第三章 エンジェリックウィスパー⑧
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望は第2実習棟の屋上へと向かっていた。
少し前にホームルームを終えてから、まっすぐに教室を出た。そのとき、隆人たちから買い物に行こうと誘いを受けたが、彼らの誘いは断るしかなかった。先約があったのだ。
『二人だけで話がしたい。放課後になったら、第2実習棟の屋上で待っている』
ひなたからのメールがあったのは、お昼過ぎだった。
急いでこい、とは書かれていなかったが、その短い文面に妙な緊迫感を抱いた。
屋上へとむかう望の歩調は、自然とかけ足になっていた。
階段をかけ上がり、屋上の扉を開く。
「走ってきたの?」
ひなたの第一声はそれだった。
望が息を切らせていたのだから無理もないだろう。
「え、ああ……うん……ひなたを待たせちゃ悪いと思って」
「あたしも来たばかりよ」
「はあ、はあ……そう、それならよかった」
ひなたは、望に息を整えるよう言った。
階段をかけ上がる頃には、ほとんど全速力で走っていたのだ。望の息が荒いのは当然だ。
最近は、彼女とすれ違いを感じていたし、ほとんど会話もしていない。
望にとって、ひなたと話をする、この機会は重要だった。
「……別に気にしないで……は、話していいよ」
「そんな風に、ハアハアされてると、あたしの気が散るのッ!!」
と厳しい口調で言い返されてしまった。
望が大きく深呼吸を繰り返す。
ひなたは、彼の呼吸が落ち着いたのを確認すると、ようやく話を切り出した。
「望、前にイリーナについて話たこと、憶えてる?」
「え? あー、うん……憶えてる」
望が歯切れの悪い口調で答えた。
一週間ほど前、ひなたにイリーナと親しくしないよう忠告された。だが望はそれに反して、少女と親しくしている。当然、罪悪感はあった。それが態度に出てしまったのだ。
「別に、あなたがあたしの忠告を無視しているからって、それを攻めてるわけじゃないの。突然、イリーナと仲良くするな、なんて、言い出す方が無茶苦茶だわ」
ひなたはうつむくと、申し訳なさそうな顔で望を見つめる。
そして、小さな声で謝った。
「……ごめん」
(あッ……ダメだよ。ひなたがそんな顔しちゃダメだッ!)
弱々しく謝ったひなたを見て、望は瞬間的にそう感じた。
どうしてそう感じたのか、彼自身にもわからなかった。とにかく、目の前の少女にこれ以上、そんな顔をさせてはいけないと思った。
だから口を開く。
どんな言葉を口にすればいいのかわらなかったが、それでもかまわなかった。
「うん。わかった。だから、もう『ごめん』なんて言わなくていいよ」
そう言って、望は笑みを浮かべた。
「わかったわ……ありがとう」
望にも、今日のひなたは様子がおかしいとわかった。どこか弱々しく、何かに怯えているような感じを受ける。
「……それで、やっぱり今回もイリーナの話?」
「うん。あれから生徒会の先輩たちと色々調べて……」
「最近、忙しそうだったもんね。なにかわかったの?」
「色々と、ね」
そもそも、二人のすれ違いはイリーナが発端だ。
望はそれを解決しなければ、先に進まないと思った。
そして今日は、とことん話し合うべきだ、と腹をくくった。
「聞くよ。なにがわかったの?」
そう言って、ひなたに笑顔を向けた。今は、なるべく明るく振る舞おうと考えたのだ。
しかし彼女は、ますます表情を暗くしてしまう。
「どうしたの?」
そして、ひなたの口から出た言葉は……。
「言えない。望に危険が及ぶ可能性があるから、だから言えない」
望はイリーナの能力を知らない。
しかしテレパシー能力者の前で、知る、ということは特別な意味を持っている。相手に敵意があった場合は単に、知る、ことだけで危険に晒されるだろう。
だから、ひなた「言えない」と答えたのだ。
「これは忠告とかじゃなくて……あたしからのお願い」
ひなたは右手を握りしめて、自分の胸元にあてがった。
「イリーナと距離を置いて。もう彼女に近づかないで、お願いだから」
ひなたが、悲痛な表情で訴えた。唇をかみしめ、目を大きく見開く。その顔が、望にことの重大性を示していた。
「あたしのこと、ワガママだと思ってもいい。イリーナの人気に嫉妬して、こんなことを言ってると思ってもいいよ。それで彼女と距離を置いてくれるのなら、望があたしのこと、嫌いになってもいいから……だから、お願い」
ひなたのなりふりかまわない訴えは、望から言葉を失わせた。
いつもは強気な発言を繰り返しているひなたが、弱々しく「お願い」だと言う。その姿は望の心を激しく揺さぶった。
再度、ひなたが訴える。
「……望、お願いよ」
その瞬間、望は心臓が跳ね上がったような衝撃を感じた。
わけもわからず相手に近寄っていた。そして、顔をのぞき込む。
なにか言葉をかけようと口を開いたが、声が出なかった。望の目には、今にもひなたが泣き出しそうに見えたからだ。
頭が真っ白になった。
そして、ひなたの言葉と表情が、彼の頭の中をぐるぐると回りはじめる。
(僕はなんて言えばいい? どうすれば、ひなたが元気になる? 僕は……僕は……)
