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この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

契約の庭

作者:安芸
*一部、残酷描写があります。必ずあらすじをお読みください。
      一

「旅行?」

 アラン・マーカスは三人掛けのソファに座り、二個目のドーナツにかぶりつきながら顔を上げた。

「いきなり――なんだってまた、僕を?」
「サラが誘って来いって言うんだよ」

 一昨年結婚し、去年隣町へ引っ越して以来、久しぶりに実家に帰省した兄のヘンリーは言った。
 シャワーを浴びたヘンリーは濡れた髪をタオルで拭きながら、冷えた缶ビールを冷蔵庫から勝手に取り出し、プシュッとプルトップを抜く。

「フーッ。うまい。こたえられんね」

 ヘンリーはアランの隣にドサッと座った。ゴクゴク喉を鳴らしてビールを飲みながら、話を続ける。

「何度メールで問い合わせても、電話で呼んでものらりくらりとかわされるって――おまえがなかなか(うち)に来ないからだぞ」

 ……そりゃ、行けるわけないだろ。

 アランは「ばかたれ」と喚きたい衝動をグッと堪えた。実のところ、ヘンリーの妻のサラは二年間彼の家庭教師だった。そして初恋の相手でもあった。だが、サラはヘンリーと結婚した。告白する前に玉砕したアランとしては、失恋の傷が癒されないうちは、二人の新居をのうのうと訪ねる気には到底なれなかったのだ。

「僕も忙しくてね」

 アランは犯人の目星がついてようやく佳境に入った推理小説を止むなく閉じた。

「けどこんなものを読んでいるようじゃ、いまいち説得力に欠けるかな」

 ヘンリーに指摘される前に白状して、アランは頭を掻く。

「遠慮しないで、いいから来いよ」

 アランより一〇歳年上のヘンリーは笑いながら彼の後頭部を気安く叩いた。

「車でちょっと遠出して、グリーン・レンブラーまで行くつもりなんだ。向こうはおまえもまだ行ったことないだろ?」
「学校があるんだよ」
「来週から秋休みだって母さんから聞いたぞ」

 アランは諦めた。適当な逃げ口上が見つからない。

「わかった」

 最後のドーナツの一切れを指で口に押し込み、アランは応じた。

「行くよ」


      二

 グリーン・レンブラーまでは車でおよそ一四時間かかる。急ぐ旅でもないから、とのんびりドライブを楽しみながら、ヘンリーとサラとアランの三人は二週間かけて『森と湖の楽園』と称しつつ、その実態はガソリンスタンドを探すにも容易ではない、辺鄙な田舎町を制覇するつもりだった。
 はじめ参加を渋っていたアランも、相変わらず美しく、溌剌と陽気なサラに会うなり気を変えた。
 そして出発から九日間、天候にも恵まれ、事件や事故に遭遇することもなく、食べ物も口に合い、泊まる先々の(どこも古くて規模は小さいが)ホテルやモーテルは快適で、旅は楽しく、万事順調だった。

 歯車が狂ったのは、一〇日目のことだった。
 サラが持参したガイドブックによれば、<おすすめは静かな森ナヴァトンの散策です。散歩道のスタート地点はシーモスの村から>とあったので、早速その村へ行き、車を駐車場に止めた。

「あった、これだ。『ナヴァトン散歩道』」

 アランは年季が入って薄汚れた標識をようやく見つけて、ヘンリーとサラを呼んだ。
 森は美しかった。散策にはちょうどいい気候で、風も穏やかで気持ちいい。見上げれば森の天蓋からは金色の光が射し込み、地面に光と影の縞模様を描いている。秋も深まっているため、落ち葉の量がすごい。踏むと、ガサガサ音を立て、上等の絨毯のような感触だ。
 不意に、散歩道を外れたことに気がついた。
 サラが無難な解決策を提案した。

「とにかく、今来た道を戻りましょ。こっちよ」
「磁石を持ってくればよかった」

 アランは悔やんだが、後の祭りである。
 三人は方向転換して、引き返した。そのまま三〇分も経ったか、経たないかのうちにまた足を止めた。先頭を切って歩いていたサラが不安そうに辺りを窺いながら、「ねぇ」と口を開く。

