑨
+ + +
望と別れたひなたは、学園を出ると路面電車に乗り込み、所属する『生徒会執行部第1機動隊』のもとへと向かった。
結波市に暮らす者にとって、路面電車は身近な交通手段だ。大人の中には自動車で移動する者もいるが、学生には無縁の代物だ。
路面電車の他に自転車を足として使う学生もいるが、都市が建設された場所が、ゆるやかだが起伏のある土地であったため、自転車での移動には骨が折れる。
ほとんどの学生は、路面電車を交通手段にしていた。
『まもなく、西カンナに到着いたします』
車内アナウンスが流れると、数人の学生が席を立ち、出口へと向かった。
『出発します。この車両は、終点研究地区ヤカ行きです。つづいては、シロハラ……』
車内の乗客は、ひなたとほか数名だけだ。しかも彼女以外は、研究地区に向かう研究員や職員だった――ひなたが降りるべき停留所は、とっくにすぎていた。
(今から引き返しても遅刻だろうな……)
どうしても生徒会の任務に出る気分にはなれなかった。
そしてひなたは、降りるべき停留所についても席を立てずに、そのまま乗りすごしてしまった。
(どうしよう? 今日は体調が悪いってことにしちゃおうかな)
こんな風に、ひなたがズル休みをしようと思ったのは初めてだった。
普段の彼女なら、まずそんなことはしない。それだけ、望がイリーナをかばったのはショックだった。
彼はイリーナのことをなにも知らない。それは、あえて伝えなかった。それでも望は信じてくれると思った。
イリーナではなく、自分を選んでくれると思っていた――だが、違った。
ひなたは、自分が驚くほど落ち込んでいるのに気づいて、ますます切なくなった。どうして、こんなに切ないのかは……よくわからない。いや、考えたくなかった。
窓から外の景色を眺める。そうしていれば、余計なことを考えないですんだ。
そのとき、警報音に似た電子音が車内に鳴り響く。一瞬、ひなたは、それが自分の学生証が発している音だと気づかなかった。
(……あっ、あたしの学生証だッ)
ひなたがあわてて学生証を取り出すと、画面に葉澄の名前が表示されていた。
(あたしが来てないから、連絡してきたのかな?)
悪いとは思ったが、今日は仕事を休むつもりだった。
今の精神状態では、任務をまっとうできる気がしなかったからだ。もし、自分がかミスを犯せば、他の仲間たちに迷惑がかかる。それなら、休んだ方がいいと思った。
「はい」
『あ、一条さん? 今、どこにいるの? もしかして学校?』
「いえ、学校ではないんですけど。あの、すみません今日は……」
ひなたが体調不良の旨を説明するよりも先に、電話口の葉澄が話を切り出した。
『それじゃあ、イリーナの居場所はわからないのね?』
その声は、めずらしく慌てているように感じだ。
「イリーナ? 彼女が、どうかしたんですか?」
『まだ、確定情報じゃないんだけど、イリーナが何者かによって拉致されたかもしれない』
「イリーナが? どうして?」
そのとき、路面電車が急停車した。その衝撃で、ひなたは座席から滑り落ちそうにってしまう。
窓の外を見ると、交差点を3台の軍用車両が勢いよく侵入してくるところだった。軍用車両は、そのまま反対車線をかなりのスピードで疾走していった。
ひなたは、その光景を見てなにかが起きたのだと感じた。
「どうしてイリーナが? だって彼女は……」
『ごめんなさい。きちんと話す時間がないから、手短な説明になっちゃうけど、メリーランドの封鎖や結波市で警備レベルが引き上げられたのは、イリーナのせいじゃなかったの』
どうやら葉澄や剛山は、ひなたと香代に調査の中止を命じた後も、二人でイリーナの件を調べていたらしい。
詳細な手段は語らなかったが、葉澄は合法的な調査に限界を感じ、上層部のデータベースをハッキングし、イリーナの正確な情報とメリーランドで起きた事件の真実に行き着く。
『超能力懐疑派の仕業だったのよ。高度政令都市で暮らす私たちには、馴染みのない人々だけど、その過激派団体がこの事件の真相に深く関わっていたの。彼らは超能力を危険だと決めつけ、能力者を排除しようとしている。残念だけど、この世界には、そんな考え方を持つ人がたくさんいるの』
さまざまな理由から能力者を危険視し、さらには排除しようとまで考えている超能力懐疑派が、もっとも恐れるのは――これ以上、能力者が増えること。
つまり『セカンド・スターティングコール』だ。
その引き金に成りうるテレパシー能力者は、彼らがもっとも忌み嫌う存在だろう。
そして有効範囲が地球全域という絶大なテレパシー能力を持つイリーナは、過激派たちにとって最優先のターゲットだった。メリーランド学園都市の封鎖は、彼らが少女を抹殺するために行った大規模な破壊活動によってもたらされたのだ。