イリーナと関わらないようにする、と約束すれば、きっとひなたは元気になるだろう。それは望の主義に反することだったが、これ以上彼女を苦しめたくなかった。
だから、ひなたを胸元に抱き寄せて、「わかった、ひなたの言う通りにする」と答えようと思った。
望が、ひなたに触れようと手を伸ばした時、なぜか彼女が後ずさった。
「ひなた?」
見ると、ひなたは青ざめた顔で、ある一点を見つめていた。
「……そんな。気づかれた」
直後に、背後から聞き覚えのある少女の声がした。
「なにしているの?」
望が振り向くと、目の前にイリーナがいた。
だが、いつものイリーナと違って、その顔に笑みはない。色白の顔に無機質な表情が張り付いている。まるで別人のようだった。
ひなたが叫んだ。
「どうして、あなたがここにッ!!」
「べつに、なんとなく……そんなこと、どうだっていいでしょ? それよりひなた、望となんの話をしていたの? イリーナも知りたいなあ?」
イリーナが笑みを浮かべた。だが教室で見せる、無垢な少女の笑みではない。
相手を威圧する双眸と、いびつに吊り上がった唇--それは怖い笑みだった。
ひなたが顔を引きつらせる。
望もイリーナが、普段の少女ではないと思った。
(どうしちゃったんだろう、イリーナ。もしかして……すごく怒っている?)
二人の間に割って入ると、望はこの場を収めようとした。
「イリーナが聞いても楽しい話なんかじゃないよ。二人だけの話っていうのかな?」
彼が努めて明るく振る舞う。が、そんな望の行動も虚しく、話の流れは、ややこしい方向にすすんでいった。
「それってさあ」
イリーナは左手で前髪をかきあげると、ひなたに顔を向けた。
「もしかして、またイリーナの悪口を言ってたんじゃない? ちがう?」
「ち、違うよ。ひなたが、そんなこと言うわけないじゃん」
そう言って望が否定すると、イリーナは、ふーん、とうなずきながら、自分の髪を一房つかんで、その毛先を眺めた。
「それじゃあ、イリーナと仲良くしないで、って望に泣きついていたのかなあ?」
「あなたッ!!」
ひなたが叫んだ。
「そうやって、いつも相手のッ……卑怯なマネをッ!!」
ひなたがイリーナに詰めよる。
「ひなた、ちょっと落ち着いてッ!!」
望が止めなければ、彼女はイリーナにつかみかかっていただろう。
ひなたは、ものすごい剣幕だった。10歳の女の子に向ける顔ではない。
だが、イリーナは臆することなく、さらに相手を挑発するような言葉を並べる。
「もしかして、正解だったの? へえ、そっかあ……望に泣きついていたんだあ、ヘンなのお、ひなたはイリーナより大人なのに、それじゃあ、子供みたい」
「イリーナッ!! あなたがしていることはねえッ!!」
「ひなた、落ち着いてってば。小さい子が言っていることじゃない……それにイリーナも、そんな風に、ひなたのことを言っちゃダメだよ」
顔を真っ赤にしながら大声を出すひなたと、不敵な笑みを浮かべながら相手の感情を逆撫していくイリーナ。板挟みになった望は、あたふたと情けなく取り乱すしかなかった。
(なに? なんなのこれ? さっきまで泣きそうだったひなたが急に怒りだすし、イリーナの方も普段はこんなことを言う子じゃないのに)
どうしてこんな状況になったのか、望にはさっぱりわからなかった。
ひなたという少女は、真面目で正義感に溢れる人物だ。望は、彼女が人をおとしめるようなことは、絶対にしないと知っている。むしろ厳しいことを言う分、思いやりのある優しい人だ。
そしてイリーナは、いつも笑顔で周囲を明るくしてくれる女の子だ。望は、少女がだれかを悪く言うところを見たのは始めてだった。それに、今のイリーナは、ひなたを必死に煽っているように見えた。どこがとは説明できなかったが、どこか無理矢理そうしているように感じる。
望は、とにかく二人をなだめて、冷静に話をするべきだと考えた。
「本気にしちゃだめだよ、ひなた」
まずは、ひなたを落ち着かせようと思った。
しかし、今の彼女は、その言葉をまともに聞いてくれなるような状態ではなかった。むしろ、ひなたの怒りは、ますます膨れ上がっていく。
「みんな、だまされているのよ。見かけはこんなでも、この子のせいで、結波市が壊滅するかもしれないんだからッ!!」
「壊滅? なにそれ? なんの話?」
突然、結波市の壊滅、という言葉が出たが、望には意味がわからなかった。
だが、イリーナが言い返したことで二人の口論が激化し、その意味を考える時間は失われた。
「やっぱり……ひなたはイリーナのこと、そうやって悪くいってたんだ……こそこそ隠れて、人の悪口をいう、なんて信じらんないよ」
「な、なんですって?」
「ちがうの?」
イリーナの顔から笑みが消えた。まるでロウ人形のような顔で、僅かに目細めているだけだ。その変貌ぶりは、周囲に笑顔をふりまいていた少女と同一人物には見えなかった。
そして、なにより……。
(めちゃくちゃ怒ってるよね。たぶん、今のイリーナは普通じゃないよ)
イリーナの視線には、強い怒りが込められていた。ひなたのように声を荒げるのではなく、イリーナの場合は、静かに言葉で責めたてる。
(ど、どうしよう。こんな場合って、どうすればいいの?)