「私もあまりよく覚えていないんだけど……こんなに広い空き地、通ったかしら?」
「いや」

 ちょうど同じことを考えていたヘンリーが相槌を打つ。

「多分、通ってないな」

 アランは大人たちがためらって言葉にしないことをはっきり言った。

「迷ったみたいだね」

 それから肩に担いでいたデイパックを地面に下ろす。

「ずっと歩き詰めで疲れたから、僕は少し休みたいな。座って、携帯食でも食べて、それから地図で位置確認をしようよ。最悪の場合は携帯でSOSを――駄目だ。ここ、電波届いてないや」

 アランは『圏外』の無情な表示に顔を顰め、役立たずの携帯電話をジーンズの後ろポケットに押し込む。そして顔を上げて、眼を瞠った。

「ねぇ、あれはなんだろう?」

 デイパックから眼鏡ケースを取り出して、近視用の眼鏡をかけた。木々の向こうに赤い屋根が見える。

「家だ」アランは呟いた。「家がある」
「なんだって」

 ヘンリーはアランの見つめる方角に首を向けて、軽く驚きの声を漏らした。

「――本当だ。行ってみよう」
「待って」

 サラが性急なヘンリーの腕を慌てて掴み、引き止めた。

「こんな森の奥深くに人家があるなんて、なにか変じゃない?」
「そうか? 作業小屋か、もしかしたら別荘かもしれないだろ」

 アランは時計を見て、ちょっと考えた。午後三時半を過ぎたところだ。秋の夜は早い。あと三〇分もすれば辺りは暗くなり始め、一時間後は真っ暗だ。夜になれば気温も下がり、獣も出るだろう。

 ……森で野宿なんて、まっぴらごめんだ。

 最悪の事態を想定しつつ、アランは意見をぶつけ合う二人に横から口出しした。

「とりあえず、行ってみようよ。運よく人がいれば道を教えてもらえるかもしれない。だけどサラ先生――じゃなくて、サラさんの言うことももっともだからさ、こっそり様子を見てくるというのはどうかな」
「……そうねぇ」

 突然サラは身震いして、フード付きのパーカーの前を掻き合わせた。

「気は進まないけど……でも冷えてきたし、森で夜を過ごすのは怖いもの。行ってみましょうか」
「よし」

 ヘンリーはソフト帽を被り直し、姿勢を低くして、好奇心を隠せない顔で言った。

「俺の後について来い」

 木立を抜けると、茶色にペイントされたミミズクの形をした立て札があった。

<ここより先、ポー家私有地>

 アランは、少女のような丸みを帯びた字で記された表示板の横を、すい、と過ぎて一歩踏み込んだとき、なんだか妙な胸騒ぎを覚えた。スニーカーの裏が糸を引いているような粘ついた感触と、ヒヤリと背筋を這う気味の悪さ、そして胃の縮まるような圧迫感……。

 ……誰かに見られている。

 そうしてどんどん心臓の動悸が早まっていくのにとうとう耐えられなくなり、思い切って後ろを振り返った。その途端、視線はふっと消えた。

 ……いまのはなんだったんだ?

 アランは戸惑って左右を凝視した。人の姿はない。

 ……気のせいだったのだろうか。

 だが本能が否と応えている。じっとりと噴き出した汗が額から顎を伝って落ちる。それを手の甲で拭いながら、アランは次の一歩を進めた。
 遠目に見えた建物は、やはり別荘のようだった。赤煉瓦造りの立派なもので、壁に濃い緑の蔦が這い、趣がある。しかし残念ながら期待していた人の気配はなく、ひっそりと静まり返っている。

