第三章 エンジェリックウィスパー⑦
+ + +
結波市の研究地区にそびえ立つセントラル・タワーは、織戸神那子をはじめとする最高レベルの能力者たちを管理している研究施設だ。
『セントラル』とも呼ばれるこの施設は、その名の通り、日本における超能力研究の要だった。
そして桐島麗子は、そんなセントラルの所長を務めている。
現在、彼女は鬼のような形相べ、電話口の相手に厳しいげきを飛ばしていた。
「まだ、特定ができていないだと? 貴様らは能無しか? メリーランドの話は、聞いているだろ? ここが、それと同じになるかもしれないんだぞッ、そんな御託を並べている場合かッ!」
桐島が所長として対応するとき、その言葉には容赦がない。
だが今は、いつも以上に厳しい口調だった。
「『生徒会』のガキ共が、どれだけのことを掴んでいるのかわからんが、明日にも『上層部』と『合衆国側』にかけあってやる。貴様らは給料分、しっかり仕事しろ。状況が状況だ。多少の無茶はかまわない……ふん、安心しろ。貴様らのケツは、この私がしっかり拭いてやる」
そう言って電話を切ると、また別の人物へかけ直した。
「……私だ……ああ、その件だ。やはり手配だけでも済ませておきたい……なんだ。相変わらず抜け目のない奴だな。それがいいだろう。織戸を避難させるなら関東だ。あそこの警備なら安心だ。特別、いや特殊だからな……私か? 私がここを離れるわけには、いかないだろう……ありがとう。気持ちだけ、受け取っておくよ」
電話を終えると、桐島は、ふむ、とため息交じりの声をもらした。
そのとき、所長室のドアがノックされる。
「……どうぞ」
桐島がそう答えると静かにドアがひらいた。
入室してきたのは、所長室という場所に似つかわしくない15歳の少女だった。
長いまつげと、均整のとれた顔立ち。だが表情がない――織戸神那子だ。
桐島は織戸の顔を見ると、すぐに笑みを浮かべた。
「どうしたの神那子?」
「……少し、話がしたくて」
「いいわよ。それじゃあ、そこのソファーに座って、待っていてもらえる?」
「はい」
織戸は所長室に入ると、中央に置かれた応接用のソファーに腰掛けた。
桐島がすばやくキーボードを操作しながら、彼女に視線を向ける。織戸は桐島の仕事が一段落するまで、読書をしながら待つ、つもりなのだろう。その手に一冊の書籍を持っていた。
(あの本は……たしか数年前に流行った恋愛小説? 神那子って、恋愛小説なんて読む子だったかしら?)
しばらくして、一通り仕事が一段落した桐島が、二人分のティーカップを持って、応接用のソファーへと移動した。
「はい、どうぞ。なにも入っていないから、好みで砂糖とミルクを入れてね」
桐島は織戸の正面に腰掛けると、テーブルの上にあったスティックシュガーとコーヒーミルクをふたつづつ、少女のティーカップのそばに置いた。
「ありがとう」
織戸が恋愛小説を閉じて、桐島と向き合った。
「それで神那子、話ってなんなの?」
「うん。いつになったら、学校に通えるようになるのかが聞きたくて……」
「うーん、その話か」
桐島が苦笑いを浮かべた。
とはいえ、その話をするために織戸がやってきたのは、なんとなく察しがついていた。保護の名目とはいえ、理由も知らされぬまま、彼女がセントラルで寝泊まりするようになってから数日が経過している。
そろそろ不満が出てもおかしくない頃だった。
「ごめんね。今はなんともいえないわ」
「……」
織戸がうつむいた。
「神那子が不安なのはわかるわ。でも、セントラルの所長としては、こうする他ないの」
「……理由を聞きたいです。私の身の安全のためとは聞いていますが、具体的になにから保護しているんですか?」
「……それも言えないわね」
「……」
織戸が黙ってしまった。
表情こそかわらないが、視線を落とし、ティーカップを見つめる。明らかに落胆したような態度だった。
「意地悪で、こんなこと言っているわけじゃないの。アタシも神那子を不安になんか、させたくないし……」
少女がゆっくりとティーカップにコーヒーミルクを注ぎ、白黒の渦を黙って見つめた。
「……あーもう、そんな風に落ち込まないでよ。わかったからッ」
落胆した織戸を見て、桐島が降参してしまった。
彼女が自分の意見を曲げる場面は、非常に珍しい。セントラルの研究員や職員が見たら、さぞかし驚くだろう。
「神那子に話せる範囲で説明する。それでいいでしょう?」
ようやく、織戸が顔を上げた。了承したのだろう。
「今が非常事態なのは、神那子も気づいていると思う。こんな風に、軟禁されたことなんてなかったでしょう?」
織戸が何度もうなずいた。
「それほど、なのよ……現在、結波市は、ある脅威にさらされているの。この脅威によって、どれほどの被害が出るのか予想もつかないわ。最悪、都市の壊滅ってこともありうる」
