その16
黒瀬は境内に入り、これで大丈夫だと思った。しかし、用心に越したことはない。
先頭は黒瀬が歩き、間に今井、後ろに徳広が続いた。黒瀬はやっと辿り着けたと
思った。東京を出発してから数日しか経っていなかったが、ここまで来るのに、
何日も過ぎたかのように長く感じられた。
由岐神社に着き、祝詞を上げた後に、山本から教えられた末社の冠者社に参拝し、
素戔鳴命に今迄での加護に感謝し、平家の怨念消滅を祈念した。黒瀬には冠者社の
扉が開いたかのように見えた。
由岐神社から少し上ると、義経供養塔が有った。三人は供養塔の石段を上り塔の前で、
義経が源氏の一族にも関わらす、今回の大事に力添え頂いた事に対して感謝し、供養の
経文を上げた。経文を上げるにつれて、塔から後光が発せられ、石塔の球形の部分の
正面が、扉が開くように見えた。扉の中には小さく、白く輝いた人の形が見え、礼を
したかの様にも見えた。その後、扉が閉まり元の球形の石に戻り、後光も消えた。
その後、三人は本殿金堂まで行き、南無六代妙覚自在天のお札を納め、平家一門と
義経の嫡男の供養を始めた。経文を上げる間、ご本尊の前には、鎧兜の武者、白い幟
を立てた無数の郎等達の姿が見えた。経文が終わると、黒瀬、今井、徳広に向かって
礼をして、本堂の奥に吸い込まれて行くようにして消えた。その中には赤子を抱いた
女人の姿も確かに有った。今井の目には涙が溢れていた。
「有難い事です」
今井が一言言った。
三人は更に、奥の院に行き、魔王殿で同じく供養の経文を上げた。今度は、鎧兜の
武者や郎等、子供を抱いた女人の姿を見る事はなかった。しかし、本殿の扉の前には、
村の神社で見た同じ紫衣の僧侶の姿が現れて、礼をして本殿の中に消えて行った。
これで全て終わったと思った。三人は感動と満足感で満ち溢れながら西門の有る貴船
に下って行き、貴船口から叡山鉄道に乗り、出町柳まで向かった。
西門を出てからは、白い幟の亡霊も、事が成就した後は、一切の手出しをしてこなく
なった。姿を見る事もなく、妖気や殺気も感じなかった。
それとは逆に、黒瀬と徳広は魔王殿、西門、貴船口そして出町柳に戻る間じゅう、
周りには、香木を焚き込めたような香ばしい薫が発ち込めているのを感じた。とても
良い薫であった。この薫りは確かに極楽浄土の入口から漏れ出る薫であった。
黒瀬と徳広はこれで皆が成仏出来ると感じた。
黒瀬は京都駅で今井と徳広を見送り、自分も東京行きの新幹線に乗った。乗る前に
買っておいた缶ビールを飲みながら、ここ数日の出来事を思い出していた。
疲れた。確かに疲れた。それでも、成就の満足感に満ち溢れていた。今回も良い修行
をさせて貰った事に感謝した。
久々に携帯電話のメールをチェックすると、原稿の督促ばかり。たまき出版の吉川から
のメールも有った。
「たまき出版の吉川です。武田から投稿者の症状も回復したとの確認の連絡が有りました。
色々お世話になり、有難うございました。お疲れのところ申し訳ありませんが、原稿の
締め切りはとっくに過ぎています。早くお願いします」
投稿者の症状も戻って良かったと思った。
しかし、何であいつが原稿の督促をするんだ。
直ぐに、現実に戻された。黒瀬は明日からの事を思うと憂鬱になってしまった。
溜まった原稿だけはご真言を唱えても駄目か、と思った。
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