「やれやれ」

 ヘンリーはがっかりして呟いた。

「空振りだったな。さて、どうするか」
「まさか、そんな」

 サラが急に駆け出す。玄関先に無造作に置かれた椅子を見て歓喜の叫びを上げる。

「すごいわ。これ、チッペンデールの椅子よ!」
「チッペンデール?」

 芸術に疎いヘンリーは鼻に皺を寄せて「誰だ?」と唸った。
 サラは興奮した口調で続ける。

「チッペンデールよ! 知らないの?」

 反応の鈍いヘンリーをフォローするため、アランは記憶をさらって言った。

「トーマス・チッペンデール。確か、一八世紀のイギリスの家具職人だよ。僕も詳しくは知らないけど、本物の『チッペンデールの椅子』だったら国宝級の代物じゃないかな」

 ヘンリーは鼻を鳴らしてけんもほろろに言い捨てる。

「どうせ贋物さ。そんな重要文化財を外に野ざらしで置いておくわけないだろう」

 これにはアランも頷いて同意した。

「じゃなきゃおかしいね」

 いつの間にか建物の側面に回っていたサラが声高に呼ぶ。

「ヘンリー、アラン、こっちに来て!」

 サラはバルコニーに上がり、ガラスの扉越しに中を見ていた。

「ちょっと覗いてみてちょうだい。家具の全部が――信じられない! チッペンデールの作品よ!」

 すっかり興奮して卒倒しかねない勢いのサラには悪かったが、兄弟は――本物か贋物かいずれにしろ――正直なところあまり興味はなかったし、それゆえ感動も薄かった。

「私、ここに泊まってみたいわ」

 サラはうっとりと夢見るように瞳を潤ませながら呟いた。

「ああ、そうできたらどんなに素敵か……」

 そのとき、背後から甘い軽やかな少女の声が響いた。

「いらっしゃいませ」


      三

 急に声をかけられて驚いた三人は、一斉に振り返った。
 そこに立っていたのは、絶世の美少女だった。長い黒髪と宝石のような黒い瞳、淡い微笑みを浮かべている顔は非の打ち所がないほど美しい。シンプルな膝丈の黒いワンピースを着て、ピカピカに磨かれたバックル付きの黒い靴を履いている。

「こんにちは。あなた方は、お客様かしら」

 アランは自分の眼が信じられず、思わず眼を擦った。鬱蒼と生い茂る森を背景に黒髪を風に遊ばせる少女の神秘的な姿は幻を見ているようだった。

 ……なんて綺麗な女の子だろう。

 だが出会いの瞬間より後の記憶はない。美少女に見惚れて頭が真っ白だったアランは、背後を取られたのに少しも気づかなかった。
 文字通り降って湧いたように現れた身なりのいい青年は、表情も変えず、出し抜けにアランの頭を殴りつけ、よろめいた隙に鳩尾に強烈な膝蹴りを食らわせ、駄目押しに背中に肘鉄を叩き込んだ。
 無論、アランはなすすべもなく完全にノックアウトされた。