織戸が視線を左右に揺らした。些細な変化だったが、桐島には十分すぎるほど、相手の動揺を示していた。
「本当は、神那子を避難させたいくらいよ。セントラルは日本でもトップクラスの警備体制なんだけど、それでも不十分なの……だからね。沖縄を離れることも考えておいて」
「……なんとなく、大変な状況だと感じていました。でも、そこまでだとは思っていませんでした。結波市、全体が危険な状況におちいっている、ということですね」
織戸が、じっと桐島を見つめた。
なんとなくだが、桐島はこれから口にすることが、少女にとって最も重要なことだろうと感じた。
「その危険は、私以外の人間にも及ぶんですか?」
「神那子、以外?」
「たとえば、他の高レベル能力者や一般の生徒たち、それに……望さん」
それが本心なのだろう。織戸が口にした少年の名前。
少女はこの少年の身を案じて、こうして桐島のところまでやってきたのだ。
「風澤君のことが心配?」
「か、彼だけではなくて、他のクラスメイトのことも心配です。もちろん、レイや矢剣さんや職員の人たちもですよッ!!」
織戸が少し早口になった。
クラスメイトも心配だと言ったのは、本心なのだろうが、やはり一番心配しているのはあの少年なのだろう。
「あら、アタシのことも心配してくれるの? うれしいわね」
「と、とうぜんです」
桐島が、フフフッ、と声をもらした。
「なんですか?」
「ううん、なんでもない」
織戸が身を乗り出して、桐島を見つめた。いや、にらみつけた、と言った方が正しい。
「こらこら、なんでもないって言ってるじゃない……とにかく、そうならないように、たくさんの人が動いているわ。都市の壊滅だなんて、怖いことを言っちゃったけど、そうなると決まったわけじゃない。いえ、そんなことは絶対にさせないわ」
力強くそう言うと、桐島は無糖のコーヒーを口にした。
織戸も砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲む。
「それにね。こんな状況は、長く続かないわ。あと一週間か、長くても二週間ってところね。だから、もう少しだけ我慢してほしいの」
「あと半月?」
「うん。それまでには、現状を打破できるはずよ。だから心配しないで」
桐島が笑みを浮かべた。しかし織戸は、まだ安心できないのだろう。
「望さんは、大丈夫なんですか? 危ない目にあったりしないですよね」
「もちろん。風澤君や他のだれかに危険が及ぶようなことにはさせない」
「……わかりました」
織戸がうなずく。
「すみません。無理矢理、話を聞き出そうとして」
「いいのよ。なにも説明しないで、神那子を不安にさせたのはアタシなんだから」
「忙しいのに話を聞いてくれてありがとう。もう部屋にもどっています」
「遠慮せずに、また話しに来て。メールでもいいわ」
「はい」
織戸が立ち上がると、桐島も腰を上げた。
お互いに短い挨拶を交わすと、桐島は少女が部屋を出ていくのを見送った。
退室の間際、織戸が思いだしたかのように振り返る。
「レイも無理をしないでください。私はレイのことも心配なんです」
それだけ言うと、織戸は逃げるように所長室を出ていった。
桐島は、少女の言動に、一瞬、驚いた顔をした。だが、すぐに笑みを浮かべる。
「すごくうれしいんだけど……そう言うことは、あのクソガキのことよりも前に言ってくれないかなあ」
独り言のようにつぶやいて、彼女は自分のデスクにもどった。
桐島がパソコンのディスプレイを見つめる。画面には捏造されたイリーナのプロフィールや葉澄が探し出した職員たちの写真、そしてメリーランドの被害状況をまとめた資料と、彼女のテレパシー能力に関する正確な情報の数々が映し出されていた。
●イリーナ・アンダーソン
●生年月日 2019年11月2日
●第二世代能力者
○能力名『ルビナスエスピラ』
テレパシー能力。その有効範囲は地球全域におよぶ。
対象の意志を読みとることも自らの意志を伝えることも可能。送受信型テレパシー能力。
対象の深層心理まで読み取る強力な能力であり、スターティングコールを引き起こした被検体をも凌駕すると思われる。
○セーフティスペル『スピラ』
◎トリガージェスチャー『左手で髪に触れる』
ディスプレイを見つめた桐島は、織戸と話す前の厳しい表情に戻っていた。
「この子が現状を把握していないはずがない。強力なテレパシーの前では、情報操作など無意味だからな。イリーナの動向に注意が必要なんだが……気になるのは、急速にクソガキと親しくなったことだ。どうするつもりなんだ?」
桐島の表情が、ますます険しくなった。
「……あいつの時間停止能力を、なにかに利用するつもりなのか?」
+ + +
終章まで、毎日更新していく予定です。