その1
二月初旬の或る日の朝、庭には昨日降った雪が薄っすら残っていた。午前八時過ぎ
黒瀬圓の書斎の電話が鳴った。
「黒瀬先生、たまき出版の吉川です。こんな早くに申し訳ありません」
それは編集者の吉川からの電話だった。
「ああ、吉川君かね。お早う。こんな早くから原稿の催促かね。原稿は八割方出来上
がっているが、残りは今日中に何とか書き終える予定でいる。何分、昨日は仲間と雪
見酒だったもので」
「黒瀬先生。実は原稿の件ではないのです」
「それではまた、相談ごとかね」
「実は・・・、そうなんです」
吉川がそう言うと黒瀬は咄嗟に机の上に置いてあった菩提樹の念珠を首に掛けた。黒
瀬圓は表向きはミステリー小説などを書いている作家であるが、那智熊野や四国の山
中で難行苦行の末に神仏一体修法を会得した修験道の行者でもあった。それも霊能者
としてはメディアなどには一切出る事の無い隠れ行者であった。
「私の大学の友人で東和テレビのチーフディレクターがいまして、彼からの相談なん
です」
「東和テレビのチーフディレクターかね」
「そうです。最近、彼の担当で心霊特集の企画を組んだとの事・・・」
「心霊特集? また、霊障かね」
「実は・・・・・・・・」
「困ったもんだね。興味半分であの手の特集を組むから、霊障とかの問題が出て来る
んだよ」
黒瀬は半分迷惑そうに吉川に言った。
「黒瀬先生。なんとか今回も相談に乗って頂きたいのですが」
「では、一時間後にもう一度電話をしてくれ」
「分かりました。それでは一時間後にまた電話させて頂きます」
黒瀬は電話を切った後、奥の部屋に有る祭壇の前に行き、自らを霊障から守る護身法
を行った。いくら修行を重ねた行者と言へども油断すれば、相談者の話を聞くだけで
自からも強い霊障を受ける事が有り、場合によっては七転八倒の苦しみを味わい、罷
り間違えば命の危険すら有る。首を吊った者の霊障の場合は自らの首が締め付けら
れ、呼吸が苦しくなる。焼身自殺者の霊障は体全体が焼けるような暑さに襲われ、意
識が混濁した状態に陥る。また、水死者の場合は立所に呼吸困難になり、心臓の動悸
が激しくなるのであった。正に命懸けである。それ故、自らを守る為には日々の神仏
への勤めと護身法は欠かす事が出来ない。
一時間後に再び、編集者の吉川から電話が有った。
「黒瀬先生。吉川です。宜しいですか」
「ああ、いいよ。それでは詳しく話しを聞こうか」
「私の友人の話しによりますと、先月の初めに心霊現象の取材で霊能者の山口千代先
生とスタッフ三人を連れて四国の山中に取材に行ったとの事です。すると取材を始め
た途端にスタッフ三人の様子がおかしくなったので急遽取材は取り止め、東京に戻っ
てきたとの事です。しかし、戻ってから一ヵ月近くも経つのにその三人の症状が一向
に良くならないのです」
「その山口千代とか言う霊能者も一緒に行っていたのだろう。霊能者がわざわざ付い
ていて、護身法も除霊も出来なかったのかね」
「そこは、よく分かりません」
「何の為に放送局はその霊能者に高い出演料を払っているのかね。それで吉川君の友
人はどうだったのかね」
「私の友人は取材を始めた当初は一次的に変になりましたが、彼の場合は直ぐに正常
に戻ったと言っていました」
「ううん・・・。分からないな」
「先生。私の友人に一度会って詳しく話を聞いて頂けませんか」
「吉川君。君も知っているように私は霊能者とか心霊評論家としては一切メディアに
は出ないから。それで良ければ話を聞いてもいいが」
「それは友人によく言ってあります。是非、お願いします」
「そうか。それでは、早い方がいいだろ」
「先生。申し訳有りませんが、明日でも良いですか」
「明日か・・・・。では明日の午後一時に新宿のプレジデントホテルのカフェテリア
ではどうかね。その時に原稿も持って行くよ。出来上がっていればの話だが」
「それでは、先生。宜しくお願いします。出来れば原稿も一緒に・・・」
黒瀬は今回の吉川からの相談について、余り良い印象を受けなかった。
心霊番組の特集で山口何某の霊能者が付いていながら、スタッフが霊障を
受け、その霊障が一ヶ月近くも経つのに取り除く事が出来ないとなると、
単なる死霊ではないと思い、かなり厄介な事に成るのではと感じた。
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