「おい、起きろ」

 青年はアランを軽く揺すった。

「頼むから目を覚ませ」
「ウーン」

 アランは溜めていた息を「フーッ」と吐き出して重い瞼を持ち上げ、眼を開けた。

「ここはどこ」
「『僕は誰』なんて言わないでくれよ」

 青年が懇願するように言い、アランは呻いた。

「……うう。いや、それは大丈夫。僕は、ええと、そう僕はアラン・マーカスだ」

 アランは眼尻を摘まもうとして腕を動かし、悲鳴を上げた。どうやらベッドに寝かされているらしい。だがその理由がさっぱり見当つかない。

「あいたたた。な、なにがどうして、こうなったんだっけ……」
「それは説明できるよ」

 アランの枕元に立つ青年がすまなそうに眼を伏せて謝った。

「私が君を殴って蹴って叩きのめしたんだ。悪かったよ」

 アランは「あ、そう」と言い、額の右端を手で撫でた。

「そうすると、このでっかいコブはあなたのせいか。なるほど、リターンマッチが必要だね」
「悪かった」

 青年は繰り返し謝罪した。頭を下げて続きを言う。

「だが君のためだったんだ」
「僕のため?」

 ……意味がわからない。

 アランは反射で訊き返したものの、まだまともに頭が働いていなかった。

「それで、僕はどのくらい気絶していたの?」
「ほんの五分ほどさ」

 アランは首筋を手で揉みながら、ゆっくりと起き上がった。

「まだフラフラするな」

 青年はベッドの下に揃えていたスニーカーをアランに手渡し、ハンガーに掛けてあった彼のモスグリーンのパーカーを押し付けて言った。

「さあ立って。急いで逃げるんだ」

 アランはポカンとして訊いた。

「誰が?」
「君だよ」

 青年は即答し、反応の鈍いアランをまどろっこしそうに見てスニーカーを奪い、片方ずつ無理矢理履かせた。

「ここにいては危険だ」

 青年は真顔で言った。それから窓辺へ近づき、カーテンを持ち上げて外の様子を窺う。人影のないことを確認すると扉口に腕を組んで寄りかかった。

「私はエドガー」
「僕は――」
「アラン・マーカス君だろ?」

 エドガーは「こんな自己紹介など無用だ」というそぶりを隠しもせず、苛々と続けて喋る。

「手始めに弁解になるかもしれないが、君に殴りかかったのは本意じゃない。いまポーと君の連れのお二人が契約をするために庭に行っているが――私がああでもしないと、君まで契約書にサインをしなければいけない羽目になっていたんだ」
「なんの契約書だい?」

 アランは問いかけながら部屋を眺めた。サラ曰く、チッペンデール(もどきだろうが)の上品な家具が一通り揃っているところを見ると、ここは赤煉瓦の別荘の中だろう。

「ここに泊まるためのものさ。自分の名前を名乗って署名するだけの簡単なものだが――契約事項を破ると死ぬことになる」

 ……そりゃ大袈裟だ。

 アランは内心そう呟いた。
 エドガーは警告を本気にしていない態度のアランをじっと見ながら続ける。

「契約さえ守れば帰れる。ところが君のように若くて、独身で、顔のいいのは駄目だ」

 エドガーはやるせない瞳をそっと伏せて、長々と息を吐いてボソッと呟く。

「ポーの好みでね」

 ここでアランは口を挟んだ。

「話の腰を折るようで悪いけど――そのう、ポーって誰だい?」
「さっき君も一目会っただろう」

 ……どうやら、あの美少女の名前はポーというらしい。

 そんなことを考えていたアランをエドガーはきつく睨み、焦燥感の滲んだ声で急き立てる。

「説明はこれぐらいでいいだろう。早く逃げろ。いや、いっそ力に訴えて君を敷地の外に追い出した方がよさそうだ」
「え。ちょ、待って――」

 突然、ぞくりとした。
 視線を感じる。あの視線だ。身の毛がよだつ。錯覚ではない。確かに、確かだ。

 ……誰かが僕を見ている。

 急に目の前が暗くなった。アランは奇妙な息苦しさに襲われた。それと同時に身体の自由が利かなくなり、例えようのない恐怖が突き上げる。
 その粘ついた視線は背後から迫り、徐々に距離を詰めてきた。濃密な気配ばかりの視線は最初のときの値踏みするようなものではない。不気味さに変わりはないが、明らかに意図が違う。

 ……まるで、好みのおもちゃを見つけたかのような、熱っぽい視線だ。

 そして、なにとは知れぬ、荒々しい獣の気配。
 なにかが後ろにいる。ベッドは壁際の隅に置かれていて、背後に余分な隙間などないのに、それでも背後になにか恐ろしい獣がいると感じた。
 首筋に血腥(ちなまぐさ)い息がかかった。尖った牙が頸動脈に押し当てられ、グッとめり込んだままそこで止まる。心拍数が急激に上がった。極度の緊張のため、全身がブルブルと震えた。
 アランは叫ぼうとして口を開いたが、恐怖のため喉は強張り、顎はガクガク震えて、声は出ず、唇の端から涎が一滴、二滴と垂れ落ちただけだった。
 アランは本能的に、見てはいけない、見るな、と思う一方で、視線の正体を暴きたい衝動に流された。覚悟もないまま、後ろを向く。しかし、暗闇の中である。なにも姿かたちは見えない。だがアランにはわかった。――視線の主は嗤っていた。

「君」

 エドガーに頬を叩かれてアランは正気に返った。すぐ間近にエドガーの端整な顔がある。
 アランは肩で息をしながら、恐る恐る肩越しに背後を見遣ったが、なにもいない。ただの壁だ。
 ホッとすると同時に、未だ恐怖から逃れられていないことを不安に思う。

