幕間:2 <ある不幸な竜と翼種の長>
『さぁ。飛べ』
無言で彼を見つめる私にラジェスはもう一度言った。
『どうした?飛んでみろ』
先生、無理です。
そんな思いを込めて涙目でふるふる首を振る。
ラジェスの米神にビシリと青筋が立った。
『おい。お前が助走をつけて飛ぶのは無理だと言うからここまで来たんだぞ?お前の頭はそれも忘れたか?』
地の底から湧き出た様な低い声に私は益々震え上がった。
いえ、覚えてるんですけどね?だからと言ってここに来たいと言った覚えはありません。
ジリジリと後ずさる私にラジェスの青筋が増えた。
そのまま身を翻して走り去ろうとする私の前に結界が張られる。
固まった私の背中に舞い降りる羽音。私はゴクリと唾を飲み込んだ。
『マツリ、どこへ行く?』
『え?自然の欲求、かな?』
『ほぉ。さっき行ったばかりなのは気のせいか?』
振り返ることも出来ず、震える私に『お前の腹も随分と都合が良い』と笑う声が聞こえた。
もはや悪魔が笑ってるようにしか聞こえない。
私は3まで数えてから思い切って振り返った。
『あの、さ?なんか朝に食べた木の実が腐ってたみたいでさ?汚い話だけど下ってるんだよね~。お腹に力入れるのヤバイし今日はもう横になった方がいいと思うんだぁ。ラジェスも忙しいだろうし、今日の練習はこの位にして戻らない?』
乙女のプライドよりこの場を乗り切るほうが重要だ。
震えそうになる口元を気力で押さえつけて私はニッコリ笑う。
もっと笑うのよっ、茉莉っ。明日の朝日が拝みたいなら極上の笑みを浮かべるのよっ?!
私は女神もかくやと言わんばかりに微笑んだ。もっとも竜が笑っても女神に見えるかどうかはわからないが。
そんな私の努力の結晶を見て、ラジェスも男らしく口の端をあげて笑った。
あの、先生?その凛々しい微笑から冷気が漂ってるのは何故ですか?!
私は笑顔の裏でダラダラと流れる脂汗と恐怖で今にも倒れそうになっていた。
怖い。この人超怖えぇぇぇぇよ!
だが、ラジェスの口から出たのは私にとって意外な言葉だった。
『体調が良くないのか。それは困ったな。早く戻った方が確かに良いだろう』
私は目をパチクリさせる。
『なんだ?戻りたくないのか?』
『い、いえ!戻りたいであります!』
『そうかでは戻ろう』
敬礼のまま固まる私の横をスルーして、山道を下ろうと先を歩くラジェス。
案外簡単に騙されてくれたラジェスに私は心のどこかで不安を感じながらも安堵の微笑みを浮かべた。
ふ、ふ、ふふふ。私の勝ちだな明智君。
騙した事は謝るが、人には努力ではどうにもならない壁というものがあるのだ。君なら許してくれるはず、いや許せ(ドーン!)。
脳内でふんぞり返ってラジェスに謝ると私はスッキリ爽やかな気分になった。
よし!そうと決まればラジェスの気が変わらないうちに早く帰るのだ!
『ありがと!体調が良くなったらまたがんばるからね?じゃ、早速――うぅぅ?!』
振り返ってラジェスに礼を言いかけた私の後頭部に激しい衝撃がきた。前へよろけた私へ第2、第3の衝撃が右に左へと襲う。
え?何?!
『ちょ?!あぶっ!』
抗議しようとして一歩前へ出した私の右足がスカッと空を踏んだ。
へ?と思う間もなく第4の衝撃で始まる落下。
『ぐぎゃああぁぁぁぁ~~~~!!』
なんでなんでなんでえぇぇ?!
パニックで必死に手足をバタつかせても落下が止まる訳はない。
『だから手足ではなく羽を動かせ。6枚もあるのにそれは飾りか?』
腕組みしながら翼を縮め同じように上から落下してくるラジェスの冷静な声が聞こえた。
羽、羽ええぇぇ!動かさなきゃ死んじゃうっ!
必死に羽を動かすが風圧と恐怖でどうにも上手く動かない。
『風を読め。風に乗れば力など入れずとも体は浮く』
こんな風にと翼を広げたラジェスはハンググライダーのようにスイーっと上昇気流に乗って大空へ舞った。
上方へ遠ざかっていく姿に悪態をつく。
こちとら6枚羽だよ?!風を読めだの乗れだのこんな状態で言われてすぐ出来るかっ!
こいつ絶対Sだ!隠れSだ!さっきの衝撃はラジェスのかまいたちに違いない。魔法使ってまで谷底に突き落とすってどうなのよ?!
見たくなくても見えてしまうのは谷底の尖った岩石群。
駄目だ、死ぬっ!!
