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ラスト










 目の前に彼女がいる。Cou Le Naeだ。

 彼女は珍しく歌を歌っている。いつもみたいに、気乗りしない感じで。

 僕は彼女を見上げている。いつもどおりだ。

 彼女は上にいて、僕は下にいる。結局、いつもみたいに。



 

 フロアにたどり着いたときには、彼女はもう歌っていた。マイクに少しだけ唇を触れて、哀しい歌を歌っている。彼女の歌はいつも哀しい。歌詞はあまりに抽象的だったから、なにについて歌っているかはわからなかったけど、それでも哀しかった。もしかしたら、彼女にとって言葉は重要ではなかったのかも知れない。海の向こうで言葉の通じない人間と出会ったとき、彼らの言葉がわからなくても、何かを伝えようとするのを見て、必死さや感情だけは理解出来ることがある。彼女の歌はそれに似ている。なにが言いたいかわからなかったけど、哀しかった。

 僕は彼女を見ている。彼女は僕を見ていない。

 ステージの上で彼女は髪を垂らして今にも崩れそうだった。Cou Le Naeは脂肪をたっぷり備えた華奢な絶望だ。マイクにすがっていなかったら、身を保つことも出来ない。マスカラをたっぷり塗った目でみんなを眺める。僕ではない。僕の前にいる男でもない。僕らだ。匿名になった僕らをただ彼女はぼんやりと眺める。僕は初めて彼女を見た日のことを思い出している。あれはもう三年以上も前かも知れない。初めて見たとき、彼女はまだステージ馴れのしていない、ただの少女だった。まだ客を惑わす術を知らなかった。ステージはステージには見えなかった。彼女は学校の教壇の上だとか、そのへんの道だとか、親戚の前だとかで少女がはしゃいで、恥ずかしがりながら歌を披露するような、そんな風に見えた。まだ色気も、長い髪も、マスカラも無かった。崩れ落ちそうな哀しみも無かった。彼女はあのとき、まだ少女だったんだろうと僕は思う。覚えているのは、彼女が歌い終えて、丁寧なお辞儀をしたとき、僕らは拍手をしたということだ。客である僕らは上着を脇に挟み、目を細めながら拍手をしたんだ。上手だった、緊張しながらうまく歌えたよ、僕らは隣の客とそう耳打ちしあった。それは彼女が上手じゃなかったことの証拠だった。本当に彼女が僕らを魅了するほどに上手かったら、僕らは何も言葉を掛ける必要がなかった。お辞儀をする彼女には拍手が必要だった。それに、それを受け取る権利があった。あまりにも幼かったからだ。大人として僕らは拍手を送った。それほど、初めて見た日の彼女の歌は未熟だった。

 僕の中に、ある感情が芽生え始めていた。かすかだったけど、それは希望に満ちた感情だった。小さな光だった。内面の中で輝く、ひとつの光だ。この光をケイスケも見たのかもしれないな、と僕は思った。もしかしたら、人間は幻想と恐怖と現実の三角関係の世界を生きているのかも知れない。曇りガラスの向こうを覗くみたいに、僕は何かが見えそうな気がした。一瞬、僕はCou Le Naeを見て思ったーーこんなにリアリティのある子だったっけ?ポケットにしまった手を取り出して僕はてのひらを見つめた。うっすらと汗をかいている。周りを見るとみんなが揺れていた。音楽に合わせて揺れて、まるで黒い煙みたいだ。自我を取り戻した奴隷みたいに、命令を忘れたブリキのロボットみたいに、僕は立ち尽くしていた。揺れていないのは僕だけだった。もしかしたら、内面に湧く小さなこの光をCou Le Naeも見たのかな、と僕は思った。もしかしたら僕にもーー。

 すると携帯が震えた。僕はポケットから取り出して画面を見た。名前の表示がない。

 「はい、もしもしーー」

 「……し……し……」

 「――はい?」

 「も……し……」

 「もしもし、誰?」

 「……き……る?ぼ…………が……」

 僕は画面の中の電波を見つめ、階段のわきに移動した。

 「もしもし?」

 「も……し……聞こえ……?」

 「はい?」

 「番号が……ったから……」

 「誰ですか?」

 「番号がわからなかったから……スグルだよ、スグル……」

 「スグルか、どうした?」

 「やっぱり普通じゃなかったんだ、一般人には見えなかったんだ……」

 「なにが?どうした?」

 「僕はやっぱり、おかしいと思ったんだ。一般人には見えなかったから……」

 「なにが?スグル――」

 「きっとアイツだよ、僕にはわかるんだよ……やっぱり顔をみられちゃいけなかったんだ……」

 「おい――」

 「ケイスケだよ、ケイスケの姿が見えないから、僕はケイスケのアパートに行ったんだ、そしたら……」

 スグルのすすり泣く声が聴こえた。

 僕は彼女を見た。Cou Le Naeだ。ステージの上にいる彼女だ。

 真っ白な光みたいな思考のなか、僕はぼんやりと彼女を眺めた。ステージの上にいる彼女はなぜ、あんなに幻想的に見えるんだろう。手が届かないように見えるんだろう。僕は自分の中で芽生え始めていた一つの小さな光が、ゆっくりと後退するのを感じた。怖気付いて尻込みするのを。僕は匿名を欲しがっていた。身を隠して、責任を追い払い、僕を薄れさせてくれる匿名を。彼女は光の中で疲れて見えた。今にも崩れそうじゃないか。僕は携帯をポケットにしまい、フロアの中央へ寄っていく。彼らがいる。誰でもない彼らだ。僕にそっくりで、きっと彼女のピアスを拾い、なにか期待しながらおどおどと彼女に会いに行く僕らだ。彼女は歌っていた。珍しいことだ。僕は少しずつ人に混ざり始め、影の中に入り、影の向こうの溢れる髪の彼女を眺め、背後が暗闇に浸る音を聴き、思考は崩れ、粘液状のイメージの中を漂う自分に気づき、ついに僕らは影になり、音楽を聴き、そして揺れてーー。

 彼女が見えた、Cou Le Naeだけが。
 
















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