「……わかった。あなたの言う通りにするよ。僕は帰る」

 アランはパーカーの袖に腕を通しながら立ち上がった。ポツリと漏らす。

「ここはおかしい」

 エドガーはアランのデイパックを彼に手渡し、外へ促しながら、苦渋に満ちた顔で扉のノブを捻って答える。

「理解してもらえて、なによりだよ」

 ところが出て行きかけた先には、黒髪に赤い椿の花を挿した美少女ポーがいた。突然扉が開いたのでびっくりした、という顔をして、立ち竦んでいる。黒い大きな瞳を丸くして、唇をキュッと結んだその可愛さといったら、アランの顔から恐怖も震えもストンと落ちた。
 そんなアランを押し退けるように彼の前に出て、エドガーが言う。

「この方は帰られるそうだ。私が先程の無礼のお詫びも兼ねてちょっとそこまで送ってこようと思う。さあ、行こうか」
「まあ、もう?」

 美少女ポーはエドガーには構わず、アランをじっと見つめて心配そうに言った。

「でもすぐに日が落ちますわ。夜の森は危なくてよ。無理して危険を冒すよりも、今日はこちらでゆっくりなさって、明日帰られたほうがよろしいのじゃありません? それに」

 ポーは髪飾りにしていた椿を取り、人差し指と中指に挟み、アランの目の前に優雅に差し出して続きを言った。

「今お食事を用意させていますの。滅多にないお客様ですもの、お嫌でなければどうぞ召し上がっていってくださいな」

 食事、と聞いてアランは腹を押さえた。

 ……そういえば、昼以降なにも食べていない。

「じゃあ……お言葉に甘えて――」
「おい、アラン君」

 エドガーが眉根を顰めて「よせ」と小さく首を横に振る。
 ポーはそんなエドガーを非難するようにちょっと睨みつけ、アランには愛想よく微笑んだ。

「お連れの方もご一緒ですもの。お食事を楽しんで、一晩泊まってくださいませ」

 ポーの言葉で、アランはヘンリーとサラのことを思い出す。

 ……そうだ、なにを忘れていた。帰るなら、兄さんとサラも一緒でなければ。

 結局、アランはぎこちない手つきで椿を受け取った。
 ポーは嬉しそうにニッコリ笑うと、親しげに腕を組んできた。
 食事は舌鼓を打つ豪華なものだった。食事の後は勧められるままシャワーを浴び、高価なシャンパンやワインをご馳走になり雑談に話を咲かせると、すっかり酔いが回って眠気がさしてしまった。
 そうしてアラン、ヘンリー、サラの三人はここに宿泊することになった。


    四

 それから七日が経って、八日目を迎えた。綿菓子のような雲が漂う、秋晴れのいい日和だ。
 マーカス夫妻は身支度を整えて、自分たちを手厚くもてなしてくれたポーの元へ別れの挨拶をするため訪れた。
 ポーは別荘の北面にあたる、紅色の椿の垣根に囲われ、白い石畳が敷き詰められた庭にいた。広い庭の中央には、マホガニー材で作られたルイ・マジョレ作のテーブルと椅子が一脚だけ置かれている。
 ポーはその椅子にちょこんと座り、かわした契約書を片手に握ってヘンリーとサラを出迎えた。
 ヘンリーは帽子を胸元にあて、ポーに向かい丁寧にお辞儀した。