『っ、オリちゃーーーん!!』
ため息が聞こえたと思ったら勢いよく地面がボコりと凹み沼地になった。
私は盛大な泥しぶきを上げ頭から沼地にダイブする。
沈む私の勢いが弱くなったのを見計らったように底なしだった足元がググッと持ち上がり地面ごと浮上した。
地上までオリちゃんに送ってもらった私はゲホゴホとむせ返りながら全身から泥を滴らせていた。
『これ結構難しいのよ?魔力も使うし。――まぁ、マツリのお陰で練習たっぷりさせてもらってるけど』
お陰でどんな地形も沼地へ変えるの得意になっちゃったじゃないって肩をすくめるオリちゃんに、私は返事も出来ない。
一拍後、舞い降りたラジェスは私の有様を見て眉間にシワを寄せる。
『また駄目だったか。無様な――』
泥が滴る顔面でラジェスを恨みがましく見た。
一体誰のせいかと言いたい。
『……帰るって言ったのに』
『あそこから飛ぶのが一番早く帰れると思い直してな?少し背中を押してやっただけだ』
『押してない!魔法ぶつけた!』
『そんな事より早く行け。下っているのだろう?』
顎で茂みを指したラジェスの顔がニヤニヤしていた。
ラジェスめ!わかっててやったな?!
『どうした?』と憎々しく追い討ちをかけるラジェスに、私はたっぷりと恨みを込めて泥団子をぶつけた。
**********
きっかけは何気ない一言からだった。
ラジェス達と一緒に晩御飯を食べてたら、いつの間にか話題が根城の結界話になったのだ。
『この間のように人間共に見つかるのも面倒だ。不可視の結界を強めるよう結界石を上に置いた』
『ラジェス結界得意だもんね。だけど結界石なんてあるのか。上って?』
『ああ、我らの根城の丁度中央にあたる岩の先端にな。結界石はお前の瞳のように黄金色で眩い小さな石だ』
『金色なの?!うわ~綺麗なんだろうねっ!見たい!』
『見ればよかろう?上から見ろ』
『昇っちゃ駄目なの?』
『先端が細い岩だ。崩れるから無理だな』
『あ、じゃ駄目だ。私飛べないからさっ』
残~念~と魚を口に放り込んだら、皆の視線が私に向いていることに気づいた。
ラジェスが信じられない者を見るように顔を歪めていた。
『お前……飛べないのか?』
『あ、うん。高い所嫌いなんだよね~』
『では、飛んだことが……一度も?』
『そだよ?でもまぁ、これ便利だよ?物を包んで運べるし、風も起こせるしねぇ~』
そう言って自分の羽をチョイチョイと引っ張って笑った。
だが、辺りはシーンと静まっている。ラジェスも俯いて顔を上げない。
『え?な、何?何か問題ある?』
オロオロとみんなを見回してたらガッと顎を掴まれた。
合わせられたラジェスの目はしっかり据わっていた。
『お前――竜だろう?この羽は飛ぶためのものだ。飛べない竜など聞いたことがない』
『いや、あの。ここに居るんですけど。飛べないものは仕方ないかと……』
『甘い!』
何故か激昂するラジェスに私はタジタジだ。
『伝説に謳われる竜とは大空の覇者!その姿は陽を遮り、月を従えると言う。飛べないだと?飛べない竜などトカゲと変わらないではないか!同じ空を駆けるものとして腑抜けたお前の姿は目に余る。俺がお前を名実共に竜にしてやろう!』
いえ、燃えてる所悪いんですけど、別に私飛びたいなんて一言も――。
そう思って口を開いたらギロリと睨まれた。心なしかラジェス以外の皆の目も冷たい。反論するのが許されないような空気に冷や汗が流れた。
『――特訓だ』
『え、いや……』
『やるな?』
『あの……』
『や・る・な?』
『……はぃぃ』
結局私はラジェスの迫力に引き攣りながら頷くことしか出来なかった。
それで翌日から飛行訓練が始まったのだが――――。
最初は良かったのよ。羽を動かすことから始まって体を浮かせるところまで。
ラジェスも今より丁寧に優しく教えてくれていたと思うしね。
しかし、私の高所恐怖症は筋金入りなのだ。ある程度の高さになると浮かんでいた体のバランスは崩れた。手を変え品を変えても結果は同じ。
1m以上浮けない私にとうとうラジェスが青筋を浮かべた。
それからは地獄だ。
ちょっとでもバランスを崩せば容赦なく襲う冷たい嫌味。
木の上まで羽ばたきで上昇するよう言われた(途中で怖くなって木にしがみ付いたら数本まとめて木ごと倒れた)。
丘の上から助走をつけて飛んだ(幅跳びのようになった)。
思い切りジャンプさせられてそのまま強風を叩き付けられた(そのまま流され岩に激突した)。
その他色々やらされたのだが、やらされる程に不機嫌になっていくラジェスと私は終いには体育座りでうな垂れた。
『お前は真剣にやる気があるのか?』と問われ『勿論であります!』と敬礼で答える私。我ながら涙ぐましい。
だって、本気でラジェス鬼だよ?後頭部はタンコブだらけだ。
でもラジェスが真剣に教えてくれているのがわかるから、甘んじて鬼教官に付いていってるんだ。
『目を瞑れば何とかいけそうな気が……』
『馬鹿が。ずっと目を瞑って飛べる訳なかろう。お前は飛ぶたび破壊神にでもなるつもりか?』
……そうですね。
小さくなる私にラジェスはため息をついた。
『空を飛べるようになれば、敵から逃げられる確率が上がる。俺が助けに行けない、万が一があればどうする?』
私の目を見て話すラジェス。ラジェスが心配してくれるのは思わずにやけるほど嬉しい。
でも、だからって昨日のように行き成り険しい岩の上に連れてかれて、飛べって言われても飛べるわけないじゃん。それとこれとは別。
私は『明日までに何か方法を考える』と言い去っていったラジェスに不吉な予感を感じていた。
**********
次の日呼ばれたのは何もない砂漠のど真ん中。
オリちゃんを貸せと言われて数時間。約束の時間から15分経っても彼らは現れない。
もう帰っちゃおうかと思った30分後、ようやく飛んでくるラジェスの姿が見えた。
『もう!遅いよラジェス!』
むくれる私に『すまん』とラジェスは綺麗な笑みを浮かべた。ビキリと固まる私。
こ、この笑顔は良くないっ!