『イリーナが経歴を偽って留学してきたのは、過激派から身を隠すためだったの。超能力研究で共同関係にある結波市なら、自分たちの目も届くからね』
だが過激派に、イリーナが日本に逃げ込んだことを知られてしまう。そして彼らは、再度、イリーナを抹殺する機会をうかがっていたのだ。
対する日米両国も、その動きに気づき、結波市の警備レベルを引き上げた……それがこの数週間で起きていた異常事態の真相だった。
『ごめんなさい。私の誤った情報で、一条さんを混乱させちゃって。超能力懐疑派とその過激派集団については、上層部も公にできない、政治的な理由があるらしくて、巧妙に隠蔽されていたから、その……』
いつもは饒舌な葉澄が、歯切れの悪い口調になった。情報分析班の班長という立場にありながら、正確な情報をえられなかった自分が情けない──そんな風に感じているのだろう。
「謝らないでください。葉澄先輩の働きは充分すぎるほどです。それに、ちゃんと真相まで行き着いたじゃないですか」
ひなたは、きっぱりと断言した。
相手をはげまそうだとか、気を使って言ったセリフではない。素直に、葉澄を評価しての言葉だ。
そのとき、路面電車が停留所に止まった。ひなたは鞄をかかえると、急いで下車した。
「それで、イリーナは?」
『犯行は、過激派によるもので、ほぼ間違いないわ。下校途中に襲われ、そのまま連れ去られたみたい。その際に、護衛の女性が重傷を負わされているから、相手は武装しているはずよ』
「イリーナは無事なんでしょうか?」
『わからないわ。無事でも、かなり危険な状況におかれているでしょうね。彼らの目的が、イリーナの殺害なら』
『イリーナの殺害』、その言葉を聞いて、ひなたの胸に痛みが走った。
そして彼女自身が、イリーナに浴びせた言葉が脳裏に鳴り響く。
あのとき、ひなたが発した言葉を、少女はどう受け止めたのか? イリーナはテレパシー能力者だ。ひなたが自分のことをどう思って、接していたのか知っていたはずだ。
それを考えた瞬間、ひなたの中で、イリーナに抱いていた感情が180度変わってしまった。
(イリーナ、あなたは自分の命が狙われている状況で、あんな風に笑っていたの?)
ひなたの脳裏に、満面の笑みでクラスメイトに接しているイリーナの姿が浮かんだ。
体が震えた。
自分が同じ状況だったら、と考えると恐ろしかった。
故郷とも言えるメリーランド学園都市が破壊され、命からがら結波市に逃げてきたのに、その後も過激派に命を狙われ続ける。
この数ヶ月、心が休まる日はなかっただろう。
常に能力を発動させ、周囲に敵はいないかと警戒を続けながら、怪しまれぬよう明るく振舞う。
(だれにも相談なんてできない。それこそ、あたしみたいに望に泣きつくなんて……ちょっと待って……望?)
ひなたは、ふと、ある可能性に気づいた。それは直感でしかなかったが、イリーナがそう考えていたのなら、あんな行動に出たのも理解できる。
そのとき、葉澄がひなたに呼びかけた。
『一条さん』
葉澄が緊張しているのは、スピーカー越しでもわかった。
『これは生徒会の範疇を越えているから、正式な出動命令なんて出せない。能力使用認証がおりないどころか、勝手な行動は運営規約違反に抵触する。だから、私たちの出る幕なんてないのだけれど……』
「あたしは、ジッとなんてしてられませんッ!!」
ひなたは、きっぱりと宣言した。
今、自分がイリーナにしてあげられることをしたい。そうしなければ、気がすまなかった。
『剛山隊長も同じこと言って、飛び出していったわ。上司が上司なら、部下も部下ってことね……そう言う私も監視カメラの映像を解析している最中だから、人のことは言えないけどね』
「あたしもイリーナの捜索に協力します。隊長は今、どこにいるんですか?」
『剛山隊長は、学生地区の東側を捜索しているわ』
「あたしは西側を見て回ります」
『わかった。少ないけど今、つかんでいる情報をそっちの端末に送るわ……上坂さん。一条さんに、まとめた情報を送っておいて……それじゃあ、一条さん。こっちでなにかわかったら連絡する』
「はい、お願いします」
ひなたは電話を終えると、すぐに別の番号にかけ直した。
相手が出るまでの間、大通りを高都自警の車両が走り去っていった。
嫌な予感が脳裏をよぎった。それを必死に振り払って、ひなたは電話口の相手に話かけた。
「望、イリーナのことだけど……」
自分がイリーナの立場なら──ひなたには、望に伝えるべきことがあった。
+ + +
終章まで、ほぼ毎日更新していく予定です。