「いや、すっかりお世話になってしまって」

 サラも笑って礼を言う。

「本当に楽しい一週間だったわ。どうもありがとう」

 ポーも愛らしい笑顔で二人に応じる。

「こちらこそ。色々なお話を聞かせていただいて楽しかったです」

 次いで、唇を横に引き伸ばし、笑みを深めた。

「でも、残念ながらお二人共、契約事項は守っていただけませんでしたね」
「え?」

 ヘンリーとサラは申し合わせたように瞬きをして、顔を見合わせた。

「そんなことはないでしょう。と、思うのですが」
「いいえ」

 ポーはゆっくりと首を左右に振る。

「守っていただけませんでしたわ」
「でも――」

 サラはちょっとうろたえて、七日前に署名した契約書の事項を思い返してみる。

「確か一番目は、ええと……『食事に出されたもの以外、飲食しないこと』でしたっけ」

 ポーが頷いて、柔らかく指摘する。

「ですが旦那様は胃薬を服用されました」

 ヘンリーはまごついた。

「そ、それは……まあ、そうですが」

 話の雲行きが怪しくなってきたことに多少の不安を感じながら、サラが次の事項を諳んじる。

「二番目が『ポー家の私有地から出ないこと』でしたね」
「ああ、それだったら、俺たち一歩も外へは出ていませんよ」

 ヘンリーが嘘を吐く。
 ポーは見透かしたように浅く笑って否定した。

「いいえ。三日前の朝食後、ミミズクの看板より外に散歩に出かけられましたわ。仲良く、奥様とお二人で」

 ヘンリーとサラは段々と落ち着きを失っていった。
 ポーは悠然とした態度を崩さずに続ける。

「それから最後の三番目ですが」
「そうだ」

 ヘンリーはテーブルに乱暴に手をついて身を乗り出す。

「俺たちに子供はいない」
「そうでしょうか」

 ポーは身動ぎもせずに、サラを見つめる。

「第三項目、『お子様の同伴は認められません』」
「あの……」

 サラはそっと下腹部に手をあてた。

「だって、まだ……生まれてもいないのに」
「なんだって?」

 ヘンリーは驚き、あんぐりと口を開けた。

「まさか――妊娠しているのか」

 サラは少しばつが悪そうにヘンリーから視線を逸らして言った。

「明後日、あなたの誕生日でしょ? そのときにサプライズで知らせようと思って黙っていたの」
「と、いうわけです」

 ポーは風にもつれた髪を耳にかけながら、書類の最後の一行を声に出して読み上げた。

「『――以上、三項目の契約について、一つでも違反した場合は、ポーの名において断罪するものとする』よって」

 ポーはテーブルに転がしていた万年筆を握り、契約書に一筆書き添えた。風に飛ばされないよう、書類の上にガラス製のペーパーウェイトを置く。そして彼女は静かに立ち上がった。

「いただきますね」

 ヘンリーが「なにを」と問いかける間もなく、突然、強烈な悪意が襲った。

「……サラ、下がれ」

 異様な気配を察知して、ヘンリーはサラを背中に庇い、じりじりと後ずさりした。
 二人の蒼褪めた顔を見て、ポーはさもおかしそうに笑った。だが眼は少しも笑っていない。
 吹いた秋風に、椿の花首がポトリともげた。
 ポーは残忍な表情を浮かべて、ヘンリーに襲いかかった。まず白い華奢な指が彼の眼を抉り、絶叫してのけ反った無防備な喉を血まみれの手が鷲掴みにする。そのままポーはがぶりと噛みついた。そうして渾身の力をもって文字通り首を胴体から引っこ抜くと、頭部を石畳に転がす。身体の関節を外し、骨を折り、手足をバラバラにすると、一ヶ所に集めて貪った。
 サラは不幸なことに失神していなかった。一部始終を見ていた。
 そしてサラはこちらに向かって歩いてくるポーの嗤う黒い瞳を悪い夢でも見ているかのように呆然と見つめた。


      五

「遅いな。なにをやってるんだろう」

 アランは時計を見た。ヘンリーとサラがポーのところへ御礼を言いに行くといってから小一時間が経つ。

「人に荷造りさせて荷物番まで押しつけて」

 アランはブツブツ文句を言った。

「僕は待たされるのが嫌いなんだ」
「先に歩いていればいい。荷物持ちは私が手伝うから。たぶん二人もそんなに遅れずに後を追ってくるよ」

 この七日間、片時も傍から離れなかったエドガーの提案に、アランは首を横に振る。

「いや、一緒に帰るよ。また森で迷っても困るし。だけど様子を見に行こうかな。あなたは挨拶なんて二人に任せろと言ったけど、やっぱり僕も一言くらいポーにお礼を言いたいしね」

 そう告げると、なぜかエドガーは悲愴な顔をした。
 アランは荷物を持ち、エドガーと連れ立ってポーのいるという庭へと向かう。

「温かい歓待のお返しに、今度は僕がエドガーとポーを我が家に招待するよ。ここほど立派な家じゃないけど、二人が泊まるくらい問題ないからさ。都合がつき次第、この番号に連絡してよ」

 歩きながら携帯番号を書いたメモをエドガーに差し出すと、彼はちょっと迷ってから受け取った。

「……ありがとう。気持ちだけ、もらっておくよ」

 並んで歩きながら、アランはずっと気になっていたことをエドガーに問い質した。

「あのさ、結局僕は契約書って書かなかったんだけど、それで本当に不都合はないのかい? ポーにはしきりに書いてくれってせがまれたけど、エドガーが絶対に断れって言うから僕全部断っちゃったよ」
「いいんだ」