今までの経験上この顔はラジェスが何かろくでもない事を考え付いた時の顔だっ。
『えっと、実は今日先約があったの思い出しちゃった!埋め合わせはするから、練習はまた違う日に……』
青ざめながら手を合わせペコペコ謝る私を、上空からラジェスは微笑んだまま見ていた。怖っ!
『ほう先約か。では急いで飛べるようにならねばな。オリオデガート、やれ』
『偉そうに!』
文句を言ったオリちゃんが私を中心に半径200mの円形に穴を掘る。お堀のようだ。その周りにはお堀を囲むように大きなラジェスの結界が張られ私は閉じ込められた。
何が始まるの?!って思った瞬間、穴から這い出る黒くカサカサ動くあのフォルム。でかすぎるそいつの影やにょろりと大きな長いもの、ギョロッと目が動く8本足の化け物。
私は固まったまま目を離せなかった。
『お前が飛べないのは高さに対して恐怖心があるからだ。別の恐怖心が勝れば飛べるようになるに違いない』
良い案だろうと得意げに話すラジェス。
この大馬鹿野郎があぁぁあーーーー!
『殺してやる!』と叫びながら逃げ惑う私だったが、後から後から穴から這い出てくる私の天敵はとにかくどいつもこいつもデカイのだ。
魔法で!と精霊を呼んでも誰も来ない。
『あ、皆にはマツリのために手出ししないでって頼んでいるからね?マツリが飛べるようになるの応援していたわよ?』
なんて余計な事を!オリオデガート、当分ご褒美抜きだからね?!
ならば自分でどうにか、と思ったが隙間無く奴等がウジャウジャしてる結界の中でビームなんて放ったら。奴等が焦げる匂いとか篭っちゃったりして……。
私は想像だけで吐き気が込み上げた。駄目だ。戦えない。肉弾戦などもっての外だ。
逃げ場は空以外なく、5m以上上空に逃げなければ奴らに触れてしまう!
『ほら、ここが出口だ』
ラジェスは結界の最も高い所にご丁寧に穴を開け、穴の縁に腕を組んで腰掛けていた。
なんだその、俺って優しいだろ?って勘違い系な顔は!
接触まで10,9,8――破滅のカウントダウンを脳内で聞きながら、私は意識せず羽を動かしていた。
もう飛ぶ以外この地獄からは抜けられない。
死ぬ気の覚悟を決めた私は、羽を広げ静かに空へ浮かんだ。
高い所など今目の前に広がる地獄絵図に比べればいかほどのモノか。
腹を決めバサリバサリと羽を動かす事だけに集中する。私の体は呆気にとられるほど簡単に空を舞った。
『やはりな』
策が成った満足に腕を組み頷いているラジェス。
私と目が合うと『やれば出来るとわかっただろう?』と言いやがった。
私はその瞬間ラジェスへの復讐を神に誓った。
それから数日間。
まだ目のくらむ高さは無理だが低空ならば飛べるようになった私は、それと引き換えに悪化した虫と爬虫類嫌いに昼夜を問わず苦しめられる事となる。
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1週間後。
狭い結界にラジェスを閉じ込めた私は、翼種の年頃のお嬢さんやお色気たっぷりの精霊お姉さんなどを召集し送り込んだ。
もちろん彼女達にはラジェスへの手厚い歓待をお願いしてある。お触りOKとも――。
「長様、私、貴方の子供を産みたい」やら『あら良い男、体も素敵』とツツーッとラジェスの下腹部をなぞる精霊お姉さん。
わざわざハーレムを用意した優しい私を褒めて貰いたい。
「断る!」『っ触るな!』『出せ、マツリ!!』と悲鳴をあげるラジェスに私は笑顔で手を振った。