望は二人を交互に見つめた。彼には、言い争う彼女たちをなだめる方法がわからなかった。
止めに入ろうとしたが、そのタイミングがわからず、その場で、半開きの口をパクパクさせるだけだった。
「ひなたは、イリーナがみんなに好かれているのが気に入らないんだよね? だから悪口をいうんでしょ?」
「悪口だって? 本当のことじゃないッ!! 卑怯な手で、クラスメイトや先生に取り入って、そういうところが気に入らないのよッ!!」
「イリーナ、悪いことなんてしてないよ。自分が嫌われているのを人のせいにしないで」
「べ、別に嫌われてなんかいないわよッ!!」
「ふーん、知らなかったんだ。みんな、ひなたを怖いって言ってるよ」
「だからなに? あたしは、気にしないわッ!!」
「本当に? ウソをついてもイリーナにはわかるよ……あー、やっぱり気にしてる」
「あなたねえ、またッ!! 平気でそういうことをッ!!」
「うわわッ、ダメだよ。暴力は、まずいって」
言い合っている間は止められなかったが、ひなたが右手を降り上げたので、望は彼女の前に立ちはだかった。
「ジャマよ。望、どいてッ!!」
「ごめん。これは止める」
「あなたねえッ!!」
望が止めに入ったことで、ひなたの怒りは、その矛先を彼に向け始めた。が、彼はそれでかまわないと思っていた。
(僕がぶたれて、それで収まるなら……)
しかし、そうならなかった。
「望、ありがとう。でもイリーナをかばって、ぶたれるのはダメだよ」
イリーナの言葉で、ひなたも望にあたるのは間違いだと気づいたようだ。手を下ろし、顔を背けた。
おかげで、望は殴られなかったが、さらに面倒な方向へと話がすすんでしまう。
ひなたからすれば、望がイリーナをかばおうとしたのは事実だ。
「望。イリーナのために、無茶したらダメだよ」
さらに、イリーナがそう言った。
ひなたが望を凝視する。
「……望、あなたはどっちの味方なのよ」
それは、かなり嫌な質問だった。
一人の味方をすることは、もう一人の信頼を裏切ることになる。どちらかを選ぶなど、望にはできなかった。
「あたし? それともイリーナ? どっちの肩を持つの?」
「イリーナの味方だよ。そうだよね、望」
二人が望の顔を見つめた。
「えっと、僕はその、味方とかそう言うんじゃなくて」
結局、そんな中途半端な返答になってしまった。
しかし、そんな望の態度がひなたの反感を買う。
「あなたねえ。あれだけ、あたしが真剣に頼んだのに、なんなのその態度はッ!! ちゃんと聞いていたの? この子のせいで大変なことになるかもしれない、て言ったじゃない」
「イリーナのこと、信じるって約束してくれたよね? すごく、すごく、うれしかった。その約束……破ったりしないよね?」
二人の言葉が、望の頭の中をぐるぐるとかけめぐった。
ひなたは人を陥れるような人物でない。それは彼も充分わかっている。ここまでして訴えるということは、それだけ真剣なのだ。
だが、イリーナに非があるとも思えない。ひなたが話した『重大な秘密』は本当なのかもしれないが、本当だとしてイリーナが悪いと決まったわけではないのだ。
なにより望は、少女を信じると約束してしまった。
「いったいどっちなの? あたし? それともイリーナ?」
「いや、だから……」
「イリーナは望を信じてるよ。望もそうだよね?」
「それは、その……」
望は、これ以上ないほど困惑していた。脳裏をかけめぐる彼女たちの言葉で、頭痛がしそうだった。
しかし、彼が決断を下すまで、二人は許さない。
「「望」」
ひなたもイリーナも、ジッと望を見つめた。
(そ、そんなあ……)
選択などできない。だが選択をしなければならない。
どちらが正しいのかわからない。だが決めなければならない。
では、どちらを選ぶ?