 エドガーはいつになく悲痛な面持ちで呟いた。

「犠牲は二人で十分さ」
「は?」
「いや、なんでもない」

 顔に暗い影を落とすエドガーをやや不審に思いながら、アランは訊いた。

「それで、契約の庭ってどっちかな。そこでポーと会うって言っていたんだけど――」

 道なりに曲がったところで、アランの眼に美しい紅色の椿の花の垣根が飛び込んできた。
 エドガーが浮かない様子で顎をしゃくる。

「あそこか」

 色鮮やかな花々に誘われるように近づき、アランは椿の垣根の下、白い石畳の庭の入り口に埋められたブロンズ製のプレートを見つけた。

<The Contract Garden>

「へぇ」

 アランは言った。

「文字を見たら思い出したよ。数年前に廃刊になった雑誌に掲載されていたんだけどさ、アート・ガロンって著者の短編集にも『The Contract Garden―契約の庭―』ってあるんだ。詳しいストーリーはうろ覚えだけど、舞台設定は覚えてる」

 アランは品格のある赤い椿に囲われた、無人の広い庭を眺めた。

「うん、あの小説そっくりだ。椿の垣根、白い石畳、中央に小さなテーブルと椅子が一脚――」

 ポーの姿が見えないことを疑問に思いつつ、アランは陽気に喋りながら、中央のテーブルに歩いて行った。途中、なにか蹴飛ばしたような気がしたが、足下を見ても小石一つない。

「その庭には美貌の番人が二人いるんだ。一人は普通の人間、もう一人は人間の姿を模倣した怪物。その怪物の正体は、実は悪魔の猟犬で、契約違反を犯した人間を食べてしまう。普通の人間はその怪物の世話をするために生かされていて……ってところは覚えているんだけどなぁ。あとはどんな話だったっけ……」
「もういい」

 エドガーはアランの声を遮り、不機嫌に続けた。

「聞きたくないね、そんな話は。それより誰もいないんだから、もうここには用はないだろ。他を捜しに行こう」

 そう言い、エドガーはさっさと踵を返して道を戻っていく。
 アランはテーブルの上にヘンリーとサラのサイン済みの契約書を見つけた。ざっと目を通したが、特に問題なさそうだ……しかし文書の末尾に記された二行に注目する。

<A Breach Contract>
<Death Penalty>

 こんなにいい陽気だというのに、寒気がした。

 ……契約違反? 死刑?

「そんな、まさか」

 だがアランには一抹の懸念があった。

 ……最初に会ったとき、エドガーが言っていたじゃないか。確か……確か、そう、契約事項を破ると……破ると、死ぬことになると。そんな、まさかそんな、そんなことが?

 アランはブンブンと大きく首を横に振った。

 ……ばからしい考えだ。ヘンリーもサラもどこか別の場所にいるに決まっている。そうだ、もしかしたら行き違いになり、既に玄関で自分を待っているかもしれない。早く戻ろう。

 手に握りしめていた契約書をテーブルに置き、ペーパーウェイトを元のようにのせる。
 それからアランはエドガーの後を追った。途中、グニャグニャしたものを何度か足裏に感じ、ピチャピチャと水溜まりに突っ込んだような感触を味わい、血の臭いを嗅ぐ。

 ……なにも見えないのに。なにもない、そのはずなのに!

 頭がおかしくなりそうな恐怖と混乱に怯えながら、アランはようやくエドガーに追いついた。

 一際強く薫る椿の花の傍まできて、アランはあの恐ろしい視線を感じた。
 同時に、脳裏には忘れていたアート・ガロンの小説の最後の一行が思い浮かぶ。

『<契約の庭>で振り返ってはならない。いいか君よ、決して振り返ってはならない。振り返ってはならない』

 アランはガタガタと震えながら、必死に衝動を堪えようとした。

 ……わかってる。振り返ってはいけない。駄目だ。振り返るな……!

 だが、ついにアランは振り返った。


Happy Halloween!
全然ハッピーではありませんけど。
森の奥には魔物が棲んでいる、というお話。

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