望は極限の選択を迫られていた。そして、彼が出した回答は……。
「……あのさ、ひなた」
「望ッ」
ひなたの声は、喜びで弾んでいた。
「ごめん」
「え?」
「ひなたが嘘をついてるなんて思ってないし、たぶん、ひなたの考えていることは間違ってないんだと思う。でも、イリーナのせいで大変なことが起きるって、決まったわけじゃないじゃん? だから、やっぱり……」
その先は、口にすることができなかった。
「……そっか」
望は、ひなたが強い口調で言い返してくると思っていた。
しかし、彼女の反応はまったく違った。
「あなたは、イリーナの肩を持つわけね」
静にそう言うと、ひなたは小さく肩を震わせた。
怒りや憎悪、失望といった感情を必死に押さえて、ただ小さく肩を震わせる。
そうやって平静を装うとしたのは、ひなたのプライドだったのかもしれない。
「わかった。あなたの好きにすればいい」
ひなたが顔をそむけた。
そのとき、彼女の押さえきれなかった感情が、一筋の涙となって頬を伝う。
(ああッ)
その涙に気づいても、望には、かける言葉がなかった。
ひなたは彼に背を向けると、一度として振り返ることなく、屋上から立ち去っていった。
望は彼女の後ろ姿を、ただ黙って見つめることしかできなかった。
「……あ、あああ」
ようやく出たのは、言葉にならない声だった。
望がその場にうずくまる。
結果として、ひなたを裏切り、激しく傷つけてしまった。望を後悔と罪悪感が襲う。
(マジかあ、泣いてたよなアレ。うわあ)
のしかかる罪悪感に、望は押し潰されそうだった。
「望、落ち込んでいるの?」
顔を上げると、目の前にイリーナがいた。目線を合わせるために、膝をかかえるようにして座っている。
「ごめんね。イリーナのせいだよね」
少女が悲しそうな顔をした。
「イリーナのせいなんかじゃないよ。これは僕のせい。ひなたにわかってもらえるように、ちゃんと自分の考えを説明できなかった僕のせいだよ。だから気にしなくていいよ」
笑顔で答えようとしたが、上手くいかなかった。
望の顔は引きつり、その声も震えていた。これでは、相手が子供でもだませない。
「ううん、気にする。だって望、すっごくつらそうな顔してるもん」
「そんな顔してるの? うーん、そうかもね。そんな顔してるかも」
「ごめんね」
「いいよ」
そして望は笑ってみせた。今度の笑みは、さっきよりは少しだけ自然だった。
イリーナが、青い瞳を細める。
「あのね。望が約束を守ってくれてたこと、本当にうれしかったんだよ。イリーナを信じてくれてありがとう」
そう言って、イリーナは笑みを浮かべた。それは、望のよく知っている、いつもの笑顔だった。
「……望、聞いてほしいことがあるの。すごく、すごく大事な話」
イリーナは、大事な話、という言葉を強調した。
望は、その大事な話というのが、ひなたの言っていた、イリーナの秘密、なのだろうと思った。
それを打ち明けることは、少女からそれだけの信頼をえたと言うことなのだろう。
「そんな、大事な話を僕なんかにしていいの?」
「ううん。望だから話すの。最後まで、イリーナを信じてくれたから……でも、今日はやめにする。ひなたとのことで、少し混乱しているみたいだから」
イリーナの言葉通り、今の望はひなたのことで頭がいっぱいだった。
こんな状態で話を聞いても、頭に入らないだろう。
望は苦笑いを浮かべる。自分は、こんな幼い少女にさえ見透かされるほど、わかりやすい人間なのか、と思ったからだ。
「あはは、そうだね。それじゃあ、大事な話は、明日にしよっか?」
「うん……それじゃあ、イリーナはもう帰るね。また明日」
そう言って、イリーナは笑顔で屋上を後にした。
うれしそうなイリーナの顔は、涙を流したひなたの横顔とは対照的だった。
そして望は、決心する。
「ちゃんとひなたと話そう。納得してもらうまで、とことん話し合って、ちゃんと仲直りするんだ」
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